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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第十七話

母の返事は短かった。


〈土曜の午後なら。駅前の喫茶店で。〉


場所は、母が選んだ。母の住む町の駅前にある、古い喫茶店だった。澪が高校生の頃にも、何度か母と入ったことがあった。


朝倉に同席してもらいたい、と澪は書いた。家のことを一緒に調べてくれている人だから、と。


しばらくして、返事が来た。


〈家を調べてる人ね。いいわよ。〉


それだけだった。


---


土曜日、母は喫茶店の奥の席に先に座っていた。


紺色のカーディガンを着て、背筋を伸ばしていた。テーブルの上にコーヒーと、紙袋が一つ置いてあった。


「お待たせ」


「私が早かったのよ」


母は、澪の後ろに立つ朝倉を見た。


「朝倉です。今日はお時間をいただいて、ありがとうございます」


「水城です。澪がお世話になってます」


母は、そう言って軽く頭を下げた。仕事の相手に向けるような挨拶だった。


澪は母の向かいに座り、朝倉は澪の隣に座った。


店員が注文を取りに来た。澪は紅茶を頼んだ。朝倉はコーヒーを頼んだ。


店員が去るまで、誰も話さなかった。


「それで」


母が言った。


「若い頃のことを聞きたいって。何を聞きたいの」


澪は、鞄から携帯を取り出した。


直子おばさんの家で、許可を得て撮った写真が何枚か入っていた。澪は、その一枚を画面に出して、テーブルの上に置いた。


高二の春の写真だった。廊下の奥の窓の前。白いブラウスに、後ろで結んだ髪。首を少し傾けて、カメラを覗き込んでいる少女。


母は、画面を見た。


「……あら」


母の声が、少し柔らかくなった。


「どこで見つけたの、こんなの」


「直子おばさんの家。アルバムを見せてもらったの」


「そう。……懐かしいわね。これ、高校の頃よ」


「お母さんだよね」


「そうよ。私よ」


母は画面から目を離さなかった。


澪は、その横顔を見ていた。


母は、自分の若い頃の写真を見ている。懐かしそうに。


澪には、その写真はお姉ちゃんの顔にも見えた。二日前、あの窓の脇で「みおちゃん」と呼んだ人の顔に。


同じ写真を、母は自分の顔として見て、澪は姉の顔として見ていた。


澪は、次の写真に切り替えた。


青いタイルの流しが写った、母の九歳の誕生日の写真。それから、改修の見積書と領収証を写したもの。新しい台所の写真。


「台所、青いタイルだったの、覚えてる?」


「覚えてるわよ。冬は冷たくてね。……何なの、澪。家の歴史でも調べてるの」


「このタイルが撤去されたのは、私が生まれる二年前だった」


「そうだったかしら。そうかもね」


「私は、このタイルを見たことがない。覚えてない」


「そりゃそうでしょう。あなたが生まれる前なんだから」


母は、少し笑った。


澪は、息を吸った。


「お姉ちゃんが、このタイルの話をしたの」


母の笑みが、止まった。


「あの家で。この前、行ったとき。お姉ちゃんがいたの。窓のところに。話ができた」


母は、何も言わなかった。


「お姉ちゃんは、この流しで、毎朝お弁当箱を洗ってたって言った。学校に持っていくお弁当箱。前の晩に洗い忘れると、朝慌てて洗ったって。タイルの目地に、ご飯粒が入って取れなかったって」


澪は、母の顔を見ていた。


母の顔から、表情が少しずつ抜けていった。


「私の知らない台所の話を、お姉ちゃんは、自分のことみたいに話した」


澪は携帯の画面を高二の春の写真に戻した。


「お母さん。お母さんが若い頃に、何があったの」


---


長い沈黙があった。


店の奥で、コーヒーを挽く音がした。


母は、テーブルの上の紙袋に手を置いた。それから、手を引っ込めた。また置いた。


「……十七のときに」


母が言った。


声が低かった。


「病気で、入院したの。高二の秋に倒れて」


澪は、ペンを握っていた。膝の上のノートに、言葉を書き留める準備をしていた。


「重かったのよ。……助からないかもしれないって、言われたらしいわ。私は覚えてないところもあるけど。親が、あとで言ってた」


母は、そこで言葉を切った。


澪は、書いた。十七歳。高二の秋。病気で入院。助からないかもしれないと言われた。


「それで」


澪は言った。


「助かったのね」


「助かったわよ。だから、ここにいるんでしょう」


母は、少しだけ口元を歪めた。笑おうとしたのか、そうでないのか、澪には分からなかった。


「退院して、家に戻って」


母は、窓の外を見ていた。


「……しばらくして、見たの」


「何を」


「女の子を」


母は、澪を見なかった。


「家の中で。廊下の奥で。窓のところに、女の子が座ってたの。……私に、似てた。倒れた頃の私に。退院してきた、やせた私じゃなくて」


澪の手が止まった。


朝倉が、隣で身じろぎもせずに座っていた。


「最初は、熱のせいだと思った。薬のせいだとも思った。退院したばっかりで、ふらふらしてたから。でも、何回も見たの。窓のところで。廊下で。私の部屋の前で」


「……話したの?」


「話してないわよ。話せるわけないでしょう。怖かったもの」


母の声が、少し強くなった。


「自分と同じ顔なのよ。倒れた頃の私。それが、家の中にいるの。私はやせて、ふらふらで、学校にも行けなくて。あの子は、やせる前の顔で、窓のところに座ってた」


母は、紙袋を引き寄せた。中から、厚みのある綴りを取り出した。表紙が色褪せていた。


「これ、持ってきたの」


母は、それをテーブルの上に置いた。


「あなたが若い頃のことを聞きたいって言ったから。何を聞かれるか、なんとなく分かったから」


綴りの表紙に、高校の名前が印刷されていた。中には、学校と家の間でやり取りした連絡の紙が綴じてあった。担任からの手紙。欠席の届け。復学についての相談。


「母がとっておいたの。私の母。捨てられない人だったから」


澪は、それを開いた。


日付を追った。高二の秋から欠席の届けが続いていた。年を越えて、春の終わりまで。そのあとに、学校へ戻るための相談の紙と、補習の予定表があった。


「これで、いつから学校を休んで、いつ戻ったかは分かるわ。入院のことは、書いてないけど。……それだけよ。女の子のことは、どこにも書いてない」


「分かってる」


澪は言った。


綴りを閉じた。朝倉に渡した。朝倉は、日付だけを手帳に写して、すぐに返した。


---


「あの家での生活のこと、もう少し聞いてもいい?入院する前の。高校の頃の」


母は、少し意外そうな顔をした。


「……いいけど。何を」


「何でもいい。覚えていること」


母は、コーヒーを一口飲んだ。


「普通よ。学校に行って、帰ってきて。部活はしてなかった。家の手伝いして。……あの窓のところで、よく本読んでた」


「うん」


「あとは……」


母は、少し考えた。


「進路のことで、親と揉めてたわね。私、あの町を出たかったの。遠くの学校に行きたかった。でも、親は近くにしろって。進路の希望の紙、何回も書き直した」


母は、ふっと小さく笑った。


「一回、書き直して、でも出せなくて。その紙、折って、窓の下の板の継ぎ目に挟んだの。あそこ、ちょっと隙間があったのよ。見つからないように」


「窓の下の、板の継ぎ目」


澪は繰り返した。


「そう。……入院する少し前だったと思う。結局、あのあと倒れて、進路どころじゃなくなって。紙のことなんか、忘れてたわ。今、急に思い出した」


澪は、それをノートに書いた。


入院前。書き直した進路の紙。出せなかった。折って、窓の下の板の継ぎ目に挟んだ。


書きながら、澪の手は震えていた。


この話を、澪は知らなかった。聞いたこともなかった。お姉ちゃんからも。


澪は、ノートから顔を上げた。


「お母さん」


「何」


「私が子どもの頃、お姉ちゃんの話をしたとき」


母の顔が、固くなった。


「お母さん、分かってたんじゃないの。お姉ちゃんが、何なのか」


母は、しばらく黙っていた。


「……分かってたわけじゃないわ」


母は言った。


「でも、あなたが、窓のところでお姉ちゃんと遊んだって言い出したとき。お姉ちゃんの話を毎日するようになったとき。どんな子なの、って聞いたら、あなた、言ったのよ。髪を後ろで結んでて、首をこう、傾けるの、って」


母は、自分の首を少し傾けた。


「それで、思ったの。あの子じゃないかって。私が、十七のときに見た、あの子」


澪は、何も言えなかった。


「思っただけよ。確かめたわけじゃない。何なのかも分からない。今も分からないわ。どうして私に似た子がいたのか。どうしてあなたにも見えたのか」


母は、テーブルの上で手を組んでいた。指に力が入っていた。


「分からないのよ、澪。私だって」


澪は、母を見ていた。


胸の奥で、何かが熱くなっていくのを感じた。


母は、知っていた。確かめてはいなくても。分かってはいなくても。お姉ちゃんが、あの少女かもしれないと思っていた。


それなのに、いなかった、と言った。


想像のお友達でしょう、と言った。


二十年、澪は、自分の記憶を信じられずにいた。


澪は、納得するより先に、怒っていた。


「……どうして」


澪は言いかけた。


どうして言ってくれなかったの。どうして、いなかったなんて言ったの。


その言葉が、喉元まで来ていた。


澪は、それを飲み込んだ。


今、それを聞いたら、澪はたぶん、母の答えを最後まで聞けない。母が何を言っても、怒りの方が先に口から出る。


それに、まだ半分しか分かっていなかった。


母がどう思っていたかは、今聞いた。けれど、お姉ちゃんが何なのかは、お姉ちゃん自身に聞いていない。


「お母さん」


澪は言った。声が震えないように、ゆっくり。


「今日、話してくれてありがとう。……どうして言わなかったのかは、また聞く。今日じゃなくて」


母は、澪を見た。


「もう一つ、確かめたいことがあるの。お姉ちゃんの方にも。今度、あの家で。お母さんの話は、お姉ちゃんには言わない。お姉ちゃんが自分で話すのを聞きたいから」


母は、しばらく黙っていた。


「……好きにしなさい」


母は言った。


「私は、止めないわ。止めても、行くんでしょう」


澪は、答えなかった。


母は、学校の綴りを紙袋に戻した。それから、少し迷うように、紙袋ごと澪の方へ押した。


「持っていっていいわよ。見たいなら。……返してくれればいいから」


澪は、紙袋を受け取った。


---


喫茶店を出て、駅までの道を歩いた。


澪は、紙袋を胸に抱えていた。朝倉は、隣を黙って歩いていた。


「朝倉さん」


「はい」


「お姉ちゃんに、窓の紙のことを、私から言わないようにしたいんです。お母さんが入院したことも。十七歳だったことも」


「はい」


「でも、私、たぶん顔に出る。聞き方にも出る。あの窓のところに座ったら、継ぎ目の方を見てしまうと思う」


朝倉は、少し考えた。


「質問を、先に書いておきましょう。水城さんと会う前、お姉さんがどんなふうに過ごしていたか。それだけを聞く。窓も、紙も、病気も、こちらからは出さない」


「はい」


「お姉さんが自分で話すまでは、こちらからは出さない。もし水城さんが先に言いそうになったら、僕が止めます。止めていいか、先に決めておいてください」


澪は、朝倉を見た。


「……止めてください」


澪は言った。


「お願いします」


---


二日後、直子おばさんにもう一度鍵を開けてもらった。


今度も、おばさんはすぐに帰った。澪と朝倉は、玄関で決めたことを確認した。時間は四十分。質問は澪がする。お姉ちゃんが嫌がる話はしない。お姉ちゃんが話すのをやめたそうにしたら、終わる。母の話は、こちらから出さない。


澪は、ノートに書いてきた質問を、もう一度読んだ。


私と会う前、お姉ちゃんはどんなふうに過ごしていたの。


それだけだった。


廊下を歩き、窓の前に座った。


窓の下の板の、左端のV字の傷に指を置きかけて、やめた。今日は、何かをたどりに来たのではなかった。


澪は、ただ座って、窓の外の木を見ていた。


「……みおちゃん」


声がした。


窓の脇に、お姉ちゃんが座っていた。前と同じ、膝を抱えた姿勢で。


「また来てくれたんだ」


「うん。……来るって言ったから」


お姉ちゃんは、嬉しそうに笑った。


「今日は、一つ聞きたいことがあって来たの」


澪は言った。


「いいよ。何?」


「私と会う前、お姉ちゃんは、どんなふうに過ごしてたの」


お姉ちゃんは、少し首を傾けた。


「みおちゃんと会う前?」


「うん。私が、この家に来る前。……ずっと前」


お姉ちゃんは、窓の外を見た。


「……学校に行ってたよ」


お姉ちゃんは言った。


「前にも言ったでしょう。お弁当持って。あんまり勉強好きじゃなかったけど、本は好きだった。ここで、よく読んでた」


「うん」


「部活はしてなかった。家の手伝いして。……それで、進路のことで、よく揉めてた」


澪は、手のひらに爪が食い込むのを感じた。


顔に出さないように、と思った。


隣で、朝倉が静かに手帳を持っていた。ペンが動いていた。


「揉めてたの?」


澪は聞いた。それだけを。


「うん。この町を出たかったの。遠くの学校に行きたかった。でも、親は近くにしろって言って」


お姉ちゃんは、少し笑った。


「進路の紙、何回も書き直したよ。先生に出すやつ。一回、遠くの学校を書いて、でも出せなくて。……それで、ほら」


お姉ちゃんは、窓の下の板を指さした。


左端ではなかった。真ん中より少し右、板と板の継ぎ目のあたりだった。


「そこ、隙間があるでしょう。そこに、折って挟んだの。見つからないように」


澪は、その継ぎ目を見た。


細い隙間があった。古い板と板の間に、紙一枚がやっと入るくらいの。


澪は、何も言わなかった。


言えなかった。喉が、固まっていた。


朝倉が、隣で小さく息を吐いたのが聞こえた。ペンが、止まって、また動いた。


「……それで、どうなったの」


澪は言った。自分の声が、遠くから聞こえた。


「その紙」


お姉ちゃんは、少し黙った。


「……出さなかった。出せなかった」


お姉ちゃんは、膝を抱え直した。


「そのあと、いろいろあって。進路どころじゃなくなって。……そこから先は、よく分からないの。気がついたら、ここにいて。この家に。ずっと」


お姉ちゃんは、自分の手を見ていた。


「学校には、もう行けなかった。お弁当箱も、もう洗わなかった。ここにいて、ここから出られなくて。家の人は、誰も私に気づかなかった。……一人だけ、気づいた人がいたけど」


澪の心臓が、大きく鳴った。


「その人とは、話せなかった。私を見ると、怖がって、逃げたから」


お姉ちゃんは、澪を見た。


「それから、ずっと経って。みおちゃんが来た。みおちゃんは、逃げなかった。窓のところに来て、私を見て、一緒に遊ぼうって言った」


お姉ちゃんは、笑った。少しだけ、寂しそうに。


「だから、みおちゃんのお姉ちゃんになったの」


---


澪は、しばらく何も言えなかった。


お姉ちゃんが話したことと、母が話したことが、澪の頭の中で重なっていた。


進路のことで親と揉めた。遠くの学校に行きたかった。書き直した紙を、出せなかった。窓の下の板の継ぎ目に、折って挟んだ。


母は、それを喫茶店で話した。お姉ちゃんは、今、ここで話した。澪は、どちらにも、何も教えていなかった。


それから、一人だけ気づいた人がいた。怖がって、逃げた人。


澪は、ノートを膝の上で開いた。書いてきた質問は、一つだけだった。


それ以外は、聞かないつもりだった。


けれど、今、聞かなければ、澪はここから立ち上がれない気がした。


澪は、朝倉を見た。


朝倉は、澪の目を見て、小さく頷いた。止める、とは言わなかった。水城さんが決めてください、という顔だった。


「お姉ちゃん」


澪は言った。


「お姉ちゃんは……お母さんと、同じ人なの?」


お姉ちゃんは、動かなかった。


窓の外で、葉が揺れた。光が、お姉ちゃんの横顔を半分だけ照らしていた。


長い時間だった。


「……うん」


お姉ちゃんは言った。


小さな声だった。


「十七の秋まで。私は、真紀と同じだった」


お姉ちゃんは、澪を見なかった。窓の外を見ていた。


「そこから先は、違う。真紀が退院して戻ってきて、また学校に行くようになって、大人になって、この家を出ていって。何年もたって、みおちゃんを連れて帰ってきたとき、みおちゃんのお母さんになってるって分かった。私が知ってるのは、この家で見たり聞いたりしたことだけ。真紀がどんな気持ちでそうしてきたのかは、知らない。私は、それをしてない」


お姉ちゃんは、自分の膝に額をつけた。


「私は、みおちゃんを産んでない。育ててもない。……みおちゃんと一緒にいたのは、みおちゃんがここに来てから、出ていくまでだけ」


「……」


「だから、私は、みおちゃんのお母さんじゃない。お母さんの、昔の……何なのか、私にも分からない。でも、みおちゃんのお姉ちゃんだったのは、本当」


澪は、何も言えなかった。


目の前の少女を見ていた。


お姉ちゃんだった。縁側で積み木を見ていてくれた。そこ、と指さしてくれた。絵本を読んでくれた。すぐ泣く澪の頭の上で、撫でる仕草をしてくれた。


その人は、十七歳の母と同じ人だった。


喫茶店で、紙袋を押しやってきた母。好きにしなさい、と言った母。いなかったのよ、と言った母。


その母の十七歳が、ここにいた。


澪は、それをどう受け取ればいいのか分からなかった。


母には、怒っていた。


お姉ちゃんには、会えて嬉しかった。


その二つが、同じ一人の過去につながっていた。


二人とも、知っている人だった。


それなのに、今、二人とも、知らない人のように思えた。


---


朝倉は、ずっと黙っていた。


澪が朝倉の方を見ると、朝倉は手帳を閉じかけていた。


「……朝倉さん」


澪は言った。


「何か、ありますか」


朝倉は、少し考えた。


「確認できたことだけ、言ってもいいですか」


「はい」


朝倉は、お姉ちゃんの方も見て、それから澪を見た。


「お姉さんの顔は、お母さんの十七歳の頃の写真に似ています。お姉さんが話した青いタイルの流しは、お母さんがあの家で暮らしていた頃にあって、水城さんが生まれる前に撤去されていました。お母さんは、十七歳のときに重い病気から生還したと話しました。そのあと、自分に似た少女を家で見たと。窓の下の紙のことは、お母さんとお姉さんが、別々に、先に話しました。水城さんは、どちらにも教えていません。それから、お姉さん自身が、十七歳の秋まで真紀さんと同じだったと言いました」


朝倉は、そこで言葉を止めた。


「それだけです。お姉さんを何と呼ぶかは、僕には決められません」


澪は、頷いた。


お姉ちゃんが、膝から顔を上げた。


「……みおちゃん」


「うん」


「怒ってる?」


澪は、少し考えた。


「……分からない」


正直に言った。


「お姉ちゃんに怒ってるのか、お母さんに怒ってるのか、自分に怒ってるのか。今は、分からない」


お姉ちゃんは、何も言わなかった。


「でも」


澪は言った。


「お姉ちゃんと遊んだのは、本当だった。それは、分かった。お母さんが私に何かを見せたんじゃない。お姉ちゃんが、自分で、私と一緒にいてくれた」


お姉ちゃんの目が、少し潤んだように見えた。


澪は時計を見た。決めた四十分が過ぎるまで、あと数分だった。


「今日は、帰る」


澪は言った。


「今は、これ以上何も考えられない。一回帰って、ちゃんと考えたい」


「うん」


「次は、聞きたいことがあるの。……いつ、自分がお母さんと同じだって分かったのか。どうして、言わなかったのか」


お姉ちゃんは、小さく頷いた。


「うん。……聞いて。今度」


「今度は、日にちを決めてから来る」


「うん」


澪は立ち上がった。


膝の埃を払った。窓の下の板の継ぎ目が、目に入った。細い隙間。紙一枚がやっと入るくらいの。


澪は、そこに触れなかった。


---


門の外に出て、鍵を郵便受けに落とした。


澪は、紙袋を抱えたまま、しばらく立っていた。母の学校の綴りが入った紙袋だった。


「朝倉さん」


「はい」


「母に、もう一度会う時間をもらいます。お姉ちゃんにも。……別々に」


「はい」


「母には、疑っていたのに、どうしていなかったと言ったのか。お姉ちゃんには、いつから分かっていて、どうして言わなかったのか。それを、聞きたいんです」


澪は、携帯を取り出した。


母に、短く書いた。


〈この前はありがとう。綴りは、ちゃんと返します。もう一度、会ってほしい。聞きたいことが、まだあります。〉


送信した。


それから、画面を伏せた。


返事を待つ気持ちと、待ちたくない気持ちが、同じくらいあった。


澪は、家の方を振り返った。二階の窓の白いカーテン。一階の閉じた雨戸。


あの窓の脇に、十七歳の母がいる。


澪の、お姉ちゃんが。


同じ人なのに、澪は、その二つを一つにして呼ぶことができなかった。

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