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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第三十二話

 日曜の区民センターは、土曜より静かだった。


 澪は受付で二つの利用枠を確かめ、鍵を受け取った。二時から三時半と、五時から六時。間の時間は、もし行くなら現場を見に行く。行かないなら、どこかでお茶を飲んで待つ。どちらにするかは、三時半に決めると昨日の夜に朝倉へ伝えてあった。


 部屋に入ると、朝倉はもう来ていた。窓際の椅子には座らず、入口に近い椅子の横に立っていた。


「始めましょうか」


 澪が言うと、朝倉は頷いて机の上に資料を並べ始めた。昨日と同じ順番だった。左から供述の控え、見取図、目撃者の話の要旨、ディスク。いちばん手前に澪のノート。


 澪はノートを開いて今日の頁の一番上に書いた。


 今日確かめること。

 四、声のあと、朝倉はどこへ動いたか。

 五、そのとき、蓮さんはどこにいて、どう動いたか。(内心は映像からは分からない)

 六、映っていないところ。


「昨日と同じで、巻き戻すのは一つの場面につき三回まで」


「はい」


「それと、今日は見取図に書き込みます。映像で見えたところと、見えなかったところを分けて」


 朝倉は見取図の写しを机の中央に置いた。歩道と車道と店の壁。右寄りに四角い植え込みの囲い。二つの丸に、それぞれ朝倉と蓮の名前があった。その位置は朝倉の供述をもとにしたものだと、昨日二人で確かめていた。


 澪はその横に赤い鉛筆を置いた。


「見えたところは赤。見えなかったところは、何も書かない」


---


 映像は、昨日止めたところの少し前から始めた。


 車の前が囲いに当たる。車体が揺れる。後ろがゆっくりと店の方へ振れてくる。


 画面の左寄り、壁の近くに二つの人影があった。


 澪は人影の動きを見ていた。


 壁に近い方の人影が、壁に沿って画面の左へ動いた。走っているように見えた。


 もう一つの人影も、同じ方向へ動きかけていた。少しだけ壁から離れたところを。


 二つの人影が近づいた。


 あとから動きかけていた方の人影が、急に向きを変えた。壁から離れる方へ。車道の方へ。


 そこへ車体の後ろが振れてきた。


 車体の影が人影に重なった。


 その先は、車体の陰になって見えなかった。


 澪は一時停止した。


 部屋の中は静かだった。廊下の向こうで、誰かが自動販売機の缶を取り出す音がした。


 朝倉は画面を見ていた。手帳の上でペンが止まっていた。


「一回目です」


 澪は自分の声が普段と同じであることを確かめながら言った。


「書けることから書きます」


 朝倉は少し遅れて頷いた。


---


 二回目は、もっとゆっくり見た。


 壁に近い人影は、昨日の画面で朝倉が自分だと言った人影だった。歩くとき右の肩が少し下がるのを、澪も昨日見ていた。その人影が、車体の後ろが振れてくるころ、壁沿いを左へ走っていた。


 もう一つの人影は蓮だった。最初に朝倉が店の方へ身を引いたとき、蓮はすでに壁の近くにいた。車の後ろが振れてきたとき、蓮も壁沿いに逃げようとしていたように見えた。そこへ朝倉が同じ方向へ走ってきた。


 二人の進む先が重なった。


 蓮が向きを変えた。朝倉を避けるように。


 蓮の顔は見えなかった。背中と肩しか映っていなかった。手がどこにあったかも分からなかった。


 澪は三回目を使った。


 同じだった。蓮が向きを変えるところまでは見えた。その先は車体の陰だった。


「ここまでです」


 澪は映像を止めて、ノートに書いた。


 映像(二回目・三回目):

 車体の後ろが店側へ振れる。

 壁際の人影(朝倉が自分だと言った人影)が壁沿いに左へ走る。

 もう一つの人影(蓮さん)も壁沿いに動きかける。少し壁から離れた位置。

 二人の進む先が重なる。

 蓮さんが向きを変える。壁から離れる方へ。

 車体の後ろが重なる。その先は車体の陰で見えない。

 蓮さんの顔と手元は見えない。


 書き終えてから、もう一行足した。


 蓮さんが向きを変えた理由は、映像からは分からない。


 朝倉は赤い鉛筆を取り、見取図に二本の線を引いた。壁沿いに伸びる線と、その少し外側から始まって途中で折れ曲がる線。


 折れ曲がった先には、何も書かなかった。


 身を乗り出して見取図を見ていた朝倉の体が、少し傾いていた。右の肩が下がっていた。


 さっき画面の中で見た傾き方と同じだった。


 澪は何も言わなかった。


 画面の中の朝倉は、今の朝倉よりずっと若かった。十九歳だった。それなのに、同じ癖で体を傾けていた。


---


「声のあと、僕は壁沿いに走った」


 しばらくして朝倉が言った。


「控えと同じです。壁の方へ走りました」


「はい」


「蓮は、僕と同じ方へ逃げようとしてた。そこへ僕が来て、蓮は向きを変えた」


 澪はノートを見た。


「蓮さんが逃げようとしていたように見えた、というのは私も見ました。向きを変えたのも見ました」


「はい」


「なぜ変えたかは書いてません」


「……はい」


 朝倉は見取図の折れ曲がった線を見ていた。


「囲いの向こうは映ってない。それと、車体の陰になったところも」


「はい」


「歩道の幅も、映像だけだとよく分からない。斜めから撮っているので」


 朝倉は少し間を置いた。


「現場を一度見ておきたいです」


 澪は時計を見た。三時二十分だった。


「今の歩道を見るだけ、ですね」


「はい。当時の形とは違うと思います。見取図と比べて、何が変わったかを見るだけ」


「どこで何をしたかをなぞったりはしない」


「しません」


 澪は少し考えた。


「着いてから三十分。それで戻ってきて、五時からここで続きを」


「はい」


---


 現場は、区民センターから電車で二駅のところにあった。


 駅から五分ほど歩いた。朝倉は道を知っていた。曲がる角を迷わなかった。


 大きな通りに面した歩道だった。車道は片側一車線で、ときどき車が通った。日曜の午後で、人通りは少なかった。


「ここです」


 朝倉が立ち止まった。


 店があった。小さな不動産屋だった。ガラスの扉に物件の紙が何枚も貼ってあった。


「当時は、別の店でした。名前は封筒に書いてあったものです」


 朝倉の声は落ち着いていた。


 少し先に、植え込みの囲いがあった。コンクリートの低い囲いで中に背の低い木が植えてあった。角が新しかった。表面にひびがなかった。


「作り直されているように見えます」


 朝倉は囲いの前まで歩いて、見取図の写しを出した。図と目の前の囲いを見比べた。


「位置は、だいたい同じです。形が少し違う。前はもう少し角ばっていたかもしれない。図だけでは分かりませんが」


 朝倉は囲いから店の壁までの歩道を見ていた。壁を見て、車道との縁石を見て、また壁を見た。仕事で知らない家の廊下を見るときと同じ目つきなのだろうと、澪は思った。


 澪も歩道を見た。


 広くはなかった。二人並んで歩けば、それで埋まる幅だった。片側は壁で、片側は縁石と車道だった。囲いのあるところは、さらに狭くなっていた。


 逃げる場所が多い道ではなかった。


 澪は、それを見たまま覚えておこうと思った。


 朝倉は壁の近くに立っていた。歩き出そうとはしなかった。映像では左へ、壁沿いに走ったという線を、自分の足でたどろうとはしなかった。


 ただ、そこに立っていた。


 車が一台、通り過ぎた。速度は普通だった。運転している人は、こちらを見なかった。


 自転車の高校生が、二人の横を通り抜けた。


 何も起きなかった。


 ただの日曜の歩道だった。不動産屋の扉が開いて、誰かが出てきて、駅の方へ歩いていった。


 それでも、ここで起きたことの形だけが残っていた。壁と縁石の間の幅。囲いの位置。囲いの位置は、見取図とだいたい同じだった。幅が十年前と同じかどうかは、見ただけでは分からなかった。


 澪は朝倉を見た。


 朝倉は壁の方を見ていた。来たときよりも、少しだけ肩が下がっていた。


「朝倉さん」


「はい」


「どこかで止まりますか。少し離れたところで」


 朝倉はすぐには答えなかった。


「……あそこの、角のところで」


 二人は来た道を少し戻って、交差点の角で止まった。そこからだと、店の前と囲いが斜めに見えた。カメラが見ていた角度と、少しだけ似ていた。


 朝倉はそこから五分ほど、その歩道を見ていた。


 澪は時計を見た。着いてから二十五分が過ぎていた。


「あと五分です」


「はい。もう大丈夫です」


 朝倉は見取図の写しを鞄にしまった。


 駅へ戻る途中、朝倉は一度も振り返らなかった。


---


 五時に二人は区民センターの部屋に戻った。


 澪はノートの新しい頁に書いた。


 現場(今の形):店は入れ替わっている。囲いは作り直されているように見える(朝倉の見立て)。位置はだいたい同じ。形は少し違うかもしれない(見取図と比べた朝倉の見立て)。壁と縁石の間は、二人並べばいっぱいになる幅。囲いのあたりはさらに狭い。当時の幅と同じかは確かめていない。


 その下に、今日の映像と今の歩道を並べた。


 朝倉は向かいで手帳を開いていた。


「並べてみます」


 澪は声に出して読んだ。


「車が歩道に入る。朝倉さんが店側へ身を引く。車が囲いに当たる。後ろが店側へ振れる。朝倉さんが壁沿いに、画面では左へ走る。控えでは、ぶつかる音のあとに声がして、壁の方へ走った。蓮さんも壁沿いに動きかけていた。二人の進む先が重なる。蓮さんが向きを変える。車体の後ろが重なる」


「はい」


「それと、今の道は狭かった。片側は壁で、片側は車道。囲いのところはもっと狭い。当時の幅は確かめていないけど」


 澪はノートを見たまま言った。


「朝倉さんが走った方向は、蓮さんが逃げようとしていた方向と重なってます。それは、映像で見えました」


 朝倉は頷いた。


「僕が走ったから、蓮は向きを変えた」


「蓮さんが向きを変えたのは、朝倉さんが来たあとです。それは見えました」


 澪は言葉を選んだ。


「朝倉さんの動きが、蓮さんの動きに影響したと思います。私もそう思います」


 朝倉は澪を見た。


 否定されると思っていたのだろうか。澪には分からなかった。


「でも」


 澪は続けた。


「映像で見えるのは、二人が同じ方へ逃げようとして近づいて、蓮さんが向きを変えたところです。朝倉さんを避けたように、私にも見えました。そこへ車の後ろが来た。……朝倉さんが蓮さんに何かをしようとしたことを示す動きは、見えるところにはありません。車体の陰の先は、見ていません」


「……はい」


「車があって。囲いがあって。狭い道があって。朝倉さんは走って、蓮さんは向きを変えた。……どれか一つだけで起きたことには、見えません」


 朝倉は何も言わなかった。


 見取図の赤い線を見ていた。壁沿いの線と、折れ曲がった線。


「影響したことと、選んだことは、違うと思います」


 澪は言った。


 朝倉は少しして頷いた。


「……はい」


 その返事が、澪にはまだ言葉だけに聞こえた。朝倉が本当にそう思えているかは、澪には分からなかった。


---


 しばらくして、朝倉が口を開いた。


「事故の前のことを話してもいいですか」


 澪はペンを持ち直した。


「はい」


「蓮が、春から遠くへ行くって話してたんです。あの日。歩きながら」


 朝倉の声は低かった。


「僕は知ってました。少し前から。でも、あの日、歩きながらもう一回その話になって。春から、って。……それを聞いて、僕は何も言えなくなって。会話が途切れたんです。映像で、二人が前を向いたところ。あのとき」


 澪は昨日の映像を思い出した。蓮の手が一度動いて、それから二人とも少し前を向いた。会話が途切れたように見えた、と澪はノートに書いていた。


「置いていかれる、と思ったんです」


 朝倉は言った。


「蓮が行ってしまう。僕はここに残る。……寂しかった。そのとき、すごく」


 澪は黙って聞いていた。


「それで、そのあとすぐに車が来て」


 朝倉の声が少し詰まった。


「僕が壁沿いに走ったのは、蓮が行く方を塞ぎたかったからじゃないかって。……十年、それを誰にも言えなかった。自分でも、はっきりとは考えないようにしてた」


 朝倉は手帳を握っていた。


「寂しかったから、蓮の行く方へ走ったんじゃないかって」


 澪はノートに書いた。


 朝倉の話:事故の直前、蓮さんが春から遠くへ行く話(以前から聞いていた話を、あの日もう一度)。朝倉は何も言えなくなる。会話が途切れる。置いていかれると感じた。寂しかった。


 書いてから、少し間を空けて、別の行に書いた。


 朝倉の考え:壁沿いに走ったのは、寂しさから蓮さんの行く方を塞ぎたかったのではないか。


 澪はペンを置いた。


「二つに分けて書きました」


 澪はノートを朝倉の方へ向けた。


「寂しかった、というのは朝倉さんの話。それと、走ったのがそのせいじゃないか、というのは朝倉さんの考え」


 朝倉はノートを見た。


「映像の朝倉さんは、車の後ろが振れてくるころ、壁沿いに走っています。最初によけたときと同じように、体が先に動いているように見えました。どちらへ走るかを考えている時間があったかどうかは、映像からは分かりません」


「……はい」


「寂しかったことは、本当だと思います。朝倉さんがそう言うので。でも、それが走った理由だったかどうかは、ここにある資料では分からない。……分からないものを、理由の欄には書けません」


 朝倉は長い間ノートを見ていた。


「それと」


 澪は少し迷ってから続けた。


「金曜に話してくれたこと。蓮さんは町を出たかった、と千尋さんが言っていた」


「はい」


「蓮さんには、朝倉さんとのことだけでは説明できない、行きたい理由があったんですよね。千尋さんが知っている範囲では」


「……はい」


「朝倉さんが寂しかったことと、蓮さんが行きたかったことは、別々にあったんだと思います。どっちも本当で」


 朝倉は何も言わなかった。


 澪も何も足さなかった。


 十年隠してきたことを口にしても、部屋の中は何も変わらなかった。窓の外で、銀杏の葉が揺れていた。廊下を誰かが歩いていった。


 澪は朝倉に何かを言ってあげたいと思った。それを飲み込んだ。何を言っても、判定になりそうだった。


---


「あの部屋に来た蓮のことですけど」


 しばらくして朝倉が言った。


 澪は顔を上げた。


「僕が死んだ場合の、あの部屋に来た蓮。……あれは、僕が一歩動かなかった場合の蓮なんじゃないかって、ずっと思ってました。あの声で僕が動かなければ、蓮は生きてた。その証拠だって」


「はい」


「でも」


 朝倉は自分の手帳を見た。


「あいつの話では、ライトが目の前に来て、そこで切れた、って」


 澪は自分のノートの土曜の頁を開いた。


 本人の話:「ライトが目の前に来る。そこで切れる」。


「あの人が覚えている部屋の場面は、朝倉さんが死んだ場合のものです」


 澪はゆっくり言った。


「もし、あの人の話がそのとおりなら。その場合の朝倉さんは、最初に車が来たところで、もう死んでいる。……と、読めます」


「はい」


「だとしたら、その場合は、最初の危機のところから違う経過だったのかもしれない」


 澪は資料の欄を指でたどった。最初の回避。囲いへの衝突。声。壁沿いの移動。蓮さんの向きの変化。


「朝倉さんの二度目の一歩だけを変えた場合、ではないと思います」


 朝倉は欄を見ていた。


「その先に何があったのかは、この断片と、ここにある資料からはたどれません。あの部屋に来た蓮さんが、どういう経過で生きていたのかも」


 澪はペンを置いた。


「あの場面は、朝倉さんが死んだ場合の一場面です。朝倉さんの一歩と、蓮さんの命を比べた結果ではないと思います」


 朝倉は長い間、何も言わなかった。


 それから、小さく言った。


「……交換じゃなかった」


 澪は答えなかった。


 それは澪が確かめたことではなかった。資料が交換を支えていない。それだけだった。


 朝倉は手帳を見ていた。


「あいつは、自分の声のせいだと思ってた。呼ばなければ、僕は動かなかった。動かなかったら、蓮はあそこにいなかった。……十年、あの部屋で」


「はい」


「僕は、僕が動いたせいだと思ってた。あいつは、あいつが呼んだせいだと思ってた。……二人とも、一つのことだけのせいにしてた」


 朝倉の声は静かだった。


「同じだったんだ」


 澪は何も言わなかった。


 朝倉は手帳の新しい頁を開いた。


「あいつに、これを伝えたいと思います。今日見たこと。昨日見たこと。……最初によけたのは、映像にも控えにもあること。控えでは、声はそのあと、ぶつかる音のあとで、それが映像で確かめた動きの順番と食い違わないこと。二度目に走った先が蓮の進む先と重なって、蓮が向きを変えたこと。それが影響したと、僕たちは考えていること。でも、一つのことだけで起きたとは、資料からは言えないこと」


 朝倉はそこで言葉を止めた。


「赦してもらうためじゃなくて」


 朝倉は少し考えてから言い直した。


「……同じ資料で、もう一回考え直すために。あいつも、僕も」


 澪は朝倉の顔を見た。


「水城さんには、来てほしいとは言いません」


 朝倉は言った。


「でも、何を伝えて、何を伝えないか。それを一緒に考えてもらえませんか。……資料の話として」


 澪は少し考えた。


 朝倉の実家には当分行かない。そう決めたのは澪だった。


 その決めたことを、今ここで変えるつもりはなかった。


「当分、一緒には行きません。伝え方を考えるのは、手伝います。確かめたことと分からないことを分けて」


「はい」


「それと、行くなら、時間と、何を聞かないかも、先に決めてください。前と同じように」


「はい」


 澪は時計を見た。五時五十分だった。


「あと十分です」


 二人は残りの時間で手帳とノートを並べ、伝えることを二つの欄に分けて書いた。


 確かめたこと。分からないこと。


 確かめたことの欄は短かった。分からないことの欄は、それよりずっと長くなった。


 蓮さんが向きを変えた理由。囲いの向こうで起きたこと。違う動きなら蓮さんが助かったか。あの部屋に来た蓮さんが、どう生きていたか。


 澪は自分のノートの金曜の頁を思い出していた。控えを読んだ日の三行目。


 同:よけたとき「助かったと思いました」。


 控えにその言葉があることは、二人とも知っている。けれど、その一行は、残存者に伝える二つの欄のどちらにも入っていなかった。動きの照合ではなかった。朝倉が自分の言葉をどう扱うかの問題だった。朝倉は金曜にそれを声に出して読み、それから一度もそこに触れていない。昨日も、今日も。


 尋ねようと思えば、尋ねられた。


 けれど、今ここで尋ねれば、朝倉がその言葉をどう扱うかを、澪が先に決めてしまいそうだった。今日は、その役を引き受けないことにした。


 澪は何も言わなかった。


 六時になった。


 朝倉は手帳を閉じた。


「終わりにします」


 澪が言う前に、朝倉が言った。


 澪はノートを閉じて、鞄にしまった。


 部屋を出るとき、朝倉は見取図の写しを一度だけ見た。赤い線が折れ曲がった先の、何も書かれていないところを。


 それから封筒に入れた。


 区民センターの前で別れるとき、朝倉が言った。


「行く日が決まったら、連絡します。行く前に、何を話すか、もう一度見てもらえますか」


「はい」


 澪は頷いた。


 引き渡しは三週間後の木曜だと、金曜に朝倉は言っていた。今日を除けば、十八日。行く日は、その中のどこかになる。


 朝倉は駅の方へ歩いていった。


 澪はしばらくその背中を見ていた。右の肩が、少し下がっていた。


 あの映像の中と同じ傾き方だった。


 澪はそれをノートには書かなかった。

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