第一話
チャイムに指をかける前に、扉の向こうでチェーンの外れる音がした。
「朝倉さん、ですよね」
細く開いた隙間から、三十代半ばくらいの女性が顔を出した。約束の時刻より五分早い。玄関の内側で待っていたのだろう、と透は思った。
「朝倉です。本日はお時間をいただいて、ありがとうございます。沢井さんでお間違いないですか」
「はい。どうぞ、あの、散らかってますけど」
「入る前に、少しだけ確認させてください」
透は鞄を下ろさずに、今日することを短く話した。部屋を見せてもらい、いくつか質問をする。窓や扉や設備に触れるときは、その都度声をかける。
沢井は頷きながら聞いていたが、最後まで聞き終える前に口を開いた。
「どこでも見てください。それより、先に聞いてもいいですか」
「はい」
「今夜、寝られるようになりますか」
透は答えを急がなかった。玄関の上がり框の先に短い廊下が延びている。突き当たりの居間から、傾きかけた午後の光が床に長く差し込んでいた。
「今日、それをお約束することはできません。ただ、何が起きているのかを、順番に確かめます。そのうえで、今夜どうするかを一緒に考えさせてください」
沢井は少し黙ってから、「そうですよね」と言った。落胆とも安堵ともつかない声だった。
居間のソファの端に畳んだ毛布と枕が重ねてあった。ローテーブルには充電器と目覚まし時計が並び、スリッパがソファの足元にそろえてある。くつろぐ場所ではなく、寝る場所として使われている配置だった。
透の視線に気づいたのか、沢井は毛布の端を手で直した。
「最近は、ここで寝てるんです。寝室には着替えを取りに入るくらいで。それも、明るいうちに」
「いつ頃からですか」
「ここで寝るようになったのは、二週間くらい前から。その前から、なんとなく変だなとは思ってたんですけど」
透はソファの向かいに腰を下ろし、手帳を開いた。沢井はソファに座らず、キッチンカウンターに寄りかかるように立った。
「ここで前に火事があって、人が亡くなってるのは知ってます。契約のときに聞きましたから。きれいに直してあったし、家賃も相場より安くて。私、そういうの気にしないほうだと思ってたんです」
「そのことは、私どもの資料にも記載があります。当時ここに住んでいたご夫婦のうち、ご主人が亡くなって、奥さんが救出された。沢井さんが聞いた内容と、違うところはありますか」
「いえ。同じです」
隠されていた履歴を掘り起こしに来たわけではない。そのことを先に互いの間に置いておけたのは、透にとってありがたかった。
「では、沢井さんの言葉で、何があったのか話していただけますか。順番は気にしなくて大丈夫です」
沢井は腕を組み、カウンターの縁に視線を落とした。
「夜、寝ようとすると、寝室の奥から声がするんです。人の声。『待って』って、言ってるように聞こえる。最初は隣のテレビかと思ったんですけど、隣の壁はそっちじゃないし」
彼女はそちらを見ずに、顎で寝室の方を示した。
「一回だけなら気のせいで済むじゃないですか。でも、何回もあると、もう無理で。寝室に入るとき、身構えるようになって。それで、ここで寝るようになって。そしたら今度は、夜に廊下を通るのも嫌になってきて。トイレに行くのに、廊下の電気、つけっぱなしにしてるんです」
話しながら、沢井は何度か言葉を切り、透の顔をうかがった。透が書き終えるのを待ってから、また続けた。
透は書き留めた語句の下に線を引いた。寝室の奥。人の声。「待って」。夜。
「いくつか細かいことを伺います。声が聞こえるのは、寝室のどのあたりからですか」
「奥です。窓のほう」
「時間は」
「寝る前だから、十一時とか、十二時とか」
「聞こえる長さは」
「短いです。一言。長くても二言くらい」
「その直前に、沢井さんは何をしていることが多かったですか」
沢井は眉を寄せた。
「直前……寝ようとしてる、としか」
「分かりました。それなら、寝室で寝ていた頃に、寝るまでにしていたことを順番に教えていただけますか。お風呂から出たところからで構いません」
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沢井の説明は、居間から始まった。
風呂から上がって髪を乾かす。居間でしばらく携帯を見る。キッチンの火と鍵を確かめる。居間の照明を消す。廊下の明かりをつけて寝室へ行く。
「ここで一度、止めてもらっていいですか」
透は立ち上がり、廊下へ出た。
廊下は玄関から居間へまっすぐ延びていて、途中の片側に寝室の扉、反対側に洗面所とトイレの扉がある。寝室の扉は開いていた。沢井は廊下まではついてきたが、扉の手前で足を止めた。
「先に、普通の音を確かめさせてください。中に入っても構いませんか」
「どうぞ」
寝室は、思っていたより奥行きがあった。入口からしばらくは幅が狭く、壁の角をひとつ過ぎたところで部屋が広がる。天井の照明は入口寄りと奥に一つずつある。窓際にベッドが置かれ、掛け布団がきちんと整えられたまま、使われていない気配があった。
透は窓を閉めたまま耳を澄ませた。遠くの幹線道路の低い音。上の階で椅子を引くような音が一度。壁の中を水が流れる音は、今はしない。
窓の上の給気口に手をかざす。わずかに空気が入ってくる。洗面所の換気扇は、二十四時間運転の弱で回っていた。
入口に戻り、扉の縁と下の隙間を見た。蝶番に錆はない。枠との当たりも均一で、閉めれば引っかからずに収まりそうだった。扉の下には指が一本入るほどの隙間がある。透はポケットからティッシュを一枚出し、隙間の前に垂らした。紙の端が、寝室の内側へかすかに引かれた。
「何してるんですか」
廊下から沢井が尋ねた。
「空気の流れを見ています。換気扇が回っている家で扉を閉めると、隙間や給気口で空気が鳴ることがあるんです。笛みたいな音が、声に聞こえる場合もあるので」
「……そうなんですか」
透は扉には触れなかった。閉めて確かめるのは簡単だった。けれど、それは沢井が寝室で眠っていた頃に毎晩していたことで、透がしていたことではない。
手帳に寝室の形を簡単に描いた。狭い入口部分、角、広がった奥、窓、ベッド。入口寄りの照明と奥の照明。その脇に小さく「改修時に間仕切り撤去?」と書き添え、疑問符を丸で囲んだ。
寝室にはもう一つ出入口があった。居間側の壁に、半分ほど開いた引き戸がある。そこから居間のソファの背が見えた。
「こちらの戸は、夜は閉めていましたか」
「そっちは開けたままです。居間の電気を消せば暗いし、閉めると部屋が狭い感じがして」
「廊下側の扉は」
「閉めてました。廊下の電気は朝までつけておくんです。夜中にトイレに起きたとき、真っ暗だと怖いから。でも、その明かりが入ると眠れないので」
透は二つの戸の位置と、廊下の明かりを図に書き込んだ。
「続きをお願いできますか。廊下の明かりをつけて、寝室に来てから」
沢井は扉の手前に立ったまま、その先を思い出すように目を細めた。
「寝室に入って。……扉を閉めて。ベッドに行って。スタンドをつけて」
「声がするのは、ベッドに入ってからですか」
「入る前、です」
答えてから、沢井は口をつぐんだ。
「入る前の、どのあたりでしょう」
「……閉めるとき」
自分の声を確かめるように、沢井はもう一度言った。
「閉めるときです。いつも。扉が閉まるくらいのときに、奥から」
「夜以外に、この扉を閉めたことはありますか」
沢井はしばらく考え、それから、はっとしたように透を見た。
「一回、昼間に。着替えるときに閉めたら、何か聞こえた気がして。でも、昼だし、外の声だろうと思って。夜のほうがずっとはっきりしてたから、そっちのことばっかり考えてて」
「そのときは、どこから聞こえましたか」
「分からない。すぐ開けて、居間に行っちゃったから」
透は手帳に書いた。夜の現象、と最初に書いた一行の横に、「扉を閉める動作と重なる。昼に一例(不明瞭)」。
眠るための動作だった。明かりを遮り、冷気を遮り、一人の部屋を閉じる。それが毎晩、安心の最後の手順であるはずだった。
「沢井さん」
「はい」
「一度だけ、あの頃と同じように閉めていただくことはできますか。無理なら、今日はしなくて構いません。途中でやめたくなったら、やめてください」
沢井は扉を見た。それから廊下を振り返り、玄関と居間の間の、明るい長さを見た。
「朝倉さん、どこにいますか」
「廊下にいます。扉のすぐ外に」
「……それなら」
沢井は短く息を吸い、寝室の中へ入った。
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透は廊下の、扉枠から一歩半ほど離れた位置に立った。居間からの光が背中に当たり、自分の影が寝室の敷居の手前まで伸びている。
「いつもと同じで大丈夫です」
「はい」
扉の内側に、沢井の手がかかった。
扉がゆっくり動き始める。蝶番は音を立てない。閉じていく扉に隠れて、沢井の姿が見える幅が狭くなっていく。
手のひら一枚ほどの幅になったときだった。
「待って」
声は、透の左から聞こえた。
寝室の中ではない。扉枠のすぐ脇、廊下の、透と同じ側。肩の高さほどの、近い位置。
透は反射的にそちらを見た。
人がいた、と思った。扉枠に触れるほど近く、人の背丈のものが立っていた。輪郭は壁の白さに半ば溶けて、どちらを向いているのかも分からなかった。扉のほうへ、わずかに傾いでいるようにも見えた。
掛け金の小さな音がして、扉が閉まった。
廊下には誰もいなかった。居間からの光は同じ角度で床に落ち、透の影も同じ長さのままだった。
扉がすぐに開いた。沢井は取っ手を握ったまま、顔から色を失っていた。
「今の。聞こえましたよね」
「聞こえました」
「奥から。ほら、いつもみたいに、窓のほうから」
沢井は背後の、ベッドの向こうを振り返った。午後の光が薄いカーテン越しに入り、窓際には何もない。
透は自分の脈を感じながら、声の調子を変えないように気をつけた。
「沢井さんには、奥から聞こえたんですね」
「はい。朝倉さんは」
透は一瞬迷った。けれど、声を聞いた人に、聞こえ方を曖昧にして返すのは不誠実だと思った。
「僕には、こちら側から聞こえました」
透は扉枠の脇、廊下の壁際を手で示した。
沢井の視線がその場所へ落ち、それから透の顔に戻った。
「こっち……」
「はい」
「何か、見えたんですか」
「人の形のようなものが、一瞬。顔は見えませんでした。何だったかは、まだ分かりません」
沢井は寝室から出ようとして、敷居をまたぎかけた足を止めた。透が示したところを避けるように、扉の反対側の縁へ体を寄せ、壁伝いに廊下へ出てきた。
「私、ずっと」
沢井は寝室の奥を指さしかけて、手を下ろした。
「ずっと、あっちに誰かいるんだと思ってた。閉じ込められてる人が、中から言ってるんだって。だから寝室が怖かったのに」
その先を、沢井は言わなかった。
透は手帳を開き、二行に分けて書いた。
沢井さん──寝室奥(窓側)から聞こえたと。「待って」。
朝倉──廊下側、扉枠の蝶番側、至近に聞こえた。「待って」。人影、一瞬。顔・向き判別不可。
時刻を書き添える。十六時十二分。扉を閉めた人物、沢井さん。閉めた回数、一回。
書きながら、透は自分の知りたい気持ちを見ていた。もう一度閉めてもらえば、向きくらいは分かるかもしれない。声の高さや距離を、もっと正確に書けるかもしれない。
「もう一回、閉めたほうがいいですか」
沢井が先に言った。声が少し震えていた。
「いいえ。今日はこれで十分です」
透は手帳を閉じた。
扉枠の脇の壁は白く、何もなかった。透は、さっき自分が立っていた場所と、その壁際との距離を目で測った。手を伸ばせば届いた。
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居間に戻ると、沢井は毛布の載ったソファには座らず、ダイニングの椅子を引いた。透も向かいに座った。
「これから、毎晩確かめたほうがいいですか」
沢井は膝の上で指を組んでいた。
「何時に聞こえたとか、どのくらいの長さだったとか。スマホで録音したりとか。調べてもらうなら、そういうの、あったほうがいいですよね」
「確かめるために閉めるのは、やめてください」
透ははっきり言った。沢井が顔を上げた。
「今日のようなことを、沢井さんが一人で繰り返す必要はありません。寝室の扉は、開けたままで構いません。居間で休むほうが楽なら、それで大丈夫です」
「でも、それじゃ、何も分からないんじゃ」
「普通に暮らしていて、自然に聞こえたときだけ、書き留めてもらえますか」
透は手帳の後ろから罫線の紙を一枚外し、上の行に四つの項目を書いた。日付と時刻。そのとき何をしていたか。どこから聞こえたように感じたか。そのほか。
「書けない日は、書かなくて構いません。あとで伺うときに、覚えている範囲で話していただければ十分です」
沢井は紙を両手で持ち、しばらく眺めていた。
「亡くなった人が、出してって言ってるんでしょうか」
透は、その問いに頷きたくなった。自分の中にある見立ても、ほとんど同じ形をしていたからだ。
「まだ分かりません」
透は次の予定を話した。改修前の図面と工事の記録を取り寄せること。救出された方に、管理会社を通して、当時の部屋の使い方を伺えないかお願いしてみること。
「その人にも、聞こえたりするんでしょうか」
「それも、まだ分かりません。まずは、お話を伺えるかどうかからです」
玄関で靴を履きながら、透は廊下を振り返った。廊下の明かりのスイッチは、寝室の扉の横にある。夜になれば、沢井はこの明かりをつけたまま、居間とトイレの間を行き来する。
自分が帰ったあとも、沢井はこの部屋に残る。調べる側は玄関を出られるが、住む側は出られない。そのことを、透は仕事の最初に覚えた。今もまだ、慣れたとは言えなかった。
「また連絡します。何かあったら、電話をください」
「はい。……ありがとうございました」
扉が閉まる前、沢井が廊下の奥へ目をやったのが見えた。寝室のほうではなく、扉枠の脇の、透が示した壁際だった。
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会社に戻ったのは、十八時を少し過ぎた頃だった。
この件は、沢井から相談を受けた管理会社が、透の会社へ調査を依頼してきたものだった。資料を開く。所在地、構造、築年数。火災の日付と、消防の記録からの要約。当時の居住者は夫婦二人で、夫が死亡し、妻が救出されて搬送された。改修工事の施工会社の名前と、工期。記載はそこまでだった。
救出されたほうの居住者は、その後、別の場所で暮らしているという。連絡先は、当然ながら資料にはない。
子どもの頃から、透には、ほかの人が見ないものが見えることがあった。見えたときには、その場所で亡くなった人を調べた。この仕事に就いてからも、そうしてきた。死亡の記録と、見えた場所とを重ねて、おそらくこの人だろうと見立てる。見立てが立たないものは、「未確認」として残した。見立てた相手の顔を確かめたことは、ほとんどない。確かめる必要を感じたことも、あまりなかった。
今日の件も、形だけならこれまでと同じだった。この部屋では人が亡くなっている。火災で。おそらくは、逃げ遅れて。閉まろうとする扉に「待って」と言うのは、中に取り残された人の声として、理屈が通る。
けれど、透が見たものは中にいなかった。
寝室の形は、改修で変わっているかもしれない。火災のとき、あの扉の内側と外側がそれぞれ何だったのか、人がどこを通って出入りしていたのか。それを知らなければ、扉が閉まるときの声が何に向けられているのかは、考えようがなかった。
透は管理会社の担当者に宛てて、メールを書いた。
一つ、竣工時の図面と、火災後の改修工事の図面、工事記録。
一つ、火災当時の居住者に関して、提供が可能な範囲の資料。
一つ、救出された元居住者の方へ、当社からのお願いを取り次いでいただけるか。目的は、当時の住戸の使い方の確認。面会や質問は、ご本人の了承を得た範囲に限ること。
文面を二度読み返し、「死亡された方について」と書きかけた一文を消して、「当時のお住まいについて」と直した。まだ何も決まっていない相手に、最初から死の話を持ち込みたくなかった。送信した。
それから、手帳の新しい頁を開いた。
中央に縦線を一本引く。左の欄の上に「現在」と書き、今日見た寝室を描き直した。狭い入口、角、広い奥、窓とベッド。廊下側の扉と、居間側の引き戸。扉枠の脇に小さな印をつけ、「朝倉:声・人影」と書く。寝室の奥、窓の近くに別の印をつけ、「沢井さん:声」と書く。
右の欄の上には「火災前」と書いた。
その下は空白のままだった。
透は左の二つの印を見比べた。同じ一言を、二人が別の場所から聞いた。どちらの聞こえ方が正しいのかは、この図からは分からない。
携帯が短く震えた。沢井からのメッセージだった。
〈今日は居間で寝ます。寝室の扉は開けておきます。〉
〈それで大丈夫です。何かあれば連絡してください。〉
返信してから、透は右の欄の一行目に「当時の間取り」と書き、その下に「当時の暮らし方」と書いた。どちらの横にも、まだ何も続かなかった。
左の欄の、扉枠の脇の印だけが、紙の上で妙に近く見えた。
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