第三十九話
引き渡しまで一週間となった木曜の十二時十五分、透は千尋の職場のビルの前に立っていた。
資料を借りてから、ちょうど二週間だった。
封筒は、借りたときのまま鞄に入れてあった。中身は朝のうちに一つずつ確かめた。目撃した人の話をまとめた紙が何枚か。映像のディスクが一枚。透が手で書いたものは、封筒には入れていなかった。
自動ドアが開いて、千尋が出てきた。紺のジャケットに、首から社員証を下げていた。
「十分」
千尋は言った。
「はい」
透は封筒を出して、両手で渡した。
千尋はその場で封を開けた。紙の枚数を数えて、ディスクのケースを開けて、閉じた。
「コピーは取っていません。画面も撮っていません。気づいたことは手で書きました。見たのは僕と、前に話したもう一人だけです」
「そう」
千尋は封筒を閉じて、トートバッグにしまった。
それで用は済んだはずだった。透は頭を下げかけた。
「一つだけ聞く」
千尋が言った。
透は顔を上げた。
「あの子は、最後に何をしてたの」
千尋は透を見ていなかった。ビルの前の植え込みを見ていた。
透は少しのあいだ、言葉を選んだ。
「車が歩道に上がってきて、僕がまず店の方へよけました。車は囲いにぶつかって、向きが変わりました。そのあと僕は壁沿いに走りました。蓮も同じ方へ逃げかけていて、二人の進む先が重なって、蓮は向きを変えました。そこへ車の後ろが来ました」
千尋は何も言わなかった。
「映像と、目撃した人の話と、僕の控えで、順番は合っていました。……蓮がどうして向きを変えたのかは、分かりません。映像には映っていないし、お借りした資料にも、理由の分かることは書かれていませんでした。違う動きなら助かったのかも、分かりません」
「分からない、のね」
「はい」
千尋は植え込みから目を離した。
「誰かをかばった、とかじゃなくて」
「そういうことは、資料からは言えません。言いません」
千尋は小さく頷いた。
それ以上は聞かなかった。
透も、それ以上は話さなかった。言わないことは決めてあった。あの部屋のことも、あの部屋に来た蓮のことも。
千尋は腕時計を見た。それから、少しだけ間を置いた。
「あの子、出ていく前に、料理を一つだけ覚えようとしてた」
透は黙って聞いた。
「親子丼。向こうで一人で暮らすから、一個くらい作れないとって。毎週日曜に作るの。毎回しょっぱくて。父が黙って食べて、母が水を飲んで。……三回目くらいで、私が、もう卵だけでいいって言ったら、怒ってた」
千尋は口の端を少しだけ上げた。今度は、笑ったのだと分かった。
「上手くなる前に、終わった」
透は何も言わなかった。
知らない話だった。透が知らなくていい話でもあった。千尋は、それを透に聞かせるためではなく、言いたいから言ったように見えた。
「命日に連絡はいらない」
千尋は言った。
「法事にも来なくていい。来たいと思ったら、その前に私に聞いて。断るかもしれない。……用があれば、私から連絡する。しないかもしれない」
「分かりました」
透は手帳を出しかけて、やめた。書かなくても覚えていられることだった。
「じゃあ」
千尋はそれだけ言って、自動ドアの中へ戻っていった。
透は扉が閉まるまでそこにいた。
十二時二十三分だった。
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駅へ歩きながら透は鞄の軽さを感じていた。
二週間、封筒はそこにあった。読み、並べ、水城と線を引いた。それが今は、千尋のバッグの中にある。
手元に残ったのは、自分の控えと見取図の写しと、手で書いたものだけだった。
電車の中で透は手帳を開いた。来週の木曜の欄に、引き渡し、と書いてあった。その前の月曜に、片づけ。
火曜の欄は、まだ空いていた。
---
月曜の朝、実家の前にトラックが停まっていた。
母の引っ越しの日だった。新しい部屋へ運ぶものと、処分するものに、家の中の荷物はもう分けてあった。二階の透の部屋が最後だった。
透は休みを取っていた。
「あんたの部屋の物、ほとんど捨てるものだから。持っていきたいのがあったら、今言って」
母が玄関で言った。
「うん」
業者は二人だった。若い方が階段を上がるとき、三段目が鳴った。もう一人は気にせずに上がっていった。
透は二人のあとから部屋に入った。
段ボールの山。衣装ケース。窓際の机。入口の脇に、透が運んだ箱。壁際に、写真の箱。
窓の右側に、若い男が立っていた。
壁にもたれてはいなかった。両手をポケットに入れて、部屋の真ん中を見ていた。
透の方を一度だけ見た。
透は、目をそらさなかった。けれど、何も言わなかった。今日は片づけの日だった。母と業者がいる部屋で話すことはしない。それも、先に決めてあった。
若い男も、何も言わなかった。
まず段ボール箱が運び出されていった。業者は箱を二つずつ抱えて、階段を下りていった。衣装ケースは中身を確かめずに台車に載った。
「この箱は」
若い方の業者が、入口の脇の箱を指した。
透は少しだけ黙った。
「処分で、お願いします」
箱は他の箱の上に重ねられて、運ばれていった。蓮が立っていた場所に見立てて置いた箱だった。運ぶ人には、ただの箱だった。
写真の箱は、母が自分で抱えた。
「これは持ってく。あんたの小さいときのも入ってるから」
母は蓋を押さえて、階段を下りていった。
部屋に机だけが残った。
母が戻ってきて、机の前に立った。
「これ、どうする。持ってく?」
透は机を見た。天板の端に、コンパスで引いた細い線があった。
窓の右側で若い男も机を見ていた。
「いい」
透は言った。
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。
業者が二人がかりで机を持ち上げた。脚が床から離れた。机のあった場所の床だけ、色が少し薄かった。
机が扉を抜けていくあいだ、若い男は動かなかった。目だけが、机のあとを追っていた。
扉の向こうで、階段の三段目が鳴った。
部屋には何もなくなった。カーテンも外されていた。窓から入る光が、床の薄い四角をそのまま照らしていた。
透は部屋を出る前に窓の方を見た。
若い男は、まだそこにいた。何もない部屋の、窓の右側に。
透は扉を閉めた。
トラックが出たのは昼過ぎだった。母は新しい部屋へ向かう前に、玄関で言った。
「明日、もう一回来るんでしょ。電気と水道は木曜まで使えるから」
「うん。三時ごろ」
「鍵、あんたの持ってるので開けて。水曜に返してくれればいいから。私、水曜の朝に最後の掃除に来るから」
「分かった」
透は高校のときから使っている鍵を、ポケットの中で確かめた。
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その夜、透は自分の部屋で紙に項目を書いた。
伝えること。
今日が、この部屋に来る最後の日であること。
控えにある、助かったと思いました、の問答のこと。
尋ねないこと。
蓮のこと。
終わりの時刻。
三時から、三時三十分まで。
書き終えて、読み直した。
ペンの跡が濃い行は、なかった。
二つ目の項目を透はしばらく見ていた。あの日、水城はその問答をノートの三行目に書き写していた。並んだ三つの行の一番下。透が目を向けなかった行だった。
透は紙を写真に撮って水城へ送った。
〈明日、実家に行きます。最後になります。範囲は写真のとおりです。〉
返事は、一時間ほどして来た。
〈読みました。二つ目は、朝倉さんが自分で決めたことだと受け取ります。終わったら、報告は受け取ります。〉
透はその文面を一度だけ読んだ。
二つ目について、水城は何も聞いていなかった。何を言うつもりなのかも、なぜ今なのかも。
それでいいと思った。
日曜の夜、水城から届いていたメッセージが、画面の上の方に残っていた。来月は、母と姉に会う日を自分で決めた、と。透は、よかったです、とだけ返していた。
水城も、自分のことを自分で決めていた。
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火曜の二時五十分、透は自分の鍵で実家の玄関を開けた。
家の中は、音がしなかった。
靴箱も、廊下の電話台も、なくなっていた。居間の扉が開いていて、畳の上に家具の跡が四角く残っているのが見えた。
階段の三段目が鳴った。
部屋の扉の前で透は紙を開いた。声に出して、一度だけ読んだ。
それから鞄から透明なファイルを出した。
控えの写しが入っていた。十年前、事故の三日後に警察で話した内容。箱の中から、その二枚だけを持ってきた。
扉を開けた。
何もない部屋だった。
昨日、机が運び出されたあとと同じだった。床の薄い四角。カーテンのない窓。壁に、画鋲の穴がいくつか残っていた。
窓の右側には、まだ誰もいなかった。
腕時計は、二時五十四分だった。
透は部屋の真ん中に立って、控えの二頁目を開いた。
係官の質問と、透の答えが、交互に並んでいた。水城の前で読んだ頁だった。
車はどこから来ましたか。後ろからです。
そのとき、どうしましたか。よけました。とっさに、店の方へ。蓮の方へ、少し。
その次の行で透は目を止めた。
――よけたとき、どう思いましたか。……助かったと思いました。
あの日は、声に出して読んで、すぐに次の問いへ進んだ。映像と照合した表には入れなかった。現場へ行った日に二つの欄を分けたときも、入れなかった。この部屋で読み上げた紙にも、書かなかった。
読まなかったのではなかった。読んで、そこにないことにしていた。
透はその行をもう一度読んだ。
十九歳の自分の言葉だった。事故の三日後、蓮の葬儀の前に、警察の部屋でそう話していた。
車が上がってきた。体が店の方へ引いた。ライトが過ぎた。
助かった、と思った。
その一瞬のあとに、囲いにぶつかる音が来た。名前を呼ぶ声が来た。壁沿いに走った。蓮が向きを変えた。
助かったと思ったとき、透はまだ、そのどれも知らなかった。
それで何かが軽くなるわけではなかった。安堵したのは自分だった。三日後に、それを係官に話したのも自分だった。蓮が死んだと知ったあとで、それでも、そう話した。
そして十年、蓮を悼んできたのも、同じ自分だった。
どちらか一方だけを自分にすることは、できなかった。
透は控えを閉じた。
何もない部屋で、口を開いた。
「助かったと思った」
読んだのではなかった。
自分の声が壁に当たって返ってきた。家具のない部屋では、声が少しだけ大きく聞こえた。
違う動きなら蓮が助かったかどうかは、分からないままだった。そう考えることは、たぶんこれからもある。その答えは、どこにもない。
それでも、今の言葉は、透の言葉だった。
窓の右側で、空気が揺れた。
---
若い男が、壁にもたれて立っていた。
灰色のパーカー。両手をポケットに入れていた。
透を見ていた。
「……今の、何」
若い男が言った。
腕時計は、三時ちょうどだった。
「先に言うことがある」
透は言った。
「今日は三時半まで。木曜に、この家は人に渡る。……ここに来るのは、今日が最後になる」
若い男は、何もない部屋を見回した。床の薄い四角。カーテンのない窓。
「知ってる。昨日、全部持ってかれたし」
「うん」
「机も」
「うん」
若い男は床の四角を見ていた。
「おまえ、昨日、何も言わなかったな」
「母さんと、業者の人がいたから。……片づけの日には話さないって、決めてた」
「ふうん」
若い男は、それ以上は言わなかった。
「で、今の」
透は手の中のファイルを見た。
「控え。十年前の。事故の三日後に、警察で話したことの」
「……ああ」
「この前来たとき、確かめたことを読んだ。動きの順番とか、声のこととか。……あのとき、一つだけ読まなかった行がある」
若い男は黙っていた。
「車が上がってきて、僕は店の方へよけた。そのとき、どう思ったかって聞かれて、僕は、助かったと思った、って答えてる」
部屋が静かになった。
「資料を読み直したとき、読んだ。水城さんの前で、声に出して。でも、すぐ次に行った。そのあとも、ずっと見ないようにしてた。……今日、読み直した」
透は若い男の顔を見た。
「助かったと思ったのは、僕だった。蓮のことも、そのあと何が起きるかも、まだ知らなかったときに。……それを、なかったことにはしない。蓮が死んで、それがずっと苦しいのも、僕だ。どっちも」
若い男は、長いあいだ何も言わなかった。
窓の外で、車が一台通り過ぎた。
「……そうか。俺は、それ知らないな」
透は若い男を見た。
「ライトが目の前に来て、そこで切れたって、前に言ったろ。気がついたら外にいた。……よけて、助かったって思ったとこは、俺にはない」
若い男は、自分の手をポケットから出して見た。
「俺が覚えてるのは、その前までと、そのあと外から見てたとこだけ。おまえが助かったって思った、その一瞬は、おまえのだ。俺のじゃない」
透は何も言えなかった。
同じ顔をしていた。同じ日まで、同じものを見ていた。それでも、あの一瞬だけは、二人のあいだで分かれていた。
「だから、それがいいとか悪いとか、俺には言えない。知らないことには、言えない」
「……うん」
「でも」
若い男は少し間を置いた。
「助かったって思ったやつが生きてて、そいつが今日、それを自分で言いに来た。それは知ってる。今、見たから」
透は手の中のファイルを握り直した。
赦されたのではなかった。若い男は、そう言っていなかった。見たことを言っただけだった。
透は、さっき自分の声で言ったことを取り消さなかった。それでいいのかと、相手に聞くこともしなかった。
---
腕時計は、三時十二分だった。
紙の項目は、もう残っていなかった。
若い男が、壁から背中を離した。
「なあ」
「うん」
「これだけ言っとく。……赦すとかじゃないからな。俺がそうしてほしいってだけ」
若い男は透の顔を見なかった。窓の外を見ていた。
「おまえ、自分のこと責めるのに人生使うなよ」
透はすぐには答えなかった。
十年、そうしてきた。生き残った時間は、蓮に返すために使うものだと思ってきた。目の前の相手も、この部屋で十年、自分の声を責めてきた。
「……使わないようにする」
透は言った。
「できるかどうかは、分からない」
「知ってる」
若い男は少し笑った。
「俺も、声のことは、まだだめだし」
「うん」
二人とも、それ以上はその話をしなかった。
残りは十八分あった。
紙には、もう何も書いていなかった。
「時間、少し残ってる。蓮の話じゃないことを、話してもいいか」
若い男は、怪訝な顔をした。
「何を」
「分からない。……決めてない」
若い男は、鼻で笑った。
「じゃあ、おまえの話。俺、おまえが何の仕事してんのかも、ちゃんと知らない」
透は少し考えた。
「人が住めなくなった家とか部屋の、前に何があったかを調べてる。不動産の会社で」
「幽霊屋敷の調査員かよ」
「……そういうのも、ある」
「マジか」
若い男は、今度は声を出して笑った。
「おまえ、昔から見えてたもんな。それで飯食ってんのか」
「見えるからやってるんじゃない。住んでる人が困ってるから、調べる」
若い男は、少し黙った。
「ふうん」
それから、窓の外を見た。
「向かいの家のさ。ちっちゃい子いるだろ」
「知らない」
「いるんだよ。今年の春くらいまで、自転車の後ろに補助輪ついてた。毎日、夕方に家の前でぐるぐる回ってて。転んで泣いて、親に怒られて、また乗って」
若い男は窓の外を見たまま話した。
「夏くらいに、補助輪取れた。……取れた日、親が拍手してた。ここから見えた」
「そうか」
「それだけ。おまえの知らないこと、俺もちょっとは知ってんの」
透は窓の方を見た。カーテンのない窓から、向かいの家の屋根と、二階のベランダが見えた。自転車は見えなかった。
この部屋で、若い男は十年、窓の外を見ていた。透が扉を開けてすぐ閉めていたあいだも。
「次に住む人がさ」
若い男が言った。
「ここ、住めるといいな」
透は若い男を見た。
「俺、何もできないけどな。物も動かせないし。……見えるやつが来たら、ちょっと悪いけど」
「見えないかもしれない」
「見えないといいな」
若い男はそう言って、少しだけ肩をすくめた。
寂しそうだ、と透は思った。思ったことを、口には出さなかった。
---
腕時計は、三時二十八分だった。
「そろそろ」
透は言った。
「うん」
若い男は、壁にもたれ直した。
透はファイルを鞄にしまった。扉の方へ一歩下がった。
「まだ話してない蓮のことは、ある」
若い男が言った。
透の足が止まった。
帰りぎわに蓮が机のどこを見ていたか。この前、全部話すと若い男が言ったこと。この部屋を出れば、もう聞く方法はない。
喉の奥が熱くなった。
透は何も言わなかった。尋ねないこと、と書いた紙は、鞄の中にあった。
「でも今日は、それで呼び止めない」
若い男は言った。
透を見ていた。背中は向けていなかった。
「行けよ。時間だろ」
透は、若い男の顔を見た。
自分と同じ顔だった。十年前の、自分の顔だった。その顔が、透を引き止める言葉を持ったまま、それを使わずにいた。
「……じゃあ」
透は言った。
「うん」
若い男は、ポケットから片手を出して、少しだけ上げた。
透は扉を開けた。振り返った。
若い男は、何もない部屋の、窓の右側に立っていた。こちらを見ていた。
透は扉を閉めた。
階段を下りた。三段目が鳴った。
背後からは、何も聞こえなかった。
名前は、呼ばれなかった。
玄関で靴を履いて、外に出た。自分の鍵で、扉を閉めた。
三時三十分だった。
---
駅へ歩く途中で、透は携帯を出した。
〈終わりました。三時三十分に出ました。〉
〈控えにある、助かったと思いました、の問答のことを話しました。向こうは、その一瞬のことは知らない、と言いました。〉
〈蓮のことは、まだあると言われました。聞いていません。向こうは、呼び止めない、と言いました。〉
〈もう行きません。〉
送った。
返事は、駅に着く前に来た。
〈受け取りました。お疲れさまでした。〉
透はその二つ目の文を見ていた。
前のときは、一つ目だけだった。
透は携帯をしまって、手帳を開いた。前に来た日の頁には、終わりを求められて帰った、と一行だけ書いてあった。
今日の頁に、書いた。
三時三十分、自分で帰った。
その下には何も書かなかった。書かなくてよかった。
---
水曜の朝、透は出勤の前に実家へ寄った。
玄関の扉は開いていた。中で、掃除機の音がしていた。
「お母さん」
掃除機の音が止まった。母が居間から出てきた。エプロンをして、頭にタオルを巻いていた。
「早いわね」
「会社の前に寄った」
透はポケットから鍵を出した。
高校のときから使ってきた鍵だった。キーホルダーの塗装が剥げて、金具だけが光っていた。
母は手のひらで受け取った。
「これで全部ね」
母はそれをエプロンのポケットに入れた。
「上、見てく? もう何もないけど」
「いい。昨日、行ったから」
「そう」
母は階段の方を見た。
「あんたの部屋、最後まで物置にしちゃって、悪かったわね」
「いいよ」
「……あの箱。月曜に出しちゃったけど、よかったの」
「うん」
母はしばらく透の顔を見ていた。何かを聞きかけて、やめたように見えた。
「仕事、遅れるわよ」
「うん」
透は玄関で振り返った。
廊下の先に、階段が見えた。三段目は、ここからでは他の段と見分けがつかなかった。
透は階段に足をかけなかった。
外に出た。門を出て、家を見上げた。
二階の窓には、カーテンがなかった。ガラスに朝の空が映っていて、中は見えなかった。
そこにいることを、透は知っていた。昨日、見たからだった。今日も、明日も、知らない人が住み始めてからも、たぶん。
帰りぎわに蓮が机のどこを見ていたか。あの部屋の入口で、蓮がどんな顔をしていたか。母に何と言ったか。
聞かなかったことは、聞かないまま、あの部屋に残っていた。
透は駅の方へ歩き出した。
明日、この家は人に渡る。
角を曲がるまで、透は一度も振り返らなかった。
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