第十五話
二日前と同じように、門の前には直子おばさんの軽自動車が止まっていた。
「また来たのね。よっぽど懐かしいのね」
おばさんは笑いながら玄関を開けた。今日はすぐに帰ると言った。鍵の返し方も、前と同じでいいと言った。
車の音が遠ざかってから、澪は朝倉と玄関の土間に立った。
「決めたことを、もう一度言ってもいいですか」
澪が言った。
「はい」
「今日は、お姉ちゃんに会えるかもしれないから来ました。会えなくても、それでいい。時間は十一時十五分まで。私がやめたいと思ったら、やめる。お姉ちゃんが嫌がる話は、それ以上しない。お姉ちゃんが話すのをやめたそうにしたら、今日は終わりにする。朝倉さんは、そばにいて、記録してください。質問は、私がします」
「分かりました」
朝倉は手帳を開いて、それを書いた。
「僕からは、聞きません。水城さんが疲れているように見えたら、声をかけます」
「お願いします」
澪は靴を脱いだ。
廊下は、二日前より短く見えた。一度見てしまったからだと思った。記憶の中の長い廊下は、もう戻ってこなかった。
階段の横を通り、窓の前に立った。
窓の外で、大きな葉の木が揺れていた。二日前より、少し色が濃くなっていた。
澪は、窓の下の床に座った。
同じ場所に座っても、同じことが起きるとは限らない。朝倉とも、そう話していた。座る位置も、指の動かし方も、前と同じにすれば会えるわけではない。
分かっていても、澪は同じ場所に座った。
窓枠の下の板の左端。V字の傷に指を置いた。
目を閉じた。
縁側の積み木ではなく、ここだった。午後の光が床板を温めていた。膝の前に色紙が何枚も散らばっていた。赤、黄色、薄い緑。澪はやっこさんを折っていた。鶴は難しかった。
隣に、誰かが座っていた。
そこ、と言われた。
指が勝手に動いた。紙の端を合わせる。三角に折る。
「……みおちゃん」
声がした。
澪は、目を開けなかった。
開けたら、消えてしまう気がした。
「みおちゃん、でしょう」
少し低くて、ゆっくりな声だった。
覚えていた。この声だった。二十年近く頭の中で鳴らしてきた声と同じだった。
澪は、目を開けた。
---
窓の脇に少女が座っていた。
膝を抱えるようにして、壁に背をつけて、澪の方を向いていた。
髪は長く、後ろで一つに結んでいた。白いブラウスのような服を着ていた。顔は、窓の光に半分照らされていた。
澪は、その顔を見た。
お姉ちゃんだった。
覚えている顔だった。目の形も、口元も。首を少し傾けて、こちらを覗き込むような仕草も。
けれど、若かった。
澪の記憶の中のお姉ちゃんは、大人だった。ずっと年上で、背が高くて、何でも知っていた。見上げる人だった。
窓の脇に座っているのは、少女だった。頬の線にまだ幼さが残っていた。十代の、たぶん半ばを過ぎたくらい。正確には分からない。ただ、澪よりずっと若く見えた。
子どもの頃に見上げていた人が、今は、自分より若く見えた。
「……お姉ちゃん」
澪の声は、かすれていた。
お姉ちゃんは、少しだけ目を細めた。
「大きくなったね」
そう言った。昔と同じ、ゆっくりした言い方で。
「すごく大きくなった。最初、誰か分からなかった。前に来たときも。でも、そこに座って、指を動かしてたから。ああ、みおちゃんだって」
お姉ちゃんは、澪の手元を見ていた。まだ何かを折る形のまま止まっている、澪の指を。
澪は、指を解いた。
膝の上に手を置いた。
「……ごめんね」
口から出ていた。
「遅くなって。ずっと、来られなくて」
お姉ちゃんは、首を傾けた。
「迎えに来るって言ってたね」
「……うん」
「覚えてるよ」
お姉ちゃんは、それ以上、何も言わなかった。責めるような声ではなかった。
澪は、後ろに立っている朝倉のことを思い出した。振り返ると、朝倉は廊下の手前に立っていた。手帳を持っていたが、ペンは動いていなかった。窓の脇を見て、それから澪を見た。
澪が小さく頷くと、朝倉も頷いた。
「その人は?」
お姉ちゃんが言った。朝倉の方を見ていた。
「朝倉さん。一緒に来てもらったの。……私の話を、聞いてくれる人」
「そう」
お姉ちゃんは、朝倉に向かって少しだけ頭を下げた。朝倉も、同じように頭を下げた。
---
「みおちゃん、今、何してるの」
お姉ちゃんが聞いた。
「どこに住んでるの。まだ、おばあちゃんたちと一緒?」
澪は、少し言葉に詰まった。
「……ううん。一人で住んでる。ここからは、電車で一時間くらいのところ」
「一人で?」
「うん」
「すごいね」
お姉ちゃんは、本当に驚いたように言った。
「仕事は?」
「人の話を聞く仕事。困っている人の話を聞いて、一緒に考える」
「先生みたいな?」
「……ちょっと違うけど。まあ、そんな感じ」
お姉ちゃんは、うん、うん、と頷いた。
「みおちゃん、昔から人の話聞くの上手だったもんね。……あ、でも、すぐ泣いちゃうのは直った?」
澪は、思わず笑った。
「たぶん。人前では、あんまり泣かない」
「そっか」
お姉ちゃんも笑った。
「折り紙は?まだ、やっこさんばっかり?」
「……もう、何年も折ってない」
お姉ちゃんの顔から、少しだけ笑みが薄れた。
「そうなんだ」
「うん。仕事で忙しくて。……大人になると、あんまり」
「そっか」
お姉ちゃんは、窓の外を見た。
「鶴は?鶴、折れるようになった?」
「……折れないかも。やり方、忘れちゃった」
「そっか」
お姉ちゃんは三度目の「そっか」を言った。
澪は、胸の奥が少し痛んだ。
お姉ちゃんが知っているのは、八歳の澪だった。やっこさんを折って、鶴が折れなくて、すぐ泣く澪。一人で電車に乗ったこともなかった澪。
その澪は、もういなかった。
お姉ちゃんは、それを知らなかった。知りようがなかった。澪がこの家を出てから、どこでどう暮らしてきたのか、澪は一度も話しに来なかったのだから。
ずっと自分のことを分かっていてくれた人だと、思っていた。会えば、昔のように、何も言わなくても通じると思っていた。
そうではなかった。
自己紹介をし直さなければならなかった。
「お姉ちゃんは」
澪は言った。
「お姉ちゃんは、今、どうしてるの」
お姉ちゃんは、少し考えるような顔をした。
「……どうしてるって。ここにいるよ」
「ずっと?」
「うん。ずっと」
澪は、廊下の方をちらりと見た。朝倉は、黙って立っていた。ペンを動かしていた。
朝倉は、何も聞かなかった。澪とお姉ちゃんの話に、一度も入ってこなかった。
澪は、そのことにほっとした。
---
「私が引っ越したあと」
澪は言った。
「この家、どうだった?」
お姉ちゃんは、膝を抱え直した。
「最初は、静かだった。みおちゃんたちがいなくなって、少しの間、誰もいなくて」
「……うん」
「それから、別の家族が来た。お父さんと、お母さんと、子どもが二人。男の子と女の子。男の子の方が上で、よく階段で転んでた」
お姉ちゃんは、少し笑った。
「三段目で、いつもつまずくの。あそこ、鳴るでしょう。鳴るから驚いて、足がもつれるの。何回も」
澪は、階段の方を見た。黒光りした踏み板。三段目。
「下の女の子は、よく一人で遊んでた。二階の部屋で。歌を歌ってた。知らない歌。テレビの歌だと思う。私も、少し覚えちゃった」
「お姉ちゃんのこと、見えてた?その子たち」
お姉ちゃんは、首を横に振った。
「ううん。誰も。一回、女の子がこっちを見たことがあったけど、たぶん窓の外を見てただけ」
「……そう」
「家具も、何回も変わったよ。ここにあった棚がなくなって。二階の壁の色も変わって。お風呂が新しくなったときは、何日もうるさかった」
お姉ちゃんは、指を折って数えるような仕草をした。途中でやめた。
「何年だったか、分からない。子どもたちが大きくなって、いなくなって。お父さんとお母さんだけになって。それから、去年くらいに、みんないなくなった。家が、すごく静かになった」
「……寂しかった?」
澪は聞いた。聞いてから、自分が何を聞きたかったのか分かった。
寂しかったと言ってほしかった。ずっと待っていたと。澪を。
それなら、謝れるから。
お姉ちゃんは、少し考えた。
「寂しいときもあったよ」
お姉ちゃんは言った。
「でも、ずっとじゃない。子どもたちがいた頃は、にぎやかだったし。女の子の歌、けっこう好きだったし。男の子が転ぶと、笑っちゃいけないけど、ちょっと笑っちゃったし」
お姉ちゃんは、また少し笑った。
「みおちゃんのこと、ずっと考えてたわけじゃないよ。ときどき思い出した。今頃、何してるのかなって。鶴、折れるようになったかなって」
澪は、何も言えなかった。
お姉ちゃんには、澪がいなかった時間があった。その時間は、ただ澪を待つためだけの時間ではなかった。知らない家族の物音があって、知らない歌があって、転ぶ男の子がいて。お姉ちゃんは、その中で、この家にいた。
澪は、ずっと、自分がお姉ちゃんを置いていったのだと思っていた。お姉ちゃんは、ここで一人で、泣きながら待っているのだと。
澪は、謝ろうとしていた言葉を、飲み込んだ。謝るだけでは、お姉ちゃんの時間を、なかったことにしてしまう気がした。
「……そっか」
澪は言った。お姉ちゃんの口癖を、そのまま。
お姉ちゃんは、少し目を丸くして、それから笑った。
---
廊下の方で、朝倉が小さく咳払いをした。
振り返ると、朝倉が腕時計を指で示していた。十一時五分だった。
あと十分。
澪は頷いた。
「お姉ちゃん」
「うん」
「台所も、変わった?」
澪は聞いた。家の変化の話の続きのつもりだった。
「変わったよ」
お姉ちゃんは言った。
「何回も。今のは白いやつでしょう。つるつるの。その前は木の色だった。みおちゃんがいた頃の」
「……うん。覚えてる。木の色の」
「その前はね」
お姉ちゃんは、少し懐かしそうな顔をした。
「青いタイルの流しだったの。小さい四角いタイルが、びっしり貼ってあって。冬は冷たくて。私、毎朝そこでお弁当箱洗ってたの」
澪は、瞬きをした。
「……お弁当箱?」
「そう。学校に持っていくの。前の晩に洗うのを忘れると、朝、慌てて洗って。タイルの目地に、ご飯粒が入っちゃって。取れなくて」
お姉ちゃんは、自分の指先を見ていた。何かを擦るように、指を動かした。
澪には、青いタイルの流しの記憶がなかった。
澪が覚えている台所は、木の色の流し台だった。扉の取っ手が丸くて、下の棚に鍋が入っていた。青いタイルなど、どこにもなかった。
「……青いタイルは、覚えてない」
澪は小さく言った。お姉ちゃんは、そう、とだけ言った。
廊下の方で、朝倉が静かに動いた。台所の方へ、二、三歩進んで、戻ってきた。
朝倉は、澪に小さく首を振った。今の台所には、青いタイルはない。そういう意味だと澪は受け取った。
お姉ちゃんは、学校に弁当箱を持っていった。
この家から。
澪は、それを聞きながら、何を聞いているのか分からなくなりかけた。
お姉ちゃんは、この家にずっといる。澪が生まれる前から、いたのかもしれない。けれど、学校に行って、弁当箱を洗って、ご飯粒が取れなくて困った。それは、見ていたことではなかった。自分がしていたことだった。
お姉ちゃんは、この家で自分の暮らしをしていた人のように話していた。
澪は、それをどう受け取ればいいのか分からなかった。
「……お姉ちゃん」
澪は言った。
言うべきか迷った。迷いながら、口が動いていた。
「お姉ちゃん、うちのお母さんのこと、覚えてる?」
お姉ちゃんの指が、止まった。
窓の外で、葉が揺れた。
「……みおちゃんのお母さん」
お姉ちゃんは、繰り返した。
それから、少しだけ間があった。
お姉ちゃんは、何かを言いかけた。唇が、少し開いた。
「ねえ、みおちゃん」
お姉ちゃんは言った。明るい声だった。
「さっきの仕事の話、もう少し聞かせて。困ってる人の話、聞くんでしょう。どんな人が来るの」
澪は、お姉ちゃんを見ていた。
お姉ちゃんは、窓の外を見ていた。澪の方を見なかった。
話を変えた。
昔と同じだ、と澪は思った。紐の結び方の話をしたとき。お母さんも同じ結び方をする、と言ったとき。お姉ちゃんは「そう?」と言って、何か言いかけて、やめて、折り紙の話にした。
あの子は、何か言うのをやめたのだと言っていた。澪は、遊びに戻っただけだと思っていた。
今、目の前で、同じことが起きていた。
聞けば、答えてくれるかもしれない。もう一度聞けば。お母さんのこと、どう思ってるの、と。お姉ちゃんは、お母さんを知ってるの、と。
澪は、口を開きかけた。
そして、閉じた。
せっかく会えたのに。
二十年近く待って、やっと会えたのに。今、それを聞いて、お姉ちゃんがもっと遠くを向いてしまったら。答えを聞いて、何かが変わってしまったら。
澪は、それが怖かった。
「……困ってる人は、いろいろ」
澪は言った。お姉ちゃんが変えた話に、乗った。
「学校に行けない子とか。家族とうまくいかない人とか。眠れない人とか」
「眠れない人」
「うん。私も、最近ちょっと眠れないんだけど」
「えっ。大丈夫?」
お姉ちゃんは、澪の方を向いた。心配そうな顔をしていた。
澪は、少し笑った。
「大丈夫。……たぶん」
---
廊下の方で、朝倉が腕時計を見ていた。
十一時十四分だった。
澪は、それを見て、息を吸った。
「お姉ちゃん」
「うん」
「今日は、そろそろ帰らなきゃ」
お姉ちゃんは、少しだけ目を伏せた。
「……そっか」
「また来る。……たぶん。いつ来られるか、ちゃんと決めてから来る。約束だけして、また来られなかったら嫌だから」
お姉ちゃんは、顔を上げた。
「うん」
「次のことは、帰って、ちゃんと考えてから決める。そしたら、また来る」
「うん。待ってる」
お姉ちゃんは言った。それから、少し笑った。
「でも、ずっと待ってるわけじゃないよ。女の子の歌、まだ覚えてるし。練習しとく」
澪は、声を出して笑った。
笑いながら、目の奥が熱くなった。
澪は立ち上がった。膝の埃を払った。
お姉ちゃんは、窓の脇に座ったまま、澪を見上げていた。
子どもの頃、澪はいつも、お姉ちゃんを見上げていた。今は、澪が見下ろしていた。
お姉ちゃんの顔を、もう一度見た。
目の形。口元。首の傾け方。
目元が、誰かに似ている、と一瞬思った。浮かびかけたのは、母の顔だった。年がまるで違う。見間違いだ、と澪は思った。思ったまま、その考えを胸の奥へ押しやった。
「またね、お姉ちゃん」
「またね、みおちゃん」
澪は、廊下へ歩いた。朝倉の横を通った。朝倉は、窓の方に小さく頭を下げてから、澪のあとに続いた。
玄関で振り返ると、廊下の奥の窓の脇は、光で白く見えるだけだった。
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鍵を郵便受けに落とした。
門の外に出て、澪はしばらく立っていた。
朝倉は、隣で黙っていた。手帳を閉じたまま持っていた。
「……会えました」
澪は言った。
「はい」
「会えたんです。お姉ちゃんに」
「はい」
朝倉の声は、静かだった。
澪は、門扉に手をかけた。錆びた鉄が、冷たかった。
「すごく、嬉しかった」
澪は言った。
「嬉しかったのに。……お姉ちゃん、私のこと、何も知らなかった。私が大人になったことも、一人で住んでることも、仕事のことも。当たり前ですよね。私が一度も来なかったんだから」
「はい」
「それと」
澪は、言葉を探した。
「私も、お姉ちゃんのこと、何も知らなかった。あんなに子どもだったなんて。学校に行ってたなんて。この家で、お弁当箱を洗ってたなんて」
朝倉は、手帳を少しだけ持ち上げた。
「台所の話は、書き留めてあります。青いタイルの流し。弁当箱。学校。今の台所にはタイルはありません。水城さんの記憶にもない」
「……はい」
「それから、お母さんのことを聞いたとき、話が変わったことも」
澪は、門扉から手を離した。
「聞けませんでした」
「はい」
「聞けたのに。聞かなかった。怖かったんです。会えたのに、何かが変わってしまうのが」
朝倉は、少し間を置いた。
「聞かないと決めたのは、水城さんです。それも、書いておきます」
澪は、朝倉を見た。
朝倉は、責めていなかった。ただ、事実を並べていた。見たこと。聞いたこと。澪が選んだこと。
澪は、少しだけ笑った。
「朝倉さんは、何も聞きませんでしたね。お姉ちゃんに」
「水城さんが質問をすると決めたので」
「……聞きたかったこと、ありましたか」
朝倉は、少し考えた。
「ありました」
それだけ言った。何を、とは言わなかった。
二人は、駅の方へ歩き出した。
澪は、一度だけ振り返った。家の二階の窓に、白いカーテンが見えた。一階の雨戸は、閉まっていた。
お姉ちゃんは、あの家で、学校に行っていた。
澪の知らない、青いタイルの台所で、弁当箱を洗っていた。それがいつのことなのかは、まだ分からない。
お母さんのことを聞くと、話を変えた。
澪は、それを全部、胸の中に抱えて歩いた。嬉しさと、分からなさを、同じ重さで。
明日は、おばさんの家でアルバムを見る。
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