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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第六話

管理会社からの返信は、翌日の午後に届いた。


添付されていたのは、火災の直後に管理会社が作成した事故報告書の写しだった。消防と警察から受けた説明を当時の担当者がまとめたものだという。閲覧は調査の目的に限ること、第三者への提供は控えることが、担当者のメールに書き添えられていた。


透は報告書を印刷し、机の上で読んだ。


出火の日時。出火の場所と原因については、調査中と書かれたまま、その後の追記はない。通報者は同じ階の住人。消防隊の到着時刻。


その下に救助の記載があった。


「居住者(妻)は、奥の居室付近で救助隊により救出。意識あり。病院へ搬送」


「居住者(夫)は、室内で発見。搬送先で死亡確認」


透は、二つの行を何度か読んだ。


夫が室内のどこで見つかったのかは、書かれていなかった。妻が救出された時刻も、救助隊がどこから入り、どこを通ったのかも。奥の居室付近、という一言だけが、真鍋のいた場所を示していた。


透は手帳を開き、分かることと分からないことを分けて書いた。


分かること:妻は奥の居室付近から救出された。意識があった。搬送され、生存している。

分からないこと:救出の時刻。救助の経路。救出されるまでの時間。中間室と廊下の扉の火災時の状態。夫の発見場所。


分からないことの答えは、空けたままにした。埋めようと思えば、推測で埋められる。奥の部屋から出るには中間室を通るしかなかった。廊下の扉は、その先にあった。けれど、それは図面から考えたことで、記録に書いてあることではない。


奥の居室付近。


真鍋は、奥の居室付近から助け出された。現実には、そうだった。


扉枠の脇に立つ相手は、閉めないで、と言う。閉めたら、奥が――と言いかけた。


記録に残っているのは、助かった人の記録だった。その余白に、別の何かが重なろうとしている気がした。透はその考えを手帳には書かなかった。書けるだけの根拠がなかった。


明日、沢井の部屋へ行く。前に住んでいた方に会ったことを伝え、これからどうするかを相談する。そのうえで、沢井が了承するなら、あの相手に一つだけ尋ねたい。


なぜ、止めるのか。


消すためではなかった。追い払うためでもない。透には、そういうことができるとは思えなかった。ただ、あの声が沢井に何を求めているのかを知らなければ、沢井がこれからどう暮らすかを一緒に考えることもできない。


---


居間のテーブルで、透は沢井に面会で分かったことを話した。


前に住んでいた方は、今も元気に暮らしていること。あの人影の顔の線が、その方の昔の写真に似ていること。二度目の訪問で聞いた「待合室」という呼び方と、椅子と猫の話を、その方が先に自分から話したこと。


「その方のお名前や、今のお暮らしのことは、お伝えできません。そういうお約束で、お話を伺いました」


沢井は、テーブルの上で指を組んでいた。


「じゃあ、あれは」


沢井は、廊下の方を見ずに言った。


「亡くなった人じゃないんですか」


「亡くなった方だという見立ては、説明がつかなくなりました。前に住んでいた、生きている方と同じことを覚えている。それは言えます。それが何なのかは、分かりません」


「生きてる人の、何なんですか。生霊とか、そういう」


「分かりません」


透は、同じ言葉を繰り返すしかなかった。


「ただ、その方は、あの部屋に来ることも、あれに会うことも望んでいません。ですから、その方に来てもらって何とかする、ということはできません」


沢井は、しばらく黙っていた。


「……私、ずっと、死んだ人があそこに閉じ込められてるって思ってて。出してほしいって言われてるんだって。だから怖かった」


「はい」


「生きてる人と同じ記憶があるって言われても、それはそれで、分かんない」


沢井は、少し笑った。笑ったというより、口元が引きつった。


「今日は、どうするんですか」


「沢井さんが了承してくださるなら、一つだけ尋ねたいことがあります。この前、途中で終わった問いです。扉を閉めると、どうなるのか。どうして止めるのか」


沢井の指に、力が入った。


「……それが分かったら、どうなるんですか」


「沢井さんがこれからどう暮らすかを考えるための材料になるかもしれません。ならないかもしれません。聞いても、あれがいなくなるとは思いません。それは、先にお伝えしておきます」


沢井は、居間の、寝室へ続く引き戸の方を見た。引き戸は半分開いていて、その向こうに、使われていないベッドが見えた。


「私は、ここにいてもいいですか。居間に」


「はい。廊下には来なくて大丈夫です」


「止めてって言ったら、止めてくれますね」


「止めます」


沢井は頷いた。


「じゃあ、聞いてください。私も、知りたい」


---


戸当たりを扉の下に差し込み、透は廊下の、扉口の前に立った。


居間の方から、沢井がダイニングの椅子に座る音がした。扉口から寝室の奥を抜けた先、半分開いた引き戸の向こうに、居間の明かりがわずかに見える。


透は図面を思い浮かべなかった。今日は、昔の形を確かめに来たのではない。


ただ、扉枠の脇を見た。


「いらっしゃいますか」


しばらくして、壁の白さが濁った。


輪郭が、そこに立った。横顔の線。耳の手前の髪の影。扉口から、中を向いている。


「この前は、途中で終わりにしました。住んでいる方が、あれ以上は続けられなかったので」


透は言った。


「今日は、あのとき聞きかけたことを、改めて聞かせてください。扉を閉めると、どうなるんですか。どうして、止めるんですか」


返事は、すぐには来なかった。


透は待った。問いを重ねなかった。


「閉めたら」


声が来た。前と同じ、少しかすれた低めの声。


「閉めたら、見えなくなる。廊下も、玄関も」


「見えなくなる」


「奥にいると、分からないの。何が起きてるのか。音だけ聞こえて。何かが割れる音と、誰かが呼んでる声と」


声は、ゆっくりだった。思い出しながら話しているのではなく、今そこにあるものを読み上げているように聞こえた。


「扉が閉まってた。待合室の向こうの、廊下の扉。開けようとしたら、熱くて。取っ手が」


透は手帳を開かなかった。ペンを持つことも、しなかった。


「隙間から、煙が来るの。下から。白くなかった。黒くて、重たくて、床を這ってくる。しゃがんで、窓の方へ行って。窓、開かなかった。開けたかもしれない。分からない。喉が」


声が途切れた。


透は、自分の喉に手をやりそうになるのをこらえた。見えているわけではない。煙の匂いがするわけでもない。ただ、耳の横で話している相手が、今それを言葉にしていることだけが分かった。


「呼んだの。誰か来てって。夫の名前も。でも、誰も来なかった。扉は開かなかった」


しばらく、何も聞こえなかった。


「それで、暗くなって」


声は、そこで止まった。続きはなかった。助け出された、という続きは、相手の話のどこにもなかった。


透は、報告書の一行を思い出していた。居住者(妻)は、奥の居室付近で救助隊により救出。意識あり。


真鍋は、救い出された。記録に、そう書いてある。あの日、喫茶店の窓際で、朝起きて仕事に行って帰ってくる暮らしを話していた。


けれど、扉枠の脇の相手は、誰も来なかった、と言った。


透は、それを打ち消す言葉を持たなかった。記録は記録で、この声はこの声だった。どちらかがどちらかを否定するのではなく、ただ別々に、そこにあった。


「……だから、止めるんですか」


透は、ようやく尋ねた。


「あの人が」


輪郭が、わずかに動いた。扉口の奥、寝室の奥の方へ、顔が向いたように見えた。


「あの人、奥で寝てたでしょう。閉めたら、同じになる。何かあっても、見えない。聞こえても、分からない。出ようとしたときには、もう」


「今、ここに住んでいる方のことですか」


「知ってる。私じゃないのは、知ってる」


声は、少し強くなった。


「知らない人。ここに来て、奥で寝て、毎晩閉めてた。あの人は知らないでしょう。ここがどうなるか」


透は、息を吐いた。


閉じ込められた人が、出してほしいと訴えていたのではなかった。


閉じ込められる人を、止めようとしていた。


初日、沢井が寝室の内側から扉を閉めたとき、待って、と言った。二度目、沢井が寝室の中から扉を引いたとき、閉めないで、と鋭く言った。いつも、相手は廊下の側にいた。中にいる人と、外とを隔てる扉の、外の側に。


「……沢井さんを、守ろうとしていたんですね」


返事はなかった。否定もしなかった。


けれど、その声で、沢井は寝室を失い、廊下を通るのが怖くなり、居間のソファで眠っている。善意だったのだとしても、沢井が怖かったことは変わらない。


---


「一つ、見ていただきたいものがあります。今の部屋は昔と違います。奥の部屋から別の出口があるんです」


透は居間の方へ声をかけた。


「沢井さん。寝室の中を通らせてもらっていいですか。奥から、居間の引き戸の方へ抜けます」


少し間があって、沢井の声が返ってきた。


「……どうぞ」


透は戸当たりをそのままに、扉口から寝室へ入った。狭い入口部分。かつて待合室だった床。角を過ぎて、奥へ。窓とベッド。


振り返ると、扉口の向こう、廊下の側に、輪郭が見えた。こちらを向いている。


透は、ベッドの脇を通り、居間側の壁の引き戸の前に立った。引き戸は半分開いている。透はそれを、手で最後まで開けた。


向こうに、居間があった。ダイニングの椅子に座った沢井が、こちらを見ていた。


透は引き戸をくぐり、居間へ出た。それから、もう一度寝室へ戻り、奥から扉口の方を振り返った。


「ここから、出られます。廊下の扉が閉まっていても、奥から居間へ抜けられる。居間には玄関へ出る廊下も、窓もあります」


扉口の向こうの輪郭は、しばらく動かなかった。


「……そっちから」


声が言った。


「そっちから、出られるの」


「はい。火事の後に、作られた戸です」


「……そこを通れるのは、見てた。あの人が、行ったり来たりするの」


声は、どこか途方に暮れたように聞こえた。


「でも、そっちから外に出られるって、考えたことなかった。奥から出るのは、いつも、ここからだったから。ここが閉まったら、もう出られないって」


透は何も言わなかった。


相手は、引き戸を人が通るのを見ていた。けれど、それを、廊下の扉が閉まっても奥から逃げられる道だとは、結びつけていなかった。今、透が奥から居間へ抜け、玄関へ続く廊下と窓を示して初めて、それが退路として見えたのかもしれない。


透は寝室を出て、廊下を通り、居間へ戻った。沢井は椅子に座ったまま、透を見上げた。


「分かったんですか。あれ」


「そちらから外に出られるとは、考えたことがなかったと言っていました」


「じゃあ」


沢井の顔に、何かが浮かびかけた。


「もう、止めないんですか」


「分かりません」


透は、正直に言った。


---


それから少しして、沢井は立ち上がった。


「すみません、上着取ってきます。ちょっと寒くて」


沢井は、透が開け放した引き戸から寝室へ入った。上着は、廊下側の扉の内側に付けたフックに掛けてあるらしかった。着替えるときに、いつもそこに掛けているのだろう。


透は居間の側から、それを見ていた。扉口の向こう、廊下の側の輪郭は、薄くなってはいたが、まだそこにあった。


沢井はフックからカーディガンを外した。袖が取っ手に引っかかり、沢井がそれを引き寄せると、扉が内側へわずかに動いた。戸当たりに当たって、小さな音を立てた。


「待って」


声がした。


沢井の手が止まった。沢井は、扉が動いたことに気づいて、袖を取っ手から外した。


「……ごめんなさい。引っかかって」


沢井は、カーディガンを抱えたまま、引き戸から居間へ戻ってきた。顔が白かった。


透は、寝室の奥越しに扉口を見た。輪郭は、そこにあった。こちらを向いていた。


「……そっちから、出られるんだった」


声が、小さく言った。独り言のようだった。


「分かってる。分かってるのに」


それきり、声は途切れた。輪郭は、壁の白さへ戻っていった。


扉は戸当たりに押さえられて、開いたままだった。


透は、今日ここへ来る前に、どこかで期待していたことに気づいた。理由が分かり、別の出口を示せば、相手は納得して止めなくなる。沢井は扉を閉めて眠れるようになる。


そうはならなかった。


---


居間に戻ると、沢井はカーディガンの前をかき合わせて座った。


「やっぱり、だめなんですね」


「さっきは、声が出ました。それは事実です」


透は言った。


「僕は、あれをいなくすることはできません。いなくなる方法があるのかどうかも、知りません。今日、理由が分かっても、止まらなかった。これから止まるかもしれないし、止まらないかもしれない。それを約束することは、できません」


沢井はうつむいた。


「じゃあ、私、どうすればいいんですか」


「それを、一緒に考えたいんです」


透は、手帳を閉じてテーブルの端に置いた。


「あれが何なのかを、これ以上調べなくても、決められることがあると思います」


沢井が顔を上げた。


「今日まで、声が聞こえたのは、沢井さんが寝室の扉を閉めたとき、閉めようとしたときでした。それから、僕が調べていたときです。沢井さんが扉を開けたまま、寝室を使わずに過ごしていた夜は、何も聞いていない。そう書いてくださいました」


「……はい」


「だから、まず、確かめるのをやめてください。僕も、ここでの調査はこれで終わりにします。扉を閉めてみる、あの場所を見に行く、そういうことはもうしない」


「それで、いいんですか。分からないこと、まだあるのに」


「あります。でも、それを調べ続けるのは、沢井さんがここで暮らすこととは別のことです」


透は、自分でそう言いながら、胸のどこかがわずかに痛むのを感じた。扉枠の脇の相手に、聞きたいことはまだあった。あの声が、誰も来なかった、と言ったあとのことも。


透はそれを、口にしなかった。


「そのうえで、どこで寝るか、どの扉をどうするかは、沢井さんが決めることです。居間で寝続けてもいい。寝室で、廊下の扉を開けたまま寝るのでもいい。廊下の明かりが気になるなら、明かりの方を変えることもできます。足元だけの灯りにするとか。しばらく、どこか別のところに泊まるのでもいい」


沢井は、しばらく黙っていた。


「……あれ、私を助けようとしてたんですよね」


「たぶん、そうです。沢井さんが同じ目に遭わないように、と言っていました」


「それなのに、私、怖がって、避けて。今度は、もう見に行かないって」


沢井の声が、少し震えた。


「なんか、ひどいことしてる気がする」


透は、少し間を置いた。


「あれが、沢井さんのためを思っていたとしても、沢井さんが毎晩怖い思いをしてきたことは、変わりません。助けようとしてくれた相手に感謝することと、その相手のために怖いのを我慢することは、別のことです」


沢井は、透を見た。


「沢井さんは、ここで暮らしている人です。あれのために、ここに住んでいるわけではありません」


沢井は、長い間、何も言わなかった。


それから、寝室の方を見た。引き戸の向こうの、使われていないベッドを。


「……今夜は、まだここで寝ます。でも、明日、寝室で寝てみます。廊下の扉は開けたまま。廊下の電気は消して、足元のだけにします。それで、だめだったら、また居間に戻ります」


「分かりました」


「一週間くらいして、どうだったか、聞いてもらえますか」


「はい。こちらから連絡します」


---


九日後、透は沢井に電話をかけた。


「寝室で、寝られてます」


沢井の声は、前よりも少し明るかった。


「毎晩じゃないけど。最初の二日は、扉の方が気になって、ほとんど眠れなくて。三日目に、居間に戻っちゃいました。でも、そのあとは、だいたい寝室で」


「声は、聞こえましたか」


「……一回だけ。夜中にトイレに行って、戻ってきたとき。扉、開けたままのつもりだったんですけど、寝ぼけて、手が当たったみたいで。少し動いただけなのに、待って、って」


「そのとき、どうされましたか」


「びっくりしたけど、扉を開け直して、寝ました。……寝られたんです、そのあと」


沢井は、少し黙った。


「怖くなくなったわけじゃないです。夜中に、扉の方を見ちゃうこともあります。でも、前みたいに、廊下を通るのが嫌で眠れない、っていうのは、なくなりました」


「ありがとうございます。教えてくださって」


「あれ、まだいるんですよね」


「たぶん、います」


「……そうですよね」


電話の向こうで、沢井が息を吐く音がした。


「でも、それでいいのかも。いてもいいから、私はここで寝る、っていうか。うまく言えないけど」


透は、電話を切ったあと、報告書の最後の欄を書いた。


対応:住人の居室使用の調整(寝室の廊下側扉は開放。廊下照明を足元灯へ変更。住人の判断による)。現象の意図的な確認・再現の中止。当社による現地調査の終了。

経過(住人の申告による):対応後九日間、概ね寝室で就寝。夜間、扉がわずかに動いた際に「待って」という声を一回聞いた(手が触れた可能性を本人が述べる。扉は閉まっていない)。生活上の負担は軽減。不安は残存。

現象の状況:継続していると考えられる。消失は確認していない。

今後:一定期間後に経過を確認。


「解決」とは、書かなかった。


書くことはできなかった。あの相手は、たぶん今も扉枠の脇にいる。誰も来なかった、と言った声のまま。


それでも、沢井は寝室で眠っている。


---


水城から連絡が来たのは、その電話よりずっと前、沢井の部屋を最後に訪ねた二日後だった。沢井が寝室で眠れるかどうかも、まだ分からない頃だった。


〈沢井さんから、朝倉さんに話を聞いてもいいと言われました。お時間をいただけますか。〉


待ち合わせたのは、沢井の住まいから二駅離れた駅の近くの、小さな喫茶店だった。水城は先に来ていて、窓際の席で紅茶を飲んでいた。


透は、話せることを話した。


前に住んでいた方が生きていること。あの姿が、その方の昔の姿に似ていて、同じ生活の記憶を持っているらしいこと。声が扉を止めていたのは、住人を閉じ込めないためだったらしいこと。別の出口を示すと理解したが、それでも扉が動く音には反応したこと。現地での調査は終え、これからどう部屋を使うかは沢井が決めたこと。


「消えたわけではありません」


透は言った。


「たぶん、今もいます。僕は、それをいなくすることはできませんでした。現地の調査を終えたときの記録にも、解決とは書いていません」


水城は、紅茶のカップを置いた。


「前に住んでいた方とは、どうなったんですか」


「会わない、とおっしゃいました。資料には協力していただけましたが、あの部屋に来ることも、あれに会うことも望まれませんでした」


「朝倉さんは、それでよかったと思いますか」


透は、少し考えた。


「分かりません。会っていただけたら、もっと分かったことがあったと思います。でも、それはあの方が決めることでした」


水城は、しばらく窓の外を見ていた。


「沢井さん、この前、電話で言ってました。朝倉さんは、消せるとは一回も言わなかったって。最後まで」


「言えなかっただけです」


「言えないことを、言わない人は、少ないんです」


水城は、そう言ってから、少し黙った。


カップに添えた指が、縁を一度なぞった。何かを言おうとして、言葉を探しているように、透には見えた。


「朝倉さん」


「はい」


「私の家にも、調べてほしいことがあるんです」


透は、水城を見た。


水城は、透の目を見返していた。落ち着いた顔だった。けれど、カップから離した手が、テーブルの上で指を組み、また解いた。


「沢井さんの部屋で、朝倉さんが途中でやめたところを見てから、考え始めました。そのあとのことは、沢井さんから少しずつ聞いていて。今日、消したとは言わないで終わりにしたっていう話を、朝倉さんから直接聞いて、それで、お願いしようって決めました」


「どんなことですか」


「……それは、改めてお話しさせてください。ここで話し始めると、うまくまとめられない気がして。話す順番を、自分で決めたいんです」


透は頷いた。


「分かりました。水城さんのご都合のいいときに、詳しく伺います」


「ありがとうございます」


水城は小さく頭を下げた。顔を上げたとき、少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。


店を出て、駅の方へ歩きながら、透は手帳を開いた。


新しい頁の一行目に、日付と、「水城さん住居の件相談」と書いた。その下は、空けたままにした。


水城が何を見ているのか、透はまだ知らない。沢井の部屋で、水城は幽霊の話を一度も遮らなかった。人影という言葉にも、眉ひとつ動かさなかった。


あれは信じていたからなのか、それとも。


透は手帳を閉じた。それは水城が話す順番を決めてから、聞けばいいことだった。

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