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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第三十三話

 月曜の朝、透は出社前に一枚の紙へ項目を書き出した。


 昨日の夕方、区民センターで水城と分けた二つの欄を手帳から写した。確かめたこと。分からないこと。その下に、三つの見出しを足した。


 伝えること。

 確かめた動きの順番。最初の回避、囲いへの衝突、壁沿いに走ったこと、蓮が向きを変えたこと。

 声の時点は控えによる。映像に音はない。

 並べてみて、どれか一つだけを原因とは言えないと考えたこと。

 火曜のことを謝る。

 引き渡しの日を伝える。


 分からないこと。

 蓮が向きを変えた理由。囲いの向こうで起きたこと。違う動きなら蓮は助かったか。


 尋ねないこと。

 蓮の場面を尋ねない。

 事故のことで、新しく思い出させようとしない。

 物を動かさない。写真を出さない。


 終わりの時刻。

 七時から、七時三十分まで。


 書き終えて、透は紙を読み直した。


 蓮の場面を尋ねない。


 その一行だけ、ペンの跡が少し濃くなっていた。


 透は紙を写真に撮り、水城へ送った。


〈今夜、実家に行きます。範囲は写真のとおりです。〉


 返事は昼休みに来た。


〈読みました。同行はしません。終わったら、報告は受け取ります。〉


 それだけだった。


 透は手帳に挟んだ紙を見ながら、その文面を読み返した。


 水城は来ない。来ないと決めたのは水城で、範囲を書いたのは透だった。今夜、時刻を告げる人はいない。紙にない質問を止める人もいない。


 火曜に破った約束を、今度は誰にも止めてもらえない場所で守らなければならなかった。


 透は母に連絡を入れた。


〈今夜七時前に寄ります。三十分くらい。夕飯はいらない。〉


〈はいはい。〉


 母の返事は短かった。


---


 仕事を早めに切り上げて、実家に着いたのは六時五十分だった。


 母は玄関で、透の顔を少し見てから台所へ戻った。何も聞かなかった。


 階段の三段目が鳴った。


 扉の前で、透は紙を開いた。声に出して、一度だけ読んだ。誰に聞かせるためでもなかった。


 七時ちょうどに扉を開けた。


 部屋は一週間前と同じだった。段ボールの山。衣装ケース。窓際の机。


 入口の脇に、透が運んだ箱がまだ置いてあった。


 透はそれを見て足を止めた。


 火曜に蓮が立っていた場所に見立てて置いた箱だった。写真の箱も、蓋が少しずれたまま壁際にあった。


 置き方は、あの日から変わっていないように見えた。


 透は箱に手を伸ばしかけて、やめた。今日は物を動かさない。紙にそう書いた。戻すのは、別の日に母に断ってからにする。


 机の前に立った。


 窓の右側で空気が揺れた。


 十九歳の自分が、壁にもたれて立っていた。灰色のパーカー。両手をポケットに入れていた。


 透を見ていた。


 何も言わなかった。


 透も、すぐには口を開けなかった。


---


「火曜のあとで、来るのは初めてだ」


「……知ってる」


 若い男の声は低かった。


「何しに来た」


「話しに来た。今日は、三十分だけ」


 若い男は黙っていた。


「責めに来たわけじゃない。何か聞きに来たわけでもない」


 透は紙を見た。


「あれから、事故の資料を読み直した。千尋さんに借りたものと、僕の手元にあったもの。映像も見た。……分かったことを伝えに来た」


「映像」


「店のカメラの。音はない」


 若い男の目が透の手元の紙に落ちた。


「読むよ。紙に書いてきたことだけ」


 若い男は返事をしなかった。それでも、壁から少し背中を離した。


 透は読んだ。


「車が歩道に入ってきたとき、僕はまず店の方へ身を引いてた。その動きは、映像にも、十年前に僕が警察で話した控えにもある」


 若い男は動かなかった。


「そのあと車が囲いにぶつかって、大きな音がした。目撃した人の話と映像で合う。声は控えではぶつかる音のあと。確かめた動きの順番とも、食い違わない」


 透は顔を上げずに続けた。


「声のあと、僕は壁沿いに走った。蓮も、同じ方へ逃げかけてた。二人の進む先が重なって、蓮は向きを変えた。そこへ車の後ろが来た」


 紙を持つ手に力が入っていた。


「車があって、囲いがあって、壁と車道のあいだの限られたところで、僕が動いた。今の歩道は狭かった。十年前の幅は確かめてない。……それでも、どれか一つだけで起きたことには、見えなかった」


 透はそこで一度息を吸った。


「分からないこともある。蓮が向きを変えた理由。囲いの向こうで起きたこと。違う動きなら蓮は助かったか。……それは、資料では分からない」


 読み終えて、透は紙を下ろした。


 若い男は、長いあいだ黙っていた。


 透は待った。


 十年、この部屋で一人で抱えていた場面だった。透も、別の部屋で一人で抱えていた。それを今、初めて同じ順番で並べていた。


「……俺が、呼んだのは。ぶつかったあとだった、ってことか」


「控えでは、そう。映像には音がないから、声の時点は映ってない」


「でも、俺もそう言った。月曜に」


「うん。そこは、資料と合ってた」


 合っていたのは、その順番だった。それで話の全部が確かめられたわけでも、声のことが片づいたわけでもなかった。


 若い男は窓の外を見た。


「それでも……俺が呼ばなかったら、おまえは二度目には動かなかった」


 透は若い男を見た。


「二度目に動かなかったら、蓮のとこへは行かなかった。……そうだろ」


---


「それは」


 透は言いかけた。


「声だけのせいじゃない。さっき言ったろ。車があって、囲いがあって」


「おまえの動きもある、って言っただろ」


「そうだ。僕の動きも」


「その動きは、俺の声で起きた」


「声で起きたかもしれない。でも、声だけで起きたわけじゃ」


 透は言葉を止めた。


 声だけで起きたわけじゃない。


 自分で言いかけた言葉が、そのまま返ってきた。


 一歩だけで起きたわけじゃない。


 十年、透は自分の一歩を原因にしてきた。あのとき動いたから。動いた方向が悪かったから。月曜にも、ここで同じことを言った。蓮が死んだのは、僕が動いたからだ、と。


 昨日、区民センターで水城に並べてもらった欄を、透は今、相手に向かって読み上げていた。車。囲い。道。動き。どれか一つではない。


 それを相手に言うなら、自分にも言わなければならなかった。


 若い男は、透の顔を見ていた。


「……止まったな」


「うん」


「今、自分のこと考えたろ」


 透は答えなかった。


「おまえだって、自分の一歩のせいにしてたじゃないか。月曜。蓮が死んだのは僕が動いたからだ、って。俺が呼んだからって言っても、聞かなかった」


「……うん」


「俺は声のせい。おまえは一歩のせい。……同じこと言ってる」


 若い男の声に、笑いのようなものが混じりかけて、消えた。


「同じ形してるんだよ。言い方が」


 透は窓際の机の傷を見た。コンパスで引いた細い線。


「『おまえの声だけのせいじゃない』って言いたかった。そう言ったら、僕の一歩だけのせいでもない、ってことになる」


「なるな」


「……僕は、それがまだ言えない」


 若い男は黙っていた。


「声だけのせいじゃないって、おまえには言える。資料を並べて、そう考えた。でも、僕の一歩だけのせいじゃないって、自分に言おうとすると、何かが引っかかる」


「俺もだよ。おまえの一歩だけのせいじゃない、ってのは分かる。おまえの話聞いてると、そう思う。でも、俺の声のことになると、だめだ」


 二人とも、しばらく何も言わなかった。


 階下で、母がテレビをつけた音がした。ニュースの声が、床越しに小さく聞こえた。


 自分と同じ顔の相手を赦そうとすると、自分を赦していないことが見えた。


 透は、それを口には出さなかった。


 若い男も、罪悪感が消えたとは言わなかった。透も言わなかった。


---


 透は腕時計を見た。七時十八分だった。


 あと十二分あった。


 紙の項目は、あと二つ残っていた。


「もう一つ、言いに来たことがある」


 若い男が透の方を見た。


「火曜のこと」


 若い男の肩が、わずかに固くなった。


「あの日、僕は約束を破った。水城さんと決めた範囲を越えた。……それだけじゃなくて、おまえに対して、やったことがある」


 透は入口の脇の箱を見た。


「あの箱を、蓮が立ってたところに置いた。蓮がそこにいたことにして、そこから何が見えるか聞いた。写真の箱を開けて、写真を見せた。蓮と比べてどうだったか、と聞いた」


 若い男は何も言わなかった。


「分からない、と言われても、聞いた。服を聞いて、言葉を聞いて、顔を聞いた。向きを変えて、何度も。……おまえが、箱じゃないと言ったあとも」


 透は若い男の目を見た。


「記憶を出す相手として、扱った。……ごめん」


 部屋の中が静かになった。


 若い男は、ポケットから手を出した。


「……ムカついたよ」


 声が低かった。


「すごく。おまえ、俺のこと見てなかった。見てたのは、蓮のことだけ。俺はその蓮を出す箱だった。何回『分かんない』って言っても、おまえ、次の聞き方探してた」


「うん」


「水城さん、終わりにしてほしいって申し出だって言ったろ。それでも、おまえ続けた。水城さん、出てったぞ」


 透は黙って聞いていた。


「……でも」


 少し間があった。


「俺も、分かっててやってた」


「何を」


「蓮の話すれば、おまえが来る」


 若い男は窓の方を向いた。


「日曜に、蓮が来た話をした。そしたら、おまえ、月曜も来た。火曜も来た。……十年、扉開けてすぐ閉めてたやつが、毎日来た」


 透は、何も言えなかった。


「嬉しかったんだよ。来てくれるのが。だから、蓮の話、小出しにしてたとこもある。覚えてることでも、いっぺんには言わないで。……また来るように」


 透は顔を上げた。


「分かんないって言ったのは、ほんとに分かんないんだ。そこは隠してない」


 若い男は自分の手を見ていた。


「おまえに会いたいのと、蓮の話するのと、俺の中でもごちゃごちゃになってた」


 透は若い男の横顔を見ていた。


 会いに来てほしいという願いと、記憶を渡すことが、自分と同じ顔の中で絡まっていた。


「おまえを責めに来たわけじゃない。赦してもらいに来たわけでもない」


「……分かってる」


 若い男は少し笑った。今度は、笑いだと分かる笑い方だった。


「赦すとか、俺が言う立場じゃないだろ。同じことやってたんだから」


---


 透は腕時計を見た。七時二十二分だった。


 紙の項目は、あと一つ残っていた。


「もう一つ、伝えることがある」


「まだあんのかよ」


「この家の引き渡しの日が決まった。再来週の木曜」


 若い男の笑いが消えた。


「……再来週」


「その前にこの部屋も片づける。机も、箱も、全部出す」


 若い男は部屋を見回した。段ボールの山。衣装ケース。窓際の机。最後に透を見た。


「あと何回来られる」


 透は答えられなかった。数えたことはあった。数えて、やめた。


「分からない。決めてない」


「決めてないなら」


 若い男が壁から背中を離した。


「全部話す」


 声が、さっきまでと違った。早かった。


「蓮のこと。覚えてて、まだ言ってないとこ全部。帰りぎわに、蓮が机のどこを見てたかとか。小出しにしてたやつ、全部。……分かんないとこは、分かんないままだけど」


 透は何も言えなかった。


「だから、次も来い。その次も。売られるまで、来られるだけ来い」


 透は若い男を見ていた。


 さっき若い男は自分で言った。蓮の話をすれば、おまえが来る。分かっててやってた、と。


 今、それを隠さずに差し出していた。


 喉のあたりが熱くなった。


 入口に立った蓮。帰りぎわに机を見ていた蓮。まだ聞いていない細部が、この部屋にあるのかもしれない。若い男は、それを全部話すと言っている。今断れば、十七日後には、この部屋に入る方法はなくなる。


 紙を見た。


 蓮の場面を尋ねない。


 ペンの跡が濃い一行だった。


「……聞かない」


 若い男の顔が動いた。


「今日は聞かない。……次に来ても、蓮の話をもらうために来るんじゃない」


「じゃあ、何しに来んだよ」


 透はすぐには答えられなかった。


「分からない。でも、蓮の話と引き換えなら、来ない方がいいと思う」


 若い男は透を見ていた。


 長いあいだ、見ていた。


「……そうかよ」


 若い男は壁の方へ向き直った。背中を透に向けた。灰色のパーカーの肩が、少し上がっていた。


「もう帰れよ。時間だろ」


 透は腕時計を見た。七時二十七分だった。


 三分残っていた。けれど、帰れと言ったのは相手だった。


 何か言おうとした。何を言っても、取引の続きになりそうだった。


「……分かった。終わりにする」


 返事はなかった。背中は、こちらを向かなかった。


 透は扉の方へ下がった。取っ手に手をかけて、振り返った。


 若い男は、壁に向かって立っていた。


 透は扉を閉めた。


---


 階段を下りると、母が居間から顔を出した。


「もういいの」


「うん」


「上の箱、あれ、あんたが動かしたの」


「うん。……片づけのとき、一緒に出す」


「そうね。どうせ全部出すんだから」


 母はそう言って、居間へ戻った。


 透は玄関で靴を履いた。外に出ると、空気が冷えていた。街灯の下を駅の方へ歩いた。


 角のコンビニの前で、透は携帯を出した。


〈終わりました。七時二十七分、向こうに帰れと言われて、出ました。〉


〈紙に書いたことは伝えました。尋ねないと書いたことは尋ねていません。物は動かしていません。〉


〈火曜のことを謝りました。向こうも、蓮の話をすれば僕が来ると分かっていた、と言いました。〉


〈引き渡しの日を伝えました。蓮のことを全部話すから次も来い、と言われました。断りました。〉


〈次に行く日は決めていません。〉


 送った。


 電車を待つあいだに、返事が来た。


〈受け取りました。〉


 それだけだった。


 報告を受け取った、という返事だった。透はそこに、それ以上の意味を探さなかった。


 電車が来た。透は窓際に立った。


 窓ガラスに自分の顔が映った。その向こうを、暗い街が流れていった。


 断った。


 断ったから、もう聞けないかもしれない。若い男が覚えている蓮の顔も、母に言った言葉も、帰るときにどちらを向いたかも。十七日後に、あの部屋は知らない人のものになる。


 それでも、あの取引に乗れば、また蓮の話を受け取るために通うことになる。来る理由が記憶になり、記憶が来る理由になる。分からないと言われても続けた火曜の自分へ、そこから戻らないとは言えなかった。


 分かっていた。分かっていて、胸の奥が冷えていた。


 背中を向けた若い男の肩を思い出した。


 透は手帳を開いて、紙を挟んだ頁に書いた。


 七時二十七分、終わりを求められて帰った。


 その下に、もう一行書こうとした。


 失敗ではない、と書きかけて、ペンが止まった。


 書けなかった。


 透は手帳を閉じた。

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