第四話
撮影を提案する前に、透は沢井に新しく分かったことを二つ伝えた。
管理会社で把握している範囲では、この住戸にも建物にも、火災以外の死亡の記録は見つからなかったこと。前に住んでいた方が、住んでいた頃の写真を提供してくれる見込みになったこと。
「写真は、まだ届いていません。届いたら、僕が見たものと比べたいと思っています。ただ、僕が見たと言うだけでは、比べようがありません。それで、お願いがあります」
透は居間のテーブルに小さな三脚と、手のひらほどのカメラを置いた。
「前に人影が出た場所に、これを向けて置かせてください。時間は長くても十五分。扉は閉めません。沢井さんは居間にいてください」
沢井は、カメラを見ていた。触れようとはしなかった。
「……写るんですか」
「分かりません。何も写らないことの方が多いと思います。写らなかったら、写らなかったという記録になります」
「撮ったのは、誰が見るんですか」
「僕が会社の記録として保存します。見るのは僕と、必要があれば上司だけです。管理会社や、前に住んでいた方に見せる場合は、先に沢井さんに相談します。沢井さんが見たいときは、いつでもお見せします。消してほしいと言われたら、消します」
沢井は、水城がいないことを確かめるように、隣の空いた椅子を見た。今日は仕事で来られない、と昨日の連絡にあった。
「この前、途中で止めたじゃないですか」
「はい」
「あれで、なかったことになったりはしないんですか。今日またやったら、この前の続きみたいになるとか」
「この前の調査は、あの日で終えています。今日やるかどうかは、今日、沢井さんが決めることです。やらないと決めても、写真との比較はできる範囲でやります」
透は少し迷ってから、付け加えた。
「ただ、あの人の側で、それが続きになるのかどうかは、僕にも分かりません」
沢井はしばらく黙っていた。
「何が写ってたら、いいんだろう」
独り言のようだった。
「何も写ってなかったら、ほっとすると思う。でも、それじゃ何も分からないままで。写ってたら、分かるかもしれないけど、写ってるってことは、本当にいるってことで」
透は何も言わなかった。どちらを勧めることもできなかった。
「……やります。十五分だけ」
沢井は顔を上げた。
「朝倉さん、私がやめてって言ったら、カメラも止めてください。撮り続けないで」
「分かりました。やめてと言われたら、その場で録画を止めて、僕も離れます。それから、今日は何も聞きません。この前のように問いかけることもしません。撮るだけです」
沢井は頷いた。
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三脚は廊下の玄関寄りに立てた。レンズを寝室の扉口とその脇の扉枠へ向ける。一度目も二度目も三度目も、相手はそこに立っていた。
画面には扉枠、白い壁、開いたままの扉、戸当たりが収まっている。扉口の奥に、狭い床が少しだけ見える。
録画を始め、時刻を声に出して記録に残した。
「十五時四十分、録画開始。撮影者、朝倉。住人の沢井さんは居間」
透はカメラの横、画角に入らない位置に立った。沢井は居間のダイニングテーブルの椅子に座り、廊下の方へ背を向けていた。見ないと決めたのだろう。
透は扉口を見た。
前回、前々回と同じように、竣工時の図面を思い浮かべる。角の壁。奥へ抜ける扉。狭い床の真ん中の、入口を向いた椅子。
今日は、それ以上を思い浮かべないようにした。問いかけもしない。ただ、これまでの位置を確かめるだけにする。そう決めていた。
五分が過ぎた。何も起きなかった。
八分が過ぎたところで、透は、自分が扉枠の脇を瞬きも惜しむように見つめていることに気づいた。位置を確かめるための観察が、いつのまにか、待つことに変わっていた。出てきてほしいと思っているのか、と自分に問いかけた。答えは出なかった。
十分を過ぎた頃だった。
扉枠の脇の白い壁が、わずかに濁った。
輪郭が、そこにあった。これまでと同じ高さ、同じ向き。扉口から中を向いている。
けれど今日は、肩の線の上に、顔の線が見えた。
横顔だった。こめかみから頬へ下りる線。耳の手前にかかる髪の、束のような影。顎の先。目鼻は、まだ焦点が合わない。それでも、そこに一人の人の顔の形があることは分かった。
透は息を止めていた。
相手は、透の方を見なかった。中の、狭い床の方を向いたままだった。何かを待っているようにも、ただ立っているようにも見えた。
顔がここまで見えたのは初めてだった。調べるたびに、少しずつ、はっきりしてくる。初日は一瞬の影で、二日目は肩の線で、今日は横顔だった。
それが自分の目が慣れたせいなのか、相手の方が近づいているのか、透には分からなかった。分からないことが、怖かった。
カメラの液晶に目を落とした。
画面の中の扉枠の脇に、何かがあった。人の形とは言い切れない。壁の白さの中の、光の偏りのようなものが、揺らいでは薄れ、また現れる。液晶の小ささでは、それ以上は分からなかった。
透は画面から目を上げた。輪郭はまだそこにあった。
もう少し待てば、正面を向くかもしれない。目鼻まで見えるかもしれない。扉を一度、少しだけ動かせば――
透はその考えを、途中で捨てた。扉は動かさない。今日は撮るだけだと、沢井と決めた。
腕時計を見る。十四分。
透は、あと一分を待ってから、録画停止のボタンを押した。
「十五時五十五分、録画終了」
声に出して言うと、輪郭が、ほんの少し、扉口の方へ傾いたように見えた。それから、壁の白さへ戻っていった。
透は三脚を畳んだ。居間の沢井は、背を向けたまま動かなかった。
「終わりました」
沢井が振り向いた。
「……何か、いましたか」
「いました。十分を過ぎたあたりから、少しの間。カメラに何が残ったかは、まだ分かりません。会社で確かめます」
「今、見ないんですか」
「ここでは見ません。小さな画面で見ても、よく分からないと思います。確かめて、何が分かったか、何が分からなかったかを、改めてお伝えします。沢井さんが見たいと言うなら、そのときにお見せします」
沢井は透の持つカメラを見て、それから目を逸らした。
「……分かりました」
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会社に戻ると、透はまずカメラの元のファイルを、手を加えずに二か所へ保存した。
それから、複製の一つを再生した。
十五時四十分。扉枠と白い壁と開いた扉。何も動かない。透は早送りをせず、そのまま見た。
録画開始から十分を過ぎたところで、画面の右寄り、扉枠の脇の壁が、ほんのわずかに明るさを変えた。
透は一時停止し、一コマずつ進めた。
光の偏りが、壁の上に立ち上がる。人の背丈ほどの縦長の範囲。途切れる。現れる。途切れる。大半のコマでは、それは形を持たない揺らぎでしかなかった。現場で見た輪郭と、同じものとは言えない。
けれど、いくつかのコマで、揺らぎが線を持っていた。
透はそのコマを、手を加えずに静止画として切り出した。明るさも輪郭も補わない。見えないものを、機械に描き足させたくなかった。
残ったのは、四枚だった。
四枚とも、横顔に近い角度だった。額から鼻にかけては、壁の白さに溶けている。はっきりしているのは、こめかみから頬、顎の先へ続く線。耳の手前に落ちる髪の影。首の傾き。現場で見たものと、大きくは違わない。
人の顔だ、と透は思った。それ以上は、まだ言えなかった。
受信箱に、管理会社からのメールが届いていた。添付ファイルが三つある。本文には、元居住者の真鍋様から預かった写真を、ご本人の了承のもと転送する、とあった。
透は添付を開いた。
一枚目は、居間だった。今の沢井の居間と同じ窓の形。違う色のカーテン、違うテーブル。テーブルを挟んで、二人の人が座っている。短く刈った髪の、眼鏡をかけた男性と、肩の少し上で髪を切りそろえた女性。二人ともカメラの方を向いて笑っていた。
メールの本文に、写真ごとの説明があった。ご本人の言葉をそのまま書き写したものだという。
「一枚目:居間で。向かって左が夫、右が私です」
二枚目は、男性が一人で台所に立っている写真だった。「二枚目:夫。台所で」。三枚目は、女性が一人、窓辺で振り返っている写真だった。顔は斜めに、カメラの方を向いている。「三枚目:私。同じ部屋の窓際で」。
透は、三枚目の写真と、切り出した静止画の一枚とを、画面に並べた。
並べる前に手帳を開き、比較する点を書き留めておいた。比較するのは、静止画で線が確認できる部分だけ。こめかみから頬の線、顎の先、耳の手前の髪、首の傾き。目鼻は比較しない。静止画に写っていないから。
それから、並べた。
頬の線は、似ていた。顎の先の、少し細くなる形も。耳の手前にかかる髪の長さと、落ち方も。
透は一枚目の写真の男性とも並べた。顎の線が違う。頬から顎へ下りる角度も違う。髪の長さも違うが、髪は切れば変わる。
透は、手帳に二つの欄を作った。
似ている点:頬の線。顎先の形。髪の長さと、耳の手前への落ち方。首の細さ。
判別できない点:目、鼻、口。額。表情。眼鏡の有無(静止画の画質では判断できない)。静止画の輪郭は揺らぎを含み、線の位置を確定できない。撮影角度が一致しない。
その下に、一行書いた。
静止画の人物は、死亡した夫よりも、生存している妻の、当時の写真に近い。
書いてから、透はしばらくペンを置いたままでいた。
似ている、というのは証明ではない。こちらが似ていてほしいと思って見れば、揺らぎの中にいくらでも線は拾える。二度目の訪問で聞いた声が女性に聞こえたから、女性の写真の方へ目が寄っているだけかもしれない。
透は、静止画を一度閉じ、三枚の写真も閉じた。数分待ってから、今度は一枚目の、二人が並んだ写真と静止画を並べて、最初から見直した。夫の方から先に比べた。それから妻を。
透の目に映る印象は、変わらなかった。同じ目で見直しただけだということも、分かっていた。顔の線だけでは、ここから先へは進めない。
透は椅子の背にもたれた。
これまで、見えたものは死者だと考えてきた。その場所で亡くなった誰か。記録に名前があれば、その人だろうと見立てた。見立てが立たなければ、未確認の欄に入れた。
この部屋で亡くなったのは、夫だ。
写真の中の妻は、窓際で振り返って笑っている。その人は、火災から救出された。今も、どこかで暮らしている。管理会社を通して写真を送ってくれた。前向きに会うことを考えてくれている。
あの扉枠の脇に立っていたのは、その人の顔に似ていた。
幽霊に顔があることは、怖くなかった。子どもの頃から、見えるものには顔があった。怖いのは、もしそうなら、その顔の持ち主が、今もどこかで朝起きて、食事をして、写真を選んで送ってくれる人だということだった。似ている、というだけだ。そう言い聞かせても、その考えは頭から離れなかった。
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翌朝、透は管理会社の担当者に電話をかけた。
確かめたいことは三つあった。写真を誰が提供したのか。いつ、どこで撮られたものか。写っている人物の名前は、誰が、どう確認したのか。
「真鍋様ご本人から、メールでいただいたものです」
担当者はそう答えた。
「写真の説明も、ご本人が書かれたものをそのまま転記しています。撮影の時期は、火災の二年ほど前と伺っています。あの部屋で撮ったものだそうです」
「写っている方のお名前は、ご本人の説明以外に確認されていますか」
「いえ、それ以上は。こちらで顔を照合するようなことはしていません。ただ、当時の入居の書類で、ご夫婦のお名前とご年齢は分かっています。写真の方と、年齢の印象は合っていると思います」
透は礼を言い、メモを取った。写真の提供者は本人。説明は本人の言葉。撮影は火災の約二年前、当該住戸。人物の確認は本人の説明による。
それ以上は、調べようと思えば調べられるのかもしれなかった。けれど、本人が了承したのは、写真を渡すところまでだ。本人の知らないところで、今の住まいや暮らしを探るのは、この仕事の範囲ではなかった。
「それと、面会の件なんですが」
担当者の声が、少し明るくなった。
「真鍋様から、日程のご連絡がありました。明後日の午後なら、ご自宅の近くの喫茶店でお会いできるそうです。お仕事の合間なので、一時間くらいでとのことでした」
明後日の午後。自宅の近く。お仕事の合間。
透はその言葉を、そのまま手帳に書いた。消えた人でも、謎の人物でもない。仕事があり、自宅があり、一時間という時間の区切りを自分で決める人だった。
「承知しました。その日時で、お願いします。それと、一つ確認させてください。面会をお願いしたとき、真鍋さんには、どこまでお伝えしていますか」
「今お住まいの方がお困りのことがあって、当時の間取りや部屋の使い方を伺いたい、ということだけです。それ以上のことは、こちらも存じ上げませんので」
「ありがとうございます。当日まで、それ以上のことはお伝えにならないでください。こちらから、直接ご説明します」
電話を切ってから、透は沢井に短いメッセージを送った。
〈昨日の記録を確認しました。前に住んでいた方から写真をいただき、比べています。まだ何も断定できる段階ではありません。明後日、前に住んでいた方にお会いします。そのあと、分かったことと分からなかったことをお伝えします。
一つご相談です。その方が望まれた場合、昨日撮った記録をお見せしてもよいでしょうか。沢井さんのお名前や今の暮らしについては、お話ししません。〉
送ってから、透は画面を見た。何が写っていたのか、とは書かなかった。今、それを沢井に伝えれば、沢井はあの扉枠の脇に、名前と顔を持った誰かを置くことになる。そして、その人は生きている。確かめる前に、それを沢井の家に持ち込みたくなかった。
返信はすぐに来た。
〈分かりました。待ってます。
見せるのは、大丈夫です。私のことは言わないでください。〉
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翌日の夕方、透は会社の机で、二日目の記録を開いた。
住人の居間で書き直した頁と、現場の崩れた字の頁。二枚とも、その日の日付で共有フォルダに保存されている。保存の日時は、システムに残っている。透は二枚を印刷し、日付の横に今日の日付と自分の署名を入れて、封筒に入れた。元住人に会う前の時点で、自分が何を記録していたか。後から自分の記憶が混ざらないように、ここで区切っておきたかった。
待合室。椅子。入口に向けて。廊下から猫が来る。膝に乗りに。
この言葉を、明日、自分から口にしてはいけない。
透は新しい頁に、質問を書き始めた。
一、あの部屋に住んでいた頃、それぞれの部屋を、どんなふうに使っていましたか。
二、寝室以外の部屋で、よく過ごしていた場所はありますか。
三、家具の置き方で、覚えていることはありますか。
書いてから、三つ目を見直した。家具、という言葉が、椅子に近すぎる気がした。消して、書き直す。
三、入居してから火災の前までに、部屋の使い方が変わったところはありますか。
管理会社は、間取りと部屋の使い方としか伝えていない。あとは、自分が漏らさなければいい。「待合室」とは書かない。「猫」とも書かない。「小さな部屋」とも、できれば言わない。図面を見せるのは、相手が自分の言葉で話し終えてからにする。
撮影の記録と静止画は、昔の暮らしの話を聞いた後で、見せるかどうかを尋ねる。沢井の了承はもらってある。あとは、相手が見たいかどうかだけだ。見たくないと言われたら、見せない。
それから、面会の目的を書いた。住宅調査の一環として、当時の住戸の使い方を確認させていただきたい。その過程で、現在の住人の方の生活に関わる現象について、記録をお見せすることがあるかもしれない。その場合は、事前にお見せしてよいか伺う。
嘘は書いていない。けれど、書いていないことはある。透は、自分がその書いていないことの方を、いちばん確かめたいと思っているのを知っていた。
書き終えて、透は質問の頁を読み返した。
相手が、自分の答えてほしい通りに答えてくれたら。
その想像が、ふと浮かんだ。待合室、と相手が言う。猫が、と言う。そうなれば、自分の見たものは、自分の思い込みではなかったことになる。
透はペンを置いた。
そうなったとき、それが相手の記憶なのか、自分の顔つきや間の取り方が答えを渡したのかを、区別できるだろうか。
窓の外は暗くなっていた。
明日、写真の中で窓際から振り返っていた人に会う。火災の後の年月を生きてきた、その人本人に。
扉枠の脇に立っていた横顔が、明日会う人の顔と重なるのか、重ならないのか。重なったとして、それは何を意味するのか。
透は封筒を鞄に入れ、手帳を閉じた。
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