第八話
扉を開けた水城は、喫茶店で会ったときより少しだけ硬い顔をしていた。
「どうぞ。狭いですけど」
「お邪魔します」
透は靴を脱ぎ、揃えてから顔を上げた。短い廊下の先に居間の明かりが見える。午後の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
水城は廊下の途中で立ち止まった。
「先に、案内してもいいですか。どこを使っていて、どこを使っていないか」
「お願いします」
水城は、洗面所の扉を開けて見せた。それから台所。寝室の扉の前で立ち止まり、開けずに言った。
「ここは寝室です。夜は、ここで寝ています。寝ようとすると、居間の方から声がすることがあります。起きてる、とか。返事をしないと、しばらくして、もう一度」
「寝室の中で見たことは」
「ありません。声だけです。居間から聞こえます」
透は頷き、手帳に書いた。寝室:声のみ、居間方向から。
「居間は、見てもらった方が早いと思います」
水城は廊下の突き当たりまで進み、居間の入口で止まった。透もその後ろで止まった。
六畳ほどの居間だった。ダイニングテーブルに椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。テーブルの端にノートが三冊と、紙が一枚。窓際に二人掛けのソファ。本棚には、専門書らしい背表紙と、文庫本が半々に並んでいる。
整えられた部屋だった。けれど、窓際のソファの窓側の端だけ、クッションが少し傾いたままになっていた。
水城は、そこを指さした。
「あそこです。最初は、座っているだけでした。今は、立ち上がることもあります。部屋の中を、少し歩くことも」
「居間の外に出たことは」
「ありません。廊下にも、台所にも。声は、寝室まで届きますけど」
水城はソファの方を見ずに、テーブルの方へ歩いた。
「居間は、使っていますか」
透が尋ねると、水城は少し考えた。
「食事はここでします。でも、前みたいに、ここで本を読んだり、仕事の資料を広げたりはしなくなりました。帰ってきて、食べて、片づけて、寝室へ行く。それだけです」
「困っているのは、姿が見えることですか。それとも」
水城は、椅子の背に手を置いた。
「見えるのは、もう慣れました。慣れた、というのも変ですけど」
少し間があった。
「困っているのは、休めないことです。帰ってきて、疲れていて、何も考えたくないときにも、話しかけられる。答えないと、また聞かれる。答えれば、終わらない。寝ようとしても、起きてる、って。……一人で住んでいる家なのに、一人になれないんです」
透はその言葉をそのまま書いた。一人で住んでいる家なのに、一人になれない。
「分かりました」
透は手帳から顔を上げた。
「今日、僕がすることを確認させてください。あの場所を見ます。出てこさせるために何かをすることはしません。何かを再現することも、昔のことを覚えているか試すような質問もしません。向こうから話しかけてきたら、短く答えることはあるかもしれません。どこまで答えるかは、水城さんが決めてください。やめてと言われたら、そこで終わりにします」
「はい」
「録音はしません。記録は、この手帳に書くだけです。時間は、三時まで」
「はい」
水城は、テーブルの上の紙を指で押さえた。透の位置からは、一行だけ読めた。やめるとき:私がやめてと言ったとき。
「どちらに座りますか」
水城が椅子を示した。一脚は窓際が見える位置、もう一脚は窓際に背を向ける位置だった。
「水城さんは、どちらがいいですか」
水城は、窓際に背を向ける方の椅子を見た。それから、首を振った。
「……見える方に、私が座ります。朝倉さんは、横に」
水城は窓際が見える椅子に座り、透はその隣にもう一脚を引いてきて座った。二人並んで、窓際のソファの方を向く形になった。
水城は、膝の上で手を組んだ。
透は、ソファの窓側の端を見た。傾いたクッション。窓から差し込む光。向かいの建物の壁。
水城の目が、ふと、そちらへ動いた。
透も、同じ場所を見た。
ソファの端に人が座っていた。
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女だった。
窓の光を背にして、少し首を傾けてこちらを見ている。髪は肩に届かない長さで、耳のあたりで揃っていた。
顔を見て、透は一瞬、何を見ているのか分からなくなった。
水城の顔だった。
隣に座っている水城と、ソファの端に座っている女。二つの顔が透の視界の中に同時に入っていた。目の形。鼻の線。唇の薄さ。首の傾け方までが、同じだった。
透は、自分が今、どちらを見ているのかを確かめるように、隣を見た。水城は窓際を見ていた。膝の上で組んだ指に、力が入っていた。
もう一度、ソファを見た。女は、水城を見ていなかった。透を見ていた。
同じ顔だった。けれど、同じではなかった。女の頬は、水城より少し細い。目の下の影がない。髪が短い。何歳違うのかは、透には分からなかった。数年、という気はした。それ以上は、顔からは読めなかった。
何より、違ったのは、表情だった。水城は硬く、じっと窓際を見ていた。女は、少し面白そうに、透の顔を見ていた。
「来たんだ」
女が言った。
水城の声だった。少しだけ、響きが違う。どこが違うのか、透には言えなかった。
「今朝、人が来るって言ってたから」
透は、隣の水城を見た。水城は、女の方を見たまま、小さく頷いた。答えていい、という意味だと透は受け取った。
「朝倉といいます。水城さんに頼まれて、来ました」
「水城さん」
女は、その呼び方を繰り返した。可笑しそうに。
「澪、でいいのに。どっちも澪なんだから」
隣で、水城が息を詰めた。
透は、それには答えなかった。答え方が分からなかった。
「少し、お話ししてもいいですか」
透は言った。女に向けて。それから、同じ言葉を水城に向けるように、隣を見た。
水城は、少し間を置いて頷いた。
女も、首を傾けたまま言った。
「いいよ。久しぶりだし。澪、最近ずっと話してくれないから」
水城は答えなかった。
女は、ソファの背にもたれた。水城は、膝の上の手を見ていた。同じ顔の二人が、それぞれ違うところを見ていた。
透は、水城の方を一度だけ見て、それから女に尋ねた。
「ここで、何を待っているんですか」
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女は、すぐには答えなかった。
窓の外を見た。それから、透を見て、最後に水城を見た。女が水城を見たのは、透が来てから初めてだった。
「お姉ちゃんのこと、聞いた?」
透は、水城を見た。
水城は顔を上げて女を見ていた。
喫茶店で、水城は、子どもの頃に説明のつかない相手と過ごしたことがある、と言った。それだけだった。今は調べてほしいわけではない、と。
「少しだけ」
透は答えた。
「子どもの頃に、そういう方がいた、とだけ伺っています」
「そういう方」
女は、また言葉を繰り返した。今度は、可笑しそうではなかった。
「お姉ちゃんだよ」
女は、水城に向き直った。
「縁側で、積み木した。澪が積んで、お姉ちゃんが、そこ、って教えてくれた。覚えてるでしょう」
水城は、しばらく黙っていた。
透は、水城の横顔を見ていた。水城の表情は、ほとんど動かなかった。けれど、膝の上の指が、ゆっくりほどけた。
「……覚えてる」
水城が言った。女に向けて。今日、初めて。
「覚えてるよ。忘れたことなんか、ない」
女は、少しだけ笑った。
「でしょう」
透は、何も書かなかった。手帳を開いたまま、ペンを止めていた。
ここで、ほかの思い出も確かめれば、二人がどこまで同じことを覚えているのかが分かるかもしれない。その家の間取り。遊んだ場所。その人の声。けれど、それは、水城が避けてほしいと言ったことだった。記憶を試す質問はしない。
それに、水城の顔を見ていれば分かった。水城にとって、この記憶は、照合のための材料ではなかった。
「覚えてるなら、なんで行かないの」
水城の肩が、わずかに動いた。
「約束したでしょう。迎えに行くって」
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居間が、静かになった。
透は、水城を見た。水城は女の方を見ていた。唇が、何かを言いかけて、閉じた。
透は、自分から尋ねなかった。水城が話すかどうかを、待った。
しばらくして、水城が口を開いた。女ではなく、透に向けて。
「子どもの頃、住んでいた家を離れるときに、約束したんです。そのお姉ちゃんに。大きくなったら、迎えに来るね、って」
水城の声は、落ち着いていた。落ち着かせている、と透には聞こえた。
「八歳でした。引っ越しの前の日に。それから、一度も行っていません」
「忘れていたわけでは」
「ありません」
水城は、はっきり言った。
「一日も、忘れていません。でも、行けなかった。家族は、そんな子はいないと言いました。話すと、母が怒りました。だから、誰にも話さなくなって。大人になって、行こうと思えば行けたのに、行きませんでした」
「どうして行かないの」
女が言った。まっすぐに。
「もう大人でしょう。二十七。あれから何年経ったと思ってるの」
水城は、女を見た。
「……怖いの」
水城は言った。
「あの家に行って、何が起きるのか分からない。お姉ちゃんがいるのかどうかも。いたとして、何なのかも。あなたのことだって、まだ何も分かってないのに。この家で、あなたと話すようになって、眠れなくなった。これ以上、分からないものを増やしたら、私、たぶん、立っていられない」
「分からないから行かないって、ずっとそうじゃない」
女の声が、少し強くなった。
「子どもの頃は、お母さんが怒るから行かなかった。大人になったら、仕事が忙しいから。事故のあとは、怖いから。この部屋で、何回も聞いた。次は何?いつになったら行くの」
「……」
「お姉ちゃん、待ってるかもしれないんだよ。あの家で。ずっと」
水城は、何も言わなかった。
女の言葉を聞いている水城の顔から、表情が消えていった。痛いところに触れたのだろう、と透は思った。
女が並べた理由のうち、どこまでが二人に共通する昔の記憶で、どこからがこの部屋で聞いてきたことなのか、透には分からなかった。事故のあとは怖いから、というのは、ついさっき水城が自分で言ったことでもあった。
「私が行けたら、行ってる」
女が言った。声が、少し低くなった。
「でも、私は行けない。ここから、出られない。澪しか行けないの。だから、頼んでるんだよ」
透は、女を見た。
ソファの端に座った女は、窓の光を背にしていた。水城と同じ顔で、水城より少し若い顔で、水城とは違うものを、今いちばん大事にしている。
同じ過去を持つ二人の、どちらかが本物で、どちらかが写しだと言えば、片方の願いは消せる。けれど、透には、そう言える根拠がなかった。隣の水城が、生きている水城で、この家の住人だということは知っている。それでも、ソファの端の女を、水城の症状とも、水城の写しとも、呼ぶことができなかった。
「一つ、いいですか」
透は言った。女に向けて。
「僕は、今日、すぐにその家へ行くと約束することはできません」
女が、透を見た。
「その家がどこにあって、今どうなっているのか。誰が住んでいるのか、入れるのかどうか。水城さんのご家族は、何を知っているのか。僕は、まだ何も知りません。水城さんも、きっと全部は知らない。それを確かめてから、行くかどうか、いつ行くかを、水城さんが決めることになると思います」
「確かめてから」
女は、繰り返した。
「それ、また先延ばしにするってことじゃないの」
「違います」
透は言った。言ってから、自分の言葉が本当にそうなのかを考えた。
「……違うように、したいと思っています。何を確かめたら次に進めるのかを、先に決めます。確かめたら、次に進むかどうかを決めます。いつまでも確かめ続けるのではなく」
女は、黙って透を見ていた。
それから、水城を見た。
「澪は、それでいいの」
水城は、しばらく答えなかった。
「……今日は、そこまで決められない」
水城は言った。
「でも、調べることは、する。約束は、なかったことにはしない。それは、言える」
女は、ソファの背にもたれ直した。
「ふうん」
納得した声ではなかった。
「もう一つだけ、お伝えさせてください」
透は言った。
「僕がこれからするのは、調べることです。その家に行くことを、約束したわけではありません。行けるかどうかも、行った先で何があるかも、僕には約束できません」
女は、透を見て、少し首を傾けた。
「正直だね」
「そう言えることしか、言えないので」
「つまんない」
女はそう言って、窓の方へ顔を向けた。
---
「今日は、ここまでにします」
水城が言った。透を見て。
透は腕時計を見た。二時四十八分だった。
「分かりました」
透は手帳を閉じた。女の方へ小さく頭を下げ、「ありがとうございました」とだけ言った。それ以上は、何も言わなかった。
女は、消えはしなかった。ソファの端に座ったまま、窓の外を見ていた。
「……いつも、こうなんです。やめても、すぐにはいなくならない」
水城が言った。
「沢井さんの部屋でも、そうでした」
透は、水城を見た。
「このあとのことを少し相談したいんですが、場所を変えますか。廊下でも、玄関でも。ここで話したければ、ここでも構いません」
水城は、窓際を一度見て、それから立ち上がった。
「……廊下で」
二人は居間を出て、寝室の前の廊下に立った。居間の入口からは少し外れていて、窓際のソファは見えなかった。
水城は壁に背をつけ、小さく息を吐いた。
「次のこと、決めましょう」
透は手帳を開き直した。
「二つに分けたいと思います。一つは、この家のことです。水城さんが、ここで休めるようにすること」
透は言った。
「新しく細かい記録を取っていただくより、まず、今ある三冊を一緒に見て、もう分かっていることを整理したいです。いつ出てきて、どういう日に声が多かったのか。水城さんが、もう書いてくださっていることから」
「……はい」
「そのうえで、もし書き足すなら、眠れたかどうかと、その日しんどかったかどうかだけで十分です。一行で。書くために待ったり、話しかけたりはしないでください。書くのがつらくなったら、やめてください」
水城は、少しだけ笑った。
「四冊目は、薄くて済みそうですね」
「そうなってほしいです」
「もう一つは、子どもの頃の家のことです」
透は言った。
「どこにあって、今どうなっているのか。誰が持っていて、誰が住んでいるのか。ご家族に聞くかどうか、いつ聞くか、その家に入るかどうかは、水城さんが順番を決めてください。僕は、決まった順番に沿って手伝います」
水城は、しばらく黙っていた。
「母に聞くのは、最後にしたいです」
「分かりました」
「住所は、覚えています。今どうなっているかは、知りません。……親戚が住んでいたはずです。ずいぶん、行っていないので」
「では、最初は、その住所の家が今もあるかどうかを、外から確かめるところまでにしましょう。中に入ったり、どなたかに連絡したりはしません。それが分かったら、次をどうするか、また水城さんに決めてもらいます」
透は書いた。住所:水城さんが記憶。現況:不明。親戚が居住していた可能性。最初の確認:建物の現存のみ、外から。
「それと、今夜のことを、一つだけ」
透は手帳から顔を上げた。
「今夜、どう過ごしたいですか。ここにいても、どこか別のところでも」
水城は、寝室の扉を見た。
「……ここで寝ます。今夜は、もう返事をしません。起きてる、って言われても」
少し間があった。
「それで眠れなかったら、明日、連絡してもいいですか」
「はい。いつでも」
---
玄関で靴を履きながら、透は、廊下の先の居間を振り返った。
居間の入口から、窓際のソファの端が見えた。女は、まだそこに座っていた。
今度は、こちらを見ていた。
透と目が合っても、女は目を逸らさなかった。何も言わなかった。ただ、見ていた。水城と同じ顔で。水城とは違う目で。
「朝倉さん」
水城が、玄関の横に立っていた。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ。……水城さん」
「はい」
透は、何を言おうとしたのか、自分でもはっきりしなかった。
「今日、あの方と話しているとき、僕は、どちらと話しているのか、何度か分からなくなりました」
水城は、少し目を伏せた。
「私もです。自分の考えなのか、あの子の考えなのか、分からなくなることがあります。三年、ずっと」
それから、顔を上げた。
「でも、あの子は、お姉ちゃんに会いたがっている。私は、ここで眠りたい。それだけは、違うんです。今日、朝倉さんが来てくれて、初めてそれを言葉にできました」
透は頷いた。
「次のことは、水城さんから連絡をください」
「はい」
扉が閉まった。
廊下を歩きながら、透は手帳を開いた。今日の頁の最後に、一行書き足した。
同じ記憶。違う願い。
それから、その下に、もう一行。
あの人を、何と呼べばいいのか。
最初の部屋では、生きている本人は遠くにいて、会うことを拒んだ。今日は、本人と相手が、同じ部屋にいた。
症状という言葉でも、写しという言葉でも、死者という言葉でも、あの人を説明しきることはできなかった。
透はその一行の答えを書かなかった。書けなかった。
エレベーターを待つ間、透は、水城の部屋の窓がある方の壁を見た。見えるはずもない窓際の、ソファの端を。
あの家で、姉が待っているかもしれない、と女は言った。
それを確かめる手順を、透は今日、水城と一緒に決めた。確かめたら、次に進むかどうかを決める。いつまでも確かめ続けるのではなく。
自分で言ったその言葉が、ふと、自分の押し入れの奥の箱を思い出させた。
透はそれを今日はそのままにした。




