第十八話
母の返事は翌朝に来た。
〈水曜の夕方なら。この前の店で。一時間だけね。〉
一時間、と澪は読んだ。母の方から時間を区切ってきたのは初めてだった。
お姉ちゃんには木曜の午前に会うことにした。直子おばさんに鍵を頼み、時間は前と同じ四十分にした。朝倉にも来てもらう。母への返信には、木曜にもう一度あの家へ行くことだけを書き添えた。
母とお姉ちゃんの間に一晩を置いた。同じ日に二人の話を聞けば、どの言葉が誰のものだったか分からなくなりそうだった。
朝倉には、母とは一人で会うと伝えた。
〈分かりました。終わったら一言もらえると助かります。〉
それだけの返事だった。理由は聞かれなかった。
---
水曜の喫茶店は空いていた。母は前と同じ奥の席にいた。
澪は紙袋をテーブルに置いた。
「綴り、返すね。ありがとう」
母は中を確かめずに紙袋を自分の椅子の脇に下ろした。
「今日は一人なのね」
「うん」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。
澪は紅茶を頼んだ。母のコーヒーはもう半分に減っていた。
澪はノートを出さなかった。今日は書き留めるために来たのではなかった。
「この前の続きを聞きに来た。お母さんは、お姉ちゃんがあの子じゃないかって思ってた。それなのに、どうしていなかったって言ったの」
母は窓の外を見た。前と同じだった。それから澪の方へ顔を戻した。今日は目をそらさなかった。
「心配だったのよ」
母は言った。
「あなた、毎日あの窓のところに行ってたの。朝起きたらまず窓。ご飯の途中でも立って窓。呼んでも返事しないで、誰もいないところに向かって笑ったりしゃべったりして」
「うん」
「だから、あの家にいた頃から、いないって言ってたの。窓のところばっかり行くから。でも引っ越したあとも、お姉ちゃんお姉ちゃんって。新しい家の窓の前で、ずっと待ってるの。あそこにはいないのに」
新しい家の窓の前に立っていたことを、澪は覚えていなかった。
「このままじゃ、あなたが見えない誰かの方ばっかり向いて大きくなると思った。こっちにいる人と遊ばなくなるって。だから、もっと言うようになったの。いないって。言い続けたら、そのうち忘れるだろうって」
母は一息で言った。前から用意していた言葉のように聞こえた。
澪は紅茶に手をつけなかった。
「心配だったのは分かった。でも、それで、なかったことにしてよかったの」
母は答えなかった。
「心配なら、心配だって言えばよかった。窓のところばっかり行くのは心配だって。お姉ちゃんがいるかどうかじゃなくて。……お母さんは、いたかもしれないって思ってたのに、いなかったって言った。私が見たことも聞いたことも、全部」
母のカップを持つ手が止まった。
「私は、二十年それを信じてたの。お母さんがそう言ったから」
店の奥で食器の重なる音がした。
母はカップを置いた。受け皿の上で、小さく音が鳴った。
「……それだけじゃなかったわ」
母は言った。声が低くなっていた。
「心配だったのは本当よ。嘘じゃない。でも、それだけじゃなかった」
澪は待った。
「あなたが熱を出したとき、夜中に起きてたのは私よ。ご飯を食べさせて、着替えさせて。悪いことしたら叱って。叱るのは私の役目だった」
母は自分の手を見ていた。
「それなのにあなた、叱られて泣くと、窓のところに行くのよ。お姉ちゃんのところに。……あの子は何もしないの。ご飯も作らない。叱りもしない。ただ窓のところにいて、あなたと遊んでるだけ。それで、あなたはあの子の方が好きだった」
「好きだった、って」
「見てれば分かるわよ。母親なんだから」
母は少し笑った。笑ったように見えただけだった。
「それも、昔の私と同じ顔をした子よ。やせてもいない。苦しそうでもない。少なくとも、私にはそう見えた。何の責任もない頃の私。……悔しかったのよ。悔しいなんて、子ども相手に言えるわけないでしょう」
澪は母を見ていた。
母が自分に向けた愛情を澪は疑ったことがなかった。叱られても、怒鳴られても、それは疑わなかった。
その愛情の中に、澪の知らない競争があった。母は窓のところの少女と、澪を取り合っていた。澪がそれを知らないまま。
澪は息を吸った。
十七歳で倒れたこと。やせて学校にも行けなかったこと。家の中で自分と同じ顔を見て、怖かったこと。それは前に聞いた。今も本当だと思う。
けれどそれは、母が澪に言ったことの理由にはなっても、言ってよかった理由にはならなかった。
「話してくれて、ありがとう」
澪は言った。
「聞いたことは、分かった。お母さんが心配してたことも。悔しかったことも」
母の肩が、少し下がった。
「でも、分かったのと、納得したのは別なの。今日は、そこまでしかできない」
母は顔を上げた。
---
「……悪かったわよ」
母は言った。
「悪かったと思ってる。あんなふうに言わなきゃよかった」
澪は頷いた。
「だから、もういいでしょう。今度うちに来なさいよ。ご飯でも作るから」
母の声は少し早くなっていた。この話を早く終わらせて、前の場所へ戻りたい声だった。
澪はすぐには答えられなかった。
母が謝った。それは聞こえた。嘘だとは思わなかった。
それでも、胸の中のものは動かなかった。
「お母さん」
澪は言った。
「私ね。お姉ちゃんのことだけじゃないの。残ってるのは」
「何が」
「自分の言葉が、信じられなくなったこと」
母は黙った。
「私は覚えてた。でもお母さんがいなかったって言うから、覚えてる自分の方がおかしいんだと思った。何かを思い出すたびに、これは本当にあったことなのかって確かめるようになった。人の話を聞く仕事をしてるのに、自分の話だけは信じられなかった」
言いながら、澪は自分の声が平らなことに気づいた。怒鳴りたいわけではなかった。泣きたいわけでもなかった。ただ、言っておかなければならなかった。
「それは、今日謝ってもらっても、すぐには戻らない」
「……そう」
「ご飯には、今は行けない。行きたくないんじゃなくて、まだ行けない」
母は何か言いかけた。それから口を閉じた。
「一つだけ、お願いがあるの」
「何」
「これから、私が覚えてることを話したときに、なかったって言わないで。この前、電話でも言ったけど。お母さんが違うと思ったら、お母さんはこう覚えてる、って言って。それなら聞ける」
母はしばらく澪を見ていた。
「……分かったわ」
短い返事だった。
「綴りのほかにも、あの頃のもの、何かあるの」
「さあ。探せば少しはあるかもしれないけど。探さないと分からないわ」
「今はいい。必要になったら、また聞く」
「そう」
時計を見ると、一時間にはまだ少しあった。
澪は伝票を取った。母が手を伸ばしかけたが、澪は自分で払った。
店の外で、母は紙袋を持ち直した。
「澪」
「うん」
「……明日、行くの。あの家」
「行く」
「そう」
母はそれだけ言って、駅とは反対の方へ歩いていった。
澪はその背中を見ていた。
母は、お姉ちゃんに何か伝えてほしいとは言わなかった。澪も聞かなかった。
改札の前で、朝倉に送った。
〈終わりました。明日、予定どおりお願いします。〉
送ってから、もう一行書き足しかけて、消した。
お姉ちゃんにも、同じことを聞く。お姉ちゃんは母とは違う。母は澪を育てた人で、澪の言葉をなかったことにした人だった。お姉ちゃんは、そうではなかった。お姉ちゃんは、いなかったなんて一度も言わなかった。
それでも、黙っていた。
---
木曜の午前、直子おばさんは玄関を開けるとすぐに帰った。
澪と朝倉は、玄関で決めたことを確かめた。時間は四十分。聞くのは澪。お姉ちゃんが話すのをやめたそうにしたら、終わる。昨日の母の話は、こちらから出さない。
「止めた方がいいと思ったら、言います」
朝倉が言った。
「はい。お願いします」
廊下を歩いた。窓の前に座った。
窓の下の板の継ぎ目が目に入った。澪はそこから目を外した。
「……みおちゃん」
窓の脇に、お姉ちゃんが座っていた。膝を抱えて。
お姉ちゃんは笑わなかった。澪を見て、少しだけ背筋を伸ばした。
「来てくれたんだ」
「うん。この前、聞くって言ったから」
「うん」
お姉ちゃんは膝を抱え直した。
澪はノートを開かなかった。質問は一つしか書いていなかった。覚えていた。
「お姉ちゃんは、いつから分かってたの。自分がお母さんと同じだって」
お姉ちゃんは窓の外を見た。
「最初から」
小さな声だった。
「ここで気がついたときから。私は真紀だったって分かってた。真紀の部屋も、真紀の学校も、真紀が書いた紙のことも、全部覚えてたから」
「私が来たときも」
「うん。真紀が、小さい女の子を連れて帰ってきて。その子がこっちを見て、手を振ったの。……真紀の子だって、すぐ分かった」
澪は膝の上で手を握った。
「じゃあ、どうして言わなかったの」
お姉ちゃんは答えなかった。
窓の外の葉が揺れていた。光が床の上で動いた。
「……言ったら」
お姉ちゃんは言った。
「みおちゃんが、私をお母さんの昔の人として見ると思ったの。お母さんの代わりとか。お母さんの、偽物とか」
お姉ちゃんは自分の膝を見ていた。
「みおちゃんは、私をお姉ちゃんって呼んでくれた。一緒に遊ぼうって言ってくれた。それは、私に言ってくれたことでしょう。お母さんにじゃなくて」
「うん」
「本当のことを言ったら、それがなくなる気がした。お姉ちゃんじゃなくなる。……だから、言わなかった」
澪は息を吐いた。
「紐の結び方のこと、覚えてる?」
お姉ちゃんの肩が動いた。
「私がお母さんも同じ結び方するって言ったとき。お姉ちゃん、『そう?』って言って、何か言いかけて、折り紙の話にした」
「……覚えてる」
「この前も。お母さんのこと覚えてるって聞いたら、仕事の話にした」
「うん」
お姉ちゃんは顔を上げなかった。
「わざとだった。ごめんね」
澪は、お姉ちゃんの横顔を見ていた。
謝られた。昨日、母にも謝られた。
同じ言葉なのに、違うものに聞こえた。
母は、澪が見たものをなかったと言った。母の言葉は、澪の家の中の決まりだった。子どもの澪には、それに逆らう方法がなかった。
お姉ちゃんは、なかったとは言わなかった。ただ、自分のことを言わなかった。
どちらも隠していた。けれど、同じ重さではなかった。
それでも、胸のどこかが痛かった。
「お姉ちゃん」
澪は言った。
「引っ越しの前の日、私、約束したよね。大きくなったら迎えに来るって」
「……うん」
「お姉ちゃんは、それを待ってた?」
「待ってた」
すぐに返事が来た。
「ずっと待ってた。……だから、この前も言えなかった」
お姉ちゃんは膝を強く抱えた。
「小さい頃は、お姉ちゃんでいられなくなるのが怖かっただけ。でも、みおちゃんが本当に来てくれて。迎えに来るって言ってくれたのは、お姉ちゃんにでしょう。お母さんの昔の人じゃなくて。……言っちゃったら、もう来てくれないかもしれないって思った」
澪は何も言えなかった。
あの約束を、澪は忘れていなかった。二十年、ずっと胸の中に持っていた。大切なものとして。
その同じ約束を、お姉ちゃんは黙っている理由にもしていた。
澪は、自分の中で二つのものが離れないのを感じた。
お姉ちゃんと過ごした時間は大切だった。今も大切だった。
そして、怒っていた。
「お姉ちゃん」
澪は言った。
「お姉ちゃんと遊んだこと、私、すごく大事なの。今も。それは変わらない」
お姉ちゃんが顔を上げた。
「でも、怒ってもいる。黙ってたこと。私がお母さんの話をしたとき、何回も話を変えたこと。……お姉ちゃんは知ってたのに、私だけ知らなかった」
お姉ちゃんの目が揺れた。
「二つとも、本当なの。どっちかだけにはできない」
お姉ちゃんは何も言わなかった。
しばらくして、小さく頷いた。
「……うん」
朝倉は窓から少し離れたところに座っていた。手帳は閉じていた。何も言わなかった。
澪は時計を見た。決めた四十分が過ぎるまで、まだ時間があった。
けれど、これ以上は聞けなかった。聞けば、答えがほしくなる。お姉ちゃんとこれからどうするのか。また前のように会いに来るのか。その答えを、澪はまだ持っていなかった。
「今日は帰る」
澪は言った。
「……また来る?」
お姉ちゃんが聞いた。
澪はすぐに答えなかった。
「来ると思う。でも、いつかは、今は決めない。決めてから来る」
お姉ちゃんは、少しだけ笑った。寂しそうな笑い方だった。前と同じだった。
「うん。決めてからでいいよ。……待ってるけど」
澪は立ち上がった。お姉ちゃんは引き止めなかった。
待ってる、という言葉が、背中に残った。
---
門を出て、鍵を郵便受けに落とした。
駅までの道を歩いた。朝倉は隣を歩いていた。少し後ろではなく、隣だった。
しばらく、二人とも話さなかった。
住宅地の角を曲がったところで、朝倉が言った。
「このあと、どうしますか」
「どう、って」
「帰りの電車です。少し休んでから乗りますか。それとも、まっすぐ帰りますか」
澪は朝倉を見た。
朝倉は前を見て歩いていた。
「……まっすぐ帰ります」
「はい」
「家に帰ったら、あの子がいる」
「はい」
「今日のこと、あの子に話さないといけない」
朝倉は頷いた。
「今日、話しますか」
「分からない。……疲れてたら、明日にするかも」
「はい。どちらでも」
それきり、朝倉は何も聞かなかった。
澪は、何か言われるのを待っていた気がした。母とお姉ちゃん、どちらが悪いのか。どちらを赦せばいいのか。誰かにそう言ってもらえれば、少しは楽になる気がした。
「朝倉さんは」
澪は言いかけた。
「どう思いましたか。今日の、お姉ちゃんの話」
朝倉は少し歩いてから答えた。
「水城さんの言葉も、お姉さんの言葉も、聞いていて苦しかったです」
「はい」
「でも、どちらを赦すべきかは、僕には言えません。……今日、決めなくてもいいと思います」
澪は少し笑った。
「朝倉さんらしい」
「すみません」
「いいえ」
澪は前を向いた。
言われなくてよかった、と思った。言われたら、たぶんそれに寄りかかっていた。
駅が見えてきた。
「お姉ちゃんのこと」
澪は言った。
「前と同じには戻れない。何も知らなかった頃みたいには」
「はい」
「どうなるのかは、分からない」
朝倉は何も言わなかった。
沈黙が続いた。澪はそれを埋めなかった。埋めなくていいと思った。
改札の前で、朝倉が立ち止まった。
「何かあったら、連絡してください。なくても、構いません」
「はい」
澪は改札を抜けた。振り返ると、朝倉はまだそこに立っていた。軽く頭を下げて、それから背を向けた。
電車の窓に、自分の顔が映った。
家に帰れば、同じ顔がもう一つある。
あの子も、お姉ちゃんを覚えている。縁側の積み木も、絵本の声も、引っ越しの前の日の約束も。
お姉ちゃんが誰だったのか。あの子には、知る権利がある気がした。
---
玄関の鍵を開けた。
居間の明かりをつけた。窓際に、女が立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
澪は鞄を床に置いた。コートを脱がずに、ソファに座った。
「行ってきたんでしょう」
「うん」
「顔、ひどいよ」
「知ってる」
女は窓際から動かなかった。澪の顔をじっと見ていた。何かを確かめるように。
「話す」
澪は言った。
「今日、全部は無理かもしれない。でも、分かったことだけは」
「うん」
澪はノートを開いた。土曜の喫茶店から今日まで、書いてきたものを順に追った。
直子おばさんの家の、高二の春の写真。青いタイルの流しが撤去された年。母が十七歳で倒れて入院したこと。退院したあと、家の中で自分に似た少女を見たこと。
窓の下の板の継ぎ目の紙のこと。母が喫茶店で話して、お姉ちゃんが二日後にあの家で話したこと。澪はどちらにも教えていなかったこと。
それから、お姉ちゃんが自分で、十七歳の秋まで真紀と同じだったと言ったこと。
女は黙って聞いていた。
「……そう」
女は言った。
「お母さんだったんだ。お姉ちゃん」
「十七歳までの、お母さん」
「うん」
女は窓の外を見た。
「やっぱり、何か言いかけてたんだね。紐の結び方のとき」
「うん。わざとだったって」
「そう」
女はしばらく黙っていた。
「でも、お姉ちゃんはお姉ちゃんだよね」
女は言った。
「積み木のとき、そこって指さしてくれたのはお姉ちゃん。お母さんじゃない。お母さんはあのとき、別のところにいた」
「うん。私も、そう思う」
「なら、いい」
女は窓に背を向けて、澪の方を見た。
「それで、どうだったの。お姉ちゃん」
「どうって」
「何着てた。どんな顔してた。私のこと、何か言ってた」
澪は答えに詰まった。
「……前と同じ。膝を抱えて座ってた。あなたのことは、話してない」
「話してないの」
「今日は、お母さんのことを聞きに行ったから」
女は少し黙った。
「ふうん」
短い声だった。
「あなたは会ったんだ。今日も、この前も、その前も」
「うん」
「私は、会ってない」
澪は女を見た。
「同じことを覚えてるのに。お姉ちゃんと遊んだのも、約束したのも、私も同じなのに。会いに行けるのは、あなただけ」
「……」
「あなたが会ったからって、私が会ったことにはならないよ」
女は言った。責める声ではなかった。ただ、確かめるように。
「あなたがお姉ちゃんと何を話したか、私は知らない。今聞いたのは、あなたが話してくれたことだけ。それ、私のじゃない」
澪は何も言えなかった。
女の言う通りだった。
今日のあの家の光も、お姉ちゃんの待ってるという声も、澪だけのものだった。
「お姉ちゃんがお母さんでも、別に構わない」
女は言った。
「私が気にしてるのは、そこじゃないの。私が、お姉ちゃんに会えるかどうか」
「……」
「会えないなら、せめて言いたいことがある。私の言葉で。あなたが要約したのじゃなくて」
澪は膝の上のノートを見た。
あの家に、この子を連れていけるのか。澪には分からなかった。この子がこの部屋の外にいたことは、一度もない。連れていく方法も、連れていけるという根拠も、澪は何も持っていなかった。
「連れていけるとは、言えない」
澪は言った。
「分かってる」
女はすぐに言った。
「連れていってなんて、まだ言ってない」
「……うん」
「言いたいことがある、って言ったの」
澪は顔を上げた。
女は窓際に立ったまま、澪を見ていた。澪と同じ顔だった。三年前の、事故の前の。
「どうやって伝えるか、考える」
澪は言った。
「でも、今日はもう考えられない。明日、聞かせて。何を伝えたいのか。私が書く。書いたものを、あなたに読んで確かめてもらう」
「全部、書いてくれる?」
「……それも、明日決める」
女は少し不満そうに口を結んだ。
それから、頷いた。
「明日ね」
「明日」
澪はノートの、何も書いていない頁を開いた。
一番上に、日付だけを書いた。その下は空けておいた。
明日、ここに、この子の言葉が入る。お姉ちゃんに渡せるのが、どこまでなのかは分からない。渡したとしても、それでこの子がお姉ちゃんに会えたことにはならない。
澪はペンを置いた。
コートを脱いだ。
窓際の女は、もう何も言わなかった。外の明かりを見ていた。澪がこの部屋に帰ってきてから初めて、二人とも黙っていた。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




