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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第十六話

直子おばさんの家へ行く前に、透と水城は駅前の喫茶店に入った。


約束は十一時だった。まだ一時間あった。


「写真を見る前に、昨日のことを書き出しておきたいんです。写真を見たあとだと、見たものに合わせて昨日聞いたことを直してしまうかもしれないので」


水城は頷いた。


「前にも、そうしましたね。最初の部屋のとき」


「はい。同じやり方です」


透は手帳を開き、昨日の頁を見せた。水城も自分のノートを開いた。


二人で昨日の記録から台所の話を抜き出した。


姉の発言:今の台所は白い。その前は木の色。その前は青いタイルの流し。小さい四角いタイル。冬は冷たかった。毎朝そこで弁当箱を洗った。学校に持っていく弁当箱。前の晩に洗い忘れると朝に慌てて洗った。目地にご飯粒が入って取れなかった。


水城さんの発言:青いタイルは覚えていない。覚えているのは木の色の流し台。


透の確認:現在の台所に青いタイルはない。


「それから、お母さんのことを聞いたときのことも」


透は言った。


水城は、自分のノートの頁をめくった。


「……みおちゃんのお母さん、と繰り返して。何か言いかけて。それから、仕事の話を聞かせて、と。窓の外を見ていました。私の方を見なかった」


透は、それをそのまま書いた。


書き終えてから、透は顔を上げた。


「これは、僕と水城さんが同じ場所で聞いたことです。二人とも聞いたからといって、二つの証言にはなりません。お姉さんが言ったことが一つあって、それを二人で書き留めた。それだけです」


「はい」


「もう一つ。水城さんが昨日、お姉さんの顔を見てどう思ったか。それも、今のうちに残しておいてもらえますか。写真を見る前に」


水城は、少し黙った。


ペンを持ったまま、ノートの白い頁を見ていた。


「……目元が」


水城は言った。


「誰かに似ていると思いました。一瞬。母の顔が浮かびかけて。でも、年が全然違うから、見間違いだと思った」


水城は、それを書いた。書く手が、少し遅かった。


「首の傾け方は、昔と同じでした。私を覗き込むみたいに。髪は長くて、後ろで結んでいて。……それくらいです」


「ありがとうございます」


透は、それ以上聞かなかった。


水城のノートの頁を見ていると、自分がこれを材料として並べていることに気づいた。台所の証言。話題の変化。顔の印象。


水城にとっては、昨日のあの時間そのものだった。二十年近く待って、やっと会えた人の顔だった。


透は、手帳を閉じた。


「少し、コーヒーを飲んでから行きましょうか」


水城は顔を上げて、少しだけ笑った。


「……はい」


---


直子おばさんの家は、旧居から車で十分ほどの住宅地にあった。


「いらっしゃい。上がって上がって」


おばさんは二人を居間に通した。座卓の上にアルバムが四冊と、茶封筒が一つ置いてあった。


「出しておいたわよ。古いのから順番に。封筒の方は、あの家の工事の書類。見積もりとか、図面とか。捨てられないのよね」


「ありがとうございます」


水城が頭を下げた。


「好きに見てちょうだい。あたし、お茶淹れてくるから。分からないことがあったら聞いて」


おばさんは台所へ消えた。


水城は、一番古いアルバムに手を伸ばした。


表紙は布張りで、角が擦り切れていた。開くと、台紙に写真が貼ってあり、下に手書きの小さな字で日付と説明があった。


古い写真だった。色が褪せて、黄色っぽくなっていた。


あの家の前で撮った写真があった。門扉は今より新しかった。ブロック塀は同じだった。若い夫婦が、赤ん坊を抱いて立っていた。


水城は、黙って頁をめくった。


赤ん坊が少しずつ大きくなっていった。縁側で笑う女の子。廊下で三輪車に乗る女の子。七五三の着物の女の子。


写真の下には、女の子の名前が書かれていた。真紀。


「……母です」


水城が小さく言った。


透は頷いた。


二冊目に入った。女の子は小学生になっていた。ランドセルを背負って、門の前に立っていた。


水城が頁をめくる動きは、少しずつ遅くなった。


三冊目。


女の子は、中学生になっていた。制服を着て、少し照れたような顔でカメラを見ていた。


水城の手が、止まった。


透は、隣からその写真を見た。


窓の前だった。あの家の、廊下の奥の窓。今とは違う、模様の入ったガラスが写っていた。すりガラスのような。光がぼやけていた。


その前に少女が立っていた。


制服の上着を脱いで、白いブラウス姿だった。髪を後ろで一つに結んでいた。首を少し傾けて、カメラの方を覗き込むように見ていた。


写真の下に字があった。


真紀高二の春。


水城は、その写真から目を離さなかった。


次の頁へ、手が動かなかった。


透も、何も言わなかった。


昨日、窓の脇に座っていた少女。長い髪を後ろで結び、白いブラウスのような服を着て、首を傾けて水城を覗き込んでいた。


写真の少女は、その顔をしていた。


透は、自分が見たものを思い出そうとした。昨日の窓辺。光の中の輪郭。細い肩。首の傾き。


似ている、と思った。


思ってから、それが自分の期待なのかどうかを考えた。昨日の姉の顔を、透ははっきりとは覚えていない。水城ほど近くで見ていない。水城のように、何年も覚えてきた顔でもない。


それでも、首の傾き方は、同じだった。


水城の肩が、小さく震えていた。


透は、座卓の上の自分の手を見ていた。何か言うべきなのかどうか、分からなかった。


「……似ています」


水城が言った。


声が、かすれていた。


「お姉ちゃんに。……すごく」


「はい」


透は、それだけ言った。


水城は、写真の縁に指を置いた。触れるか触れないかの距離で。


「母です。若い頃の母。……お姉ちゃんと、同じ顔をしてる」


台所から、湯が沸く音がした。


---


おばさんがお茶を運んできた。


「あら、それ。真紀ちゃんの高校の頃ね。懐かしいわ」


おばさんは、水城の手元を覗き込んだ。


「真紀ちゃん、あの窓のところが好きでね。よくあそこに座って、本読んだり、勉強したりしてたのよ」


「……そうなんですか」


「そうよ。それで、澪ちゃんも同じところで遊んでたでしょう。親子で同じところが好きなのねって、みんなで笑ってたの」


水城は、何も言わなかった。


透は、おばさんに尋ねた。


「この写真の方が、真紀さんで間違いないですか」


「間違いないわよ。あたし、この頃よく遊びに行ってたもの。真紀ちゃんが高校生で、あたしはもう少し上で」


おばさんは、前の頁を指さした。


「ほら、ここ。これが一年の時で、これが高二。ね、同じ子でしょう」


透は、前後の写真を見比べた。一年生の制服姿。二年生の春の窓辺。同じ顔だった。成長の順に並んでいた。


「ありがとうございます」


透は言った。


おばさんは座卓の端に座って、別のアルバムをめくり始めた。水城の子どもの頃の写真を見つけて、あら、これ、と笑った。


水城は、高二の春の写真から、まだ目を離せずにいた。


透は、おばさんの話を聞きながら、手帳に書いた。


写真:真紀さん、高二の春。旧居の廊下奥の窓の前。白いブラウス、髪を後ろで結ぶ、首を傾ける。前後の写真と、直子さんの説明で本人と確認。

当時の窓ガラスは模様入り(すりガラス様)。

姉の外見(昨日)との類似:水城さんが認める。朝倉も首の傾き等を似ていると感じる。朝倉の観察は短時間。


書きながら、透はその下にもう一行足した。


顔が似ていることだけでは、親族の似姿である可能性を除けない。


書いてから、それを見た。


親族の似姿。母の姉妹。いとこ。誰かが、母に似ていたのかもしれない。


けれど、写真の中で、この家にいたのは真紀だった。窓の前にいたのは、真紀だった。


透は、顔から目を離すことにした。


「台所の写真は、ありますか」


透は、おばさんに尋ねた。


---


「台所?あったかしら」


おばさんは、二冊目のアルバムを手に取って、めくった。


「ああ、これ。真紀ちゃんのお誕生日ね。台所で撮ってる」


写真の中で、小学生くらいの真紀がケーキの前に座っていた。その後ろに、流し台が写っていた。


流しの周りに、小さな四角いタイルが、びっしりと貼られていた。


褪せた写真の中でも、それは青かった。


水城が、息を吸う音がした。


透は写真の下の日付を見た。真紀の九歳の誕生日だった。


「このタイル、いつまであったか、覚えていらっしゃいますか」


「さあ……いつだったかしら。封筒の中に、工事の書類があるはずよ。台所をやり直したときの」


おばさんは茶封筒を開けて、中の紙を広げた。黄ばんだ見積書と、手書きの図面、それに領収証が何枚か入っていた。


「これかしら。台所改修工事。ほら、ここに日付」


透は、見積書を受け取った。


工事の内容の欄に、既存流し台撤去、タイル撤去、システムキッチン設置、とあった。日付は、澪が生まれる二年前の春だった。


見積書は、工事の予定を書いたものにすぎない。透は、その下の紙をめくった。同じ工務店の領収証があった。台所改修工事代金として、見積書から一か月ほどあとの日付が入っていた。


「写真でも、確かめられますか。工事のあとの台所が写っているものがあれば」


「ああ、あったと思うわよ。新しくなったとき、みんなで喜んで撮ったの」


おばさんは三冊目の後ろの方をめくった。


誰も写っていない台所の写真があった。白い扉の流し台。タイルはどこにもなかった。写真の下に、新しい台所、と書いてあり、領収証の日付から少しあとの初夏の日付があった。


透は、それらを並べて水城に見せた。


水城は、日付を見た。自分の生年と、指で数えるように比べていた。


「……私が生まれる、前」


「はい。見積書と、支払いの控えと、写真と。三つとも、水城さんが生まれる二年ほど前です」


「青いタイルは、私が生まれる前に、なくなってた」


透は、アルバムをもう一度見た。


三冊目の、真紀が中学生くらいの頃の頁に、台所の写真がもう一枚あった。流しの前に立って、何かを洗っていた。後ろ姿だった。手元は見えなかった。流しの縁に、青いタイルが写っていた。


写真の下には、何も書いていなかった。


透は、それを見ていた。


何を洗っていたのかは、写真からは分からなかった。弁当箱かもしれない。茶碗かもしれない。


透は手帳に書いた。


台所の青いタイルの流し:写真で確認(真紀さん九歳の誕生日、中学生頃の後ろ姿)。撤去:見積書、同工務店の領収証、改修後の台所の写真(日付入り)で確認。いずれも水城さんの出生の約二年前。

写真で見る限り、真紀さんの子どもの頃から中学生の頃まで、青いタイルの流しはあった。

姉は、その流しで弁当箱を洗った経験を、自分のこととして話した。


その下に、書いた。


ただし:姉が誰かから聞いた話を、自分のことのように話した可能性は、この資料だけでは否定できない。


透は、その一行を見た。


否定できない。それは本当だった。


けれど、姉は、目地に入ったご飯粒が取れなかった、と言った。冬は冷たかった、と。指先で擦るような仕草をしながら。


聞いた話を、あんなふうに話すだろうか。


透は、そこで考えるのをやめた。それを決めるのは、この資料ではない。


水城はおばさんに断って、高二の春の写真と、台所の写真と、書類を、携帯で何枚か撮らせてもらった。


水城は、アルバムを閉じていた。膝の上に置いて、両手で表紙を押さえていた。


水城は、何か言いかけて、座卓の端のおばさんを見た。それから、口を閉じた。


透も、何も言わなかった。


---


おばさんの家を出て、駅までの道を歩いた。


角を二つ曲がったところで、水城が立ち止まった。


「朝倉さん」


「はい」


「お姉ちゃんは」


水城は、そこで言葉を止めた。


それから、もう一度言った。


「お姉ちゃんは、若い頃の母なんでしょうか」


透は、すぐには答えなかった。


考えないふりはできなかった。昨日から、透もずっとそれを考えていた。写真を見て、見積書を見て、それがどんどん形になっていくのを感じていた。


「……久世さんが言っていたことを、覚えていますか」


透は言った。


「生きている人と、同じ過去を持っている存在。その人が死にかけた場面と、何かしらの関わりがある」


水城は、黙って頷いた。


「水城さんが見たお姉さんの顔は、若い頃のお母さんに似ている。お母さんがあの家で暮らしていた頃の台所を、お姉さんは自分の経験として覚えている。お母さんの話になると、話を変える」


透は、ゆっくり言った。


「それを全部並べると、お姉さんは、お母さんが若い頃に生まれた、もう一人のお母さんなのかもしれない。そういう見方が、いちばん合っています」


水城は、アルバムの表紙を見つめていた。


「……もしそうなら」


水城は言った。


「母は、若い頃に、死にかけたことがあるんですか」


「分かりません」


透は言った。


「そういう可能性がある、というだけです。まだ、誰にも確かめていない」


---


水城の部屋に着いたのは、夕方だった。


水城は、玄関で少し立ち止まった。


「あの子に、話したいんです」


水城は言った。


「お姉ちゃんに会えたこと。それと、今日のこと。……一緒にいてもらえますか」


「はい」


居間に入ると、窓際のソファの端に、女がいた。


女は、水城が入ってきた瞬間に身を乗り出した。


「会えた?」


声が弾んでいた。


「昨日、行ったんでしょう。お姉ちゃん、いた?」


水城は、テーブルの椅子に座った。透もその隣に座った。


「……会えたよ」


水城は言った。


女は、両手で口を押さえた。


「本当に?」


「本当。窓のところにいた。みおちゃん、って呼んでくれた」


「みおちゃん……」


女は、その言葉を繰り返した。目が潤んでいるように見えた。


「どうだった。元気だった?何て言ってた?私のこと、何か言ってた?」


水城は、少し困ったように笑った。


「大きくなったね、って。それから、私の仕事のこととか聞かれた。折り紙、まだ折ってるかって」


「折ってないでしょう」


「折ってない」


女は笑った。水城も、少しだけ笑った。


透は、二人のやり取りを黙って見ていた。


水城は、昨日のことを順に話した。姉が若く見えたこと。後の家族の話。女の子の歌。台所の話。弁当箱。お母さんのことを聞いたら、話を変えたこと。


それから、今日のことを話した。おばさんの家のアルバム。高二の春の写真。青いタイルの流しの写真。見積書の日付。


話が進むにつれて、女の顔から笑みが消えていった。


「……それで?」


女が言った。


「それで、お姉ちゃんが、お母さんだって言うの?」


「分からない」


水城は言った。


「似てる。台所のことも、合ってる。でも、分からない」


「分からないのに、そういう話をするの」


女の声が、少し尖った。


「お姉ちゃんに会えたんでしょう。やっと。二十年も経って。それなのに、誰なのか、とか。お母さんなのか、とか。そんなことばっかり」


「そんなことばっかりじゃない」


「じゃあ何」


女は、ソファから立ち上がった。


「お姉ちゃんが誰だって、お姉ちゃんはお姉ちゃんでしょう。私たちと遊んでくれたのは、お姉ちゃんでしょう。お母さんじゃない。お母さんは、お姉ちゃんなんていないって言った人でしょう」


水城は、何も言わなかった。


透も、何も言わなかった。


女は、窓の方を向いた。しばらく、そのまま立っていた。


「……紐のとき」


女が言った。背中を向けたまま。


「紐の結び方のとき。澪が、お母さんも同じ結び方するって言ったでしょう。お姉ちゃん、『そう?』って言って、何か言いかけて、やめた」


「……うん」


「私、あれ、何か言うのをやめたんだって思ってた。ずっと。何を言おうとしたのか、分からなかった」


女は、振り返った。


「今、分かった気がする」


水城が、女を見た。


「お姉ちゃん、困ったんだよ。澪にお母さんと同じって言われて。何て答えればいいか分からなくて。本当のこと、言えなかったんだよ」


女の声は、震えていた。


「お姉ちゃん、隠そうとしたのかもしれない。澪に、自分がお母さんと同じだって、知られたくなかったのかもしれない」


透は、手帳を開かなかった。


女が今言ったことは、新しいことではなかった。前にこの部屋で女が話したのと、同じ場面だった。紐の結び方。「そう?」と返して、何か言いかけて、やめた。同じ事実だった。


変わったのは、それをどう読むかだった。


あのときは、何かを言うのをやめた、だった。今は、隠そうとしたのかもしれない、になっていた。


新しい証拠が出たわけではなかった。同じ思い出の意味が、今日の写真で変わっただけだった。


透は、それを口に出さなかった。


女の顔を見ていれば、分かった。女にとって、それは推理の材料ではなかった。二十年、大事にしてきた思い出の、意味が変わってしまったのだった。


水城も、同じ顔をしていた。


---


しばらく、誰も話さなかった。


女は、ソファの端に座り直していた。膝を抱えて、窓の外を見ていた。


透は、自分の手帳を開いた。


「今、分かっていることと、まだ分からないことを、分けて話してもいいですか」


水城が、透を見た。


「……はい」


「分かっていること」


透は、手帳を見ながら言った。


「水城さんは、お姉さんの顔が、高校二年の頃のお母さんの写真に似ていると思った。僕は顔をはっきりとは覚えていませんが、髪の結び方や首の傾け方は似ていると感じました。それから、お姉さんが弁当箱を洗ったと話した青いタイルの流しは、お母さんの子どもの頃の写真に写っていて、水城さんが生まれる前に撤去されていた」


「……はい」


「それを全部並べると、お姉さんは、若い頃のお母さんに対応する存在だという見方が、いちばん合っていると思います」


水城は、黙っていた。


「まだ分からないこと」


透は続けた。


「本当にそうなのか。お母さんが若い頃に、何かがあったのか。死にかけるようなことが。それを、お母さんは知っているのか。お姉さんは、知っているのか。知っていたなら、いつから、なぜ言わなかったのか」


透は、手帳を閉じた。


「これは、僕たちが資料からいくら考えても、分かりません。お母さんと、お姉さんに、それぞれ聞くしかない」


水城は、テーブルの上の自分の手を見ていた。


それから、顔を上げた。


「……もし、そうだったとしても」


水城は言った。


「お姉ちゃんが、いなかったことにはなりませんよね」


透は、水城を見た。


「私と遊んでくれたのは、お姉ちゃんです。縁側で、窓のところで。折り紙を教えてくれて、絵本を読んでくれて。それは、お母さんじゃなかった。お母さんは、そのとき、別のところにいた。お姉ちゃんは、お姉ちゃんとして、私と一緒にいてくれた」


「はい」


透は言った。


「それは、なかったことにはならないと思います。お姉さんが誰に対応する存在だったとしても、水城さんと過ごした時間は、お姉さんが過ごした時間です」


ソファの端で、女が小さく息を吐いた。


水城は、しばらく黙っていた。


「母に、会いに行きます」


水城は言った。


「電話じゃなくて。会って、聞きます。若い頃に、何かあったのか。お姉ちゃんのことを、どう思っていたのか」


「はい」


「それと、お姉ちゃんにも、聞きます。別の日に。……母に聞いたことを、先に言わないで。お姉ちゃんが、自分で話せるように」


透は頷いた。


「お姉さんに聞くときは、質問を先に一緒に考えましょう。答えが入っていない聞き方で」


「はい」


水城は、携帯を取り出した。


画面を見て、しばらく指が止まっていた。


それから、文字を打った。


〈お母さん。近いうちに、会って話したいことがあります。前の家のことと、それから、お母さんが若い頃のことを聞きたいです。都合のいい日を教えてください。〉


水城は、送信した。


画面を伏せて、テーブルに置いた。


窓際の女が、水城を見ていた。


「……私も、お姉ちゃんに会いたい」


女が言った。小さな声だった。


「お姉ちゃんが誰でもいいから。会いたい」


水城は、女を見た。


何も答えなかった。答えられないのだと、透には見えた。女がこの家の外に現れたことは、これまで一度もない。連れていく方法も、透には分からなかった。分からないことを、約束はできない。


透は、窓の外を見た。


日が暮れかけていた。向かいの建物に、明かりが灯り始めていた。


姉は、若い頃の母なのかもしれない。


その答えに、今日、近づいた。けれど、答えに近づくほど、別の問いが重くなっていた。


母は、何を知っていたのか。


姉は、何を黙っていたのか。


水城が信じてきた二人は、それぞれ、何を隠していたのか。


母と姉に何を問い、その答えをどう受け止め、どんな距離を取るか。それは水城が決めることで、透が代われることではなかった。透にできるのは、質問を一緒に考え、資料を並べ、隣で書き留めることだった。


テーブルの上で、水城の携帯が震えた。


水城は、それを見なかった。しばらく、見ないまま、窓際の女を見ていた。

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