第七話
玄関の鍵を回す前に、澪は一度、息を整えた。
毎日のことだった。それでも、毎日、整える。
扉を開ける。靴を脱ぎ、廊下の明かりをつける。鞄を床に置き、コートを脱いでハンガーに掛ける。手を洗う。その間、居間の方を見ない。見ないようにしている、ということを、自分で分かっている。
洗面所の鏡に自分の顔が映った。二十七歳の少し疲れた顔。目の下に薄い影がある。澪は鏡から目を逸らし、タオルで手を拭いた。
冷蔵庫を開け、昨日の残りの煮物とご飯を温める。電子レンジの音が鳴るまでの間、台所に立ったまま、流しの縁に手をついていた。
レンジが鳴った。
皿を持って居間へ入るとき、澪は、窓際を見た。
見ないようにしていたのに、見た。いつもそうだった。
ソファの窓側の端に女が座っていた。
澪と同じ顔をしていた。
鏡で見たばかりの顔よりも、少し若い。頬の線が細く、目の下に影がない。髪は、今の澪より短い。三年前、あの頃の澪が、いつもしていた長さだった。
女は、澪が入ってくるのを見ていた。こちらを向いて、少し首を傾けて。
澪は皿をテーブルに置いた。音を立てないように置いたつもりが、箸が皿の縁に当たって、小さく鳴った。
「おかえり」
女が言った。
澪の声だった。澪が自分で聞く自分の声とは、少し違う。録音で聞くときの自分の声だった。
澪は答えなかった。
答えたい、と思った。今日あったことを話したい、と。朝倉という人に会って、自分の家のことを頼んだこと。まだ何も話していないこと。話す順番を自分で決めたいと言ったこと。それを聞いたら、この女は何と言うだろう。
答えれば、会話が始まる。始まれば、終わらない。
澪は椅子に座り、煮物に箸をつけた。味は、あまりしなかった。
「今日は、話さないの」
女が言った。責める口調ではなかった。ただ、確かめるように。この女は、いつもそうだった。こちらの顔を見て、思ったことを、そのまま聞く。
澪は、ご飯を口に運んだ。
視界の端で、女がまだこちらを見ているのが分かった。窓の外の、向かいのマンションの明かりが、女の輪郭のあたりで少しだけ滲んでいた。
食べ終えて、皿を流しに運んだ。洗い物をしながら、澪は居間に背を向けていた。水の音だけが聞こえた。
洗い終えて振り返ると、ソファの端には誰もいなかった。
澪は、ほっとした。
ほっとして、それから、胸のどこかが、すうっと冷えた。
いない。今日は、もう出てこないのかもしれない。
それが寂しいと思う自分を、澪は知っていた。三年のうちに、そう思うようになっていた。見たくない。いてほしくない。家に帰って、誰もいない部屋で、何も考えずに眠りたい。それなのに、いないと分かると、どこかで待っている。今夜はもう来ないのか、と。
澪は、そのことを誰にも話したことがなかった。
寝室の棚から、ノートを三冊取り出した。いちばん新しい三冊目は、もう表紙の角が擦り切れている。
朝倉に話す前に、自分で整理しておきたかった。何を見て、何をして、どうなったのか。何が分かっていて、何が分かっていないのか。
沢井の部屋で、朝倉がそうしていたように。
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ダイニングテーブルに三冊を並べ、一冊目の最初の頁を開いた。
一冊目の最初の日付は、三年前の、事故から二か月ほど経った日だった。
事故のことは、ノートには書いていない。何が起きて、どう助かったのかは、覚えている。覚えているから、書かなかった。あの日のことは、書かなくても消えない。
最初に書いてあるのは、こうだった。
夜、居間の窓際に人が座っているように見えた。明かりをつけたら、いなかった。疲れているのだと思う。
二週間後。
同じ場所。今度は、明かりをつけても、少しの間いた。女性。顔は見えなかった。
一か月後。
顔が見えた。私の顔だった。
その頁の字は、ほかの頁より乱れていた。澪はそれを指でなぞった。
あの頃、澪は、自分に何が起きているのかを、臨床心理士として考えた。事故の後の、強いストレス反応。睡眠の乱れ。解離。自分の顔を外に見るという体験が、どういう状態で起こりうるか。教科書に書いてあることは、だいたい知っていた。
知っていたから、当てはめようとした。睡眠を記録し、仕事の量を減らし、事故のことを思い出させるものを避けた。女は、それでも出てきた。当てはまる説明と、当てはまらない細部とが、ノートの頁の上で並んでいった。
これまで、女が澪の知らないことを言ったことはなかった。けれど、事故の前の出来事について、澪が誰にも言わずにきた評価を、平気で口にした。学生の頃のあの出来事を、本当はどう思っていたか。あの頃の職場で、本当は何が嫌だったか。同じ記憶を持っていて、それを、澪とは違う重さで扱っていた。
二冊目の途中から、日付の間隔が詰まっていた。
澪は、そこで手を止めた。
二冊目のある頁には、今年の初めの日付があった。
久世相談室、初回。
その下に、澪自身の字で、短く書いてある。
否定されなかった。
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久世修一という人の相談室を見つけたのは、自分で調べた結果だった。
同業者には、話せなかった。話せば、どう聞かれるかは分かっていた。自分が相手の立場なら、どう聞くかも。だから、臨床の外で、同じような体験を扱っている場所を探した。
雑居ビルの三階にある、窓の少ない小さな相談室だった。久世は、四十代の半ばくらいの、穏やかな話し方をする男だった。
久世は、澪の話を最後まで聞いた。一度も遮らず、眉ひとつ動かさなかった。
話し終えたとき、久世は言った。
「水城さんが見ているものが何なのかは、私にも分かりません。ただ、見ているということは、疑っていません」
澪は、そのとき、自分が泣きそうになっていることに気づいた。
事故のあと、誰にもそう言われたことがなかった。自分でも、自分にそう言えなかった。
久世は、澪の記録を一緒に整理してくれた。いつ、どこで、何を見たか。それをどう解釈したか。見たことと、解釈したことを、別の欄に分ける。それは、澪が仕事で相談者にしていることと同じだった。同じだったのに、自分のこととなると、できていなかった。
整理してみると、分かることがあった。女が出るのは、居間の窓際だけだった。家の外では、一度も見ていない。職場でも、通勤の電車でも。女が話すことは、澪が経験したことばかりだった。事故の前の、澪の生活。澪が知っていることを、女も知っていた。
あのとき、久世の相談室に通ってよかった、と澪は思った。
今も、その部分については、そう思っている。
ノートの頁をめくる。
三回目の相談のあと、久世は一つの方法を勧めた。
避けずに、話してみること。毎日、少しずつでいい。女が何を言うか、何を覚えているかを、記録すること。
「私自身も、そうしてきました」
久世はそう言った。自分も事故から生還し、配偶者を亡くしたこと。そのあと、自分にも同じようなことが起きたこと。話し続けることで、何かが分かったこと。詳しくは語らなかったが、その声には、嘘がないように聞こえた。
澪は、それを試した。
ノートの日付が、そこから毎日になっている。
女は、話しかけると答えた。最初は短く、やがて長く。澪が子どもの頃のこと。学生時代のこと。事故の前の年に好きだった店のこと。どれも、澪が覚えていることだった。
話すたびに、女ははっきりしていった。
最初は、窓際に座っているだけだった。やがて、立ち上がるようになった。澪が帰ってくると、こちらを見ているようになった。夜、眠ろうとすると、居間から声がするようになった。起きているの、と。
眠れない夜が増えた。仕事に行っても、帰ったら何を言われるかを考えていた。家が、休む場所ではなくなった。
澪は、ノートの一頁に、線を引いて二つの欄を作っていた。
左の欄:久世さんの助言を試し始めた時期。
右の欄:女がはっきりしてきた時期、声が夜にも聞こえるようになった時期。
二つの欄の日付は、重なっていた。
その下に、澪は自分で書いていた。
時期が重なっている。それは事実。
助言が原因かどうかは、分からない。話さなくても、同じように強くなっていたかもしれない。確かめる方法がない。
澪は、その二行を読み返した。
久世を疑いたくはなかった。事故のあと初めて、否定しないでくれた人だった。あの人がいなければ、澪は今も、自分の見ているものを自分で信じられずにいたかもしれない。
けれど、あの人の言うとおりにしてから、この家で眠れなくなった。
両方とも、本当だった。どちらかを消して、もう一方だけを残すことが、澪にはできなかった。
眠れなくなったことを、久世にはまだ、きちんと話せていなかった。次の相談の日を、澪は二度延ばしていた。話せば、あの人は真剣に聞いてくれるだろう。それが分かっているのに、延ばした。助けてくれた人の方法を疑っていると、口に出すのが怖かったのかもしれない。まだ、自分の中でも言葉になっていなかった。
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ノートを閉じかけて、澪は、三冊目の最後の方の頁を開いた。
そこには、日付がない。
女が、ある晩、言ったことを書き留めた頁だった。
お姉ちゃんのこと、覚えてる?
澪は、その字を見つめた。
覚えている。忘れたことは、一度もない。
澪が四歳から八歳まで住んでいた、前の家。古い木造の二階建てで、廊下が長く、階段の軋む家だった。その家で、澪は、年上の女の子と遊んでいた。
お姉ちゃん、と呼んでいた。
お姉ちゃんは、澪よりずっと大きかった。澪が縁側で積み木をしていると、隣に座って、次はどれを載せるかを教えてくれた。澪が積み、お姉ちゃんが、そこ、と指さす。澪が泣くと、手を伸ばして、頭のすぐ上で撫でる仕草をした。二階の奥の部屋で、澪が膝に広げた絵本を、お姉ちゃんが読んでくれた。頁をめくるのは、澪の役目だった。声を、今でも覚えている。少し低くて、ゆっくり話す声だった。
家族は、澪に姉はいない、と言った。
澪は一人っ子だった。戸籍の上でも、写真の上でも。母は、澪がお姉ちゃんの話をすると、困った顔をした。やがて、困った顔ではなく、怒った顔をするようになった。そんな子はいない。想像のお友達でしょう。もう大きいんだから、そういうことを言うのはやめなさい。
八歳の夏に、その家を離れて引っ越した。引っ越しの前の日、澪はお姉ちゃんに約束をした。
大きくなったら、迎えに来るね。
引っ越してから、澪はお姉ちゃんのことを口にしなくなった。母の顔を見るのが嫌だったから。そして、誰に話しても、同じことを言われるのが分かっていたから。
大人になってから、臨床心理士になってから、澪は「想像上の友達」について学んだ。子どもの発達の中で、珍しいことではない。多くは自然に消えていく。澪のお姉ちゃんも、それだったのかもしれない。そう考えようとしたこともあった。
けれど、澪の記憶の中のお姉ちゃんは、想像の友達と呼ぶには、細部がありすぎた。縁側の板の冷たさと一緒に思い出す、すぐ隣にいる気配。次の頁を待っている、あの声の間。澪が自分で作り出したものに、あんな重さがあるだろうか。
それも、子どもの記憶だから、後から形を整えてしまったのかもしれない。
分からなかった。分からないまま、二十年近く、誰にも話さずにきた。
女が、お姉ちゃんのことを口にしたのは、その晩が初めてだった。
女は、お姉ちゃんを覚えていた。澪と同じように。縁側の積み木も、絵本の声も、引っ越しの前の日の約束も。
誰にも証明できない記憶を、この家で、もう一人だけが共有していた。
澪は、その頁を閉じた。
お姉ちゃんと、窓際の女が、同じ種類のものなのかどうか。澪には分からなかった。お姉ちゃんは、澪と同じ顔ではなかった。窓際の女は、事故の後に現れた。お姉ちゃんは、澪が物心ついた頃から、あの家にいた。
似ているのは、どちらも、澪のほかに見た人がいると確かめられたことがない、ということだけだった。
それも、今はもう、確かではない。
沢井の部屋で、朝倉は人影を見ていた。澪には見えなかったものを。澪は、短い声を聞いただけだった。けれど、朝倉が扉枠の脇を見るときの目は、澪が窓際を見るときの目と、同じだった。
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澪は、ノートを三冊とも鞄に入れた。
全部を一度に話す必要はない。一つの説明に、全部を押し込む必要もない。
窓際の女のこと。事故と、そのあとのこと。久世の相談室のこと。試したことと、その結果。それを、分かっている順番に話す。
お姉ちゃんのことは、少しだけ。
今、この家で起きていることとは、別のことかもしれない。同じことかもしれない。どちらか分からないまま、全部を一つにまとめて話せば、朝倉はそれを一つの問題として扱うだろう。澪は、それが怖かった。お姉ちゃんを、窓際の女の説明の一部にされたくなかった。
だから、少しだけ。説明のつかない相手と過ごした時間が、子どもの頃にもあった、ということだけ。
澪は寝室へ行き、ベッドに入った。
居間の方から、声がした。
「起きてる?」
澪は目を閉じた。答えなかった。
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二日後の夕方、澪は、自分で選んだ喫茶店の奥の席に座っていた。
職場からも、家からも、少し離れた店だった。知っている人に会わない場所。窓がなく、照明が低い。話を聞かれにくい。
朝倉は、約束の五分前に来た。
「お待たせしました」
「いえ。私が早かっただけです」
朝倉は向かいに座り、手帳を出しかけて、止めた。
「メモを取ってもいいですか。取らない方がよければ、取りません」
澪は、少し考えた。
「取ってください。でも、私の家の住所と、職場の名前は書かないでください」
「分かりました」
朝倉は手帳を開き、日付だけを書いた。それから、澪の方を見た。何も聞かなかった。澪が話し始めるのを、待っていた。
澪は鞄から、ノートを一冊だけ出した。一冊目。
「三年前に、事故に遭いました」
そこから、話した。
死んでいてもおかしくなかったこと。助かったこと。二か月後から、居間の窓際に、自分と同じ顔の女が見えるようになったこと。
朝倉は、表情を変えずに聞いていた。けれど、澪が「自分と同じ顔」と言ったとき、ペンを持つ手が一瞬止まったのを、澪は見た。
自分で考えたこと、試したこと。久世の相談室で、否定されずに記録を整理してもらえたこと。それが今も役に立っていること。毎日話すように勧められて試したら、家で眠れなくなったこと。そのことを、久世にはまだうまく話せていないこと。
澪は一冊目を閉じ、二冊目を出して、二つの欄の頁を開き、朝倉の方へ向けた。
「時期は、重なっています。でも、それが原因かどうかは、分かりません。話さなくても、同じようになっていたかもしれない。私には、確かめようがありません」
朝倉は、その頁をしばらく見ていた。
「沢井さんの部屋でも、調べるほどはっきりしていきました。でも、それが原因かどうかは分かりません。僕にも確かめようがありませんでした」
澪は頷いた。
同じことを、同じように分からないと言う人がいる。それが、少しだけ、呼吸を楽にした。
「それから」
澪は、ノートを閉じた。
「これは、今の家のこととは関係があるかどうか分からないんですけど。子どもの頃にも、説明のつかない相手と過ごしたことがあります。前に住んでいた家で。家族には、そんな人はいないと言われました。今も、そう言われると思います」
朝倉は、ペンを置いた。
「その方のことも、調べてほしいということですか」
「今は、違います」
澪ははっきり言った。
「今、困っているのは、今の家のことです。家に帰って、休めないこと。子どもの頃のことは、いつか話すかもしれません。でも、今日は、あった、ということだけ伝えておきたかったんです。後から、実はこんなこともあった、と言うのは嫌だったので」
「分かりました」
朝倉はそれ以上、聞かなかった。
澪はそのことに少しほっとした。
---
「家に来ていただく前に、決めておきたいことがあります」
澪は言った。
朝倉は頷いた。
「最初は、今どうなっているかを見てもらうことにしたいんです。わざと出てこさせたり、何かを再現したり、昔のことを覚えているか試すような質問はしないでください。あの人が話しかけてきたら、短く答えてもらうのは構いません。どこまで話すかは、その場で私が決めます。短く。時間を決めて」
「はい」
「途中で、私がやめてと言ったら、やめてください」
「やめます」
「それから、次にまた来てもらうかどうかは、その日が終わってから、改めて決めさせてください。最初から続けて何回と決めるのは、嫌なので」
「分かりました」
朝倉は、手帳に書いていた。澪の言葉を、そのまま。
「録音は、どうしますか」
朝倉が尋ねた。
「最初は、しないでください」
澪は言った。
「必要だと思ったら、その場で相談してください。前に、記録を取るために毎日話していたことがあって。記録を残そうとすると、会話を切れなくなったんです。ずっと録っていたら、また同じになりそうで」
「分かりました。録音はしません。必要だと思ったら、先にご相談します」
朝倉は手帳から顔を上げた。
「一つだけ、先にお伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「僕は、沢井さんの部屋のものを、いなくすることはできませんでした。水城さんの家でも、たぶん、できません。できるかどうかも、分かりません。そういうことを約束できる人間ではないです」
「知っています」
澪はそれだけ言った。それ以上を言葉にすると、自分でもまだ整理できていないものまで出てしまいそうだった。
朝倉は、少しだけ澪を見て、それから手帳に目を落とした。
「日にちは、水城さんが決めてください」
「明後日の午後に。二時から、一時間」
「分かりました」
朝倉は日付を書き、手帳を閉じた。
店を出る前に、澪は言った。
「朝倉さん」
「はい」
「私の家にいるのは、私と同じ顔をしています。見たら、少し驚くかもしれません」
朝倉は、ほんの少し考えるような顔をした。
「驚くと思います。でも、それで帰ったりはしません」
澪は、小さく笑った。
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約束の日の朝、澪は、居間を片づけた。
散らかっていたわけではない。それでも、ソファのクッションを整え、テーブルの上の郵便物をまとめ、床を拭いた。窓を開けて、空気を入れ替えた。
窓際のソファの、窓側の端。そこだけは、触らなかった。
ダイニングテーブルの椅子を、二脚、向かい合わせに置いた。窓際が見える位置と、見えない位置。朝倉にどちらに座ってもらうかは、朝倉が来てから決めることにした。
お茶の用意をした。湯呑みを二つ。
それから、テーブルの端に、ノートを三冊、重ねて置いた。見せるかどうかは、その場で決める。でも、見せられるところに置いておく。
最後に、紙を一枚、ノートの上に置いた。
自分の字で、書いてあった。
やめるとき:私がやめてと言ったとき。
澪はその紙を見て、それから、窓際を見た。
誰もいなかった。
「今日、人が来るから」
澪は、誰もいないソファの端に向かって言った。
答えはなかった。
言ってから、澪は、自分が何をしたのかに気づいた。話しかけていた。自分から。
澪は、紙の一番下に、一行書き足した。
今日のことは、私が決める。
チャイムが鳴ったのは、二時の五分前だった。
澪は玄関へ行き、鍵を開けた。
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