第四十話
実家の引き渡しから、もうすぐ三週間になる。
水曜の午後、透は沢井の部屋の居間にいた。
前に来たときと同じダイニングの椅子だった。ソファの上に、もう毛布はなかった。
「お茶でいいですか」
「お構いなく。二十分ほどで失礼します」
沢井は湯呑みを二つ置いて、向かいに座った。
透は手帳を開いた。経過の確認だった。生活の様子だけを伺う約束で来ていた。前の報告書の最後に、一定期間後、と書いた。その期間が来ていた。
「寝室は、いかがですか」
「寝てます。ほとんど毎晩」
沢井は湯呑みを両手で包んだ。
「扉は開けたままです。足元の灯りもつけたまま。……慣れちゃいました。最初は、扉の方ばっかり見てたけど、今は、見ない日の方が多いかな」
「声は」
「前にお電話でお話ししてからは、一回だけ。先月の終わりくらい。掃除機かけてて、コードが扉に引っかかって。少し動いたら、待って、って」
沢井はそこで少し笑った。
「掃除機止めて、扉を戻して、続きをかけました。……そのあとは、聞いてないです」
透は書いた。日付は沢井の覚えている範囲で。そのとき何をしていたか。扉の状態。そのあとどうしたか。
「怖くなくなったわけじゃないんです。夜中に目が覚めて、廊下の方が気になることはあります。でも、起きて確かめに行ったりはしてません。……確かめないで、また寝る。それができるようになった、っていうか」
「はい」
「朝倉さん、見ていきます? 寝室」
透は廊下の方を見た。
居間の扉の向こうに廊下があって、その途中に寝室の扉口があるはずだった。ここからは見えなかった。扉枠の脇も、見えなかった。
「いえ。大丈夫です」
透は言った。
「沢井さんが寝られているなら、それで」
沢井は少し意外そうな顔をした。それから頷いた。
「水城さん、元気ですか」
「……はい。たぶん」
「たぶん、って」
「最近は、仕事の用事がないので」
沢井は、ふうん、という顔をした。何か言いかけて、お茶を飲んだ。
二十分で、透は立ち上がった。
玄関で靴を履きながら、透は廊下を振り返らなかった。足元の灯りが、昼の光の中で小さく点いているのだけが目の端に入った。
「また何かあったら、連絡ください」
「はい。……ないといいけど」
扉が閉まった。
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会社に戻って、透は報告書の経過の欄を書いた。
経過(住人の申告による):概ね寝室で就寝。寝室の廊下側扉は開放、足元灯の使用を継続。前回の確認以後、掃除の際に扉がわずかに動き、「待って」という声を一回聞いた。それ以降は聞いていない。夜間の確認行動はしていないとのこと。生活上の負担は軽減。不安は一部残存。
現象の状況:消失は確認していない。
今後:住人から連絡があった場合に対応。
書き終えて、読み直した。
前の報告書と、ほとんど同じ形だった。違うのは、ソファの上に毛布がなかったことと、沢井が少し笑ったことだった。それは、報告書には書く欄がなかった。
透は報告書を提出した。
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帰り道、駅前の交差点で信号を待っていた。
横断歩道の向こうで、トラックが急にブレーキを踏んだ。高い音がした。
透の体が、勝手に後ろへ引いた。背中が、歩道の脇の建物の壁に当たった。
トラックは停止線の手前で止まっていた。運転席の男が、前の車に向かって何か言っていた。誰も轢かれていなかった。
心臓が速く打っていた。
信号が青に変わった。人が渡り始めた。透は壁に背中をつけたまま、少しのあいだ動けなかった。
ライトの白さが、目の奥に残っていた。
十年前と同じだった。体が先に動く。何が起きたのか分かるのは、そのあとだった。
透はゆっくり息を吐いた。
あの部屋のことを思った。窓の右側。壁にもたれた灰色のパーカー。
あそこへ行けば、と一瞬思った。思って、その先へ考えを進めなかった。行く方法はもうなかった。方法があったとしても、今のこの怖さを持っていくところではなかった。
信号が点滅し始めた。透はその青を見送った。
次の青に変わってから、壁から背中を離して横断歩道を渡った。足は少し重かった。それでも、駅へ向かって歩いた。
その夜は、なかなか眠れなかった。
朝になって、いつもの時間に起きた。会社へ行った。
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土曜、透は昔の家の前を通った。
一度だけ、と決めていた。
隣の駅で降りて、歩いた。駅から実家までの道だった。角のコンビニの前を過ぎた。
門の前で、足を止めた。
表札が新しくなっていた。透は名前を読まなかった。
一階の窓の外に、物干しが出ていた。小さなシャツが何枚かと、大人のシャツが並んでいた。風で少し揺れていた。
玄関の脇に、三輪車が一台置いてあった。
透は二階を見上げた。
自分の部屋だった窓に、カーテンがかかっていた。淡い色の、新しいものだった。閉まっていた。
何も見えなかった。
見えないことが、いないことの証明にならないのを、透は知っていた。沢井の部屋でもそうだった。扉枠の脇に誰もいないように見える日も、いなくなったとは書かなかった。
あの窓の内側に、若い男がいるのかどうか。いるなら、新しい住人の誰かに見えているのかどうか。この家に住む人が、そこで眠れているのかどうか。
透には分からなかった。分かる方法も、もうなかった。
ここ、住めるといいな、と若い男は言った。
透は物干しのシャツを見た。三輪車を見た。
それを、住めている証拠だとは思わなかった。けれど、シャツが干されていて、三輪車が置いてある。それは、今見えていることだった。
門の前に長く立っていれば、住んでいる人が気にする。
透は門から離れた。
向かいの家の前を通るとき、玄関先に子ども用の自転車が停めてあるのが見えた。後ろの車輪の脇に、補助輪はついていなかった。
透は足を止めなかった。
角を曲がった。振り返らなかった。
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その夜、透は自分の部屋で水城とのメッセージを開いた。
最後は、実家に最後に行った日の透の報告と、水城の、受け取りました、お疲れさまでした、だった。
そのあとは、何も書いていなかった。
仕事の用事は、もうなかった。榊原の記録は二人で整理を終えていた。千尋の資料は返した。家は人に渡った。
用事がないから、連絡しなかった。
それが本当の理由なのかどうか、透は自分で分かっていた。
透は文字を打った。消した。もう一度打った。
〈水城さん。調査のことではない連絡です。〉
〈今度、休みの日に、映画を観て、食事をしませんか。僕が水城さんと行きたいと思ったので、誘っています。断ってもらって構いません。〉
読み直した。
断ってもらって構いません、の一行を、透はしばらく見ていた。消そうかと思った。消さなかった。それは逃げ道ではなく、本当のことだった。
送った。
携帯を机に伏せ、台所でコップに水を汲んだ。飲んだ。流しにコップを置いた。
携帯が震えた。
思ったより早かった。
〈行きます。〉
〈いくつか、希望を言ってもいいですか。〉
〈どうぞ。〉
〈怖い映画は、なしで。〉
透は少しだけ笑った。
〈それは、僕もなしでお願いします。〉
〈よかった。それから、日曜は姉のところへ行く日が入ることがあるので、土曜がいいです。〉
姉のところへ行く日、と透は読んだ。
水城が自分で決めた日のことだった。それ以上のことを、透は聞かなかった。
〈土曜で大丈夫です。〉
〈あと、映画のあとに食事がいいです。観る前だと、時間が気になって落ち着かないので。〉
〈分かりました。僕は、観たあとに話す時間があるといいと思っていました。〉
〈じゃあ、同じですね。〉
透は何を観るかを考えた。
調べた。今やっているものの一覧を、上から順に見た。事件も、事故も、幽霊も出てこないものを探していることに気づいて、やめた。それは、水城に決めてもらう方がいいと思った。
〈観たいものはありますか。僕は、決められていません。〉
少しして、返事が来た。
〈二つあります。一つは動物が出てくるもので、たぶん泣きます。もう一つは、料理人の話で、たぶんお腹が空きます。〉
〈後の方がいいです。食事の前に観るので。〉
〈そう言うと思いました。〉
透は画面を見ていた。
そう言うと思いました。
水城は、透がどう答えるかを考えていた。調査の手順ではなく、休日の映画のことで。
〈再来週の土曜、二時の回はどうですか。終わったら、近くでご飯を。〉
〈はい。お店は、朝倉さんが選んでください。私は、映画を選んだので。〉
〈分かりました。〉
〈楽しみにしています。〉
最後の一行を、透は二度読んだ。
〈僕もです。〉
送った。
透は手帳を開いた。
再来週の土曜の欄に、書いた。
二時、映画。そのあと、食事。水城さんと。
ペンを止めた。
これまで、手帳には終わりの時刻を書いてきた。七時半まで。三時半まで。何を聞かないか。誰が止めるか。
その欄に、透は何も書かなかった。
終わりの時刻は、その日の二人が決めればよかった。
透は手帳を閉じて、店を探し始めた。
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再来週の土曜は、晴れていた。
透は一時半に映画館のある駅に着いた。早すぎた。改札を出たところの柱のそばで待った。
手帳は鞄に入れたままだった。
人が改札から出てきて、それぞれの方へ散っていった。家族連れ。学生らしい二人組。一人で歩いていく年配の女の人。
誰も、透の方を見なかった。
透も、誰かの肩の後ろや、柱の陰を見なかった。見えるものがあれば、たぶん見えた。今日は、それを探しに来たのではなかった。
一時四十分に、改札の向こうに水城が見えた。
薄い色のコートを着ていた。透を見つけて、少しだけ手を上げた。
改札を抜けて、水城が来た。
「早いですね」
「早く着きすぎました」
「私も、早く出すぎて、一本遅らせました」
水城はそう言って、少し笑った。
透も笑った。
「お店、決めました」
「どこですか」
「映画のあとで、言います」
「楽しみにしてます」
二人は映画館の方へ歩き出した。
信号のある交差点で、車が一台、ゆっくり曲がっていった。透は少しだけ肩に力が入った。水城は何も言わなかった。透も何も言わなかった。
信号が青になった。
二人は並んで渡った。
映画館の入口で、水城が上映の案内を見上げた。
「二時の回、まだ席ありますね」
「はい」
「真ん中がいいですか。後ろの方がいいですか」
透は少し考えた。
「真ん中で」
「私もです」
水城は券売機の前に立った。透はその横に並んだ。
画面の上で、席を選ぶ指が二つの空席の上で止まった。
どこに座るかを、二人で決めた。
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