第三十六話
一、一、九。
透は最後の数字を押して、携帯を耳に当てた。
呼び出し音が一度鳴った。
「朝倉さん」
榊原がこちらを見た。胸に手を当てたままだった。
「いらないと、言ったでしょう」
「接触を続けるかどうかとは、別のことです。呼びます」
声は思ったより落ち着いていた。手の方が震えていた。
電話の向こうで、女の人の声がした。火事ですか、救急ですか。
「救急です」
透は言った。手帳を開いた。日曜に榊原から届いた住所を、火曜の頁の隅に書き写してあった。それを読み上げた。
五十代くらいの男性。胸を押さえている。息が浅い。汗をかいている。意識はある。話はできる。前に心臓の病気で倒れたことがあると、本人から聞いている。
聞かれるまま、透は答えた。水城が隣で、榊原の顔を見ながら頷いていた。透が見えないところを、水城が見ていた。
「すぐ向かいます。楽な姿勢で、そのまま待っていてください」
電話が切れた。
二時四十四分だった。
---
榊原は、透の方を見ていなかった。
椅子の後ろの男を見ていた。
「……答えてくれ」
息の合間に、榊原が言った。
「あの子は、最後には」
男は、すぐには答えなかった。
同じ顔の少しだけ若い方が先に目をそらした。床を見た。扉の脇の何もない壁際を見た。
「……分からない。あの子は、許すとも、許さないとも言っていない。私が覚えているところまででは、言っていない。その先で言ったのかもしれない。でも、その先を私は知らない」
「知らない、のか」
「知らない」
男はもう一度、床を見た。
「あなたが言ってほしい言葉は、分かる。……言えば、あなたは少し楽になるのかもしれない」
男の声が低くなった。
「でも、私には言えない。それは私が作った言葉で、あの子の言葉じゃない」
榊原の手がカップを離した。カップは膝の上で傾いて、絨毯に落ちた。割れなかった。
榊原はそれを拾わなかった。
「アルバムが」
榊原は棚の下の方へ体を傾けかけた。
「カップでだめなら、写真なら」
「榊原さん、動かないでください」
水城が言った。強い声だった。
久世が榊原の肩に手を置いた。
「今は、無理をなさらないで。救急の方が来て、落ち着かれたら、またいつでも」
榊原は久世の手を見なかった。男を見ていた。
「思い出してくれ。顔を。あの子の顔を、もう一度」
「顔は覚えてる。でも、泣いていたのか怒っていたのか、分からない」
「分からないで済む話じゃ——」
榊原は、そこで止まった。
言いかけた口のまま、動かなくなった。
透は携帯を握ったまま、榊原を見ていた。
胸を押さえていたときとは、違う止まり方だった。目は男ではなく、床に落ちたカップを見ていた。
「……同じことを、言った」
榊原が言った。
息が切れていた。けれど、言葉は止まらなかった。
「十七のときだ。進路をどうするのかと聞いた。あの子は、分からない、と言った。まだ分からない、と。……私は、分からないで済む話じゃないと言った。何度も聞いた。言い方を変えて。あの子が、私の思う答えを言うまで」
男は何も言わなかった。
「今も、同じことをしている。……こいつが分からないと言っているのに。カップで、写真で。あの子にしたのと、同じことを」
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「終わりにする」
榊原が言った。
かすれていた。けれど、はっきりしていた。
久世が、榊原の顔をのぞき込んだ。
「榊原さん。今、大事なことに気づかれたと思います。ですから、回復されてから、あらためて続きを」
「久世さん」
水城が言った。
水城はテーブルの端の便箋を指していた。
「紙の三行目です。終わりと言われたら、ほかの言葉に言い換えない。休憩や一時休止にしない。その日の質問も、再現も、記録も、そこで終える」
久世は便箋を見た。それから榊原を見た。
「榊原さん。回復されてからの続き、ということでは」
「休んでからの続きではない」
榊原は言った。胸に手を当てたまま、久世の目を見ていた。
「終わりです」
居間が静かになった。
「私も、終わりでいい」
窓のそばで男が言った。
水城が、久世の前の録音機を見た。
「久世さん。録音を止めてください」
久世は少しのあいだ、何も言わなかった。
眼鏡を外して、指で目の間を押さえた。それから眼鏡をかけ直した。
録音機に手を伸ばした。ボタンを押した。
赤い光が消えた。
透は録音機を見た。水城も見ていた。光は、もう点かなかった。
二時四十七分だった。
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遠くでサイレンの音がした。
だんだん大きくなって、家の前で止まった。
水城が玄関へ走った。透は榊原のそばに残った。
救急隊は三人だった。居間に入ってきて、榊原の名前を聞き、胸のことを聞き、薬のことを聞いた。榊原は短く答えた。棚の白い紙袋のことを水城が伝えると、一人がそれを取りに行った。
担架が居間に入った。
テーブルが少しずらされた。録音機が、テーブルの端で揺れた。
透は窓の方を見た。
男は、窓のそばに立っていた。白いワイシャツで、両手を体の横に下ろしていた。
担架に移される榊原を、見ていた。
救急隊の誰も、男の方を見なかった。一人が、男の立っているすぐ前を通った。男はよけなかった。よける必要がないことを、透は知っていた。
「付き添いの方は」
救急隊員が言った。
榊原が、担架の上で水城を見た。
「水城さん。……お願いできますか。家族は、すぐには」
水城は一瞬だけ透を見た。
「行きます」
榊原は、透の方へ手を少し動かした。
「朝倉さん。鍵が、玄関の小物入れに。閉めて、郵便受けに入れておいてください」
「はい」
担架が居間を出た。水城がそのあとについていった。
玄関で、水城が一度だけ振り返った。
「あとで連絡します」
「はい」
扉が閉まった。サイレンが鳴り始めて、遠ざかっていった。
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居間に透と久世が残った。
久世は、しばらく立ったままだった。それから、テーブルの上の録音機を取って、鞄にしまった。
「……私は、間違っていたのでしょうか」
久世が言った。
透に聞いているのか、自分に聞いているのか、分からない声だった。
透は答えなかった。今ここで、その問い全体に答える言葉はなかった。救急を呼ぶのが遅れたのは、透も同じだった。それでも、久世が今日何をしたかは、あとで記録から消さないと透は思った。
久世は、それ以上は言わなかった。湯呑みを台所へ運んで、洗った。水の音がした。それから、玄関の方へ歩いていった。
「鍵は、朝倉さんにお願いします」
久世は靴を履いて、出ていった。
透は居間に一人で立っていた。
一人ではなかった。
窓のそばに、男がいた。
床にカップが落ちたままだった。透はそれを拾おうとして、手を止めた。どこへ戻すかは、今、自分が決めることではない気がした。
「『終わり』と言いましたね」
男が言った。
「あの人が」
「はい」
「……聞こえました」
男はそれだけ言った。窓の外を見た。
透は、何も聞かなかった。
娘のことも、続きのことも、これからこの部屋で何をするのかも。
玄関の小物入れに、鍵があった。透は靴を履いて外に出た。扉を閉めて、鍵をかけた。
郵便受けに鍵を落とした。金属の音がした。
門を出て振り返ると、居間の窓のカーテンが、少しだけ開いていた。
中は暗かった。誰かが立っているのかどうか、ここからは見えなかった。
透は携帯を出した。
水城からは、まだ何も来ていなかった。
透は駅の方へ歩きながら、画面を消さずに持っていた。
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