第二話
管理会社から資料が届いたのは、二日後の昼過ぎだった。
担当者のメールには、施工会社から取り寄せたという図面が二種類と、改修前の現況写真が数枚添付されていた。竣工時の平面図と火災後の改修工事の図面。元居住者への取次ぎについては、「ご本人に趣旨をお伝えしました。前向きに検討したいとのことで、日程は追ってご連絡します」とあった。
透は二枚の平面図を印刷し、机の上に並べた。
外形は同じだった。玄関、まっすぐな廊下、片側の洗面所とトイレ、突き当たりの居間。違うのは、廊下のもう片側だった。
竣工時の図では、廊下の扉を開けた先に、小さな部屋が一つある。畳にすれば二枚分ほどの細長い区画。その奥にもう一つ扉があり、窓のある部屋へ続いている。窓のある部屋には、ほかに出入口がない。居間とは壁で隔てられている。
奥の部屋から廊下へ出るには、この小さな部屋を通り、廊下の扉を抜けるしかない。
改修後の図では、小さな部屋と奥の部屋の間の壁が消え、一つの寝室になっている。居間側の壁には新しく引き戸が描き込まれていた。廊下側の扉の位置は変わらないが、仕様欄には「建具新設」とある。扉そのものは、火災の後に取り替えられている。
竣工時の図は、建った時点の形でしかない。火災までの間に手が入っていれば、話は違ってくる。
透は改修図の解体範囲の欄を確かめた。撤去する部材として「間仕切り壁(旧室間)一式、同所建具一式」とある。現況写真にも、それを裏づける一枚があった。煤で黒くなった壁の角に、焼けた扉枠だけが残っている。小さな部屋と奥の部屋を隔てていた扉の位置だった。
火災の後、改修に入る前まで、小さな部屋と奥の扉はそこにあった。少なくとも、そこまでは言える。
透は初日の手帳の頁を開いた。狭い入口部分、角、広がった奥。天井の二つの照明。「改修時に間仕切り撤去?」の疑問符の横に今日の日付と「確認。旧中間室を寝室に編入」と書き足した。
竣工時の図面では、小さな部屋には名前がなかった。用途の欄に「収納」とも「洋室」とも書かれていない。ただ四角い線で囲まれているだけだった。
現況写真の中に廊下の扉口から小さな部屋を写したものがあった。
狭い床の中央に金属の椅子の骨組みが残っていた。座面は焼け落ち、脚と背もたれの枠だけが立っている。背もたれは奥の部屋の側にあり、椅子の正面は廊下の扉口、つまり撮影者の方を向いていた。
写っているのは、火災の後の椅子の位置と向きだった。普段からそこに、その向きで置かれていたのかどうかは、写真からは分からない。消火や搬出の間に動かされたのかもしれない。
資料の最後に、当時の居住者についての要約があった。居住者は真鍋という夫婦で、火災で夫が死亡し、妻が救出されて搬送された。第一報の段階で透が受け取っていたのと、同じ内容だった。
現況写真の中から扉口と椅子が写った一枚を選び、図面とともに印刷してクリアファイルに挟んだ。沢井には夕方に伺うと連絡してあった。
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沢井はこの前と同じように、チャイムの前に扉を開けた。
「これ、書いておきました」
居間に通されるなり、沢井は透が渡した紙を差し出した。四つの項目の下に、二日分の日付が並んでいる。どの日も「そのほか」の欄に、同じ字で「寝室の扉は開けたまま。居間で寝た」とあり、ほかの欄は空いていた。
「何も聞こえなかった、っていうことでいいですか」
「はい。……たぶん」
「たぶん」
「夜中に一回、廊下を通ったとき、なんとなく見ちゃったんです。扉のとこ。何もなかったんですけど。それは書くほどのことじゃないかなと思って」
透はその言葉を手帳に書き写した。沢井は透の手元を見ていたが、やがて、言いにくそうに口を開いた。
「あの、この前、言ってなかったことがあって」
「はい」
「朝倉さんに来てもらう前。管理会社に電話する前です。私、自分で試してたんです。何回も」
沢井は椅子の背に手をかけたまま、座らなかった。
「声がするのが扉を閉めるときだって、はっきり分かってたわけじゃないんです。でも、なんとなく、寝る前のあの時間だって思ってて。だから十一時過ぎまで起きて待って、寝室に入って、閉めて、開けて、また閉めて。聞こえたら、今のは本当だったのか、もう一回確かめたくなって」
「どのくらいの期間ですか」
「一週間くらい。毎晩じゃないけど」
「その間、聞こえ方は変わりましたか」
沢井は考え込み、それから小さく頷いた。
「はっきりしてきました。最初は、テレビかなって思うくらいだったのに、最後のほうは、言葉だって分かるくらい。それで怖くなって、居間で寝るようになって、電話したんです」
透は書いた。初回訪問前、約一週間、自己確認(夜間、閉扉の反復)。その期間に聞こえ方が明瞭化、と本人。
書きながら、その二つを線で結ぶことはしなかった。怖いものを繰り返し確かめていれば、耳はそれを拾いやすくなる。同じ一言が、はじめは物音に、やがて言葉に聞こえるようになるのは、珍しいことではない。
それでも、ペン先が一瞬止まった。
「分かれば、安心できると思ったんです。何なのか分かれば。ただの音だって分かれば、寝られるって」
「そう思うのは、自然なことだと思います」
透はクリアファイルを取り出した。
「今日は、火災の前の間取りを持ってきました。今の部屋と、どこが同じでどこが違うのかを、実際の場所で確かめたいんです。扉は閉めません。図面を見ながら、位置を合わせるだけです」
「……写真もあるんですか」
「改修前の写真が一枚あります。火災の後の、焼けた状態のものです。見なくても確認はできます」
沢井は少し迷ってから、「図面だけで」と言った。透は写真を裏返しにしてファイルに戻した。
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廊下に出て、寝室の扉口の前に立った。扉は開いたままだった。
透は竣工時の図面を広げ、沢井にも見えるように持った。
「今、僕たちが立っているのが、この廊下です。この扉は、火災の後に新しくなっていますが、位置は昔と同じです」
指で図面の線をたどる。
「扉を入ってすぐの、この狭いところ。ここは昔、独立した小さな部屋でした。この角のところに壁があって、その奥に、もう一つ扉があった。窓のある奥の部屋は、そこからしか出入りできなかったんです」
沢井は図面と寝室の入口を交互に見た。
「じゃあ、居間の方の戸は」
「改修のときに付けられたものです。昔は、あそこは壁でした」
「……奥の部屋から出るには、ここを通るしかなかった」
「そうです」
沢井は扉口の先の、狭い床を見た。それから、確かめるように一歩、寝室の中へ入った。もう一歩進んで、角のところの壁に手を当てる。
「ここに、壁があったんですか」
「その角から、向こうの壁まで。ちょうど沢井さんの立っているあたりが、奥へ抜ける扉の手前です」
沢井は角に手を当てたまま、足元の床と、奥のベッドとを見比べた。明るい午後の寝室で、彼女は怖がっているというより、自分の部屋の知らない形を測っているように見えた。
透は扉口から半歩下がった。写真を撮った人と同じように、廊下から、狭い床の全体を見たかった。
現況写真の、椅子の骨組みが立っていた位置。扉口から一歩半ほど入った、狭い床の真ん中。今は沢井のすぐ手前、何も置かれていない床。
図面の線と、写真の椅子と、今の床とを、頭の中で重ねた。角のところに壁を立て、奥へ抜ける扉を置き、ここに椅子を一脚置く。人が座れば、膝の前にすぐ扉口がある。
そのときだった。
透のすぐ左、扉枠の脇に、人がいた。
初日と同じ場所だった。けれど、初日のような、壁の白さに溶ける輪郭ではなかった。肩の線が見えた。腕が体の横に下りているのが分かった。廊下の側に立ち、扉口から中の、狭い床の方を向いている。顔のあるはずの高さは、焦点が合わない写真のように曖昧で、目鼻の位置をつかめなかった。
扉は閉めていない。誰も、扉に触れていない。
寝室の中で、沢井が息を呑む音がした。沢井は人影の方ではなく、透の顔を見ていた。透の視線がどこへ向いているのかを、追っているようだった。
「いますか」
沢井が囁いた。
「います」
透は答えた。声が乾いていた。
沢井の目は、透と扉枠の間をさまよっていた。見えてはいないのだろう、と透は思った。見えていないが、透の視線の先が、自分と廊下の間のどこかだということは分かっている。
この二日間、沢井は扉を閉めなかった。何も聞こえなかった。今日、透と沢井は扉に触れず、ただこの場所の昔の形を確かめていた。そうしているうちに、相手はこれまでより、はっきりとここに立っていた。
それが何を意味するのか、透には分からなかった。分からないまま、人影の顔のあたりへ視線を合わせた。
「……そこに、いますか」
短く呼びかけた。
---
返事は、少し遅れて来た。
「ここ、待合室」
声は、透のすぐ脇から聞こえた。初日の一言よりもずっと近く、はっきりしていた。
女の声だ、と透は思った。
高くはない。少しかすれて、低めの、落ち着いた声だった。
「待合室」
透は繰り返した。人影は答えなかった。頷いたのかどうかも、分からなかった。
「狭いでしょう。椅子を置いたら、もういっぱいで」
声は、透の問いに答えているようでいて、少しずれていた。誰かに部屋を見せながら話しているような調子だった。今の寝室の広さも、奥に見えるベッドも、そこに立つ沢井も、目に入っていないかのように。
「ここに、椅子があったんですか」
「入口に向けて」
「入口に」
「廊下から来るの。膝に乗りに。だから、そっちに向けて座ってた」
「何が、来るんですか」
「猫」
当たり前のことを聞かれたような響きだった。
透は手帳を開いていた。自分でも気づかないうちにそうしていた。ペンを走らせる。待合室。椅子。入口に向けて。廊下から猫が来る。膝に乗りに。
図面にはない名前だった。写真には椅子の向きは写っていても、その理由は写っていない。
寝室の中で、沢井が動いた。
角から手を離し、扉の内側の取っ手をつかんでいた。透と、その脇の何もない場所とを見据えたまま、扉を引き寄せようとしている。見えないものと自分の間に、一枚の板を立てるように。
「閉めないで」
声が鋭くなった。
沢井の手が止まった。透は、人影が扉口の方へ、中にいる沢井の方へ傾くのを見た。一歩踏み出したのかどうかは分からない。ただ、輪郭が敷居に近づいた。
「沢井さん」
透は扉の縁に手を出しかけて、触れる手前で止めた。
「閉めなくて大丈夫です。手を離してください」
沢井は取っ手から指を一本ずつ剥がすように手を離した。透が扉枠の脇から一歩退いて道を空けると、沢井は扉の反対側の縁へ体を寄せ、壁伝いに廊下へ出てきた。そのまま、廊下の向かいの壁まで下がった。
「今、何か」
沢井の声が震えていた。
「何か言いましたよね。何て言ったんですか」
「沢井さんには、どう聞こえましたか」
「分からない。……しめ、って。しめ、何とか。女の人の声」
透は扉枠の脇を見た。輪郭は、まだそこにあった。扉口から中を向いたまま、今は誰もいない狭い床の方を。顔は、やはり見えなかった。
「待合室の、椅子のことを、もう少し――」
言いかけて、透は口を閉じた。沢井が向かいの壁際で両腕を抱えていた。
人影の輪郭が、壁の白さへ少しずつ戻っていった。見えなくなったのではなく、見えにくくなった。透にはその違いがうまく言えなかった。
「居間に戻りましょう」
透は言った。
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居間で、沢井は水を一杯飲んだ。コップを持つ手が、テーブルに置くまで細かく揺れていた。
透は向かいに座り、崩れた字の現場メモを、記録様式に書き直した。
朝倉:人影、廊下側・扉枠の脇。扉口から旧中間室の方向を向く。肩・腕の輪郭。顔判別不可。
朝倉が聴取した発言(要旨。現場メモをもとに直後に記憶から補記):「ここ、待合室」/椅子を置くと狭い/「入口に向けて」/廊下から膝に乗りに来る、だからそちらに向けて座っていた/「猫」。
沢井さんが寝室内から扉を閉めかけた際:朝倉は人影の方向から「閉めないで」と聴取。沢井さんは「しめ、何とか」。女性の声と。
現場の頁と書き直した頁を携帯で撮影し、今日の日付で会社の共有フォルダに保存した。
顔を上げると、沢井がコップの縁を見つめたまま、何か言いたそうにしていた。透はペンを置いた。
「待合室って、何ですか」
「分かりません。図面には、そういう名前はありませんでした」
「前に住んでた人が、そう呼んでたってことですか」
「そうかもしれません。まだ、そうだとも言えません」
元住人に会えるなら、聞いてみたいことだった。けれど、今日聞いた言葉をそのまま相手に伝えれば、相手はそれに合わせて思い出してしまうかもしれない。
「前に住んでいた方とは、管理会社を通して、会えるかどうか調整してもらっています。ご本人は前向きに考えてくださっているそうです」
沢井は頷いた。それから、しばらく黙っていた。
「朝倉さん」
「はい」
「次に来てもらうとき、知り合いに一緒にいてもらってもいいですか」
透が答える前に、沢井は続けた。
「今日みたいなの、一人で聞いてると、あとで思い出したとき、自分が何を聞いたのか分からなくなりそうで。朝倉さんがいてくれるのは分かってるんですけど、朝倉さんは、その……向こうを見てるから」
責める口調ではなかった。透は、さっき自分が何をしていたかを思い出した。沢井が壁際で腕を抱えている間、透は人影を見て、手帳に書き、椅子のことをもう少し聞こうとしていた。
「もちろんです。どなたでも、沢井さんが一緒にいてほしい方なら」
「水城さんっていう人です。友達で。落ち着いてる人だから」
「分かりました。日程は、その方のご都合に合わせましょう。次は、今日聞いたことを整理してお伝えして、そのうえで、沢井さんが了承してくださる範囲でだけ、短く場所を確かめるつもりです。確かめないことにしても構いません」
沢井は少しだけ肩の力を抜いた。
「本当は、もう聞きたくないんです。でも、分からないままなのも嫌で。どっちなんだろう、私」
透には、その問いに答える言葉がなかった。
代わりに、居間のソファを見た。畳んだ毛布と枕は、初日と同じ場所にあった。
「今夜は、どうされますか」
沢井が顔を上げた。
「今日は扉を閉めていないのに、出てきました。だから、開けておけば大丈夫だとは、僕には言えません。ここで休むのがつらければ、どこか別のところで休むことも考えてください。ここにいる場合も、確かめに行く必要はありません」
沢井はソファを見て、それから廊下の方を見た。
「……今夜は、ここで寝ます。廊下の電気つけて、そっちは見ないようにして。明日のことは、また明日考えます」
「分かりました。何かあったら、電話をください」
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会社に戻ると、透は書き直した記録を、もう一度最初から読んだ。
資料によれば、この部屋で亡くなったのは真鍋という夫婦の夫だった。透が聞いた声は、女の声に聞こえた。
声の印象は当てにならない。かすれていて、途切れがちで、顔も見えなかった。性別を聞き違えることはある。同じ場にいた二人が、同じ方向に聞き違えることもある。
あるいは、あの部屋で亡くなった人は、資料の一人だけではないのかもしれない。真鍋夫婦より前の居住者。建物の別の部屋。これまでにも、記録にある死者と見えたものが結びつかない現場はあった。
救出された妻は、女性だ。けれど、彼女は生きている。
透はその一行を書きかけて、ペンを止めた。これまで見てきたものは、どれも、その場所で亡くなった誰かだと考えてきた。生きている人を、その候補に入れたことはなかった。
それでも、線を引いて消すことはしなかった。一行の終わりに「未確認」と書き足した。確かめる材料がないものを、考えにくいという理由で外すわけにはいかない。
管理会社の担当者へ、追加の依頼を書いた。当該住戸と建物で、火災以外に死亡の記録がないか。真鍋夫婦より前の居住歴。火災前の住戸内や居住者が写った写真が残っていないか、提供が可能であれば、どなたの了承のもとで見られるか。元住人との面会については、引き続き本人の都合を優先してほしいこと。質問の内容は、こちらでまとめてから改めて相談したいこと。
送信してから、透は現場で言いかけた問いを思い出した。待合室の、椅子のことを、もう少し。
あのまま聞いていれば、何か分かったかもしれない。けれど、あのとき沢井は壁際で腕を抱えていた。自分は、それを見ていなかった。
透は手帳の、初日に描いた二欄の頁を開いた。右の「火災前」の欄は、もう空白ではなかった。廊下、扉、小さな部屋、角の壁、奥の扉、窓のある部屋。小さな部屋の真ん中に、入口を向いた椅子の印。その脇に「火災後の写真による」と添える。
椅子の印の横に、透は小さく書いた。「待合室」。
左の「現在」の欄では、扉枠の脇に、今日二つ目の印がついた。二度とも、相手は廊下の側にいた。今日は、扉口から中を向いていた。中にいたのは沢井だった。
それが誰の呼び方なのか、透はまだ知らない。閉めないでと言ったのが、中へ入りたいからなのか、閉める人を止めたいからなのかも。
携帯が震えた。沢井からだった。
〈水城さん、明後日の夕方なら来られるそうです。〉
透は予定表を開き、明後日の夕方に沢井の住所を書き入れた。立ち会い者の欄に、知らない名前を一つ書き足した。
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