第十三話
「どうしたの、急に。あの家のことなんて」
母の声は、少し早口だった。いつもそうだった。用件を先に聞いて、それから天気の話をする人だった。
澪は改札の脇から券売機の横の壁際へ移った。人の流れから外れると、駅の放送が少し遠くなった。
「ごめん、急に。今、大丈夫?」
「大丈夫よ。夕飯の支度してただけ。それで、何」
「前の家のこと。今、どうなってるのかなと思って。誰が管理してるの」
少し間があった。
「どうなってるって。直子おばさんが見てるわよ。鍵も、おばさんが持ってる」
「誰か住んでるの」
「去年までは親戚が住んでたの。今は空き家。おばさんが、月に何回か風を通しに行ってる。庭の草も、たまに業者さんに頼んで」
母は、すらすらと答えた。家の管理の話なら、母はいつも迷わなかった。固定資産税のこと。雨樋の修理のこと。誰が何を負担するか。子どもの頃から、澪は母がそういう話を電話でしているのを何度も聞いてきた。
「売るとか、壊すとかの話は」
「今のところはないわね。おばさんも、まだ決めかねてるみたい。どうして?」
澪は、壁に背中をつけた。
ここまでは、普通の話だった。親戚の家の管理の話。このまま、ありがとう、とだけ言って切ることもできた。
「中に、入れるかな」
「入れるって。何しに」
「ちょっと、見てみたくて」
「見てみたいって。何を」
澪は、言葉を探した。
母の声は、怒っていなかった。ただ、分からないという声だった。何もないところで、急に何かを言い出した娘に向ける声。
澪は、それを知っていた。子どもの頃から、何度も聞いた声だった。
「……あの家で覚えていることがあって。それを確かめたいの」
---
「覚えていること」
母は繰り返した。
「うん」
「何を覚えてるの」
澪は、息を吸った。
「お姉ちゃんのこと」
電話の向こうが、静かになった。
台所の音も聞こえなくなった。
「……澪」
「うん」
「まだ、そんなこと言ってるの」
声が、少し低くなっていた。
「まだ、っていうか」
澪は、壁に押しつけた背中に力を入れた。
「忘れたことはないの。言わなかっただけ」
「言わなかったって」
「お母さんが嫌がるから。だから言わなかった。でも、覚えてる。ずっと」
「あの窓のところの話?」
母が言った。
澪は、言葉を止めた。
「廊下の奥の。窓のところで遊んでたっていう、あれでしょう」
澪は、何も言っていなかった。
「お姉ちゃんのこと」と言っただけだった。どこで遊んだかも、何をしたかも、まだ一言も。
「……どうして、分かるの」
澪は聞いた。
「窓のところだって。私、まだ言ってない」
「どうしてって」
母は、少し笑ったようだった。
「あなたが子どもの頃、何度も言ってたでしょう。窓のところでお姉ちゃんと折り紙した、とか。毎日のように。覚えてるわよ、そのくらい」
そうかもしれない、と澪は思った。
八歳までの自分は、たぶん何度も言っただろう。お姉ちゃんと遊んだ。窓のところで。折り紙をした。母はそれを聞いていた。聞いて、困った顔をして、やがて怒った顔をした。
母がそれを覚えていても、おかしくはない。
「……そうだね」
澪は言った。
「言ってたかもしれない」
「言ってたわよ」
母は言った。それから、もう一度言った。
「でも、澪。あれは、子どもの頃の話でしょう。いなかったのよ、お姉ちゃんなんて。一人っ子だったでしょう、あなたは。想像のお友達。小さい子にはよくあることだって、あなたの方がよく知ってるでしょう。そういう仕事してるんだから」
澪は、目を閉じた。
同じだった。二十年前と、同じことを言われていた。言葉の選び方まで、ほとんど同じだった。
いなかったのよ。一人っ子でしょう。想像のお友達。
それなのに、母は「窓のところ」と言った。澪が話すのをやめてから二十年経っても、母の中には、その話が場所ごと残っていた。
昔の娘の言葉を覚えているだけなのだろう。母親なら、そのくらい覚えている。
覚えているのに、その重さだけは認めてくれない。澪には、それがいちばんこたえた。
澪は、それを口に出さなかった。
口に出せば、「いた」「いない」の話になる。二十年前と同じ話になる。今日電話したのは、それを繰り返すためではなかった。
「お母さん」
澪は言った。
「いたかどうかの話を、したいんじゃないの」
「じゃあ、何」
「家を見たいの。自分の目で。覚えている場所が、どうなっているか。それだけ」
---
「それだけって」
母の声が、また少し早くなった。
「澪、あなた最近、大丈夫なの」
「大丈夫」
「この前会ったとき、疲れた顔してたわよ。事故のあとから、ずっと。仕事だって大変なんでしょう。人の話ばっかり聞いて。そんなときに、昔の家のことなんか掘り返して」
「掘り返すって」
「だって、そうでしょう。急に電話してきて、お姉ちゃんがどうとか。お母さん、心配よ」
心配よ、と母は言った。
それは、本当なのだろうと澪は思った。母は、心配している。娘が疲れていることも。事故のあと、どこか様子が違うことも。
母の心配には、根拠があった。澪は実際に眠れていなかった。同じ書類を何度も読み直していた。家に帰っても、休めていなかった。
けれど、それとこれとは別だった。
「心配してくれるのは、分かる」
澪は言った。
「疲れてるのも、本当。でも、疲れてるから昔のことを思い出したんじゃないの。覚えていることを確かめたいのは、疲れているからじゃない」
「そう言うけど」
「お母さん」
澪は、声を少しだけ強くした。
「私が覚えていることを、最初から、なかったことにして話さないでほしい」
電話の向こうが、また静かになった。
澪は、自分の心臓の音を聞いていた。
子どもの頃なら、ここで黙った。母の顔を見て、何も言えなくなった。お姉ちゃんの話をするのをやめて、別の遊びの話をした。
今は、母の顔は見えない。駅の壁と、券売機の明かりがあるだけだった。
「……一人で行くの」
母が言った。
「一人じゃない。一緒に行ってくれる人がいる。家の調査の仕事をしている人。古い家を調べるのに慣れてるから」
「誰、それ」
「知り合い。友達の家のことで知り合った人。……信用できる人」
「男の人?」
「そう」
母は何も言わなかった。
「短い時間だけ。中を見て、すぐ出てくる。何か壊したりしない。おばさんに迷惑はかけない」
澪は、そこまで言って、息をついた。
言いたいことは、まだあった。お姉ちゃんが何だったのか知りたい。母がどうしてあんなに怒ったのか知りたい。窓のところ、と母が言ったのが、どうしてなのか知りたい。
けれど、それを全部言っても、母が頷くとは思えなかった。頷いてもらうまで話し続ければ、たぶん、今夜は終わらない。
澪は、それをやめることにした。
「おばさんの連絡先、教えてもらえる?」
澪は言った。
「自分で連絡して、お願いするから」
長い沈黙があった。
駅の放送が、次の電車の到着を告げた。
「……いいわよ」
母は言った。
「おばさんには、お母さんからも言っておく。あなたが連絡するって」
「ありがとう」
「番号、あとで送るわ」
「うん」
「澪」
「うん」
「……あんまり、無理しないのよ」
それは、さっきまでの声とは少し違った。
澪は、何と答えればいいのか分からなかった。
「うん。……じゃあ、また」
電話を切った。
澪は壁から背中を離した。背中が冷えていた。
しばらくして、携帯が震えた。母からだった。
〈直子おばさん〇九〇―……〉
番号だけだった。ほかには何も書いていなかった。
---
家に着いたのは、七時を過ぎた頃だった。
澪は居間に入らず、台所のテーブルで四冊目のノートを開いた。
居間の窓際に、あの子がいるかどうかは見なかった。声もしなかった。
澪は今日の日付の下、眠れたかどうかの欄の前に線を一本引いた。その下に書いた。
母との電話。
私が言ったこと:前の家のこと。誰が管理しているか。中に入れるか。覚えていることを確かめたい。お姉ちゃんのこと。
母が言ったこと:直子おばさんが管理。鍵もおばさん。去年まで親戚が住んでいた。今は空き家。
「あの窓のところの話?」「廊下の奥の。窓のところで遊んでたっていう、あれでしょう」
私はまだ、場所を言っていなかった。
母の説明:子どもの頃に私が何度も言っていたから覚えている。
「いなかったのよ、お姉ちゃんなんて」「想像のお友達」
澪は、そこでペンを止めた。
並べてみると、窓のところと先に言ったのは母だった。その理由も、母は自分で言っていた。
澪は、その下に書いた。
母は、心配している。それは本当だと思う。
でも、私の記憶を、なかったことにする前提で話していた。
ノートを閉じかけて、澪は手を止めた。
自分が間違っているのかもしれない、と思った。
母の言うとおり、疲れているのかもしれない。事故のあとから、ずっと。窓際にあの子がいるのも、夜に声がするのも、全部。お姉ちゃんのことも、昔の想像のお友達を、今の自分が大きくしているだけなのかもしれない。
電話を切ってから、ずっとその考えが戻ってきていた。
澪は、ノートの一冊目を開いた。最初の頁。
窓際に人が座っているように見えた。疲れているのだと思う。
三年前の自分も、同じことを書いていた。
けれど、朝倉は、あの子を見ていた。澪と同じ顔を見て、驚いて、それでも帰らなかった。沢井の部屋では、声を聞いた。
今この家にいるあの子のことは、澪だけが見ているのではなかった。お姉ちゃんのことは、これから自分で確かめに行く。
澪は一冊目を閉じた。
---
携帯を開いて、朝倉にメッセージを書いた。
〈母と話しました。前の家は今は空き家で、親戚のおばさんが鍵を持っているそうです。これからおばさんに連絡します。
母は、私がまだ言っていないのに、窓のところの話かと言いました。子どもの頃に何度も聞いたから、だそうです。記録だけしておきます。〉
送信した。
返事は、しばらくして来た。
〈ありがとうございます。記録しておきます。おばさんとのお話が決まったら、教えてください。〉
それから、母が送ってきた番号を開いた。
時計を見た。八時前だった。電話をかけても、失礼な時間ではない。
澪は、番号を押した。
---
「はいはい。澪ちゃん?」
直子おばさんの声は、母より少しゆっくりで、明るかった。
「お母さんから聞いたわよ。あの家、見たいんですって」
「はい。急にすみません」
「いいのよ。誰も住んでないし、あたしもたまにしか行かないから。見てもらえるなら、かえって助かるくらい」
おばさんは笑った。
「何か、探し物?」
「……子どもの頃に住んでいたので。覚えている場所を、見てみたくて」
「ああ、そうよね。澪ちゃん、小さい頃いたものね。懐かしいわね」
おばさんは、それ以上聞かなかった。
「いつがいいの」
「おばさんのご都合のいい日に。一緒に来てくれる人がいます。家の調査のお仕事をしている人で」
「あら、そう。それなら安心ね。古い家だから、床とか階段とか、気をつけてね」
澪は、日を相談した。おばさんは三日後の午前中なら、鍵を持って行けると言った。
「あたしは玄関を開けて、少し説明したら、帰らせてもらうわね。用事があるから。帰るときは、鍵を郵便受けの内側に入れておいてくれればいいわ。あとで取りに行くから」
「はい」
「部屋の中は見て回って構わないけど、押し入れとか引き出しの中は、見たいものがあったら先に言ってね。それと、一階の奥の納戸は、前の人の荷物が少し残ってるから、そこは開けないで」
「分かりました。家具や置いてある物は、動かしません。見たいものがあったら、先にお聞きします」
「そんな、かしこまらなくていいのよ」
おばさんはまた笑った。
「窓は開けていいからね。空気、こもってるから」
澪は、手帳に書いた。三日後、午前。おばさんが鍵を開ける。見るのは部屋の中まで。収納や私物は先に聞く。帰りは郵便受けの内側に鍵。
「それじゃあね。お母さんにもよろしく」
「はい。ありがとうございます」
電話を切った。
台所で話した声は、居間まで届く。切ってから、澪はそれを思い出した。
澪は、しばらく携帯を持ったまま座っていた。
入れる。
三日後に、あの家に入れる。
母は、頷かなかった。お姉ちゃんはいなかったと言った。
それでも、母はおばさんの番号を送ってきた。おばさんは、鍵を開けてくれると言った。
母に認めてもらったわけではなかった。
けれど、入ることは許された。
澪は、それが同じものではないのだと思った。
子どもの頃、澪はずっと、母に認めてほしかった。お姉ちゃんがいたと。自分の見たものは本当だったと。認めてもらえないから、話すのをやめた。
今、澪は母に認めてもらわないまま、あの家に行こうとしている。
澪は、朝倉にもう一通メッセージを送った。
〈三日後の午前中に入れることになりました。おばさんが鍵を開けてくださいます。見てよい範囲も伺いました。ご都合は大丈夫ですか。〉
返事はすぐに来た。
〈大丈夫です。伺います。〉
澪は携帯を置いた。
居間の方から、声がした。
「行くの?」
あの子の声だった。
澪は、居間の入口の方を見た。窓際までは見えなかった。
「……行く」
澪は答えた。
「三日後。でも、今夜はもう話さない。眠りたいの」
しばらく、返事はなかった。
「……分かった」
声は、それだけ言った。
澪は、ノートの今日の欄に、最後の一行を書いた。
眠れた:
書きかけのまま、灯りを消した。
母に認めてもらわないまま、三日後に、あの家へ行く。
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