第五話
喫茶店は、駅から少し離れた通りの角にあった。
約束の十分前に着くと、窓際の二人掛けの席に女性が一人座っていた。テーブルの上に手帳と、半分ほど減ったグラスの水。膝の上の鞄の口から、書類の入った封筒がのぞいている。
透が入口で店内を見回すと、女性の方が先に軽く手を挙げた。
「朝倉さんですか」
「はい。真鍋さんでいらっしゃいますか」
「そうです。早く着いてしまって。どうぞ」
透は向かいの席に座り、名刺を差し出した。真鍋は両手で受け取り、社名と肩書きを確かめるように少し長く見てから、手帳の間に挟んだ。
「今日はお時間をいただいて、ありがとうございます。一時間ほどと伺っています」
「ええ。四時には戻らないといけなくて。すみません、こちらの都合で」
「いえ。こちらがお願いしたことですので」
店員が注文を取りに来た。真鍋はホットのカフェオレを頼み、透は同じものを頼んだ。
店員が去るまでの間、透は目の前の人を見ないようにしていた。見ないようにして、それでも見ていた。
四十代の前半くらいに見えた。髪は写真よりずっと長く、後ろで一つにまとめている。こめかみのあたりに白いものが少し混じっていた。目元に写真にはなかった細い線がある。頬の線は、写真と同じだった。けれど、写真の中の人が窓際で振り返っていたときの、張りつめたような若さは、そこにはなかった。
あの扉枠の脇の横顔は、今のこの人ではなく、写真の方に近い。
透はそれ以上、顔を見るのをやめた。鑑定をしに来たわけではない。
「最初に、今日お伺いしたいことを確認させてください」
透は手帳を開いた。
「管理会社からお伝えしているとおり、真鍋さんが以前お住まいだった部屋について、住宅調査をしています。今お住まいの方が、生活の上で困っていることがあって、その原因を調べています。当時の間取りや、部屋をどんなふうに使っていらしたかを伺えればと思っています」
「はい。そう聞いています」
「その過程で、今の住人の方の部屋で記録したものを、お見せしたいと思うことがあるかもしれません。そのときは、先にお見せしてよいかを伺います。見たくないと思われたら、そうおっしゃってください」
真鍋は少しだけ目を細めた。
「記録、ですか」
「はい。今の住人の方が、部屋で声のようなものを聞いたり、僕が人の姿のようなものを見たりしています。記録というのは、そのことについて僕が残したものです。具体的な中身は、先に部屋のお話を伺ってからご説明したいと思っています。先にお話しすると、真鍋さんの思い出し方に影響してしまうかもしれないので。その順番で、よろしいですか」
真鍋は、すぐには頷かなかった。グラスの水を一口飲み、それから言った。
「……声、ですか」
しばらく黙ってから、真鍋は頷いた。
「分かりました。その順番で。お話を聞いてから、見るかどうか決めます」
「それと、確認のために。いただいた写真の三枚目、窓際に立っていらっしゃるのが、真鍋さんご本人ですね」
「そうです。あの部屋の、居間の窓です。……ずいぶん前ですね」
真鍋は、自分の写真を思い出すように、少し笑った。
「あのとき、髪、短かったでしょう。今はもう、あんなふうに切る勇気がなくて」
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カフェオレが二つ運ばれてきた。真鍋はカップを両手で包み、少し冷ますように息をかけた。
「では、部屋のことを伺います。あの部屋に住んでいらした頃、それぞれの部屋を、どんなふうに使っていましたか。どこからでも、思い出す順番で構いません」
透は、そう言ってから口を閉じた。次の言葉を足したくなるのを抑えた。
真鍋はカップを置き、視線を少し上に向けた。
「玄関を入ると、まっすぐ廊下で。右にお風呂とトイレがあって、突き当たりが居間でした。居間は、夫とよくそこで。夕飯を食べて、テレビを見て。普通の居間です」
透は手帳に書いた。玄関。廊下。浴室、トイレ。突き当たりに居間。夫と夕食。
「廊下の左側に、寝室がありました。寝室っていうか、奥の部屋です。窓があって、ベッドを置いてた部屋。でも、そこに行くには、手前にもう一部屋あって」
真鍋は、テーブルの上に指で小さな四角を描いた。
「すごく狭いんです。部屋っていうほどでもない。不動産屋さんの図面だと、何も書いてなかった気がします。物置にしてる人もいるんじゃないかな。でもうちは、そこに椅子を置いてて」
透はペンを動かしながら、顔を上げなかった。
「私たち、そこを待合室って呼んでたんです」
ペン先が、紙の上で止まった。
透は止まったペンをそのまま動かした。待合室。真鍋の言葉として、そう書いた。
「待合室」
透は、相手の言葉を繰り返しただけにした。
「ええ。変な名前でしょう」
真鍋は、少し照れたように笑った。
「夫が、出かける前の支度がすごく遅い人で。奥の部屋で着替えて、鏡を見て、また着替えて。私は先に支度が終わっちゃうから、その手前の部屋で待ってたんです。最初は立って待ってたんだけど、あんまり長いから、椅子を一つ置いて。それで、夫が、そこは待合室だね、って。病院みたいでしょう。お待ちのお客様、ってふざけて」
真鍋の声は、話しながら少し柔らかくなっていた。
「それから、なんとなく二人ともそう呼ぶようになって。待合室の電気つけといて、とか。待合室に鍵置いたよ、とか」
「その椅子は、どんなふうに置いていましたか」
透は、自分の声が平らに出ていることを確かめながら尋ねた。
「入口の方に向けてました。廊下の方」
「入口の方に」
「普通は、奥の方に向けますよね。待ってる相手は奥にいるんだから。でも、うち、猫がいたんです」
真鍋は、カップの縁を指でなぞった。
「猫が、廊下の方から来るんです。私がそこに座ってると、どこにいても来て、膝に乗りに。入口の方を向いてないと、後ろから飛び乗られてびっくりするから。だから、いつの間にか、入口に向けて座るようになって。そっちを向いて待ってると、廊下の奥から歩いてくるのが見えるんです。それが好きで」
透は書いた。椅子。入口(廊下側)向き。猫が廊下から膝に乗りに来る。そちらを向いて待つ。
書き終えても、顔を上げられなかった。
手帳の、二度目の訪問の頁。その日付の下に、自分の字で同じことが書いてある。廊下から来るの。膝に乗りに。だから、そっちに向けて座ってた。
あのとき、扉枠の脇に立っていた相手が、当たり前のことを聞かれたような声で、「猫」と言った。
今、目の前の人が、同じことを、同じように当たり前のこととして話している。温かい声で。
「すみません、猫の話なんて、関係ないですよね」
「いいえ」
透は顔を上げた。
「関係あるかどうかは、まだ分かりません。でも、伺えてよかったです。続けていただけますか。ほかに、部屋の使い方で覚えていることはありますか」
真鍋は、奥の部屋の本棚のこと、居間の窓際に置いていた観葉植物のこと、冬に廊下が冷えたことを話した。どれも短く、懐かしむような調子だった。透はそれを一つずつ書き留めた。
火災のことは、真鍋の話にも、透の問いにも、出てこなかった。
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話が一区切りついたところで、透はペンを置いた。
「ありがとうございます。それで、さっき申し上げた記録のことなんですが」
真鍋の表情が、少し硬くなった。
「先ほど申し上げたご相談のことです。今の住人の方が、寝室の扉を閉めようとすると、声が聞こえる、とおっしゃっています。僕も、その場で聞きました。それから、人の姿のようなものを見ました。廊下の、寝室の入口の脇です」
真鍋は黙って聞いていた。カップに添えた手が、動かなかった。
「その人の姿のようなものが、話したことがあります。そのとき僕が書き留めたものを、お見せしてもいいでしょうか。真鍋さんにお会いする前に書いたものです」
真鍋は、しばらく透の顔を見ていた。
「……見せてください」
透は鞄から封筒を出した。二度目の訪問の日の記録の印刷と、昨夜作っておいた提示用の写しが入っている。写しでは、今の住人の名前と、その日の住人の様子を書いた行を黒く塗りつぶしてあった。残っているのは、日付と署名、そして透が聴き取った言葉の要旨だけだった。
透は写しを真鍋に向けて置いた。
真鍋はそれを読んだ。
読み始めてすぐ、真鍋の目が一か所で止まったのが分かった。それから、ゆっくり下へ進んだ。入口に向けて。廊下から膝に乗りに来る。猫。
真鍋は紙から目を上げなかった。
「これ、いつ」
「日付のとおりです。管理会社からは、真鍋さんには、間取りと部屋の使い方を伺いたいとだけお伝えしてもらっています。真鍋さんがお話しになる前には、僕からもこの言葉は出していません」
「知ってます。私が先に言ったんだから」
真鍋の声が、少しかすれた。
「私が先に、待合室って言った。朝倉さん、何も言わなかった」
「はい」
真鍋は紙を両手で持ち、もう一度最初から読んだ。それから、テーブルの上に戻した。紙の端が、少しだけ震えていた。
「それから、撮影した記録があります。今の住人の方の了承をいただいて、姿が見えた場所をカメラで撮りました。はっきりとは写っていません。顔の一部の線だけです。見るかどうかは、真鍋さんが決めてください。見なくても、構いません」
真鍋はしばらく答えなかった。窓の外を、自転車が一台通り過ぎた。
「……見ます」
透はタブレットを取り出し、切り出した静止画の一枚を表示して、真鍋の方へ向けた。何も補っていない、揺らぎを含んだ横顔の線。
真鍋は画面を見た。
長い時間だった。
「似てますね」
真鍋は言った。
「私に。昔の、私に」
それ以上は言わなかった。自分だ、とは言わなかった。
透は、何を言うべきかを考えた。言えることと、言えないことを分けた。
「僕に言えることは、いくつかの点が重なっている、ということだけです。記録に残った顔の線が、いただいた写真の真鍋さんに似ていること。資料にない、待合室という呼び方と、椅子の向きの理由が、真鍋さんのお話と一致したこと。それが、あの部屋で起きていること。それが何なのか、なぜなのかは、分かりません」
「亡くなったのは、夫です」
真鍋が言った。透を見て、はっきりと。
「あの部屋で死んだのは、夫なんです。私じゃない。私は、助かったんです」
「はい」
「私、生きてますよね」
冗談のような言い方だった。けれど、笑ってはいなかった。
「生きていらっしゃいます」
透は答えた。
真鍋はタブレットから目を逸らし、窓の外を見た。
「それ、その……そこにいるのは、何をしてるんですか。扉を閉めると、どうなるんですか」
「閉めようとすると、止めるんです。待って、とか、閉めないで、と」
真鍋の手が、カップの取っ手にかかったまま止まった。
真鍋は目を閉じた。しばらくそのままでいて、それから開けた。その間に何を考えていたのかは、透には分からなかった。
「……ごめんなさい。それ以上は、聞きたくないです」
「分かりました」
透はタブレットを伏せ、鞄にしまった。
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カフェオレは、二人ともほとんど残っていた。
真鍋は、窓の外の通りを見たまま、しばらく黙っていた。透も黙っていた。
「朝倉さん」
「はい」
「朝倉さんは、それに、私に会ってほしいんですか」
透は答えを探した。
本人がそこに立てば、何かが分かるかもしれない。扉枠の脇の相手は、待合室で猫を待っていた人と同じことを覚えている。その人が、その人自身に会ったら、何が起きるのか。知りたくないと言えば、嘘になる。
「……正直に言えば、会っていただけたら、何か分かるかもしれないと思っています」
透はそう言った。
「でも、それは僕の都合です。真鍋さんが会わなければならない理由にはなりません。今日は、これからどこまでご協力いただけるかを伺えれば、それで十分です」
真鍋は、ゆっくり首を振った。
「資料のことなら、答えます。写真も、ほかにあれば探します。部屋のことで聞きたいことがあったら、管理会社さん経由で連絡してください」
そこで、言葉を切った。
「でも、あの部屋には行きません。それに、会いません」
「はい」
「その人が、火事のときに何を見たのかも、聞きたくない。私が見なかったものを、その人が見てたのかもしれないって、今、ちょっと思いました。思ったけど、それを確かめたくないんです」
真鍋は透を見た。
「忘れたわけじゃないんです。夫のことも、あの部屋のことも。忘れられるわけがない。待合室のことだって、今日、話しながら、全部思い出してました。でも、私、あのあと何年もかかって、やっと今の暮らしになったんです。朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、ご飯を食べて、寝る。それが、やっとできるようになった」
真鍋の声は静かだった。
「そこに、あれを入れたくない。あれが私に似てても、私と同じことを覚えてても。私は、こっちで生きていきたいんです」
透は、頷いた。
理解した、とは言えなかった。
自分と同じ顔をして、自分と同じことを覚えているものが、どこかにいる。それを知って、会わずにいられるだろうか。透は、自分なら、と考えかけた。自分なら、たぶん、会いに行く。行かずにはいられない。十年間、開けていない箱が押し入れの奥にあるのに、それでも、と。
その違いが、何なのかは分からなかった。分からないまま、透は説得の言葉を探すのをやめた。
「分かりました。お会いいただくことは、お願いしません。資料のことでお尋ねするときは、管理会社を通します。今日お見せした記録のことも、真鍋さんのお話も、調査の記録として扱います。今の住人の方にお伝えする範囲は、真鍋さんのお名前や今のお暮らしが分からないようにします」
「ありがとうございます」
真鍋は腕時計を見た。四時まで、十五分ほどあった。
「すみません、そろそろ」
「はい。今日は、本当にありがとうございました」
真鍋は鞄を持って立ち上がった。それから、少し迷うように、テーブルの端に手を置いた。
「その人」
透を見ずに言った。
「今、住んでる方を困らせてるんですよね」
「困っていらっしゃいます。怖がっています」
「……そうですか」
真鍋はそれだけ言い、会計の伝票を取ろうとした。透が先に取った。真鍋は小さく頭を下げ、店を出ていった。
ガラス越しに、真鍋が通りを渡っていくのが見えた。一度も振り返らなかった。角を曲がると、見えなくなった。
透は追わなかった。冷めたカフェオレを前に、しばらく座っていた。
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会社に戻ると、透は記録の様式を開いた。
調査項目の欄に、「現象の対象者(死亡者)の身元」とある。これまでの案件で、何度も使ってきた欄だった。記録にある死者の名前を書き、見立ての根拠を書き、確認できなければ「未確認」と書く。
透は、その欄の前でしばらく手を止めた。
この部屋で亡くなったのは夫だ。待合室という呼び名も、猫のことも、夫は知っていただろう。けれど、あの相手は、自分が椅子に座り、猫を膝に迎えていたように話した。顔の線は妻の写真に似て、声も女性に聞こえた。亡くなった夫だという見立てでは、説明しにくい。
透は欄の項目名を消した。書き直す。「現象に対応する人物」。
その下に、根拠を書いた。
一、撮影記録の静止画に残った顔の線(頬、顎先、髪)が、元居住者(妻・生存)の火災約二年前の写真に類似。目鼻は判別不能。類似は朝倉の比較による。
二、二度目の訪問時に朝倉が聴取した「待合室」の呼称が、元居住者が面会で先に自ら述べた呼称と一致。椅子の向きと猫の理由も、内容として一致(聴取記録は要旨)。聴取の記録は面会前に保存済み。面会で朝倉は当該語を先に用いていない。
三、声の印象(女性)。朝倉と住人がそれぞれ聴取。印象であり、確度は低い。
未確認の欄を書いた。
現象と元居住者との関係の性質。元居住者本人が現象を知覚できるか(本人は確認を希望せず)。火災当時の状況との関係。住人の閉扉を止める理由。
最後に、仮説の欄を書いた。
現象は、元居住者と同じ、火災以前の生活の記憶を持っているとみられる。死亡者(夫)との対応という従来の見立てを保留し、生存している元居住者(妻)との対応を優先して調べる。
書いてから、透はその一行をしばらく見ていた。
同じ記憶を持っている。けれど、本人は生きている。朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、ご飯を食べて、寝る。その人が、今日、喫茶店の窓際に座っていた。
では、扉枠の脇に立っているのは、何なのか。
透は、その問いを仮説の欄には書かなかった。書けるだけの材料がなかった。これまで見てきた「死者」の全部が、実は何だったのか。そこまで考えかけて、やめた。今考えるべきなのは、あの部屋のことだった。
沢井は、まだあの部屋で、居間のソファで眠っている。
あそこに立っているものが誰に似ているのかは、見えてきた。けれど、なぜ沢井が扉を閉めるのを止めるのか。閉めたら、奥が――。あの言葉の続きは、まだ分からない。
透は管理会社への依頼を書いた。
火災当時の消防の記録について、当社が閲覧できる範囲で、救出時の状況の記載を確認したいこと。元居住者本人には、火災の詳細について質問しないこと。
真鍋が断ったのは、あの部屋に行くことと、あの相手が火災で何を見たのかを聞くことだった。確かめたいのは、実際に真鍋がどこから救い出されたのか、あの部屋の退路がどうなっていたのか。沢井の扉を止める声の意味を考えるのに、必要なことだけだ。真鍋本人に火災のことを尋ねはしない。あの相手が何かを語ることがあっても、それを真鍋のもとへ持ち帰りはしない。
送信してから、沢井にメッセージを書いた。
〈前に住んでいた方にお会いしました。分かったことと、分からなかったことがあります。一度お伺いしてご説明し、そのうえで、これからどうするかを沢井さんと相談させてください。ご都合のよい日を教えてください。〉
しばらくして、返信が来た。
〈明後日の夕方なら。〉
〈ありがとうございます。伺います。〉
透は手帳の、初日に描いた二欄の頁を開いた。右の「火災前」の欄。小さな部屋の真ん中の椅子の印。その横の「待合室」の文字。
透は、その横に小さく書き足した。「元居住者の呼称と一致」。
それから、左の「現在」の欄の、扉枠の脇の印を見た。
あそこに立っているものは、待合室で猫を待っていた人と、同じことを覚えている。そして、閉めないで、と言う。
透は、次に確かめるべきことを、一行だけ書いた。
なぜ、止めるのか。
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