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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第三十五話

 木曜の一時二十五分、透は榊原の家の門の前に立っていた。


 水城は先に着いていた。門灯の柱の横で、ノートを胸に抱えていた。


「久世さんは、もう中です。さっき、タクシーが停まりました」


「はい」


 透は手帳を開いた。火曜の頁に、紙の五項目を写してあった。その下に、自分で足した一行がある。


 娘さんの場面は聞かない。


 透はそれを一度だけ読んで、手帳を閉じた。


 呼び鈴を押した。


---


 居間の配置は火曜と同じだった。


 ソファと低いテーブル。壁際の棚。窓のそばの一人掛けの椅子。


 違うのは、テーブルの上に小さな録音機が置かれていることと、ソファの真ん中に久世が座っていることだった。


 灰色のセーターだった。相談室で会ったときと同じように、湯呑みを両手で包んでいた。


「朝倉さん、水城さん。今日は、ありがとうございます」


 久世は立ち上がって頭を下げた。


 椅子のそばの男は窓の方に立っていた。火曜と同じ白いワイシャツだった。透が入ってきても、目を向けなかった。久世の方を見ていた。


「紙は、拝見しました」


 テーブルの端に、火曜の便箋が開いて置いてあった。榊原の字だった。


「榊原さんがお決めになったことですから。終わりは、榊原さんも、あの方も言える。言い換えない。お二人は、娘さんの場面の続きを引き出すようなことはお尋ねにならない。……そのとおりにいたします」


 久世は穏やかに言った。


「ただ、一つだけ。終わり、という言葉は、苦しいときにも出てきます。本当にやめたいときと、もう少しで届くときと、外から見ると同じに見えることがある。そのときは、私から榊原さんに、お気持ちを確かめることはあるかもしれません」


 透は水城の顔を見なかった。視界の端で、水城のペンが一度動いた。


「確かめるのは、終わりかどうか、ですか」


 水城が言った。


「ええ。終わりなら、終わりにします」


「あちらの方が終わりと言ったときも、ですか」


「もちろんです」


 久世は頷いた。


「確かめても、終わりという言葉を、休憩や一時休止にはしない。紙の三行目のとおりに。それでいいですね」


 水城が言った。


「……ええ。紙のとおりに」


 久世は頷いた。それでも、久世の言う「確かめる」が何を指すのか、透にはまだ分からなかった。


 榊原は、その間ずっと黙っていた。便箋を見ていた。


「録音は、先生が」


 榊原が言った。


「いつもそうしてもらっています。今日も、それでいい」


「はい」


 透は答えた。


 録音機の小さな赤い光は、まだついていなかった。


---


 二時になった。


「では、始めましょう」


 久世は録音機のボタンを押した。赤い光がついた。


「榊原さん。今日は、いつもの席に座っていただけますか」


 久世は一人掛けの椅子を手で示した。


 榊原は少しのあいだ椅子を見ていた。


 火曜には、空けたままにしていた椅子だった。


 榊原はソファから立って、椅子に座った。椅子のそばの男が、半歩だけ窓の方へ下がった。


 透は手帳を開いた。二時。榊原さん、一人掛けの椅子へ。もう一人は窓側へ半歩。


「この部屋のことを、思い出してください」


 久世の声は、相談室で聞いたときと同じ速さだった。


「娘さんがこの家にいらした頃の、この部屋です。何が、どこにありましたか」


 榊原は部屋を見回した。


「テレビは、もっと小さかった。棚の上に、あの子の……賞状が、一枚だけ」


「はい」


「あの子は、テーブルのそっち側に座っていました。宿題をここでやった」


 榊原は、ソファの端を見た。火曜に自分が座っていた場所だった。


 男は、何も言わなかった。


 榊原の視線を追うように、同じ場所を見ていた。


「娘さんが使っていたものは、まだありますか」


 久世が言った。


 榊原は答えなかった。


 しばらくして、立ち上がった。居間の奥、台所との境にある食器棚を開けた。上の段の奥へ手を入れた。


 戻ってきたとき、榊原の手にはマグカップが一つあった。


 白い地に小さな青い鳥の絵があった。縁が一か所、欠けていた。


「あの子のです」


 榊原は椅子に座り直して、カップを膝の上で両手で包んだ。


「家を出るとき、置いていった。……捨てられなくて」


 男が、カップを見ていた。


 その目が、動かなくなった。


---


 部屋の温度が、変わったわけではなかった。


 変わったのは、男の姿勢と向きだった。両手が体の横で止まっていた。椅子の背からも窓からも離れて、居間の入口の方を向いていた。


 入口には、誰もいなかった。透の目には、閉まった扉しか見えなかった。


「……来た」


 男が言った。


 榊原の手がカップを握り直した。


「あの子が、来た」


 男の声は低かった。火曜に話していたときより、ゆっくりだった。


「扉を開けて、入ってきた。ここまで来て」


 男は、一人掛けの椅子のそばを見た。榊原が座っている、その横だった。


「立って。お父さん、と言った」


 火曜に聞いたところまでだった。


 透はペンを止めずに書いた。二時十八分。もう一人、入口を向く。「来た」。椅子のそば、「お父さん」。ここまで既知。


「それから……戻った。扉の方へ。……扉のそばに、座った。床に。壁に背中をつけて」


 透は扉の脇の壁を見た。


 何もなかった。白い壁と、床の木目だけだった。


「コートを、着たままだ」


 言ったのは、榊原だった。


 透は顔を上げた。


 榊原は、扉の脇を見ていた。男と同じ場所だった。


「……脱がないんだな」


 榊原の声だった。けれど、誰かに話しかけている声ではなかった。


 男は、すぐには続けなかった。


 男が言う前に、榊原が言ったのか。男が言ったのを、透が聞き逃したのか。透には分からなかった。手帳には榊原「コートを着たまま」とだけ書いた。


「グレーの長いコートです」


 男が言った。


 榊原は頷いた。頷いたことに、自分で気づいていないように見えた。


---


「何か話していますか」


 久世が静かに言った。


 男は、扉の脇を見たまま答えた。


「話してる。……お父さんは、って」


「はい」


「お父さんは、新聞を読むとき、眼鏡を額に上げた。読み終わると、それを忘れて、眼鏡を探した。毎朝。……毎朝、探してた、って」


 榊原の口元が、わずかに動いた。


 笑ったのかもしれなかった。透には、そう見えた。


「お父さんは、靴を磨くのが好きだった。日曜の朝、玄関で。私の靴も、勝手に磨いた。……やめてって言っても、磨いた。そう話してる」


 男の声が、少しだけ高くなった。


 娘の言い方をなぞっているのかもしれなかった。透には、娘の声は聞こえなかった。聞こえたのは、榊原と同じ声で語られる言葉だけだった。


「やめてって、言ったのに」


 榊原が言った。


 小さな声だった。


 水城が顔を上げた。透も、榊原を見た。


 榊原は扉の脇を見ていた。目が、ほとんど動いていなかった。


「榊原さん」


 久世が言った。


 榊原は答えなかった。


 二つ数えるくらいの間があった。


「……はい」


 遅れて、榊原が言った。久世の方を向いたのは、そのあとだった。


「大丈夫ですか」


「大丈夫です。……見えているわけじゃない。ただ、聞いていると、そこにいるような気がする」


 榊原は、カップを持ち直した。


「続けてください」


 透は手帳に書いた。二時二十六分。久世の呼びかけに、返事が遅れる。本人「見えているわけじゃない」「そこにいるような気がする」。続行を希望。


 書きながら、水城の方を見た。


 水城はノートから顔を上げていなかった。けれど、ペンの先が紙の上で止まっていた。


---


「あの子は、ほかに何か」


 榊原が言った。


 自分から男に向かって言っていた。


 男は、扉の脇を見たまま、少し黙った。


「……ここに帰ってくるの、怖かった、って」


 榊原の手の中で、カップが小さく鳴った。爪が当たったのかもしれなかった。


「怖かった。帰ったら、また何か言われると思った。学校のことも、仕事のことも。帰るたびに、間違ってるって言われる気がした」


 男の声は、平らだった。


 平らに言おうとしているように、透には聞こえた。


「だから、来られなかった。……でも、もう言われないんだと思ったら」


 男はそこで止まった。


「思ったら」


 榊原が言った。


「……来られた、って」


 居間が静かになった。


 録音機の赤い光だけが、変わらず点いていた。


 榊原は、カップを見下ろしていた。


 死んだあとなら、来られた。


 ラウンジで榊原が言った言葉を、透は思い出していた。私が死んだら、あの子は家に帰ってきた。生きている私のところには、来ないのに。


 男が語る場面では、娘はそう話していた。それが、生きている娘の帰ってこない理由のように、榊原には聞こえているのかもしれなかった。榊原の顔を見ても、透には分からなかった。


 透は手帳の上でペンを握っていた。何も書けなかった。


 男が伝える娘の言葉には、怖かったという話も、毎朝眼鏡を探した父の話も、靴を磨いた父の話もあった。


 どちらか一つだけを取り出すことはできなかった。


---


「それで」


 榊原が言った。


「それで、あの子は」


 男は答えなかった。


 扉の脇を見ていた目が、ゆっくりと動いた。床を見た。それから、榊原を見た。


「……そこまでです」


「そこまで」


「その先が、ない」


 男の両手が、また体の横で止まっていた。


「あの子は、まだ扉のそばに座ってた。コートを着たまま。何か言おうとしてた。……そこで、切れる」


「何を言おうとしていた」


「分からない」


 男は言った。


「顔は見えた。口が動いたのも見た。でも、言葉は聞こえなかった」


 榊原が、椅子から身を乗り出した。


「もう一度、思い出してくれ。あの子は、どんな顔をしていた。泣いていたか。怒っていたか」


「顔は覚えてる。でも、泣いていたのか怒っていたのか、分からない。どっちにも見えた」


「さっきまで、見えていただろう」


「見えていた。……今は、もう浮かんでこない」


 透は膝の上で手帳を押さえていた。


 四行目。娘の場面の続きを引き出す質問をしない。


 聞いているのは榊原で、紙はそれを禁じていなかった。それでも、透は自分の喉が動くのを感じた。


 シャツの色は。何と言った。顔は。


 先週の火曜、あの部屋で出した自分の声だった。


「途切れるのは、自然なことです」


 穏やかな声だった。


「共有が進んでいるからこそ、ここで途切れるんです。大事なところの手前では、いつもこうなる。私はそれを、何度も見てきました」


 榊原は久世を見た。


「私の見てきた方では、ここで終えてしまうと、また最初からになることが多い。せっかく、ここまで来たんです。少し間を置いて、カップをもう一度、ゆっくり見ていただけますか。あの方にも、急がずに」


 男は、久世の方を見なかった。


 カップを見ていた。


 榊原が、カップを持っていない方の手を胸に当てた。


 息が、さっきより浅かった。肩が小さく上下していた。額に汗が浮いていた。居間は暖かくなかった。


 透は三枝の録音を思い出していた。気分が悪い、と言った声。休んで、落ち着いたら、もう一度、と言った声。


「榊原さん。体は、大丈夫ですか」


 透が言うより少し早く、水城がノートを閉じた。閉じる音が、居間に小さく響いた。


「私は、ここで記録をやめます。榊原さんの様子が変わったので。……胸は、痛みますか。息は苦しいですか」


 静かな声だった。けれど、さっきまでより早かった。


 透は鞄から携帯を出した。画面をつけた。


 久世が透の手元を見た。それから榊原を見た。


「少し休みましょう。お水を持ってきますね。それから、また」


「大丈夫です」


 榊原が言った。胸に手を当てたままだった。


「救急は、いりません。……続けてください。ここで、やめたくない」


 透は携帯を握っていた。


 接触を終えることと、救急を呼ぶことは別だった。火曜に、この居間でそう言ったのは自分たちだった。分かっていた。


 それでも、本人に「いらない」と言われると、指が動かなかった。


 三枝は、階段で腕を折った。


 水城が透を見た。何も言わなかった。けれど、その目は透の手元の携帯で止まっていた。


 次にもう一度、いらないと言われても。透はそう思った。思ったまま、まだ番号を押していなかった。


 手帳は閉じた。記録をやめると決めたのは、透も同じだった。


 二時四十一分だった。


 誰も、終わりとは言っていなかった。


---


 久世が台所から水の入ったコップを持ってきて、榊原の前に置いた。榊原は手をつけなかった。


 榊原はカップを持ち上げた。指先が少し震えていた。欠けた縁を見ていた。


「この欠けたところ。……中学のとき、あの子が落とした。私は怒った。あの子は、謝らなかった。それからずっと、これを使っていた。欠けたまま」


 息の合間に、短く切って言った。


 榊原はカップを膝の上に戻した。


 男を見た。


 長いあいだ、見ていた。


 男も、榊原を見ていた。同じ顔が、少しだけ違う年齢で、向かい合っていた。


「教えてくれ」


 榊原が言った。


 声が、かすれていた。汗が一筋、こめかみから顎へ伝った。


「あの子は、最後には」


 透は携帯を握り直した。


 水城は閉じたノートの上で、両手を組んでいた。


 久世は、湯呑みを両手で包んだまま、榊原を見ていた。


「最後には、私を許したのか」


 録音機の赤い光が、テーブルの上でついていた。


 透の手の中で携帯の画面が暗くなった。透は親指で画面をつけ直し、番号を押し始めた。


 男は、答えなかった。

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