第二十九話
水曜の朝、透は部屋の押し入れから段ボール箱を下ろした。
蓋の上に、自分の字で日付が書いてあった。
昨日、実家から帰ったのは夕方だった。夜、水城に三行だけ送った。返事は来なかった。朝になっても来ていなかった。
来なくて当然だった。
透は箱を開けた。見取図の写し。自分が警察で話した内容の控え。会葬礼状。新聞の切り抜き。
読みたかったのは、そのどれでもなかった。昨日まで透が読みたかったのは、あの部屋の入口に立った蓮のことだった。白いシャツ。たぶん。ネクタイはしていなかった、と思う。笑っていたか。分からない。
五時間、それを聞いた。
分からない、を、何度聞いたのか覚えていなかった。
残ったのは、分からない、だけだった。
透は、箱の中のものを一枚ずつ出した。見取図の写しを広げた。自分の供述の控えを、最初の頁だけ読んだ。
どれも、透の側から見たあの日だった。見取図は警察が描いたものだったが、そこに書き込まれた二人の位置は、透の話をもとにしていた。
ほかの人が見たことは、ここにはなかった。あの日の映像も。
透は、それに十年気づかなかったのではなかった。気づかないようにしてきた。
透は会葬礼状を手に取った。差出人の欄に、蓮の父親の名前と、住所があった。その下に、千尋の名前もあった。
十年前、葬儀のあとに一度だけ、千尋とメールをやり取りしたことがあった。蓮の部屋にあった透の本を、送り返してもらったときだった。そのアドレスは、まだ携帯に残っていた。
透は、文面を何度も書き直した。
事故の記録を、読み直していること。自分の手元にある資料に、足りないものがあること。当時、ご家族の方で受け取った資料について、もし差し支えなければ伺いたいこと。断っていただいて構わないこと。
蓮のことを知りたい、とは書かなかった。
書けなかったのではなかった。書かないと決めた。
昨日、水城がいなくなったあとの部屋で、透は五時間、蓮のことを聞き続けた。そして今朝、水城を失った翌朝に、蓮の家族に助けを求めようとしていた。
それが分かっていて、送った。
返事は、昼過ぎに来た。
〈千尋です。〉
〈明日の十二時十五分。職場の近くの喫茶店で。一時までです。昼休みなので延ばせません。〉
〈話したくないことは、話しません。〉
店の名前と地図が添えてあった。
透は、すぐに返信した。
〈ありがとうございます。伺います。〉
それ以上は書かなかった。
---
木曜の十二時十分、透は店の前に立っていた。
オフィス街の裏通りの、小さな喫茶店だった。昼時で、ほとんどの席が埋まっていた。
千尋は、窓際の二人掛けの席に先に座っていた。
十年ぶりだった。葬儀のとき、千尋は二十四だった。今は三十四のはずだった。髪を短くしていた。紺のジャケットに、首から社員証を下げていた。
テーブルの上に、トートバッグが一つ置いてあった。
「朝倉です」
「知ってます」
千尋は言った。座って、と目で示した。
透は向かいに座った。
店員が来た。千尋は、もう頼んであるから、と言った。透はコーヒーを頼んだ。
千尋は腕時計を見た。
「四十五分」
「はい」
透は、膝の上で手を組んだ。
「最初に、目的を言います」
「どうぞ」
「十年前の事故のことを、調べ直しています。僕の手元にあるのは、自分が警察で話したことの控えと、現場の見取図の写しくらいです。ほかの人が見たことや、あの日の映像のようなものは、ありません。当時、ご家族の方が受け取った資料があれば、見せていただけないかと思って連絡しました」
千尋は透を見ていた。
「それだけです」
透は言った。
千尋は少しの間、黙っていた。
「なんで、今なの」
千尋は言った。
「十年、何も言ってこなかったのに」
---
透は、すぐには答えられなかった。
本当の理由を言えば、あの部屋のことを話すことになる。十九歳の自分のこと。年を取った蓮のこと。
それは、言わないと決めてきた。
「……ずっと」
透は言った。
「ずっと、自分のせいだと思ってきました。あのとき、僕が動いたから、蓮が」
「待って」
千尋が言った。
低い声だった。
透は口を閉じた。
「その話、私にしないで」
千尋は透を見ていた。目をそらさなかった。
「あなたが自分を責めてきたって。それ、私が聞いて、どうすればいいの」
「……」
「大変だったね、って言えばいいの?あなたのせいじゃないよ、って?」
千尋の声は、大きくはなかった。周りの席の話し声に、半分紛れていた。
「事故のあと、ずっと言われたの。親戚にも、近所の人にも。あの子を責めないであげて、って。あの子も苦しんでるんだから、って。……あの子っていうのは、あなたのこと」
透は、何も言わなかった。
「蓮のお葬式で、私、あなたのこと気にかけなきゃいけなかったの。蓮が死んだのに。弟が死んだのに、生き残った子が大丈夫かどうか、気にしてあげなさいって」
千尋は、テーブルの上のグラスを見た。水が半分残っていた。
「弟が死んだことが、いつの間にか、あなたが立ち直るための話になってた」
透は、膝の上の手を見ていた。
ずっと自分のせいだと思ってきた。それを、誰かに言いたかった。言って、どうしてほしかったのか。
透は、それを分かっていなかった。
自分を責める言葉も、相手に何かを渡していた。受け取ってくれ、と。それに何か返してくれ、と。
千尋は、それを十年前から渡され続けてきた。
「……すみません」
透は言った。
「謝らなくていい」
千尋は言った。
「謝られても、困る」
透は頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
店員がコーヒーを置いていった。千尋の前には、サンドイッチの皿が置かれた。千尋はそれに手をつけなかった。
しばらく、どちらも話さなかった。
千尋が、腕時計を見た。
「蓮の話なら」
千尋は言った。
「私が話せることだけ、話す。あなたのための話じゃなくて」
「はい」
---
「あの子、出ていきたかったの」
千尋は言った。
「この町から。知ってた?」
「春から、遠くへ行くって。……聞いてました。事故の、少し前に」
「どうしてかは」
透は、少し考えた。
「新しいことをやりたい、って。それくらいしか」
千尋は、少しだけ口の端を上げた。笑ったのではなかった。
「そうでしょうね」
千尋は、サンドイッチの皿を少し脇へ寄せた。
「あの子、ここだと、いい子だったの。誰にでも好かれて。後輩の面倒も見て、近所の集まりにも顔出して。親戚の子の勉強も見てた。頼まれると断らない。……町の人はみんな、蓮はずっとここにいるもんだと思ってた」
「はい」
「本人は、それがしんどかったみたい。いい子でいる役が。……向こうで働きながら、夜の学校に通うつもりだった。何を学ぶかは、私にも何回か変わって言ってたけど」
透は、その話を聞いていた。
夜の学校。知らなかった。
「親には、ぎりぎりまで言わなかった。まだ決めてない、って言い続けて。そのくせ、向こうの部屋の下見にはもう行ってて。私には、言うなよ、って」
千尋は、少しだけ声を落とした。
「誰にでもそうなの。いい顔して、先延ばしにして。……近所の人には、休みには帰ってくるって言ってた。後輩には、来年も手伝いに来るって。たぶん、どれも本気じゃなかった。でも、嘘でもなかったと思う。断れないだけ」
透は、自分のことを思った。
蓮は、透にも何か約束をしていただろうか。
していた気がした。向こうに行っても、たまには会おう、とか。そういう、曖昧な何かを。
透は、それを覚えていなかった。覚えていないことに、今気づいた。
「あの子が何を考えてたか、全部は知らない」
千尋は言った。
「姉だけど。知らないことの方が多い。……だから、あの子のこと、きれいな話にしないで」
「はい」
「誰にでも優しかったとか。最後に誰かを守ろうとしたとか」
千尋の声が、わずかに硬くなった。
「そういう話にされるのが、一番嫌。あの子は、出ていきたかった。それだけ。その前に、死んだ」
透は、喉の奥が詰まるのを感じた。
白いシャツ。働いている人の格好。あの部屋の入口に立った、年を取った蓮。
その蓮は、町を出ていたのだろうか。夜の学校に通ったのだろうか。それとも、ここに残ったのだろうか。
聞きたいことが、喉元まで来ていた。千尋に、そのシャツの話をしたら。
透は、口を閉じた。
あの部屋の蓮は、千尋の弟ではなかった。少なくとも、千尋が今話している蓮ではなかった。千尋の弟は、町を出たくて、誰にでもいい顔をして、先延ばしにして、その前に死んだ。
透が知っていた蓮は、そのうちのほんの一部だった。
春から遠くへ行く、と聞いた。新しいことをやりたい、と。それだけで、透は分かった気でいた。
知っていたつもりの親友に、透の知らない行き先があった。
---
千尋が、腕時計を見た。
十二時四十五分だった。
「資料のこと」
千尋が言った。
「はい」
「あなたが言ってた、当時うちが受け取ったもの。あります」
千尋は、テーブルの上のトートバッグに手を置いた。
「両親が、当時の手続きの中で受け取った写し。目撃した人の話をまとめた紙が何枚か。それと、事故の場所の前のお店の、防犯カメラの映像のコピー。音はない。お店の人が警察に出したものの写しだって、父から聞いた。どういう経路でうちに来たのかは、私は詳しく知らない」
透は、トートバッグを見ていた。
「今は、私が預かってる。……一回も見てない。映像は」
千尋は、バッグから厚い封筒を一つ出した。テーブルの上に置いた。手は、まだ封筒の上にあった。
「何に使うの」
透は、すぐに答えた。
「何が起きたかを、確かめるためです」
「蓮が何を考えてたか、じゃなくて」
「はい。蓮が何を考えてたかは、これでは分からないと思います。分かったふりも、しません」
千尋は透を見ていた。
「本当に?」
透は、少しだけ間を置いた。
火曜の自分なら、どう答えただろう。
「……このあいだまでは、それを知りたいと思っていました」
透は言った。
「でも、それは、ここにはないと思います。千尋さんの話を聞いて、そう思いました」
千尋は、何も言わなかった。
封筒の上から、手を離した。
「条件がある」
「はい」
「映像はディスクに入ってる。コピーは取らないで。写真も、画面を撮るのもだめ。気づいたことを手で書くのはいい。あなたと、あなたがどうしても必要だという一人だけが見る。誰か、いるの」
透は、少し考えた。
「……一緒に見てもらいたい人がいます。まだ、頼めるかどうか分かりませんが」
「頼めなかったら、あなた一人で」
「はい」
「ほかの誰にも見せない。ネットにも、どこにも出さない。……二週間で返して。郵送じゃなくて、手渡しで。私の職場の下まで持ってきて。家には来ないで」
「はい」
「それから」
千尋は、少し言葉を選んだ。
「見て、何か分かっても、私に報告しなくていい。聞きたくなったら、私から聞く。……聞かないかもしれない」
「分かりました」
透は、手帳を出した。千尋の言ったことを、一つずつ書いた。書いたものを、声に出して読み上げた。
千尋は最後まで聞いて、頷いた。
時計は、十二時五十八分だった。
千尋は、サンドイッチを一切れだけ口に入れた。それを飲み込んで、立ち上がった。
ジャケットの前を整えた。トートバッグを肩にかけた。伝票を取った。
「ここは私が。呼んだのは私だから」
透が何か言う前に、千尋はレジの方へ歩いていった。
支払いを済ませて、千尋は一度だけ振り返った。
「朝倉くん」
十年前と同じ呼び方だった。
「あの子のこと、あなたの話にしないで」
それだけ言って、千尋は店を出ていった。
時計は、一時ちょうどだった。
透は、席に座ったまま、テーブルの上の封筒を見ていた。
---
店を出て、駅まで歩いた。
封筒は、鞄の中で重かった。
千尋は、自分が話せることと話せないことを決めて、資料をどう扱うかを決めて、時間どおりに立ち上がった。
距離を決める人だった。
透は、駅のホームに立って、電車を待った。
火曜のことを思った。
あの部屋で、透は若い男に何度も聞いた。シャツの色。ネクタイ。母に何と言ったか。笑っていたか。分からない、と言われても。箱じゃない、と言われても。
蓮の続きを、透は自分の問いの中に探していた。
けれど、その続きは、千尋の弟の続きではなかった。透が死んだ場合の、あの部屋の一場面だった。水城が日曜にそう言った。透は、それを聞いていた。聞いていて、越えた。
鞄の中には、目撃した人の話と、音のない映像がある。
蓮が何を考えていたかは、そこにはない。
あるのは、誰かが見たことと、カメラに映った動きだ。映っていないところも、きっとある。
それでも、そこにあるものなら、確かめられる。
透は、携帯を出した。
水城との最後のやり取りが、画面に残っていた。透が送った三行。その下に、何もなかった。
透は、文字を打ちかけて、止めた。
一緒に見てほしい、と頼むことはできる。けれど、それだけでは、火曜までと同じだった。透が決めて、水城が付き合う。透が越えて、水城が止める。
頼み直すなら、方法から頼み直さなければならなかった。
何を約束して、何を破ったのか。それを、自分で言えるようにしてから。
透は、携帯をしまった。
電車が、ホームに入ってきた。
透は、手帳を開いた。新しい頁に、書いた。
火曜に破ったこと。
その下は、まだ空いていた。
透は、電車の窓に映る自分の顔を見ないようにしながら、一つ目を書いた。
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