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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第三十一話

土曜の朝、水城から連絡が来た。


〈部屋、取れました。二時から三時半。〉


透は、それだけの文面を二度読んだ。


〈ありがとうございます。伺います。〉


昼前に、透は自分の部屋で封筒を開けた。


千尋から借りてから、開けたのは初めてだった。中身を確かめるだけにして、読まなかった。


薄い冊子が一つ。ホチキスで留めた紙が数枚。表紙の上に、作成した部署の名前と、十年前の日付が印刷されていた。そのあとに、目撃者の話の要旨、と書いてあった。


それから、プラスチックのケースに入ったディスクが一枚。表面に、十年前の日付と、店の名前が手書きで書いてあった。誰の字かは分からなかった。


透は、それを封筒に戻した。


自分の箱から見取図の写しと供述の控えを出した。それも、同じ鞄に入れた。


ノートパソコンに外付けのディスクの読み取り機をつないで、電源が入ることだけ確かめた。


---


二時の少し前に、透は区民センターの部屋に入った。


水城は先に来ていた。窓際の椅子に座って、ノートを開いていた。


「始める前に、並べましょう。何を、誰が、いつ作ったか。混ぜないように」


「はい」


透は長机の上に資料を出した。


水城がノートの新しい頁に線を引いた。


二人で一つずつ置き場所を決めた。


机の左端に、透の供述の控え。事故の三日後、透が警察で話した内容の写し。透が受け取ったもの。


その隣に、見取図の写し。警察が作ったもの。けれど、そこに書き込まれた二人の位置は、透の話をもとにしていた。


「これは、朝倉さんの供述と、半分つながってますね」


水城が言った。


「はい。見取図の位置で、供述を確かめることはできない。同じところから出ているので」


水城は、ノートに書いた。見取図:作成は警察。人物の位置は朝倉の供述が元。供述の裏付けには使えない。


机の中央に、目撃者の話の要旨。作成した部署と日付は表紙にある。誰がまとめたかの名前はない。本人の言葉そのものではなく、まとめたもの。


机の右端に、ディスク。店の名前と日付が手書き。千尋が父親から聞いた話では、店が警察に出した映像の写し。どういう経路で遺族に渡ったかは、分からない。


それから、水城のノート。月曜の頁。透の記憶と、あいつの話。


「あの人の話は、ここに」


水城は、自分のノートを机の一番手前に置いた。


「ほかの資料と、離して」


「はい」


「朝倉さんの月曜の記憶も、ここです」


「はい」


水城は、頁の一番上に書いた。今日確かめること。


一、最初によけたのは、いつか。どちらへ。

二、車が植え込みにぶつかったのは、いつか。

三、名前を呼ばれたのは、その前か、あとか。(映像に音はない。供述と目撃者の話で照らす)


「今日は、ここまで。二度目に動いたところと、蓮さんの動きは、今日は見ません。先に、最初によけたところと、声の位置を整理したいんです。全部を一度に見ると、あとから見たものに引っぱられるので」


透は、その一行を見た。


今日は見ません。


「……はい」


「映像は、区切ります。最初から車がぶつかって向きが変わるところまで。巻き戻すのは一つの場面につき三回まで」


「三回」


「三回で分からなければ、分からないと書きます」


「はい」


透は頷いた。


頷いてから、自分の指先が冷えていることに気づいた。


---


ディスクを入れると、画面に映像が出た。


白黒に近い色の薄い映像だった。画面の右上に、日付と時刻の数字が出ていた。秒の数字が、一つずつ進んでいた。


カメラは、店の入口の上の方から、歩道を斜めに見下ろしていた。画面の左下に、店の壁の端と入口の庇が映っていた。歩道が、画面の左上から右下へ横切っていた。その向こうに、車道。


画面の右端に四角い植え込みの囲いが半分だけ映っていた。囲いの向こう側は、画面の外だった。


「死角があります」


水城が言った。


「囲いの向こう。それと、画面の上の方、遠くはよく見えない」


透は、手帳に書いた。カメラ:店の入口の上から。歩道を斜めに。植え込みの囲いは右端で半分。その先は映っていない。時刻表示あり。


「時刻の数字は、どこまで信じていいか分かりません」


透は言った。


「当時、店の機械の時計が合っていたかは、分からない。……順番だけ見ます」


「はい」


水城が、再生した。


歩道に、人はいなかった。車道を車が二台通り過ぎた。


十秒ほどして、画面の左上から、二人が歩いてきた。


透は、息を止めた。


二人とも、背中から映っていた。並んで歩いていた。車道側に一人。店側に一人。


車道側の方が、自分だった。


顔は見えなかった。髪の形も、映像が粗くて分からなかった。それでも分かった。歩くときに、右の肩が少し下がる。片手をポケットに入れている。


自分の歩き方だった。


店側の一人が、蓮だった。


蓮は、透の方に少し顔を向けていた。何か話しているようだった。手が、一度だけ動いた。


音はなかった。


何を話していたのか、映像からは分からなかった。


透は、画面から目を離せなかった。


十年前の、夕方だった。この二人は、これから何が起きるか知らない。あの日、蓮は進路の話をしていた。透はそれを覚えていた。画面の中の透は、聞いているように見えた。


水城が、一時停止した。


「ここ、書いておきます。二人が画面に入る。朝倉さんが車道側、蓮さんが店側。並んで歩いている。何か話している。内容は分からない」


「……はい」


透の声は、自分でも驚くほど小さかった。


水城が、透を見た。


「続けますか」


「はい」


---


再生が続いた。


二人は、画面の中央へ歩いてきた。


蓮の手が、もう一度動いた。それから、二人とも少し前を向いた。会話が途切れたように見えた。


画面の上の方、車道の奥から、車が一台、来た。


ほかの車より、少し速く見えた。


車は、まっすぐ来なかった。車道の端へ寄った。寄りすぎた。


前輪が、歩道の縁石に乗り上げた。


車体が、歩道に入ってきた。


車道側の人影が、動いた。


体ごと、店の方へ跳ねるように身を引いた。


蓮の方へ、少し。


車の前が、さっきまで透が歩いていたあたりを通り過ぎた。


透は、画面を見ていた。


自分の体が動いていた。


何かを考えて動いたようには、透には見えなかった。頭より先に、体が引いていたように見えた。


車は、そのまま歩道を進んだ。


画面の右端の、植え込みの囲いへ。


車の前が、囲いに当たった。


車体が揺れた。前が止まって、後ろが、ゆっくりと振れた。店の方へ。画面の左の方へ。


水城が、一時停止した。


画面は、車体の後ろが店の方へ振れかけたところで止まっていた。


店の側に、二つの人影があった。壁に近い方と、少し離れた方。どちらがどちらかは、この一枚では見分けられなかった。


透は、手帳を握っていた。


部屋の中が静かだった。


「……ここまでが、今日の区切りです」


水城が言った。


「はい」


透は頷いた。


頷いたのに、目が画面から離れなかった。


この先がある。止まった画面の、すぐ先に。二つの人影が、どう動いたのか。自分が、どちらへ走ったのか。蓮が、どうしたのか。


水城は、何も言わなかった。


透は、手帳に目を落とした。今日確かめること。一、二、三。


透は、ペンを持った。


---


「一つ目から」


水城が言った。


「最初によけたのは、いつか。どちらへ」


透は、映像の中で見たことを、そのまま言った。


「車が縁石に乗り上げて、歩道に入ってきたとき。車道側の僕が、店の方へ身を引いた。蓮の方へ、少し」


「巻き戻しますか」


「……一回だけ」


水城が戻した。車が縁石に乗り上げる。人影が引く。


同じだった。


透は、手帳に書いた。


映像:車が歩道に入る。車道側の人影(朝倉)が店側へ身を引く。蓮さんの方へ少し。


水城が、透の供述の控えを指した。


「控えでは」


「よけました。とっさに、店の方へ。蓮の方へ、少し」


透は読んだ。


「同じですね」


「はい。……十年前の僕は、これを話してた」


透は、ペンを止めた。


月曜の透は、これを覚えていなかった。動いたのは一回だけだと思う、と言った。


月曜の透の記憶になかった最初の動きが、そこに映っていた。


「二つ目」


水城が言った。


「車が植え込みにぶつかったのは、いつか」


「最初によけた、あと。車が歩道を進んで、右端の囲いに当たった。それで向きが変わって、後ろが店の方へ振れ始めた」


透は、手帳に書いた。


映像:最初の回避のあと、車が植え込みの囲いに衝突。車体の後ろが店側へ振れ始める。


「目撃者の話と、合わせましょう」


水城が、要旨の冊子を開いた。


目撃者は三人だった。向かいのバス停にいた人。店の中にいた店員。通りがかりの自転車の人。


水城が、読み上げた。


「バス停にいた人。車が歩道に乗り上げるのを見た。そのまま進んで、植え込みに当たった。大きな音がした。そのあと、車の後ろが店の方へ振れた」


「店員。大きな音がして、外を見た。車が植え込みに当たって止まりかけていた。そのあとのことは、ガラス越しでよく見えなかった」


「自転車の人。後ろから来て、車が歩道に上がるのを見た。急いで止まった。そのあと植え込みの方で大きな音」


水城は、冊子から顔を上げた。


「見たものは三人で違います。バス停の人は、当たるのを見て、音を聞いた。店員は、音を聞いてから外を見た。自転車の人は、植え込みの方で音がした、と。……でも、植え込みに当たった、その近くで大きな音がした、という話は、どれも映像の衝突と食い違わない」


「はい」


「声のことは」


水城は、もう一度冊子を最初から最後までめくった。


「……誰も、書いていません」


透は頷いた。


「声は、ここにはない」


「ないです。この要旨には、聞いたとも、聞かなかったとも書かれていない。書かれていないだけです」


水城は、ノートに書いた。目撃者の要旨:声についての記載なし。


---


「三つ目。名前を呼ばれたのは、最初によける前か、あとか」


透は、自分の供述の控えを手に取った。


読むまでもなかった。昨日、何度も読んだ。


「車が、植え込みにぶつかって、大きな音がしました。そのあと、名前を呼ばれた気がしました。それで、壁の方へ走りました」


透は、読み上げた。


「十年前の僕は、ぶつかる音のあとに、名前を呼ばれたと言ってる」


水城が、ノートの中央に縦の線を引いた。左に映像と目撃者の話。右に控え。


左の欄:車が歩道に入る。朝倉、店側へ身を引く。車が植え込みに衝突、大きな音(目撃者三人)。車体の後ろが店側へ振れ始める。

右の欄:よけた(店の方へ)。植え込みにぶつかって大きな音。そのあと、名前を呼ばれた気がした。壁の方へ走った。


右の欄に並んだのは、動きと音のことだけだった。


控えでは、よけた、と、ぶつかった、のあいだに、もう一つ問答がある。昨日、声に出して読んだ一行だった。透は、それを今日は読み上げなかった。動きと音の順番を並べる欄だった。そこに入れるものではない、と透は思った。


水城も、それを書き足さなかった。


水城は、二つの欄を指でたどった。


「よけた。ぶつかった。そのあと、呼ばれた。……映像と目撃者の話で確かめられるのは、よけたことと、ぶつかったこと。その順番」


「はい」


「声がそのあとだったというのは、朝倉さんの十年前の供述だけです」


「はい」


「でも、最初によけたことは、映像でも控えでも同じ。ぶつかった音のことも、映像と目撃者と控えで同じ。そこが合っているなら、控えが言っている順番を、変える理由は今のところない」


水城はノートに書いた。初期供述の声の順番は、映像と目撃者の話で確かめられた動きの順番と、食い違わない。声の時点を直接示す資料は、初期供述のほかにない。


透は、二つの欄を見ていた。


声は、たぶん、最初によけたあとだった。ぶつかる音の、あとだった。


透を最初に救ったのは、声ではなかった。


控えの順番のとおりなら、車が歩道に入ってきたとき、透の体は誰にも呼ばれずに動いていた。少なくとも、あの声が最初の一歩を起こしたと決める根拠は、どこにもなかった。


透は、それを長い間見ていた。


十年間、あの声が自分を動かしたと思っていた。あの声がなければ、自分は死んでいたと。


月曜に、自分で言った。あの声がなかったら、僕は、あのまま固まってた。


固まっていなかった。


最初の一歩は、自分の体が勝手に踏んでいた。


---


水城が、ノートの一番手前に置いた頁を開いた。月曜の頁だった。


「あの人の話も、並べます」


水城は、読み上げた。


「車が上がってくる。ライトが目の前に来る。そこで切れる。気がつくと、歩道の少し外。朝倉さんと蓮さんが見える。車が植え込みの囲いにぶつかっている。向きが変わる。後ろが店の方へ振れてくる。朝倉さんが壁の近くにいる。名前を呼ぶ」


水城は、そこで止めた。


透は、その言葉を聞いていた。


ライトが目の前に来る。そこで切れる。


映像の中で、車が歩道に入ってきたとき。透は、身を引いた。


身を引かなかった方の透は、そこで切れたのかもしれない。


気がつくと、少し外にいた。そのときには、もう車は囲いにぶつかっていた。


だから、呼んだのは、ぶつかったあとだった。


十年前の透の控えと、同じ順番だった。


「あの人の話は」


水城が言った。


「朝倉さんの話を、先に聞いたあとのものです。朝倉さんは月曜に、ぶつかる音、名前、と話していました」


「はい」


「だから、あの人の話が控えと合っていても、それだけで別々に確かめたことにはならない」


透は頷いた。


「でも」


水城は続けた。


「あの人の話の中の、そこで切れる、は。朝倉さんは月曜に、最初によけたことを話していませんでした。一回だけだと思う、と言っていた」


透は、水城を見た。


「あの人は、切れた、と言っている。朝倉さんの月曜の話には、なかった言葉です。それが最初によけたときと同じなのかは、私たちがそう読んでいるだけ。……でも、切れたという部分は、朝倉さんの話から来たものではないかもしれない」


水城は、それをノートに書いた。


本人の話:「ライトが目の前に来る。そこで切れる」。朝倉の月曜の話には、最初の回避がない。この部分は、朝倉の話の影響を受けていない可能性がある。断定はしない。


透は、その一行を読んだ。


しばらく、何も言えなかった。


---


「……あいつは」


透は言った。


「あの話のとおりなら、全部を知ってたわけじゃなかったんだ」


水城は、何も言わなかった。


「車が来るのを見て、それで終わってた。気がついたら外にいて、そのときには、もう車はぶつかってた。それで、僕が壁の近くにいるのが見えて、呼んだ。……あいつは、そう言ってた」


声が、少し震えていた。


「あいつは、蓮が死ぬことを知ってたわけじゃない。僕を選んで、蓮を選ばなかったわけでもない。……あいつだって、何が起きてるか分からないまま、あそこにいた。途中から」


透は、自分の手を見た。


月曜の帰り道に、水城に言った。あの声で、入れ替わったんです。僕と、蓮が。


あの声が、すべてを決めたと思っていた。一本の声で、自分の命と蓮の命が交換されたと。


けれど、資料を並べた限りでは、声は最初ではなかった。


最初の一歩は、透自身の体だった。声は、そのあとに来たのだろう。危ないのを見た、もう一人の自分が、途中から叫んだ声。あいつの話のとおりなら、そうなる。


交換の線が、ほどけかけていた。


ほどけていくと、その下から、別のものが出てきた。


声のあと、透は、壁の方へ走った。


控えにはそう書いてある。映像は、まだそこまで見ていない。


その二度目の一歩が、どこへ向かったのか。そのとき、蓮はどこにいたのか。


あの声が全部を決めた、という考えがほどけたあとに、残るものだった。声に応えて動いた一歩が、何に重なったのか。それは、まだ確かめていなかった。


透は、手帳を開いた。


今日確かめること、の頁に、三つとも線を引いた。


その下に、新しく書いた。


次に確かめること。

四、声のあと、朝倉はどこへ動いたか。

五、そのとき、蓮さんはどこにいて、どう動いたか。(内心は映像からは分からない)

六、囲いの向こう、映っていないところは、何があったか。


水城が、それを横から見ていた。


「六つ目は、映像では分からないかもしれません」


「はい。……現場に行けば、今の形は分かる。十年前と同じかは、分からないけど」


「見取図と比べることはできます」


「はい」


水城は、腕時計を見た。


「三時二十五分です」


透は、ディスクを取り出して、ケースに戻した。ケースを封筒に入れた。


画面は暗くなった。


止めた場面の、すぐ先がまだそこにあった。車体の後ろが店の方へ振れかけていた。二つの人影が、壁の近くにいた。


透は、ノートパソコンを閉じた。


「次は」


透は言った。


「水城さんが決めてください」


水城は、少し考えた。


「明日の午後。同じ時間。映像の続きと、見取図」


「はい」


明日は日曜だった。透は、昨日手帳の隅に書いておいた日付を見た。三週間後の木曜まで、今日を除いて十九日あった。


「それと、もし行くなら、現場は、そのあと。……私も行きます。今の歩道を見るだけ」


「はい」


水城は、ノートを閉じた。


鞄にしまう前に、一度だけ、月曜の頁の「そこで切れる」のところを見た。


それから、立ち上がった。


透は、資料を一つずつ封筒に戻した。供述の控え。見取図。目撃者の話。ディスク。


どれも、十年前の事故を記録したものだった。


変わったのは、それを並べる順番と、読み方だった。

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