↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/40

第三十九話

 引き渡しまで一週間となった木曜の十二時十五分、透は千尋の職場のビルの前に立っていた。


 資料を借りてから、ちょうど二週間だった。


 封筒は、借りたときのまま鞄に入れてあった。中身は朝のうちに一つずつ確かめた。目撃した人の話をまとめた紙が何枚か。映像のディスクが一枚。透が手で書いたものは、封筒には入れていなかった。


 自動ドアが開いて、千尋が出てきた。紺のジャケットに、首から社員証を下げていた。


「十分」


 千尋は言った。


「はい」


 透は封筒を出して、両手で渡した。


 千尋はその場で封を開けた。紙の枚数を数えて、ディスクのケースを開けて、閉じた。


「コピーは取っていません。画面も撮っていません。気づいたことは手で書きました。見たのは僕と、前に話したもう一人だけです」


「そう」


 千尋は封筒を閉じて、トートバッグにしまった。


 それで用は済んだはずだった。透は頭を下げかけた。


「一つだけ聞く」


 千尋が言った。


 透は顔を上げた。


「あの子は、最後に何をしてたの」


 千尋は透を見ていなかった。ビルの前の植え込みを見ていた。


 透は少しのあいだ、言葉を選んだ。


「車が歩道に上がってきて、僕がまず店の方へよけました。車は囲いにぶつかって、向きが変わりました。そのあと僕は壁沿いに走りました。蓮も同じ方へ逃げかけていて、二人の進む先が重なって、蓮は向きを変えました。そこへ車の後ろが来ました」


 千尋は何も言わなかった。


「映像と、目撃した人の話と、僕の控えで、順番は合っていました。……蓮がどうして向きを変えたのかは、分かりません。映像には映っていないし、お借りした資料にも、理由の分かることは書かれていませんでした。違う動きなら助かったのかも、分かりません」


「分からない、のね」


「はい」


 千尋は植え込みから目を離した。


「誰かをかばった、とかじゃなくて」


「そういうことは、資料からは言えません。言いません」


 千尋は小さく頷いた。


 それ以上は聞かなかった。


 透も、それ以上は話さなかった。言わないことは決めてあった。あの部屋のことも、あの部屋に来た蓮のことも。


 千尋は腕時計を見た。それから、少しだけ間を置いた。


「あの子、出ていく前に、料理を一つだけ覚えようとしてた」


 透は黙って聞いた。


「親子丼。向こうで一人で暮らすから、一個くらい作れないとって。毎週日曜に作るの。毎回しょっぱくて。父が黙って食べて、母が水を飲んで。……三回目くらいで、私が、もう卵だけでいいって言ったら、怒ってた」


 千尋は口の端を少しだけ上げた。今度は、笑ったのだと分かった。


「上手くなる前に、終わった」


 透は何も言わなかった。


 知らない話だった。透が知らなくていい話でもあった。千尋は、それを透に聞かせるためではなく、言いたいから言ったように見えた。


「命日に連絡はいらない」


 千尋は言った。


「法事にも来なくていい。来たいと思ったら、その前に私に聞いて。断るかもしれない。……用があれば、私から連絡する。しないかもしれない」


「分かりました」


 透は手帳を出しかけて、やめた。書かなくても覚えていられることだった。


「じゃあ」


 千尋はそれだけ言って、自動ドアの中へ戻っていった。


 透は扉が閉まるまでそこにいた。


 十二時二十三分だった。


---


 駅へ歩きながら透は鞄の軽さを感じていた。


 二週間、封筒はそこにあった。読み、並べ、水城と線を引いた。それが今は、千尋のバッグの中にある。


 手元に残ったのは、自分の控えと見取図の写しと、手で書いたものだけだった。


 電車の中で透は手帳を開いた。来週の木曜の欄に、引き渡し、と書いてあった。その前の月曜に、片づけ。


 火曜の欄は、まだ空いていた。


---


 月曜の朝、実家の前にトラックが停まっていた。


 母の引っ越しの日だった。新しい部屋へ運ぶものと、処分するものに、家の中の荷物はもう分けてあった。二階の透の部屋が最後だった。


 透は休みを取っていた。


「あんたの部屋の物、ほとんど捨てるものだから。持っていきたいのがあったら、今言って」


 母が玄関で言った。


「うん」


 業者は二人だった。若い方が階段を上がるとき、三段目が鳴った。もう一人は気にせずに上がっていった。


 透は二人のあとから部屋に入った。


 段ボールの山。衣装ケース。窓際の机。入口の脇に、透が運んだ箱。壁際に、写真の箱。


 窓の右側に、若い男が立っていた。


 壁にもたれてはいなかった。両手をポケットに入れて、部屋の真ん中を見ていた。


 透の方を一度だけ見た。


 透は、目をそらさなかった。けれど、何も言わなかった。今日は片づけの日だった。母と業者がいる部屋で話すことはしない。それも、先に決めてあった。


 若い男も、何も言わなかった。


 まず段ボール箱が運び出されていった。業者は箱を二つずつ抱えて、階段を下りていった。衣装ケースは中身を確かめずに台車に載った。


「この箱は」


 若い方の業者が、入口の脇の箱を指した。


 透は少しだけ黙った。


「処分で、お願いします」


 箱は他の箱の上に重ねられて、運ばれていった。蓮が立っていた場所に見立てて置いた箱だった。運ぶ人には、ただの箱だった。


 写真の箱は、母が自分で抱えた。


「これは持ってく。あんたの小さいときのも入ってるから」


 母は蓋を押さえて、階段を下りていった。


 部屋に机だけが残った。


 母が戻ってきて、机の前に立った。


「これ、どうする。持ってく?」


 透は机を見た。天板の端に、コンパスで引いた細い線があった。


 窓の右側で若い男も机を見ていた。


「いい」


 透は言った。


「そう」


 母はそれ以上聞かなかった。


 業者が二人がかりで机を持ち上げた。脚が床から離れた。机のあった場所の床だけ、色が少し薄かった。


 机が扉を抜けていくあいだ、若い男は動かなかった。目だけが、机のあとを追っていた。


 扉の向こうで、階段の三段目が鳴った。


 部屋には何もなくなった。カーテンも外されていた。窓から入る光が、床の薄い四角をそのまま照らしていた。


 透は部屋を出る前に窓の方を見た。


 若い男は、まだそこにいた。何もない部屋の、窓の右側に。


 透は扉を閉めた。


 トラックが出たのは昼過ぎだった。母は新しい部屋へ向かう前に、玄関で言った。


「明日、もう一回来るんでしょ。電気と水道は木曜まで使えるから」


「うん。三時ごろ」


「鍵、あんたの持ってるので開けて。水曜に返してくれればいいから。私、水曜の朝に最後の掃除に来るから」


「分かった」


 透は高校のときから使っている鍵を、ポケットの中で確かめた。


---


 その夜、透は自分の部屋で紙に項目を書いた。


 伝えること。

 今日が、この部屋に来る最後の日であること。

 控えにある、助かったと思いました、の問答のこと。


 尋ねないこと。

 蓮のこと。


 終わりの時刻。

 三時から、三時三十分まで。


 書き終えて、読み直した。


 ペンの跡が濃い行は、なかった。


 二つ目の項目を透はしばらく見ていた。あの日、水城はその問答をノートの三行目に書き写していた。並んだ三つの行の一番下。透が目を向けなかった行だった。


 透は紙を写真に撮って水城へ送った。


〈明日、実家に行きます。最後になります。範囲は写真のとおりです。〉


 返事は、一時間ほどして来た。


〈読みました。二つ目は、朝倉さんが自分で決めたことだと受け取ります。終わったら、報告は受け取ります。〉


 透はその文面を一度だけ読んだ。


 二つ目について、水城は何も聞いていなかった。何を言うつもりなのかも、なぜ今なのかも。


 それでいいと思った。


 日曜の夜、水城から届いていたメッセージが、画面の上の方に残っていた。来月は、母と姉に会う日を自分で決めた、と。透は、よかったです、とだけ返していた。


 水城も、自分のことを自分で決めていた。


---


 火曜の二時五十分、透は自分の鍵で実家の玄関を開けた。


 家の中は、音がしなかった。


 靴箱も、廊下の電話台も、なくなっていた。居間の扉が開いていて、畳の上に家具の跡が四角く残っているのが見えた。


 階段の三段目が鳴った。


 部屋の扉の前で透は紙を開いた。声に出して、一度だけ読んだ。


 それから鞄から透明なファイルを出した。


 控えの写しが入っていた。十年前、事故の三日後に警察で話した内容。箱の中から、その二枚だけを持ってきた。


 扉を開けた。


 何もない部屋だった。


 昨日、机が運び出されたあとと同じだった。床の薄い四角。カーテンのない窓。壁に、画鋲の穴がいくつか残っていた。


 窓の右側には、まだ誰もいなかった。


 腕時計は、二時五十四分だった。


 透は部屋の真ん中に立って、控えの二頁目を開いた。


 係官の質問と、透の答えが、交互に並んでいた。水城の前で読んだ頁だった。


 車はどこから来ましたか。後ろからです。


 そのとき、どうしましたか。よけました。とっさに、店の方へ。蓮の方へ、少し。


 その次の行で透は目を止めた。


 ――よけたとき、どう思いましたか。……助かったと思いました。


 あの日は、声に出して読んで、すぐに次の問いへ進んだ。映像と照合した表には入れなかった。現場へ行った日に二つの欄を分けたときも、入れなかった。この部屋で読み上げた紙にも、書かなかった。


 読まなかったのではなかった。読んで、そこにないことにしていた。


 透はその行をもう一度読んだ。


 十九歳の自分の言葉だった。事故の三日後、蓮の葬儀の前に、警察の部屋でそう話していた。


 車が上がってきた。体が店の方へ引いた。ライトが過ぎた。


 助かった、と思った。


 その一瞬のあとに、囲いにぶつかる音が来た。名前を呼ぶ声が来た。壁沿いに走った。蓮が向きを変えた。


 助かったと思ったとき、透はまだ、そのどれも知らなかった。


 それで何かが軽くなるわけではなかった。安堵したのは自分だった。三日後に、それを係官に話したのも自分だった。蓮が死んだと知ったあとで、それでも、そう話した。


 そして十年、蓮を悼んできたのも、同じ自分だった。


 どちらか一方だけを自分にすることは、できなかった。


 透は控えを閉じた。


 何もない部屋で、口を開いた。


「助かったと思った」


 読んだのではなかった。


 自分の声が壁に当たって返ってきた。家具のない部屋では、声が少しだけ大きく聞こえた。


 違う動きなら蓮が助かったかどうかは、分からないままだった。そう考えることは、たぶんこれからもある。その答えは、どこにもない。


 それでも、今の言葉は、透の言葉だった。


 窓の右側で、空気が揺れた。


---


 若い男が、壁にもたれて立っていた。


 灰色のパーカー。両手をポケットに入れていた。


 透を見ていた。


「……今の、何」


 若い男が言った。


 腕時計は、三時ちょうどだった。


「先に言うことがある」


 透は言った。


「今日は三時半まで。木曜に、この家は人に渡る。……ここに来るのは、今日が最後になる」


 若い男は、何もない部屋を見回した。床の薄い四角。カーテンのない窓。


「知ってる。昨日、全部持ってかれたし」


「うん」


「机も」


「うん」


 若い男は床の四角を見ていた。


「おまえ、昨日、何も言わなかったな」


「母さんと、業者の人がいたから。……片づけの日には話さないって、決めてた」


「ふうん」


 若い男は、それ以上は言わなかった。


「で、今の」


 透は手の中のファイルを見た。


「控え。十年前の。事故の三日後に、警察で話したことの」


「……ああ」


「この前来たとき、確かめたことを読んだ。動きの順番とか、声のこととか。……あのとき、一つだけ読まなかった行がある」


 若い男は黙っていた。


「車が上がってきて、僕は店の方へよけた。そのとき、どう思ったかって聞かれて、僕は、助かったと思った、って答えてる」


 部屋が静かになった。


「資料を読み直したとき、読んだ。水城さんの前で、声に出して。でも、すぐ次に行った。そのあとも、ずっと見ないようにしてた。……今日、読み直した」


 透は若い男の顔を見た。


「助かったと思ったのは、僕だった。蓮のことも、そのあと何が起きるかも、まだ知らなかったときに。……それを、なかったことにはしない。蓮が死んで、それがずっと苦しいのも、僕だ。どっちも」


 若い男は、長いあいだ何も言わなかった。


 窓の外で、車が一台通り過ぎた。


「……そうか。俺は、それ知らないな」


 透は若い男を見た。


「ライトが目の前に来て、そこで切れたって、前に言ったろ。気がついたら外にいた。……よけて、助かったって思ったとこは、俺にはない」


 若い男は、自分の手をポケットから出して見た。


「俺が覚えてるのは、その前までと、そのあと外から見てたとこだけ。おまえが助かったって思った、その一瞬は、おまえのだ。俺のじゃない」


 透は何も言えなかった。


 同じ顔をしていた。同じ日まで、同じものを見ていた。それでも、あの一瞬だけは、二人のあいだで分かれていた。


「だから、それがいいとか悪いとか、俺には言えない。知らないことには、言えない」


「……うん」


「でも」


 若い男は少し間を置いた。


「助かったって思ったやつが生きてて、そいつが今日、それを自分で言いに来た。それは知ってる。今、見たから」


 透は手の中のファイルを握り直した。


 赦されたのではなかった。若い男は、そう言っていなかった。見たことを言っただけだった。


 透は、さっき自分の声で言ったことを取り消さなかった。それでいいのかと、相手に聞くこともしなかった。


---


 腕時計は、三時十二分だった。


 紙の項目は、もう残っていなかった。


 若い男が、壁から背中を離した。


「なあ」


「うん」


「これだけ言っとく。……赦すとかじゃないからな。俺がそうしてほしいってだけ」


 若い男は透の顔を見なかった。窓の外を見ていた。


「おまえ、自分のこと責めるのに人生使うなよ」


 透はすぐには答えなかった。


 十年、そうしてきた。生き残った時間は、蓮に返すために使うものだと思ってきた。目の前の相手も、この部屋で十年、自分の声を責めてきた。


「……使わないようにする」


 透は言った。


「できるかどうかは、分からない」


「知ってる」


 若い男は少し笑った。


「俺も、声のことは、まだだめだし」


「うん」


 二人とも、それ以上はその話をしなかった。


 残りは十八分あった。


 紙には、もう何も書いていなかった。


「時間、少し残ってる。蓮の話じゃないことを、話してもいいか」


 若い男は、怪訝な顔をした。


「何を」


「分からない。……決めてない」


 若い男は、鼻で笑った。


「じゃあ、おまえの話。俺、おまえが何の仕事してんのかも、ちゃんと知らない」


 透は少し考えた。


「人が住めなくなった家とか部屋の、前に何があったかを調べてる。不動産の会社で」


「幽霊屋敷の調査員かよ」


「……そういうのも、ある」


「マジか」


 若い男は、今度は声を出して笑った。


「おまえ、昔から見えてたもんな。それで飯食ってんのか」


「見えるからやってるんじゃない。住んでる人が困ってるから、調べる」


 若い男は、少し黙った。


「ふうん」


 それから、窓の外を見た。


「向かいの家のさ。ちっちゃい子いるだろ」


「知らない」


「いるんだよ。今年の春くらいまで、自転車の後ろに補助輪ついてた。毎日、夕方に家の前でぐるぐる回ってて。転んで泣いて、親に怒られて、また乗って」


 若い男は窓の外を見たまま話した。


「夏くらいに、補助輪取れた。……取れた日、親が拍手してた。ここから見えた」


「そうか」


「それだけ。おまえの知らないこと、俺もちょっとは知ってんの」


 透は窓の方を見た。カーテンのない窓から、向かいの家の屋根と、二階のベランダが見えた。自転車は見えなかった。


 この部屋で、若い男は十年、窓の外を見ていた。透が扉を開けてすぐ閉めていたあいだも。


「次に住む人がさ」


 若い男が言った。


「ここ、住めるといいな」


 透は若い男を見た。


「俺、何もできないけどな。物も動かせないし。……見えるやつが来たら、ちょっと悪いけど」


「見えないかもしれない」


「見えないといいな」


 若い男はそう言って、少しだけ肩をすくめた。


 寂しそうだ、と透は思った。思ったことを、口には出さなかった。


---


 腕時計は、三時二十八分だった。


「そろそろ」


 透は言った。


「うん」


 若い男は、壁にもたれ直した。


 透はファイルを鞄にしまった。扉の方へ一歩下がった。


「まだ話してない蓮のことは、ある」


 若い男が言った。


 透の足が止まった。


 帰りぎわに蓮が机のどこを見ていたか。この前、全部話すと若い男が言ったこと。この部屋を出れば、もう聞く方法はない。


 喉の奥が熱くなった。


 透は何も言わなかった。尋ねないこと、と書いた紙は、鞄の中にあった。


「でも今日は、それで呼び止めない」


 若い男は言った。


 透を見ていた。背中は向けていなかった。


「行けよ。時間だろ」


 透は、若い男の顔を見た。


 自分と同じ顔だった。十年前の、自分の顔だった。その顔が、透を引き止める言葉を持ったまま、それを使わずにいた。


「……じゃあ」


 透は言った。


「うん」


 若い男は、ポケットから片手を出して、少しだけ上げた。


 透は扉を開けた。振り返った。


 若い男は、何もない部屋の、窓の右側に立っていた。こちらを見ていた。


 透は扉を閉めた。


 階段を下りた。三段目が鳴った。


 背後からは、何も聞こえなかった。


 名前は、呼ばれなかった。


 玄関で靴を履いて、外に出た。自分の鍵で、扉を閉めた。


 三時三十分だった。


---


 駅へ歩く途中で、透は携帯を出した。


〈終わりました。三時三十分に出ました。〉


〈控えにある、助かったと思いました、の問答のことを話しました。向こうは、その一瞬のことは知らない、と言いました。〉


〈蓮のことは、まだあると言われました。聞いていません。向こうは、呼び止めない、と言いました。〉


〈もう行きません。〉


 送った。


 返事は、駅に着く前に来た。


〈受け取りました。お疲れさまでした。〉


 透はその二つ目の文を見ていた。


 前のときは、一つ目だけだった。


 透は携帯をしまって、手帳を開いた。前に来た日の頁には、終わりを求められて帰った、と一行だけ書いてあった。


 今日の頁に、書いた。


 三時三十分、自分で帰った。


 その下には何も書かなかった。書かなくてよかった。


---


 水曜の朝、透は出勤の前に実家へ寄った。


 玄関の扉は開いていた。中で、掃除機の音がしていた。


「お母さん」


 掃除機の音が止まった。母が居間から出てきた。エプロンをして、頭にタオルを巻いていた。


「早いわね」


「会社の前に寄った」


 透はポケットから鍵を出した。


 高校のときから使ってきた鍵だった。キーホルダーの塗装が剥げて、金具だけが光っていた。


 母は手のひらで受け取った。


「これで全部ね」


 母はそれをエプロンのポケットに入れた。


「上、見てく? もう何もないけど」


「いい。昨日、行ったから」


「そう」


 母は階段の方を見た。


「あんたの部屋、最後まで物置にしちゃって、悪かったわね」


「いいよ」


「……あの箱。月曜に出しちゃったけど、よかったの」


「うん」


 母はしばらく透の顔を見ていた。何かを聞きかけて、やめたように見えた。


「仕事、遅れるわよ」


「うん」


 透は玄関で振り返った。


 廊下の先に、階段が見えた。三段目は、ここからでは他の段と見分けがつかなかった。


 透は階段に足をかけなかった。


 外に出た。門を出て、家を見上げた。


 二階の窓には、カーテンがなかった。ガラスに朝の空が映っていて、中は見えなかった。


 そこにいることを、透は知っていた。昨日、見たからだった。今日も、明日も、知らない人が住み始めてからも、たぶん。


 帰りぎわに蓮が机のどこを見ていたか。あの部屋の入口で、蓮がどんな顔をしていたか。母に何と言ったか。


 聞かなかったことは、聞かないまま、あの部屋に残っていた。


 透は駅の方へ歩き出した。


 明日、この家は人に渡る。


 角を曲がるまで、透は一度も振り返らなかった。

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。