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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第三十話

木曜の夜、透は水城に送る文面を三度書き直した。


一度目は、謝罪から始めていた。読み返して、消した。謝罪を先に送れば、水城に返事をしなければならないと思わせるかもしれない。


二度目は、資料のことから始めていた。千尋から借りたものがある、一緒に見てほしい。読み返して、消した。それは火曜の朝と同じだった。透の用事を先に置いて、水城をそこへ呼ぶ文だった。


三度目に、こう書いた。


〈水城さん。会って話したいことがあります。火曜のことと、これからのことです。〉


〈断っていただいて構いません。返事をしなくても構いません。〉


〈会っていただける場合は、場所も時間も、水城さんが決めてください。どれだけ短くても構いません。〉


送った。


それから、携帯を机に伏せた。


返事が来たのは、翌日の昼過ぎだった。


〈今日の六時。区民センターの、前と同じ部屋。四十分。〉


それだけだった。


透は返信した。


〈伺います。ありがとうございます。〉


夕方、母からも連絡が来た。


〈不動産屋さんから。引き渡し、三週間後の木曜に決まったって。部屋の片づけ、その前に手伝ってね。〉


透はその文面を読んで、携帯を置いた。


三週間後の木曜。


日が決まった。決まってしまえば、数えることができた。


---


金曜の六時前、透は区民センターの二階に上がった。


受付で鍵を受け取った。予約は水城の名前で入っていた。


部屋は、前に来たときと同じだった。窓際に長机が一つ。椅子が四脚。窓の外の銀杏は、前よりも葉が黄色くなっていた。


ここで二人で事例Fを読んだ。一時休止の後、接触を再開。その頁を、この机の上で開いた。それから向かいの喫茶店で休憩した。水城はココアを頼んで、疲れたときだけです、と言った。


あのとき、透は水城の話を聞く側だった。


今日は、謝りに来ていた。


透は、窓際の椅子には座らなかった。入口に近い方の椅子の横に立ったまま、待った。


千尋から借りた封筒は、鞄の中に入れたままにした。


六時ちょうどに扉が開いた。


水城が入ってきた。紺のコートを着ていた。透を見て、少しだけ頷いた。


水城は、窓際の椅子に鞄を置いて、座った。


「六時四十分までです」


「はい」


透は、向かいの椅子に座った。


水城は、ノートを出さなかった。両手を机の上で組んでいた。


---


「火曜のことを、話させてください」


透は言った。


「はい」


透は、手帳を開いた。木曜の電車で書き始めた頁だった。昨日の夜、書き足した。今朝、もう一度読んだ。


読み上げるのではなく、自分の言葉で言おうと思っていた。けれど、手帳を開いておかなければ、どれかを飛ばしそうだった。


「一つ目。記録を整理してから、次を決める。月曜の夜に、話し合うまで行かないと言ったのに、次の朝に、今日行きたいと連絡しました。整理が終わっていないと言われたのに、一時間だけ、と言って急がせました」


水城は何も言わなかった。


「二つ目。蓮のその後は聞かないと、電車の中で決めました。それなのに、シャツの色を聞きました。ネクタイを聞きました。母に何と言ったかを聞きました。水城さんに止められて、一つだけと言って、続けました」


「……」


「三つ目。分からないと言われても、聞き続けました。服を聞いて、言葉を聞いて、顔を聞いて。向きを変えて、何度も」


透は、手帳から目を上げなかった。


「四つ目。物を動かしました。箱を入口に置いて、蓮が立っていた場所に見立てました。写真の箱を開けて、写真を見せました。物は動かさない、配置を変えて再現しない。日曜に、僕が自分で言い出した約束です」


水城の指が、組んだ手の上で少しだけ動いた。


「五つ目。区切りの時刻を越えました。もう少しだけ、と言いました。あいつが、箱じゃない、と言ったあとも。水城さんが、それは終わりにしてほしいという申し出だと言ったあとも」


「……」


「六つ目」


透は、少しだけ言葉を止めた。


「水城さんが一緒に来てくれることを、当たり前のように扱いました。止める役をしてもらいながら、止まりませんでした。……そして、分かってもらえないんですね、と言いました。僕の事故なんです、と。水城さんに、あれを向けるべきではありませんでした」


透は手帳を閉じた。


「土曜に、久世さんの家で見たことがあります。降りたいと言った人に、冬の続きから、と言った。僕は帰り道で、自分ならそうはしないと言いました」


透は顔を上げた。


「火曜に僕がしたのは、同じことでした。分からない、と言われてから、席や湯呑みや窓を聞くのと同じように、シャツや言葉や顔を聞きました。今は大事なところだ、と言いました。……久世さんと、同じことをしました」


部屋の中が静かになった。


廊下を誰かが通っていく足音がした。


透は、もう一つ言いたいことがあった。もう一度、一緒に来てほしい。前のように。


それは言わなかった。


言えば、謝ったことが、そのための前置きになる。


「以上です」


水城は、しばらく透を見ていた。


「……受け取りました」


水城は言った。


それだけだった。


赦すとも、いいですよとも、言わなかった。


透は頷いた。


「はい」


---


水城が、腕時計を見た。


「何か、話したいことがあるって書いてましたね。これからのこと」


「はい」


透は、鞄から封筒を出した。机の上に置いたが、開けなかった。


「木曜に、蓮のお姉さんに会いました」


透は、千尋とのことを短く話した。事故の資料について問い合わせたこと。千尋が、自分を慰める役ではないと言ったこと。蓮が町を出たかったこと。透がそれを、ほとんど知らなかったこと。


「僕が火曜に聞こうとしていたのは、あの部屋の一場面の、蓮でした。千尋さんの弟の蓮じゃなかった。……それを、千尋さんの話を聞いて、やっと分かりました」


「はい」


「千尋さんが、当時ご家族が受け取った資料を貸してくれました。目撃した人の話をまとめたものと、店の防犯カメラの映像のコピーです。音はありません」


水城の目が、封筒に落ちた。


「条件があります。コピーを取らない。写真も撮らない。手で書くのはいい。見るのは僕と、僕がどうしても必要だという一人だけ。二週間で手渡しで返す」


透は、封筒から手を離した。


「その一人を、水城さんにお願いしたいと思っています。……でも、これはお願いです。断っていただいて構いません」


「何をするんですか」


「事故を、資料から調べ直したいんです」


透は、手帳を開いた。白い頁に、三本の線を引いてあった。昨日の夜、書いたものだった。


「あいつに、もう一度会いに行くのではなくて。今ある資料から始めたい。見取図。僕の供述の控え。千尋さんの資料。それから、水城さんのノート」


透は、手帳を水城の方へ向けた。


一番上に、三つの見出しがあった。


事実(資料で確かめられたこと)。証言(誰が、いつ、どう話したか)。解釈(誰が、どう考えたか)。


その下に、小さく書き添えてあった。どの行にも、出どころを付ける。何に書いてあるか。いつ、誰が作ったか。写しか。


「月曜に、あいつが話したことも、証言の欄に入れます。呼んだのは自分だ、と言ったこと。見えた順番。一つの証言として。……僕が月曜に話した、僕の記憶も、同じ欄に入れます」


「朝倉さんの記憶も」


「はい。僕の記憶も、証言の一つです。事実の欄には入れません。供述の控えも、控えがあることは事実ですが、書いてある中身は、十年前の僕の証言です」


水城は、その頁をしばらく見ていた。


「交換の話は、どこに入りますか」


透は、少し間を置いた。


「解釈の欄です。僕の」


「……はい」


「千尋さんの資料は、何が起きたかを確かめるためにだけ使います。蓮が何を考えていたかを探すためには使わない。それも、千尋さんと約束しました」


水城は、手帳から顔を上げた。


窓の外で、銀杏の葉が一枚落ちた。


「私が決めていいですか。どこまで関わるか」


「はい」


「資料を見るのは、手伝います」


水城は言った。


「この部屋か、同じような場所で。時間は、私が決めます。今日みたいに」


「はい」


「朝倉さんの実家には、当分行きません。あの部屋のことには、同席しません。あの人に会いに行くかどうかは、朝倉さんが決めることだけど、私はそこにはいない」


「……はい」


透は頷いた。


当然だった。それでも、胸の中のどこかが重くなった。


「それと」


水城は言った。


「榊原さんのこと。来週の木曜です」


「はい」


「私たちのこととは別に、榊原さんに伝えると約束したことは、予定どおり準備したいです。分かったことはそのつど、と言いました。朝倉さんのことがどうなっても、それは榊原さんには関係ない」


「はい。そうします」


「準備は、資料を見るのとは分けて、別の日に」


「はい」


透は少し迷ってから言った。


「一つだけ、伝えておきます。実家の引き渡しの日が決まりました。三週間後の木曜です」


水城は透を見た。


「それで何かをお願いしたいわけではありません。……知っておいてもらいたかっただけです」


水城は少しの間、何も言わなかった。


「分かりました。聞いておきます」


それだけだった。


「はい」


水城は、ようやく鞄からノートを出した。


表紙を開いた。頁をめくった。


月曜の頁で、手が止まった。


「ここから始めましょう。朝倉さんの記憶と、あの人の話。月曜に二人が話したことを先に並べて。そのあとで、朝倉さんの供述の控えを読む。……順番は、それでいいですか」


「はい」


透は、鞄から段ボールの中身を出した。見取図の写し。自分の供述の控え。


水城は、腕時計を見た。


「六時二十分。あと二十分です」


---


水城が、月曜の頁を読み上げた。


「朝倉さんの記憶。蓮さんと歩道を並んで歩く。朝倉さんが車道側、蓮さんが店側。蓮さんが進路の話。途中で途切れる。車が歩道に上がる。大きな音、ぶつかる音。名前を呼ばれる。耳のすぐそば、短く強く。その声で体が動く。壁の方。……動いたのは一回だけだと思う」


透は自分の言葉を水城の声で聞いていた。


月曜には、それが自分の記憶のすべてだった。


透は、手帳の証言の欄に書いた。月曜、朝倉の記憶(水城の記録より)。動いたのは一回だけだと思う。呼ばれて、動いた。


「あの人の話」


水城は続けた。


「本人が語った順の要約。車が上がってくる。ライトが目の前に来る。そこで切れる。気がつくと、歩道の少し外。朝倉さんと蓮さんが見える。車が植え込みの囲いにぶつかっている。向きが変わる。後ろが店の方へ振れてくる。朝倉さんが壁の近くにいる。名前を呼ぶ。朝倉さんが壁沿いに動く。そのあと、蓮さんが」


透は、それも証言の欄に書いた。月曜、本人の話(朝倉の話を聞いたあと)。


「次は、供述の控えを」


水城が言った。


透は、控えを手に取った。


十年前の自分の言葉だった。事故の三日後に警察で話した内容を、写しとして受け取ったもの。水曜の朝、最初の頁だけを読んだ。


二頁目を開いた。


係官の質問と、透の答えが、交互に並んでいた。


透は、声に出して読んだ。


「――車はどこから来ましたか。……後ろからです。音がして、振り向いたら、歩道に上がってきていました」


水城のペンが動いた。


「――そのとき、どうしましたか。……よけました。とっさに、店の方へ。蓮の方へ、少し」


透は、そこで一度止まった。


よけました。


読み直した。間違いなかった。


次の行を読んだ。


「――よけたとき、どう思いましたか。……助かったと思いました」


透は、間を置かずに次の問いへ進んだ。


「――それから。……車が、植え込みにぶつかって、大きな音がしました。そのあと、名前を呼ばれた気がしました。それで、壁の方へ走りました」


透は、控えを机の上に置いた。


水城は、ノートの上でペンを止めていた。


透は、控えをもう一度見た。


よけました。


それから、名前を呼ばれた気がしました。それで、壁の方へ走りました。


二つあった。


一つ目は、車が上がってきたとき。店の方へ。


二つ目は、名前を呼ばれたあと。壁の方へ。


月曜に、透は言った。動いたのは一回だけだと思う。呼ばれて、動いた。


十年前の自分は、二回動いたと話していた。


「……二回」


透は言った。声がかすれていた。


「僕は、二回動いてた」


水城は、すぐには頷かなかった。


「十年前の朝倉さんは、二回動いたと話している。今の朝倉さんの記憶とは違う」


水城は言った。


「実際にどう動いたかは、明日、映像で確かめましょう」


水城は、ノートを透の方へ向けた。月曜の頁と、今書いたばかりの頁が並んでいた。


月曜:動いたのは一回だけだと思う。

十年前の控え:よけた(店の方へ)。そのあと、呼ばれた気がした。壁の方へ走った。

同:よけたとき「助かったと思いました」。


透は、上の二行を見ていた。三行目には、目を向けなかった。水城も、そこについては何も言わなかった。


十年間、何度も思い出した場面だった。眠れない夜に。蓮の命日に。調査で、知らない家の廊下に立つたびに。


衝突の音。名前。体が動く。


それが、透の知っているあの日だった。


控えにある最初の一歩が、透の記憶にはなかった。


控えは、十年前に受け取って、箱にしまったものだった。そこに書かれた言葉と、今の透の記憶が、違っていた。


変わったのは、たぶん、透の記憶の方だった。


「……いつから」


透は言った。


「いつから、一回だと思ってたのか、分からない」


水城は何も言わなかった。


しばらくして、言った。


「朝倉さんが嘘をついていた、ということじゃないと思います」


「……」


「でも、月曜の記憶と、十年前の控えは違う。それは、記録しておきます」


水城は、自分のノートに書いた。


透は、手帳の欄を見た。


証言の欄に、三つの言葉が並んでいた。十年前の透。月曜の透。月曜のあいつ。


あいつの話も、もう一度見た。ライトが目の前に来る。そこで切れる。気がつくと、歩道の少し外。


そこで切れる。


控えには、最初によけたとある。


透は、ペンを持ったまま動かなかった。


それが何を意味するのか、まだ分からなかった。最初によけたのと、あいつのそこで切れる、が同じときなのか。名前を呼ばれたのは、その前なのか、あとなのか。


控えには、そのあと、と書いてあった。けれど、それも十年前の透の言葉だった。


「声が」


透は言った。


「声が、最初によけたあとだったのか、前だったのか。……この控えだけでは、決められない」


「はい」


水城は頷いた。


「映像には音がないから、声は映らない。映像で分かるのは、誰がどう動いたかと、車がいつぶつかったか。それを控えの順番と並べれば、食い違うかどうかは見られます。目撃した人の話に声のことが書いてあれば、それも並べる。書いていなければ、声そのものを別の人の話で確かめることはできません」


水城は、机の上の封筒を見た。


それから、腕時計を見た。


「六時四十分です」


透は、頷いた。


「はい。終わりにします」


すぐに言えた。


透は、手帳を閉じた。控えと見取図を封筒の横にまとめた。


水城は、ノートを鞄にしまった。立ち上がって、コートを着た。


「明日」


水城は言った。


「同じ部屋が取れたら、二時から。一時間半。映像と、目撃した人の話。……取れたら、連絡します」


「はい」


「映像を見るときも、今日と同じ。先に何を確かめるかを決めてから再生する」


「はい」


水城は、扉の前で一度だけ振り返った。


「今日の分は、受け取りました」


それだけ言って、出ていった。


透は、しばらく部屋に残った。


窓の外は、もう暗くなっていた。銀杏の葉の色は、もう見えなかった。


透は、手帳を開いた。新しい頁に、明日確かめることを書いた。


一、最初によけたのは、いつか。どちらへ。

二、名前を呼ばれたのは、その前か、あとか。(映像に音はない。控えと、目撃者の話に書いてあれば、それと照らす)

三、二度目に動いたのは、どちらへ。そのとき、蓮はどこにいたか。


書いてから、三つ目の後半を見た。


蓮はどこにいたか。


それは、蓮が何を考えていたかではなかった。蓮が、どこにいたか。映っていれば、見える。映っていなければ、分からないと書く。


透は、その一行を消さなかった。


鍵を受付に返して、区民センターを出た。


向かいの喫茶店には、明かりがついていた。窓際のソファの席は、空いていた。


透は、その前を通り過ぎた。


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