第十四話
駅から十五分ほど歩いた住宅地の奥に、その家はあった。
透が少し前に外から見たときと、変わっていなかった。木造の二階建て。低いブロック塀に、錆の浮いた門扉。一階の雨戸は閉まっていて、二階の窓にだけ白いカーテンが見えた。
約束の十時より少し前に、水城は門の前で待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
水城は門扉の方を見ていた。透と話しながらも、目がそちらへ戻っていた。
「今日の範囲を先に確認させてください。おばさんに開けていただいたら、中を見るのは十一時まで。部屋の中は見ていい。押し入れや引き出しは開けない。見たいものがあれば、先におばさんに聞く。帰りは鍵を閉めて、郵便受けの内側へ」
「はい」
「途中でやめたくなったら、そこで出ます。それと、今日は家を見るのが目的です。もし何かが起きても、それを追って長居はしない。それでいいですか」
「……はい」
水城は、頷いてから、少し笑った。
「毎回、それを言ってもらうと、落ち着きます」
門の前に軽自動車が止まった。
降りてきたのは、五十代の終わりくらいの女性だった。小柄で、首にタオルを巻いていた。
「澪ちゃん?まあ、大きくなって」
「直子おばさん。ご無沙汰してます」
「ほんとよ。最後に会ったの、いつだったかしら」
おばさんは笑いながら透を見た。
「こちらが、お仕事で家を見てる方?」
「朝倉です。今日はありがとうございます」
「どうぞどうぞ。古い家だから、お手柔らかにね」
おばさんは鍵束から一本を選び、玄関の引き戸を開けた。
中から、こもった空気が流れてきた。木と埃と、かすかに黴の混じった匂いだった。
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玄関の土間は広かった。上がり框は擦り減って、角が丸くなっていた。
「去年の春まで、親戚の子の家族が住んでたの」
おばさんは靴を脱ぎながら言った。
「澪ちゃんたちが出たあと、ずっと。だから、あちこち直してあるのよ。お風呂は何年か前に新しくしたし、トイレもね。台所は、何回か直してるの。古い家だから」
おばさんは廊下の電気をつけた。裸電球が一つ、黄色く灯った。
「二階は、住んでた子たちが子ども部屋にしてたから、壁紙とか張り替えてるわ。一階の奥の納戸は、荷物が残ってるから開けないでね。あとは、好きに見てちょうだい」
「ありがとうございます」
「それじゃ、あたしは行くわね。鍵は、郵便受けの内側。よろしくね」
おばさんは、水城の腕を軽く叩いた。
「澪ちゃん。懐かしいでしょう」
「……はい」
おばさんは笑って、玄関を出ていった。車の音が遠ざかった。
家の中が、静かになった。
透は上がり框に足をかけ、少しだけ体重を乗せた。沈みはない。廊下の床板を目で追う。継ぎ目がところどころ新しい。張り替えた部分と、古い部分が混ざっている。
壁の下の方に、水の染みはなかった。天井の角に小さな黒ずみがあった。古いものに見えた。
廊下の右手に閉まった襖が続いていた。左手はガラスの入った引き戸。その先に台所らしい床の色が見えた。新しいクッションフロアだった。
階段は、廊下の奥にあった。そのさらに奥に、突き当たりの壁と、窓が一つ。
透は、そこまで見て、足を止めた。
水城は、上がり框の上に立ったまま、動かなかった。
廊下の奥を見ていた。
「……違う」
水城が言った。
「何が違いますか」
「廊下が。もっと、ずっと長かった気がする」
水城は、廊下を見つめていた。
「あそこまで、走っても走っても着かないくらい。……こんなに短かったんだ」
透は、廊下の長さを目で測った。十歩もない。
「水城さんが、四歳から八歳の頃ですね」
「はい」
「そのときの歩幅なら、倍くらいに感じたと思います」
水城は、小さく頷いた。
その横顔を見て、透は、この家が水城にとってどういう場所なのかを、少しだけ分かった気がした。止まっていた家だった。ここを離れたときから、水城の中ではずっと。
その家に、知らない人たちの十九年が積み重なっていた。新しい床。張り替えた壁紙。換えた風呂。
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「奥の窓へ行く前に」
透は言った。
「覚えていることを、先に聞かせてもらえますか。窓の場所は、もう二人とも見てしまいました。だから、それ以外のことを。まだ近くで見ていないものを」
水城は、透を見た。
「見てから思い出すと、見たものに合わせて記憶を直してしまうことがあるので」
「……はい。分かります」
水城は、廊下の奥を見ないようにして、目を閉じた。
透は手帳を開いた。
「窓の下の、板のところ。敷居っていうのか、窓枠の下の、平らなところ。高さは、私の顎くらいでした。つま先で立つと、外が見えた」
「窓の外には、何が」
「隣の家の塀と、木。何の木か分からない。葉っぱが大きかった」
「ほかには」
「窓枠の下の板の、左の端に、傷がありました。小さい、Vの字みたいな。私がつけたのかどうか、覚えてない。でも、いつも指でなぞってた」
透は書いた。窓枠の下の板、左端、V字の小さな傷。
「窓のガラスは」
「……模様が入ってた気がします。すりガラスみたいな。光がぼやけて」
「遊んでいたのは、どのあたりですか」
「窓の下の、床。そこに座って、折り紙しました。座布団が一枚あって。私はそこに座ってた」
水城は、そこで言葉を止めた。
お姉ちゃんは、と言いかけたように見えた。言わなかった。
「以上です」
水城は目を開けた。
透は、手帳の頁を見せた。水城は、それを読んで頷いた。
「では、行きましょう」
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廊下を歩いた。
床板が、ところどころ小さく鳴った。水城は、透の少し後ろを歩いていた。
階段の横を通り過ぎた。階段は急で、踏み板が黒光りしていた。古いままのようだった。
その先に、窓があった。
水城が、足を止めた。
透は、窓の前に立った。
窓枠の下の板は透の腰より少し高く、水城が並ぶと水城の腰のあたりに来た。
顎くらい。つま先で立つと、外が見えた。
水城は、自分の腰のあたりにある板を見下ろしていた。
「……低い」
小さな声だった。
透は、手帳と見比べた。
窓の外には、隣家のブロック塀と、大きな葉の木があった。葉は、少し色づき始めていた。
「合っています。塀と、木」
透は言った。水城は頷いた。
ガラスは、透明だった。模様はなかった。
「ガラスは、違いますね」
「……はい」
「サッシが新しく見えます。窓ごと換えたのかもしれません。すりガラスだったのかどうかは、ここからは確かめられません」
透は、窓枠の下の板を見た。
板は古かった。表面が擦れて、白っぽくなっていた。
左の端に、傷があった。
小さなV字の傷だった。
透は、それを指ささなかった。水城が見つけるのを待った。
水城は、板の左端に目をやった。しばらく、そのまま動かなかった。
それから、右手の人差し指を伸ばして、その傷をなぞった。
なぞり方が、慣れていた。何度も同じことをした指だった。
水城は、何も言わなかった。
透は手帳に書いた。
事前に見ていたもの:窓の位置(階段の先)。聞き取りの前に二人とも見ている。
先に聞いて一致したもの:窓外の塀と木。窓枠下の板、左端のV字の傷。
確認できず:座布団(家具類はなし)。すりガラスかどうか(サッシは新しく見える。交換の有無と時期は未確認)。
今の体格との差:記憶では顎の高さ、今は腰の高さ。当時の寸法は未確認。
書きながら、透は、この一致を喜ばないようにしていた。
水城は、子どもの頃この家に住んでいた。傷の位置を覚えているのは、この窓の前で遊んでいたからだ。それは、水城がここにいたことの証明にはなる。けれど、隣に誰かがいたことの証明にはならない。
傷は、そのままだった。
座布団はなかった。隣にいた人も、見当たらなかった。
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水城は、窓の下の床を見ていた。
それから、ゆっくりと膝を折った。床に座った。窓の方を向いて、壁に背を半分つけるようにして。
八歳の頃と同じ場所なのだろう、と透は思った。けれど、体の大きさが違う。座ると、窓枠の下の板は、水城の目の少し上にあった。
水城は、膝の上で手を重ねていた。何かを折るような形に、指がわずかに動いた。
透は、廊下の少し手前に立ったまま、それを見ていた。
声をかけなかった。
水城の指が、また動いた。紙の端を合わせるように。三角に折るように。
透の視界の端で、何かが動いた。
窓の光が、揺らいだ気がした。
窓の脇、光の差し込むあたりの床の上。人が座るくらいの高さに、輪郭が見えた。
細い輪郭だった。肩の線と、首の傾きがあった。膝を抱えているのか、正座をしているのか、分からなかった。水城の方を向いているように見えた。
一瞬だった。
透がそちらへ目を向けたときには、光の揺らぎしかなかった。
同時に、声のようなものが聞こえた。
水城のすぐ近くから。短く、低く、柔らかい。言葉なのかどうかも、はっきりしなかった。
水城の指が、止まった。
水城は顔を上げて窓の脇を見ていた。透が輪郭を見たのと、同じあたりを。
どちらも、何も言わなかった。
家の中は、静かだった。どこかで床が鳴った。二階か、廊下の奥か、分からなかった。
透は、自分が息を止めていたことに気づいた。
家を見に来たはずだった。空き家を。空っぽの部屋と、古い傷を。
それが今、家の方から、こちらを見つけたような気がした。
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「水城さん」
透は、小さな声で言った。
「今、見聞きしたことを、先にそれぞれ書きませんか。話し合う前に」
水城は、窓の脇から目を離さないまま、頷いた。
透は、自分の手帳に書いた。
十時四十一分。窓の脇、光の当たる床の上。座った人の高さの輪郭。細い。肩と首の傾き。水城さんの方を向いていたように見えた。一秒ほど。
同時に、声のようなもの。水城さんの近くから。低く短い。言葉として聞き取れず。
水城は、床に座ったまま、自分のノートを膝の上に開いて書いていた。書き終えると、ノートを閉じた。
透は、水城が何を書いたのかを見なかった。水城も、透の手帳を見なかった。
水城は、しばらく、窓の脇を見ていた。
透には、水城が何を待っているのか分かる気がした。もう一度。もう一度だけ、見えるかもしれない。聞こえるかもしれない。ここに座って、指を動かしていれば。
透自身も、そう思っていた。
腕時計を見た。十時四十三分だった。
「水城さん」
透は言った。
「今日は、ここまでにしませんか」
水城は、すぐには答えなかった。
「……もう少し、ここにいたら」
「はい」
「もう一回、見えるかもしれない」
「そうかもしれません」
透は、否定しなかった。
「でも、今日は家を見に来ました。何か起きても追わないって、入る前に決めました。次に来るときに、そのために来ましょう。おばさんに、もう一度お願いして」
水城は、窓の脇を見ていた。
それから、ゆっくり立ち上がった。膝の埃を払った。
「……はい」
水城は、窓の前から一歩下がった。それから、もう一度だけ振り返った。
窓の脇には、光しかなかった。
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玄関の引き戸に鍵をかけ、郵便受けの内側に落とした。かたん、と小さな音がした。
門の外に出てから、二人は並んで塀にもたれた。
透は、そこで初めて長く息を吐いた。吐いてから、家の中でずっと浅くしか息をしていなかったことに気づいた。手帳を開こうとして、指が一度、表紙の上で止まった。
しばらく、どちらも話さなかった。
「読み合わせましょうか」
透が言った。
水城は頷き、ノートを開いた。透も手帳を開いた。
水城のノートには、こう書いてあった。
十時四十分くらい。窓の脇。声。「……ちゃん」と聞こえた。私の名前の最後の方だけ。低くて、ゆっくりで、柔らかかった。姿は見ていない。見た気がしたけど、分からない。光が揺れただけかもしれない。
透は、自分の手帳を水城に見せた。
二人は、互いの記録を読んだ。
「同じくらいの時間ですね」
透が言った。
「場所も、だいたい同じです。窓の脇」
「はい」
「でも、僕は、言葉として聞き取れませんでした。水城さんは、ちゃん、と聞いた」
「……はい」
「僕は、輪郭を見ました。水城さんは、見ていない」
「見た気がした、だけです」
水城は、自分の字を見つめていた。
「……ちゃん」
水城は小さく言った。
「お姉ちゃんが、私を呼ぶときの呼び方の、最後の方。そう聞こえた。でも、そう聞きたかっただけかもしれません」
透は、自分の手帳にもう一行書いた。記録を読み合わせたのは、退出後、門の外で。
「同じ内容を受け取った、とは言えないと思います」
透は言った。
「同じ時間に、同じあたりで、それぞれ何かを受け取った。受け取った内容は、違う。同じものだったのかどうかは、分かりません」
「はい」
水城は、ノートを閉じた。
「朝倉さん」
「はい」
「もう一度、来たいです」
水城は、家の方を見ていた。雨戸の閉まった一階の窓を。
「今日みたいに、見るだけじゃなくて。会えるかもしれないから来る、って、先に決めて。おばさんにも、ちゃんとそう……じゃなくても、もう一回入りたいって、お願いして」
「分かりました」
透は言った。
「そのときは、何のために来るのかを先に決めましょう。何分いるのか。何が起きたら出るのか」
「はい」
水城は、少し笑った。
「今日も、止めてもらえてよかったです。……止めてもらわなかったら、たぶん、まだあそこに座ってた」
透は、何も言わなかった。
自分も、あそこにいたかった。それは、言わなかった。
会えたかもしれない、という思いが、次は止めにくくする。透には、それが分かっていた。
---
駅へ向かう途中で、水城はおばさんに電話をかけた。
「はい、澪ちゃん?もう終わったの。早かったわね」
おばさんの声が、携帯から少し漏れて聞こえた。
「はい。鍵は、郵便受けに入れました。ありがとうございました」
「どうだった?懐かしかった?」
「……はい。とても」
水城は、少し間を置いた。
「おばさん。もう一度、入らせてもらってもいいですか。近いうちに」
「いいわよ、いつでも。言ってくれれば開けるから」
「ありがとうございます。それと」
水城は、透の方をちらりと見た。
「あの家の、昔の写真って、どこかに残っていますか。私たちが住んでた頃とか、その前とか」
「写真?ああ、あるわよ。うちに、アルバムが何冊か。あの家の古いのも、たぶん入ってると思う。工事のときの書類なんかも、しまってあるはずよ。捨てられないのよね、ああいうの」
おばさんは笑った。
「お母さんが若い頃の写真もあるんじゃないかしら。あの家で撮ったのが。あなたのお母さん、あそこで育ったんだもの」
水城は、少し黙った。
「……そうですね」
「見たいなら、出しておくわよ。すぐには無理だけど、整理しておくから。……今度また家に入るなら、その次の日あたりでどう?」
「お願いします」
水城は、日にちを相談した。家の再訪は明後日。アルバムと書類を見せてもらうのは、その翌日。おばさんは、どちらも快く引き受けた。
電話を切ってから、水城は携帯をしばらく握っていた。
「……言っていませんでしたね」
水城が言った。
「あの家、母が育った家なんです。祖父母の家で。私たち、祖父母と一緒に住んでいたんです。八歳まで」
「そうだったんですね」
「知ってたんです。ずっと。でも、何とも思っていなかった。母の実家、っていうだけで」
水城は、家のあった方を振り返った。もう見えなかった。
「私の子どもの頃を調べに来たのに。母の子どもの頃にも、つながっているんですね」
透は、手帳を開いた。
今日の頁の最後に、二つ書いた。
一、再訪。明後日。目的:窓辺での接触を試みるかどうかを、事前に決めて入る。時間と終了条件を先に決める。
二、資料。おばさん宅。家族アルバム(旧居の写真、当時とそれ以前)、改修時の書類。閲覧は再訪の翌日。
その下に、小さく書き足した。
この家は、水城さんの母親が育った家。
書いてから、透は、それを見ていた。
水城の子ども時代。その前に、水城の母親の子ども時代があった。同じ家で。あの廊下や窓がその頃からあったのかどうかは、まだ分からない。それでも透は、あの窓の前に、会ったこともない少女を思い浮かべかけていた。
窓の脇に座っていた、細い輪郭。
それが誰なのかを、透はまだ知らない。水城も知らない。
けれど、確かめる道が、今日、二本になった。
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