↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/37

第三話

その日、チャイムを押す前に扉は開かなかった。


少し待つと、内側から二人分の足音が近づいてきた。チェーンが外れ、沢井が顔を出す。その肩越しに、もう一人の女性が廊下に立っていた。


「朝倉さん。こちら、水城さんです」


「水城です。今日はお邪魔します」


二十代の後半くらいに見えた。沢井より少し背が低く、黒い上着の袖口を指で押さえるようにして立っている。透が名乗って頭を下げると、同じ角度で頭を下げ返した。


居間に入ると、ソファの毛布は畳まれて端に寄せられ、ダイニングテーブルの椅子が三脚、向かい合わせに並べ直されていた。テーブルの上に麦茶のグラスが三つ置いてある。沢井が用意したのだろう。初日とも二日前とも違う、人を迎えるための配置だった。


「水城さん、心理士さんなんです。人の相談を受ける仕事の」


座るなり、沢井が言った。紹介の続きのつもりらしかった。


水城は少しだけ困ったように笑った。


「臨床心理士をしています。でも、今日は仕事で来たわけではないので。沢井さんの友人として、隣にいるだけです」


それは透に向けた言葉でもあり、沢井に向けた言葉でもあるようだった。沢井は「うん」と頷いた。


「沢井さんから、これまでのことは少し聞いています。でも、朝倉さんから、何が分かっているのかを聞かせてもらえますか。沢井さんが話したことと、朝倉さんが確かめたことは、きっと同じではないと思うので」


「分かりました」


透は手帳とクリアファイルに入れた二枚の図面をテーブルに出した。沢井に目で確かめると、沢井は「全部話していいです」と言った。


透は、分けて話すことにした。


確認できていること。火災で夫が亡くなり、妻が救出されたこと。寝室の入口部分が、火災の後まで独立した小さな部屋で、奥の部屋はそこを通らなければ出入りできなかったこと。図面を指しながら、透はそこまでを短く話した。


次に、自分が見聞きしたこと。初日の「待って」という声が、沢井には寝室の奥から、透には廊下側の扉枠の脇から聞こえたこと。二日前、同じ場所に人影が見え、「待合室」という言葉と、入口に向けた椅子と、廊下から来る猫の話を聞いたこと。それを二日前のうちに記録してあること。


水城は黙って聞いていた。表情はほとんど変わらなかった。


最後に、自分の考えていること。


「僕は最初、火災で亡くなった方が、閉じ込められて、出してほしいと言っているのではないかと考えていました。今もその考えを捨てたわけではありません。ただ、資料では亡くなったのは男性です。声は女性に聞こえた。声の印象は当てになりませんが、その食い違いは、まだ説明できていません。ほかに亡くなった方がいないかは、管理会社に確認を頼んでいます。前に住んでいた方とは、会えるように調整しているところです」


言い終えてから、透は付け加えた。


「分かっていないことの方が、ずっと多いです」


水城は小さく頷いた。


「ありがとうございます」


それから、沢井の方を見た。沢井はテーブルの上のグラスに両手を添えて、透の話の間、ずっとその水面を見ていた。


「沢井さん、今の話で、違うなと思ったところはある?」


「……ない。朝倉さんには、廊下の方から聞こえたっていうの、あのとき初めて知って、それがずっと、気持ち悪くて」


「うん」


水城はそれ以上、何も付け足さなかった。


透は、水城が幽霊の話を一度も遮らなかったことに気づいていた。人影という言葉にも、声が返事をしたという話にも、眉ひとつ動かさなかった。信じたのか、信じないまま聞いているのか、透には分からなかった。分かったのは、水城が話の間、透より沢井の顔を多く見ていたことだけだった。


「朝倉さん。今日は、何をする予定ですか」


「二日前に人影が見えた場所で、短く、位置を確かめたいと思っています。扉は閉めません。沢井さんは寝室に近づかなくて大丈夫です。廊下の居間側の端にいてもらえれば」


透は少し間を置いて、付け加えた。


「それから、もしまた出てきたら、一つだけ聞きたいことがあります。二日前、沢井さんが扉を閉めかけたときに、閉めないで、と言いました。それが何のためなのかを。聞くのは一つだけです」


「それは、沢井さんが了承したら、ですよね」


「はい」


水城は沢井を見た。沢井は、少し間を置いてから頷いた。


「やります。水城さんがいるなら」


「じゃあ、一つだけ先に決めておきたいんですけど」


水城は透に向き直った。


「何が起きたら、今日はそこで終わりにしますか」


透はその問いを、少し意外に思った。何を確かめるのか、ではなく、どこでやめるのか。


「沢井さんが、やめてほしいと言ったら。言葉にしなくても、続けるのが難しそうに見えたら、僕から止めます。それから、僕自身が、これ以上は危ないと思ったとき」


「沢井さん、それでいい?」


「……うん」


「やめてって言うの、途中でも、気にしなくていいからね。朝倉さんの調べものが途中でも」


水城が言うと、沢井は少し笑った。


「それ、朝倉さんの前で言う?」


「前で言わないと、意味がないから」


透は、そのやり取りを黙って聞いていた。


---


廊下の扉は開いていた。透は持ってきた戸当たりを扉の下に差し込み、動かないようにした。幽霊が扉を動かしたことは一度もない。それでも、沢井の目に見える形で、扉が閉まらないことを示しておきたかった。


沢井は廊下の突き当たり、居間との境目に立った。水城はその隣に並んだ。二人から寝室の扉口までは、四、五歩ほどの距離がある。


透は扉口の前の、二日前とほぼ同じ位置に立った。手帳を開く。


竣工時の図面を思い浮かべる。角のところの壁。奥へ抜ける扉。狭い床の真ん中に、入口を向いた椅子。廊下から、何かが膝に乗りに来る。


しばらく、何も起きなかった。


透は扉枠の脇を見ないようにして、狭い床を見ていた。二日前に聞いた言葉を、頭の中でなぞる。狭いでしょう。椅子を置いたら、もういっぱいで。


左の頬に、空気の冷たさとも違う、何かの近さを感じた。


横目で見る。扉枠の脇に、輪郭があった。二日前と同じ高さ、同じ向き。扉口から中を向いている。肩の線は、二日前よりも見えやすかった。


「います」


透は振り向かずに、廊下の端の二人へ向けて言った。


沢井が息を詰める気配がした。


「……こんにちは」


透は輪郭へ向けて言った。自分の声が、思ったより低く出た。


「この前、待合室の話をしてくださいました。ありがとうございます」


返事はなかった。輪郭は、中を向いたままだった。


「一つだけ、聞かせてください」


居間で話したとおりの、一つだけの問いだった。この前、閉めないで、と言った。誰に向けて、何のために。


「扉を閉めると、どうなるんですか」


少しの間があった。


それから、声が来た。


「閉めたら」


近かった。二日前よりも、さらに近い。透の耳のすぐ横で、息がかかるような距離から。


「閉めたら、奥が――」


「やめてください」


沢井の声だった。


廊下の端で、沢井が水城の腕をつかんでいた。顔が白い。


「今の、聞こえた。聞こえました。近い。こっちに来てる。もう、いいです。やめてください」


透の耳の横では、まだ声が続こうとしていた。言葉になる手前の、息のような音。続きを聞けば、閉めないで、の意味が分かるかもしれない。奥が、どうなるのか。閉じ込められるのか、それとも、ほかの何かなのか。今、その一歩手前にいる、と透は感じた。


手帳を持つ指に力が入った。


透は手帳を閉じた。


「ここまでにします」


輪郭へ向けてではなく、廊下の端の沢井へ向けて言った。


「ありがとうございました。今日は、ここで終わりです」


それから、輪郭の方へ、小さく頭を下げた。返事を待たずに扉口から離れ、廊下を居間の方へ歩いた。沢井が水城の腕をつかんだまま、一歩下がって道を空けた。


居間の境目で、透は一度だけ振り返った。


扉枠の脇に、まだ輪郭があった。薄くなってはいたが、消えてはいなかった。中を向いたまま、そこに立っていた。


透は目を逸らし、居間に入った。


---


沢井はダイニングの椅子に座り込み、しばらく両手で顔を覆っていた。水城は隣の椅子に座り、何も言わずに麦茶のグラスを沢井の手の届くところへ寄せた。


透は二人の向かいに座った。


しばらくして、沢井が顔を上げた。


「ごめんなさい」


「謝ることはありません」


「でも、途中で止めたから。朝倉さん、何か聞こうとしてたのに。あれ、怒らせたりしてないですか。途中で止めたせいで、今夜、ひどくなったりしないですか」


透は、すぐには答えられなかった。


止めたせいで悪くなる、ということはない。そう言えれば、沢井は少し楽になるだろう。けれど、透はそれを知らなかった。二日前も途中で切り上げた。その夜、沢井は何も聞かなかったと言っている。それでも、今夜も同じだとは言えなかった。


「分かりません。止めたから悪くなるということを、僕は知りません。でも、悪くならないと約束することもできません。ごめんなさい」


沢井は唇を噛んだ。


「ただ、一つだけ、分かっていることがあります」


透は、沢井が書いた記録の紙を思い出した。二日分の日付。「寝室の扉は開けたまま。居間で寝た」。


「この前から今日まで、沢井さんが寝室を使わずに、扉を開けたまま居間で休んでいた夜は、何も聞こえなかったと書いてくださいました。二日前のあとは、どうでしたか」


「……何も。廊下の電気つけて、寝ました。そっちは見ないようにして」


「今日、声が近くなったのは、僕があの場所で、あの人のことを調べていたときです。二日前もそうでした。寝室を使わずに居間で休んでいた夜は、今のところ、沢井さんは何も聞いていないし、何も感じていない。そこまでは、沢井さんが書いてくださったことから言えます」


それが、何を意味するのかは分からない。調べたから近くなったのか、たまたま重なったのか。けれど、沢井に今必要なのは、原因の説明ではなかった。


「今夜も、居間で休むことはできますか。ここがつらければ、別の場所でも構いません」


沢井は、居間を見回した。畳んだ毛布、並べ直した椅子、麦茶のグラス。


「……ここで寝ます。水城さん、今日、少し遅くまでいてくれる?」


「いいよ」


水城はそう答えてから、透の方へ顔を向けた。


「さっき、私にも何か聞こえました。声だったと思います。短く。でも、何て言っていたのかまでは分かりませんでした」


透は頷き、手帳の立ち会い者の欄に書き足した。水城さん:短い声を聴取、内容は不明と。


「次は、どうしますか」


透は沢井に尋ねた。


「また今日みたいなことをするかどうか。するなら、いつにするか。しばらく何もしない、ということでも構いません。沢井さんが決めてください。僕の方で、前に住んでいた方との面会や、資料の確認は進めておけます。それは、沢井さんがここで何かをしなくても、できることです」


「しばらく、何もしないでもいいんですか」


「はい」


沢井は長く息を吐いた。


「じゃあ、少し、考えさせてください。前の人のことで、何か新しく分かったら、教えてもらえますか。それを聞いてから、決めたいです」


「分かりました」


透は手帳に書いた。今回の確認:住人の要請により途中で終了。次回:住人の判断を待つ。


聞こえなかった続きを、透は書かなかった。「閉めたら、奥が」。そこまでを、聞いたとおりに書いた。そのあとに続いたはずの言葉の欄は、空いたままにした。


視線を上げると、水城がこちらを見ていた。何かを確かめるような目だった。透と目が合うと、水城は視線を沢井の方へ戻した。


---


玄関で靴を履いていると、水城が廊下に出てきた。沢井は居間に残っている。


「朝倉さん」


水城は声を落とした。


「さっき、もう少しで何か聞けそうだったんですよね」


「……はい」


「止めてくださって、ありがとうございました」


透は、どう答えればいいのか分からなかった。礼を言われるようなことをしたつもりはなかった。沢井がやめてほしいと言った。だからやめた。それは最初に決めたことだった。


「最初に決めたことを、守っただけです」


「そうですね」


水城は頷いた。


「決めたことを、その場で守るのが、いちばん難しいことも多いので」


仕事で見てきたことなのだろう、と透は思った。それ以上は尋ねなかった。


「一つ、お願いしてもいいですか」


「はい」


「前に住んでいた方のことや、今日のことで何か分かったら、沢井さんがいいと言った範囲で、私にも教えてもらえませんか。沢井さんが、それを一人で抱えなくて済むように。一緒に聞いておきたいので」


「沢井さんの了承があれば」


「もちろん、それで」


水城は小さく頭を下げた。透も頭を下げ、玄関を出た。


廊下の扉が閉まる前、透は水城の後ろ、廊下の奥をちらりと見た。寝室の扉は戸当たりに押さえられて開いたままだった。扉枠の脇は、ここからでは暗くてよく見えなかった。


---


自宅に戻ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。


透は家で仕事をするとき、部屋の窓際の机を使っていた。ノートパソコンを開き、今日の記録を会社の様式に打ち込む。日付、時刻、場所、立ち会い者。住人の了承。戸当たりによる扉の固定。人影の位置と向き。聴取した発言。住人の要請による終了。


「閉めたら、奥が――」。


打ち込んだ文字を、透はしばらく見ていた。


続きを聞いていれば。あと一言か二言だった。あの声は、確かにまだ何かを言おうとしていた。


その考えが浮かぶたびに、沢井の白い顔が一緒に浮かんだ。水城の腕をつかんでいた手。透は、自分がそれを見ていなかったわけではないことを確かめるように、記録の終わりに一行足した。終了時、住人に強い緊張。


保存して、パソコンを閉じた。


部屋が静かになると、耳の横で聞いた声が、もう一度戻ってきた。閉めたら。息がかかるような距離。


その距離を、透は知っていた。


十年前、歩道で、名前を呼ばれた。


衝突の音がして、その後だった。耳のすぐそばで、誰かが「透」と呼んだ。短く、強く。その声に弾かれたように、体が動いた。気がついたときには、全部が終わっていた。


一緒に歩いていた高瀬蓮は、死んだ。透は、生きていた。


あの声が誰のものだったのか、透は今も知らない。そばにいたのは蓮だった。蓮だったのかもしれない、と何度も考えた。けれど蓮は、透を呼ぶとき、いつも少し語尾を伸ばした。あの声は、そうではなかった。とっさのときに、人の呼び方が変わるのは珍しくない。そう思って、それ以上は考えないようにしてきた。


透は椅子から立ち上がり、押し入れの戸を開けた。


上の段の奥に、段ボール箱が一つある。蓋の上に、自分の字で日付が書いてある。事故のあと、手元に集めたものが入っている。何を入れたのかは、だいたい覚えている。覚えているから、長いこと開けていない。


箱がそこにあることを確かめて、透は戸を閉めた。


今夜は開けない。開ければ、たぶん朝まで閉じられない。


机に戻ると、携帯に管理会社の担当者からメールが届いていた。


火災以外の死亡の記録は、管理会社で把握している範囲には見当たらないこと。真鍋夫婦より前の居住歴は、調べて追って連絡すること。それから。


「元居住者の真鍋様より、お住まいだった頃の写真が何枚か手元にあるとのことです。お送りできるものがあるか確認してくださるそうです。ご本人の了承の範囲で、当社経由でお渡しする形になります」


透は、そのメールを二度読んだ。


お住まいだった頃の写真。あの部屋の、火災の前の。写っているのは部屋かもしれないし、人かもしれない。


返信を書く。ご配慮に感謝すること。提供いただける範囲で構わないこと。使い道と、閲覧するのは自分だけであることを、ご本人に改めてお伝えいただきたいこと。


送信してから、透は手帳の二欄の頁を開いた。右の「火災前」の欄の、椅子の印の横に、小さく書き足した。「写真、提供の見込み」。


押し入れの戸は、閉まったままだった。

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローお願いします。

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。