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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第三十七話

 救急車の中で、澪は榊原の手を見ていた。


 胸の上に置かれた手だった。指先はまだ少し震えていた。隊員が何かを聞くたびに、榊原は短く答えた。名前。生年月日。飲んでいる薬。前に倒れたときのこと。


 澪が答えられることは、ほとんどなかった。


「ご家族ですか」


「いいえ。……知り合いです。今日、ご自宅に一緒にいました」


 隊員は頷いて、それ以上は聞かなかった。


 サイレンの音が、車の中では思ったより遠かった。


---


 病院の廊下の長椅子で、澪は四十分待った。


 榊原が運ばれていった扉は、ずっと閉まっていた。看護師が二度出てきて、二度とも別の人の名前を呼んだ。


 三度目に出てきた看護師が、澪の前で止まった。


「榊原さんの付き添いの方ですね」


「はい」


「ご家族ではないと伺っているので、詳しいことはお伝えできないんですが。意識ははっきりしています。検査のため、今日はこのまま入院になります。ご本人が、少しなら会えると言っています」


 澪は立ち上がった。


 処置室の奥のベッドで、榊原は横になっていた。腕に点滴の管がつながっていた。顔色は、居間で見たときより少しよかった。そう見えた。


「すみません。こんなことに付き合わせて」


 榊原の声は小さかった。


「いいえ」


「朝倉さんにも。……鍵は」


「朝倉さんが閉めて、郵便受けに入れたそうです。さっき連絡がありました」


 榊原は目を閉じた。しばらくして、開けた。


「あの子には、病院から連絡が行くかもしれません。……私からは、まだ」


 それだけ言って、また目を閉じた。


 澪は、それ以上は聞かなかった。


 廊下に出て、朝倉とのメッセージを開いた。


〈検査のため、今日はそのまま入院だそうです。意識ははっきりしています。私はこれで帰ります。〉


 朝倉の返事は、すぐに来た。


〈ありがとうございました。土曜に、記録をまとめましょう。〉


〈はい。〉


 病院の外は、もう暗くなりかけていた。


---


 家に帰ると、窓際の女がこちらを見た。


 一瞬だけだった。すぐに窓の方へ向き直った。


 火曜の夜から、女は一言も話していなかった。


「ただいま」


 返事はなかった。


 澪はコートを掛けた。台所で湯を沸かした。湯が沸くまでのあいだ、何か言おうとして、言葉を選びかけた。


 今日、人が救急車で運ばれた。私はその車に乗った。


 言えば、女は聞くかもしれない。聞いて、何か言うかもしれない。


 けれどそれは、沈黙を埋めるための言葉だった。女が話さないと決めたことを、こちらの話で動かそうとする言葉だった。


 澪は何も言わなかった。湯を注いで、窓に背を向けて座った。


---


 土曜の午後、区民センターの二階の部屋は空いていた。


 澪は長机に自分のノートを開いた。向かいで、朝倉が手帳を開いた。


 木曜の頁だった。


「四つに分けます」


 澪は新しい頁に縦線を三本引いた。


「本人たちが言ったこと。久世さんが言ったこと。私たちが見たこと。私たちがしたこと。……それから一番下に、私たちが考えたこと。これは、ほかと混ぜないように」


「私たちがしたこと、ですか」


「はい。記録をやめた時刻。通報した時刻。それも、残します」


 朝倉は少し黙ってから、頷いた。


 一行ずつ進んだ。二人の記録が同じところはそのまま写した。違うところは両方を並べて書いた。どちらが正しいかは、決めなかった。


 二時二十二分。榊原さん「コートを着たまま」。朝倉が聞き取れた順では、榊原さんが先。ただし、もう一人の言葉を聞き逃した可能性は残る、と朝倉。澪のノートでは、ほぼ同時。


 どちらが先か確認できず、と澪は添えた。


 二時四十一分から先は、二人ともノートを閉じていた。そこから下は、あとからそれぞれが覚えていたことを並べることにした。澪はその行の上に、「ここから記憶による」と書き添えた。


 二時四十一分。榊原さん、胸に手。息が浅い。汗。


 その行の「私たちがしたこと」の欄に、澪は書いた。


 水城、記録をやめると告げる。朝倉、体調を尋ね、携帯を出す。


 朝倉が、手帳から目を上げた。


「そこに、もう一行入れてください」


「はい」


「本人に救急はいらないと言われて、僕はすぐには通報しなかった。……接触と救急が別のことだと、分かっていたのに」


 澪はペンを止めた。


「何分、と書きますか」


「時計を見ていなかったので、分かりません。でも、すぐではなかった」


 澪はそのまま書いた。


 朝倉、本人の拒否を受けて、すぐには通報せず。時間は記録なし。


 少し迷って、自分の行も足した。


 水城、通報を促す言葉は言っていない。


 朝倉はそれを見ていた。何も言わなかった。


 二時四十四分。朝倉、通報を終えて時刻を確認。


 二時四十七分までに。榊原さん「終わりにする」。久世さん「回復されてから、あらためて続きを」。水城、紙の三行目を読む。榊原さん「休んでからの続きではない」「終わりです」。もう一人「私も、終わりでいい」。水城、録音停止を求める。久世さん、停止。二人で消灯を確認。そのあと時刻を確認、二時四十七分。


 澪はそこでペンを置いた。


 一番下の欄は、まだ空いていた。


「『考えたこと』は」


「一つだけ書きます」


 澪は書いた。


 体調が変わったあとも、続きを求める問いと勧めがあった。その中で、榊原さん本人が終わりを選んだ。私たちの通報には、遅れがあった。


 書いてから読み直した。


 久世が悪いとも、榊原が正しかったとも書いていなかった。自分たちが正しかったとも書いていなかった。それでいいと思った。


---


 もう一枚、紙を作った。


 三枝の件だった。事例Fの要約は、本人の書いたこととどこが違うのか。三枝が半年前に送った訂正の依頼と、相談室の要約を、もう一度並べた。


 一、やめたいと本人が言ったこと。要約では「不調を訴える時期」。

 二、休憩のあと、再開を勧められたこと。要約では「一時休止の後、接触を再開」。

 三、再開後に退室し、負傷したこと。要約には記載なし。

 四、眠れるようになったのは、接触をやめてからだと本人が書いていること。同じ頃に休職と通院があり、理由は一つに決められないこと。要約では「その後、睡眠と日常生活の安定が得られた」。


「これは、久世さんに要約がどうなったかを聞くときに使います。三枝さんに知らせるのは、結果だけ」


---


 久世からのメールは、月曜の朝に届いた。


 宛先は、朝倉と澪の二人だった。


〈朝倉さん、水城さん。


 木曜は、ありがとうございました。そして、申し訳ありませんでした。


 榊原さんの体調が変わったとき、私は休んでから続けることを勧めました。三枝さんのときと、同じ勧め方でした。そのことを、あの日から何度も考えています。


 榊原さんからも、病室でお話を伺いました。最初に要約を読んで予定を受け入れたとき、途中でやめたいと言った方がいたことや、その方がけがをしたことを知っていたかった、と。その時点で知っていたら、自分の決め方は変わったかもしれない、と。


 私は、方法そのものを誤りだったとは考えていません。多くの方が、向き合うことで落ち着いてこられました。その経験を、私はなかったことにはできません。榊原さんの体のことも、接触のせいだと私には言い切れません。


 ただ、不調を訴えた方に続けることを勧めてきたこと、その経過を説明に書かなかったことについては、異議を受け止めます。


 当面、新しい方の受け入れと、接触を強める手続きを休みます。いま相談を続けている方々には、事例Fの経過を含めて、改めてご説明します。


 事例Fの要約は、書き直しました。添付いたします。〉


 澪は添付を開いた。


 一頁だけの文書だった。


 接触の途中で、本人が終了を申し出た。当室は休憩後の再開を勧め、本人は再開した。再開後、本人は再び不調を訴えて退室し、その後転倒して負傷した。本人は、睡眠の改善は接触の中止後とする。当室は、それ以前の接触の寄与も否定できないと考える。


 澪は土曜に作った紙と並べた。


 一から三は、書かれていた。


 四は、改善の時期だけが入っていた。その横に久世の考えが並んでいた。休職と通院のことは、なかった。


 いつ眠れるようになったかという本人の記録と、何が効いたかという久世の考えが、同じ種類の説明のように並んでいた。


 足りないところを、澪が代わりに書き足すことはできなかった。


 朝倉から、メッセージが来た。


〈読みました。四は、休職と通院がありません。〉


〈書き足すかどうかは、三枝さんが決めることだと思います。そのまま送って、ないことだけ添えましょう。〉


〈分かりました。〉


---


 月曜の夕方、澪と朝倉は病室に榊原を訪ねた。


 検査はまだ続いていた。数日のうちに退院できるだろう、と榊原は言った。そう医者に言われた、と。


 整理した記録を、ベッドの脇の台に置いた。


「本人たちが言ったこと、久世さんが言ったこと、私たちが見たこと、私たちがしたこと。分けてあります。二人の記録が違うところは、両方書いてあります」


 榊原は眼鏡をかけて、一枚目から読んだ。


 ゆっくり読んだ。途中で一度、指で行を押さえた。


「ここは」


 二時四十一分の行だった。朝倉、本人の拒否を受けて、すぐには通報せず。


「これは、私が断ったからでしょう」


「断られても、呼ぶと決めていました」


 朝倉が言った。


「決めていたのに、すぐには呼べなかった。それは、僕のことなので」


 榊原はしばらく朝倉を見ていた。


「……そうですか」


 それ以上は言わなかった。


 榊原は手帳から一枚の紙を出した。病室で書いたものだった。


「私が覚えていることを、書きました。お二人の記録には手を入れません。これを、横に置いてください」


 カップを見ていたら、扉のそばに誰かがいる気がした。見えたわけではない。コートを着ていることは、言われる前に分かった気がする。気がするだけかもしれない。


 胸が苦しくなったのは覚えている。それでも続けたかった。


 分からないで済む話じゃない、と言いかけた。あの子にも同じことを言った。


 終わりにすると言ったのは、私だ。


 あの子に連絡するかどうかは、まだ決めていない。


 澪は、その紙を三枚の記録の上ではなく、横に置いた。


「居間のあれは、まだいるでしょうね」


 榊原は窓の外を見た。病院の窓からは、駐車場しか見えなかった。


「帰ったら、また毎朝いる。……何か話すわけでもない。私も、もう何も聞かない」


---


 その夜、朝倉は三枝にメールを送った。文面は、澪が書いた。


〈三枝さん。


 ご依頼のあった、要約のその後をお知らせします。


 相談室の要約は書き直されました。新しい文面は、このあとに全文を貼ります。


 終了の申し出、再開の勧め、退室と負傷は記載されました。改善の時期については、三枝さんの書かれたことと、相談室の考えが並べて書かれています。同じ頃の休職と通院については、記載がありません。


 相談室は、当面、新しい受け入れと接触を強める手続きを休み、いま相談を続けている方々に改めて説明すると伝えてきました。


 お知らせは以上です。〉


 その下に、久世から届いた文面をそのまま貼った。


 「ありがとうございました」と書きたかった。けれど、それは三枝に返事を求める一行になる気がした。


 返事は、翌日の昼に転送されてきた。


〈読みました。


 最後の『当室の考え』のところは、俺はそうは思いません。でも、やめたいと言ったことと、けがのことが書いてあるなら、それでいいです。休職と通院は、俺の生活のことなので、書いてなくていいです。


 これで終わりにします。もう連絡はしないでください。


 家のあいつのことも、俺は調べません。気にならないわけじゃないけど、調べないことにしてます。


 お二人も、元気で。〉


 前に会ったときの三枝は、調べる二人に注意をくれた。今度のは、別れの挨拶だった。


 澪は、ノートの三枝の頁の一番下に書いた。


 協力、終了。本人の意思。以後、連絡しない。


---


 水曜の夜、澪は自分の部屋で、久世のメールをもう一度開いた。


 方法そのものを誤りだったとは考えていません。


 申し訳ありませんでした。


 同じメールの中に、二つの文があった。


 事故のあとで、澪はあの相談室の扉を開けた。自分と同じ顔の女が部屋にいると話した。久世は、それを否定しなかった。頭がおかしいとも、疲れているだけだとも言わなかった。


 それは、本当にあったことだった。


 三枝が階段で腕を折ったのも、本当にあったことだった。榊原が胸を押さえながら続けたいと言い、久世が休んでから続けようと言ったことも。


 澪はノートの新しい頁を開いた。


 久世相談室。助けられたこと。書かれなかったこと。


 二つの見出しを並べて書いた。その下に、それぞれ一行ずつ書いた。


 否定されずに聞いてもらった。

 要約に三枝さんの終了の申し出と負傷が書かれず、それを読んだ榊原さんは、その要約からは知ることができなかった。


 書いてから、二つの行を読み直した。どちらも、そのままにした。


 顔を上げると、窓際に女の背中があった。


 月曜も、火曜も、女は話さなかった。姿は毎日あった。こちらを向くことも、ときどきあった。けれど、何も言わなかった。


 澪は、その背中を見ていた。


 次は、と思った。


 浮かんだのは、朝倉の顔ではなかった。久世の顔でも、榊原の顔でもなかった。


 母の顔だった。


 あの喫茶店で、母は「分かったわ」と言った。なかったって言わないで、と澪が頼んだときだった。あれから、澪は母と会っていない。お姉ちゃんの伝言を運び、この子の言葉を運び、朝倉の部屋の言葉を書き、榊原の居間で時刻を書いた。


 そのあいだ、母とは何も決めていなかった。


 忙しかったからではなかった。忙しいことを、理由にできたからだった。


 澪は携帯を取った。


〈お母さん。会って話したいことがあります。お姉ちゃんの伝言ではなくて、私とお母さんのことです。〉


 送る前に、もう一行足した。


〈今度はお母さんが時間を決めて。〉


 送った。


 窓際の背中は、動かなかった。


 返事は、十分ほどで来た。


〈土曜の午後なら。うちに来なさい。〉


 「うちに」と澪は読んだ。


 喫茶店ではなかった。


 澪はノートの次の頁に、日付と「母の家」とだけ書いた。


 その下は空けておいた。

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