第三十八話
土曜の昼、家を出るときも、窓際の背中は何も言わなかった。
土曜の午後二時、澪は母の部屋の呼び鈴を押した。
高校を出るまで暮らした部屋だった。廊下の突き当たりの扉も、表札の字も、変わっていなかった。
母はすぐに出てきた。エプロンはしていなかった。
「上がって」
それだけ言って、母は先に台所の方へ戻った。
居間のテーブルに、湯呑みが二つ出ていた。その横に、古いアルバムが一冊と、茶封筒が一つ置いてあった。
澪は座らなかった。
「先に、言っておきたいことがある」
「何」
「今日は、お姉ちゃんの話をしに来たんじゃないの。お母さんと私のことを話しに来た。……四時には帰る」
母は急須を持ったまま、澪を見た。
「四時ね」
「うん」
「……分かったわ。座りなさい」
澪は座った。
母がお茶を注いだ。湯気が二つ立った。
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母はアルバムには手をつけなかった。
茶封筒を取って、中から一枚だけ写真を出した。テーブルの上に澪の方へ向けて置いた。
古い写真だった。色が少し褪せていた。
あの家の窓だった。廊下の突き当たりの、板の継ぎ目のある窓。
窓の下に、小さな女の子が座っていた。五つか六つくらいだった。膝を立てて、体を横に向けていた。窓の外ではなく、自分の右側の何もないところを見ていた。
口が開いていた。何か話している途中だった。
澪は、その写真を見ていた。
自分だった。
「私が撮ったの」
母が言った。
「あんたが、あそこで話してたから。……誰もいないところに向かって、楽しそうに。何回も見たわ。それで、一回だけ撮った」
澪は写真から目を上げなかった。
「アルバムには貼らなかった。こっちの封筒に入れて、ずっと押し入れにしまってた」
「……どうして」
「貼ったら、見えるでしょう。毎回」
母は湯呑みを両手で持った。
「あんたの横に、誰がいるのか。私には見えなかった。でも、誰と話してるのかは分かってた。……分かってたのよ」
澪は、ようやく顔を上げた。
母は澪を見ていた。この前の喫茶店のときのように、目をそらさなかった。
「あんたが、お姉ちゃん、って言うたびに、いないって言った。そんな子いないって。夢でも見たんでしょうって」
母の声は、低かった。
「いたのよ。私は、それを知ってて、いないって言った。あんたが見たものを、なかったことにした。……あんたが自分の覚えてることを疑うようになったのは、私のせいよ」
澪は何も言わなかった。
この前、母は謝った。心配だったと言った。悔しかったとも言った。それは聞こえた。
今日の母は、写真を出していた。自分で撮って、自分で隠したものを。
「ごめんなさい」
母は言った。
澪は、写真の中の自分を見た。横を向いて、何もないところに話しかけていた。
その何もないところに、お姉ちゃんがいた。澪は、そう覚えている。母は、その澪を撮っていた。
「……許す、とは、今は言えない」
澪は言った。
母は頷いた。驚いた様子はなかった。
「分かってるわ」
「言えるようになるかも、分からない」
「それも、分かってる」
澪は湯呑みに手を伸ばした。お茶は少しぬるくなっていた。
「でも」
「お母さんが私を育てたことは、なかったことにしない。熱を出したときも、受験のときも、お母さんがいた。それは、本当にあったこと」
母の手が、湯呑みの上で止まった。
「お母さんがお姉ちゃんのことを、いないって言ったことも。……どっちも、本当にあったこと。どっちかで、どっちかを消さない」
母は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐いた。
「……あんたは、昔から、そういうところが頑固ね」
「お母さんに似たの」
母は、少しだけ笑った。笑ったように見えた。
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写真は、澪がもらうことになった。
母が言い出したのではなかった。澪が聞いた。持って帰っていいか、と。母は、少し考えてから、いいわよ、と言った。
澪は写真を封筒に戻して、鞄にしまった。
三時半を過ぎた頃、母が言った。
「……あの子は」
澪は顔を上げた。
「あの家にいる、あの子。……元気なの」
母は、湯呑みの縁を見ていた。
澪は少しのあいだ、母の顔を見ていた。
「お母さん」
「何」
「お姉ちゃんのことは、私からは話さない。お母さんのことも、お姉ちゃんには話さない」
母は顔を上げた。
「二人の間で、何か伝えたいことがあっても、私は運ばない。お母さんが知りたいなら、お母さんが自分で決めて。……会いに行くかどうかも」
母は黙っていた。
「私は、もう、みんなの間を行ったり来たりしない。そう決めたの」
しばらくして、母は言った。
「……会いには、行かないと思う。今は」
「うん」
「今は、よ」
「うん。それでいい」
澪は時計を見た。三時四十分だった。
「お母さん。来月、お昼食べに行かない?」
母は少し驚いた顔をした。
「お昼」
「駅の向こうの、お蕎麦屋さん。まだあるでしょう。……その日は、お姉ちゃんの話はしない。私の仕事の話とか、お母さんの最近の話とか。そういうの」
母は、湯呑みを置いた。
「……第二土曜なら」
「じゃあ、第二土曜」
澪は手帳を出して、書いた。母も、台所のカレンダーに何か書き込んでいた。
四時五分前に、澪は立ち上がった。
玄関で、母は言った。
「気をつけて帰りなさい」
「うん」
扉が閉まった。
澪は廊下を歩きながら鞄の上から封筒に触れた。
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翌日の日曜、澪は一人で旧居へ行った。
直子おばさんは門の前で鍵を渡してくれて、いつものように軽自動車の中で待っていた。
時間は四十分にした。前と同じだった。
朝倉には、行く前に連絡した。〈今から入ります。十一時四十分に出ます。〉返事は一行だった。〈はい。出たら一言ください。〉
廊下を一人で歩いた。
突き当たりの窓のそばに、お姉ちゃんがいた。膝を抱えて座っていた。
澪が近づくと、顔を上げた。
「……みおちゃん」
「遅くなって、ごめん」
お姉ちゃんは首を傾けた。昔と同じ傾け方だった。
「雨が何回か降った。そのあと、晴れた日が続いた。……それから、また来た」
澪は窓の下に腰を下ろした。昨日、写真で見た場所だった。
「待ってた?」
「待ってたよ。……引っ越していってから、ずっと」
お姉ちゃんは窓の外を見た。
「長かったよ。でも、待ってたのは、私。迎えに来るって言ったのは、みおちゃんがちっちゃかったときだし。……私が、待ちたかったの」
澪は膝の上で手を組んだ。何も言えなかった。
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「今日は、あの子からの伝言はないの」
「うちの子。もう一人の、私。……今、私と話してくれないの。伝言を運ぶのは一回に一往復だけって、私が決めたから。それが嫌だって」
お姉ちゃんは、少しのあいだ黙っていた。
「怒ってるんだ」
「たぶん」
「……そっか」
お姉ちゃんは膝を抱え直した。
「じゃあ、私から一つだけ。あの子に。……読まなくていいって言われたら、読まなくていいから」
「うん」
お姉ちゃんは少し考えた。
「私は、ここで雨の日を数えて待ってた。あなたは、窓から何を見てるの。……急がなくていい。聞かせてくれるなら、待ってる」
澪はノートに書いた。書いたものをお姉ちゃんに読んで聞かせた。
「それでいい」
お姉ちゃんは頷いた。
十一時半だった。
「お姉ちゃん。次のこと、言っておきたい。毎週は来られない。……来月の第三日曜に来る。その次は、そのとき決める」
「……うん」
「来られない週があっても、来ないって決めたわけじゃない。でも、ずっと来続けるって約束も、今はできない」
「謝らなくていいよ」
澪が何か言う前に、お姉ちゃんが言った。
「次が決まってる方が、いい。……雨、数えなくて済むから」
「お母さんのことは」
お姉ちゃんが言いかけた。
澪は、少し息を止めた。
「……ううん。いい。みおちゃんに聞くことじゃないね」
澪は何も言わなかった。昨日、母に言ったことを、ここでも守った。
十一時四十分に、澪は立ち上がった。門を出てすぐ、朝倉に〈出ました。十一時四十分。〉とだけ送った。
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部屋に帰ると、窓際に女の背中があった。
澪はコートを掛けた。鞄からノートを出した。
「お姉ちゃんに会ってきた」
返事はなかった。
「お姉ちゃんから、あなたに言葉を一つ預かってきた。……今は読まない。ここに置いておく。聞きたくなったら言って」
澪はノートを開いて、その頁を上にして机の端に置いた。窓からも見える位置だった。
背中は動かなかった。
澪は台所へ行った。湯を沸かした。
戻ってきたとき、ノートは同じ場所にあった。頁も同じだった。
ただ、女の顔が、窓ではなく机の方を向いていた。
澪は何も言わなかった。気づかないふりをして、湯呑みを持って寝室へ行った。
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その夜、澪は伝言の頁とは別の頁に書いた。
お姉ちゃんとあの子:一回の訪問で、一往復まで。あの子からは、あの子が渡したいと言った言葉だけ。お姉ちゃんからは、お姉ちゃんが預けたいと言った言葉だけ。聞くかどうかは、受け取る方が決める。
お母さんとお姉ちゃん:運ばない。
お母さん:来月第二土曜、お昼。お姉ちゃんの話はしない。
お姉ちゃん:来月第三日曜。
書き終えて、少し眺めた。
誰かと誰かをつなぐための自分の役目は、どこにも書かなかった。お母さんとのお昼も、お姉ちゃんに会いに行く日も、誰かに頼まれて決めたものではなかった。
あの子が今、話してくれないことも、どこにも書いていなかった。書いて決められることではなかった。
澪は携帯を取った。昼に送った〈出ました〉の下に、一行だけ足した。
〈来月は、母と姉に会う日を、自分で決めました。〉
返事は少しして来た。
〈よかったです。〉
澪は鞄から封筒を出した。写真の中で、小さな澪が横を向いて話していた。
それを机の引き出しに入れて、閉めた。
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翌朝、澪がカーテンを開けると、窓際に女がいた。
こちらを向いていた。
澪は、おはようと言いかけて、やめた。
女は窓の外を見た。向かいの電線に、鳥がとまっていた。
「……鳥」
女が言った。
二週間近く、聞いていなかった声だった。
「四羽」
それだけだった。
澪は、机の端のノートを見た。開いたままの頁を見た。私は、ここで雨の日を数えて待ってた。あなたは、窓から何を見てるの。
女はそれ以上言わなかった。読んでくれとも、持っていけとも言わなかった。
澪も、何も聞かなかった。
鞄を持って、玄関で靴を履いた。
「行ってきます」
返事はなかった。
扉を閉める前に、一度だけ振り返った。女は、まだ電線の方を見ていた。
澪はそれをノートには書かなかった。
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