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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第二十八話

火曜の朝、澪はテーブルにノートを広げていた。


仕事は休みを取ってあった。昨日と一昨日の頁を、もう一度読むつもりだった。朝倉と会う前に。次の条件を話し合う前に。


二日分の頁に、付箋を貼っていった。蓮の場面。事故の順番。二つの自責。どれが本人の言葉で、どれが澪の要約か。印を分けて付けた。


「ねえ」


窓際から声がした。


「お姉ちゃんの返事、もう一回読んで」


澪は顔を上げた。


女は窓際に立っていた。外を見ていなかった。澪の方を向いていた。


「この前も読んだよ」


「もう一回」


澪はノートを閉じた。別のノートを開いた。伝言の頁は、まだ付箋がなくてもすぐに開けた。


澪は読んだ。


「届いたよ。積み木のこと、私も覚えてる。次はどれにするか、いつも迷ってたね。……会いたいって言ってくれて、ありがとう。でも、何て返せばいいか、まだ分からない。あなたのこと、まだ知らないから。……分からないって、そのまま書いて」


女は黙って聞いていた。


「いつも迷ってたね、のとこ」


「うん」


「そこだけ、もう一回」


澪は、その一文だけ読んだ。


女は小さく頷いた。それから窓の方へ向き直って、外を見たまま言った。


「次は、いつ行くの。お姉ちゃんのとこ」


「まだ決めてない」


「この前も、そう言った」


澪は答えなかった。


「朝倉さんのは、毎日書いてるのに」


責める声というより、確かめる声に、澪には聞こえた。


「……今週は無理。来週、考える」


「考える、ね」


女はそれ以上言わなかった。


澪はノートを閉じて、しばらくその表紙を見ていた。


この子の言葉をお姉ちゃんに運んだ。お姉ちゃんの言葉をこの子に運んだ。母とは、まだ何も決めていない。


そして今は、朝倉の部屋にいるもう一人の朝倉の言葉を、ノートに書いている。


自分の家の分身にも、他人の家の残存者にも、同じように言葉を運ぶ役になっていた。


澪は、朝倉のノートを開き直した。


携帯が震えた。


---


〈おはようございます。急ですみません。今朝、母から連絡がありました。不動産屋が、引き渡しの日の相談をしたいと言ってきたそうです。〉


〈今日、もう一度実家に行けませんか。〉


澪は、その文面を見た。


昨日、別れ際に言った。次の条件を、会って話し合いたい。それまで行かないでほしい。朝倉は、はい、と答えた。


〈まだ記録の整理が終わっていません。次の条件を話し合う約束でした。〉


返事はすぐに来た。


〈分かっています。でも、時間がないんです。一時間だけです。条件は昨日と同じで。話し合いは、向かいながらできると思います。〉


時間がない、と澪は読んだ。


引き渡しの日は、まだ決まっていない。相談したいと言ってきただけだった。それでも朝倉には、もう日が迫っているように見えているのだろう。


澪は返信を打ちかけて、止めた。


帰宅後に記録を整理してから、二人で次回を決める。


それは、日曜に朝倉の家の廊下で、二人で書いた約束だった。朝倉が自分で読んで、頷いた。


それが、もう省かれようとしていた。


〈一時間で何を聞くつもりですか。〉


〈事故のことです。昨日の続き。〉


澪は、その一行を見ていた。


昨日の夜、朝倉は何を書いたのだろう、と思った。


断ることもできた。断れば、朝倉は行かないだろうか。


澪には分からなかった。分からないと思った時点で、答えは出ていた。


朝倉を一人で、あの部屋に行かせたくなかった。


〈昨日と同じ条件を、同じ形で守るなら、行きます。時間は私が決めます。〉


〈はい。ありがとうございます。〉


記録を整理してから次を決める。その手順を飛ばすことに、澪は自分で頷いたのだった。一人で行かせたくなかったから。それは澪が選んだことだった。


澪は携帯を置いた。


窓際の女が、こちらを見ていた。


「出かけるの」


「うん」


「顔、こわいよ」


「知ってる」


女はそれ以上聞かなかった。


---


駅で落ち合った朝倉は、いつもと同じ顔をしていた。


いつもと同じように、頭を下げた。いつもと同じように、すみません、と言った。


「向かいながら話す、って言いましたね」


電車の中で、澪は言った。


「はい」


「何を変えますか。条件」


朝倉は少し考えた。


「変えなくていいと思います。昨日と同じで」


「事故のこと、昨日の続き。それ以外は、聞かない」


「はい」


「蓮さんのその後は、こちらから聞かない」


朝倉は少しの間、窓の外を見ていた。


「……はい」


澪はノートに書いた。


今日の条件:昨日と同じ。区切りの時刻は水城が決める。事故のこと、昨日の続きのみ。蓮さんのその後はこちらから聞かない。


朝倉はそれを横から見ていた。何も言わなかった。


澪は時刻を決めた。十一時十分。


「一時間よりも短いです」


「はい」


朝倉は頷いた。


---


朝倉の母は、三日続けて来た二人を見て、少しだけ眉を寄せた。それでも何も聞かずに台所へ戻った。


階段の三段目が鳴った。


扉の前で、澪はノートを開いた。今日の条件を読み上げた。朝倉は一つずつ頷いた。


扉を開けた。


部屋は、昨日と同じだった。段ボール。衣装ケース。窓際の机。


澪は壁際の箱の前に立った。昨日と同じ位置だった。


朝倉が机の前に立った。


窓の右側で、空気が揺れた。


澪には、それが少しずつしか見えなかった。灰色の袖。前髪の影。壁にもたれた肩の線。見えたと思うと、薄くなる。また輪郭が戻る。


「……また来た」


声がした。澪には、途切れ途切れに聞こえた。けれど、その声が少し明るいことは分かった。


「来るって言ったから」


朝倉が言った。


若い男の輪郭が、少しだけはっきりした。肩が、壁から離れたように見えた。


澪は、ノートに書いた。十時五十分、出現。本人「また来た」(声、明るい)。


書いてから、明るい、に括弧を付けた。それは澪の受け取り方だった。


---


「昨日の続きを、聞きたい」


朝倉は言った。


「事故のこと。……呼んだあと。僕が動いたあと。おまえには、何が見えてた」


若い男は、少しの間、黙っていた。


「……車が」


澪には、ところどころしか聞き取れなかった。


「……止まって……音が……おまえは、壁の……」


澪は、聞こえた言葉だけを書いた。


朝倉は頷いていた。手帳に何も書いていなかった。


「蓮は」


朝倉が言った。


「蓮は、そのとき、どこにいた」


若い男の答えは、澪にはほとんど聞こえなかった。朝倉の顔が、わずかに動いた。


「……分かった」


朝倉は言った。


それから、少し間を置いた。


「あの部屋に来た蓮のことだけど」


澪のペンが止まった。


「シャツの色は、覚えてるか」


若い男の輪郭が、一瞬薄くなった。


「……白。……たぶん。……青っぽかったかも」


「ネクタイは」


「……してなかった、と思う」


「母さんに、何て言ってた。すみません急に、のあと」


澪は、朝倉の手元を見た。


手帳は閉じていた。けれど、その表紙の下から、紙の端がのぞいていた。日曜に見せてもらった三つの問いの紙とは、折り方が違った。


今日の条件にない問いだった。


蓮さんのその後は、こちらから聞かない。


電車の中で、そう決めた。三十分前に。


澪は、ノートに書いた。十時五十五分、朝倉、蓮さんのその後について質問(服装、母への言葉)。


「朝倉さん」


澪は言った。


「蓮さんのその後は、今日は聞かない約束です」


朝倉は、少しだけ澪の方を見た。


「一つだけです。すぐ戻ります」


朝倉は若い男の方へ向き直った。


澪は、それ以上言わなかった。言えば止まると思っていた人だった。自分で戻ると、まだ思っていた。


「……覚えてない」


若い男が言った。


「この前言ったので、全部」


「全部じゃないだろ」


朝倉は言った。声は穏やかだった。


「変わってないですね、のあと。何か言ってなかったか。部屋を見て」


「……分かんない」


「笑ってたか。蓮は」


「……分かんない」


「顔は。どんな顔してた」


澪は、その声を聞いていた。


穏やかだった。急かしてもいなかった。怒ってもいなかった。


分からないと言われるたびに、問いの向きが少しずつ変わった。服。言葉。顔。


その形を、澪は見たことがあった。


土曜の、久世の家の食卓で。


席は。湯呑みは。時刻は。窓は。


---


「……分かんないって」


若い男が言った。


澪には、その声がはっきり聞こえた。


「分かんないって、言ってるだろ」


朝倉は少しの間、黙っていた。


それから、部屋の中を見回した。


入口の方を見た。扉の脇。日曜に、若い男が蓮が立っていたと言った場所。


朝倉は、壁際に積まれた段ボールの一番上の箱を持ち上げた。軽そうな箱だった。


朝倉はその箱を、入口の脇へ運んだ。


蓮が立っていたという位置に、置いた。人の背丈には足りなかった。それでも、そこに誰かが立っていた印のように見えた。


澪は、ノートの日曜の頁を思い出した。物は動かさない。前の配置に戻して、何かを思い出させるようなことは、しない。朝倉が自分から言い出した一行だった。


「朝倉さん」


澪は言った。


朝倉は振り返らなかった。


「ここに、立ってたんだよな」


朝倉は、若い男に言った。


「蓮。ここで、机を見てた。……ここから見ると、何が見える」


若い男は答えなかった。


朝倉は、壁際の段ボールの一つに手をかけた。側面に、マジックで「写真」と書いてある箱だった。


蓋を開けた。


中から、一枚の写真を出した。


澪のところからは、よく見えなかった。若い男が二人、並んで写っているように見えた。どこかの、明るい場所で。


朝倉は、その写真を若い男の方へ向けた。


「これ、覚えてるだろ。高校の、最後の夏。……この蓮と比べて、どうだった。髪とか。顔とか」


若い男の輪郭が、大きく揺れた。


「……やめろよ」


声が、澪にもはっきり聞こえた。


「俺は、箱じゃない」


朝倉の手が止まった。


「おまえが来ると、聞かれる。蓮のこと。蓮のこと。……俺は、記憶を出す箱じゃないんだよ」


若い男の声は、怒っていた。


けれど、その輪郭は消えなかった。壁際に立ったまま、朝倉を見ていた。


朝倉は、写真を持ったまま立っていた。


澪は時計を見た。


十一時十分だった。


「十一時十分です」


澪は言った。


---


朝倉は動かなかった。


写真を持った手が、少し下がった。


「……もう少しだけ」


朝倉は言った。


澪の方を見ずに。


「もう少しだけ、お願いします。今、大事なところなので」


澪は、その言葉を聞いた。


大事なところに近づくと、こうなるんです。


久世の声が、耳の奥で聞こえた。


朝倉は、若い男の方に向き直った。


「怒ってるのは分かる。……でも、この写真を見て、何か思い出さないか。蓮が来たとき、この写真の頃と比べて」


若い男は答えなかった。


輪郭が、少し薄くなった。


澪は、さっきの言葉を思い出していた。俺は、記憶を出す箱じゃない。


土曜の食卓で、もう一人の久世が言ったことと、同じだった。運ぶ役は、もう降りたい。


澪は言った。


「朝倉さん。今のは、終わりにしてほしいという申し出だと思います」


朝倉は、振り返った。


その顔を、澪は見ていた。


いつもの顔ではなかった。目が、少し赤かった。


「今やめたら」


朝倉は言った。


「今やめたら、もう聞けないかもしれない。……今は、大事なところなんです」


澪は、何も言わなかった。


あの食卓のことを、言おうと思えば言えた。久世と同じことを言っている、と。


言わなかった。


それを言っても、朝倉は聞かないだろう。聞いたとしても、それは澪が朝倉を久世と並べて責める言葉にしかならない。


澪は、ノートを見た。


今朝、電車の中で書いた頁。


区切りは水城が決める(十一時十分)。事故のこと、昨日の続きのみ。蓮さんのその後はこちらから聞かない。


その上に、日曜の頁から引き継いだ二行。


終了:三人の誰が言っても、言い換えずに終える。物:動かさない。配置を変えて再現しない(朝倉)。


今日決めたことも、朝倉が自分で言い出したことも、守られていなかった。


澪は、ノートの今日の頁に、最後の一行を書いた。


十一時十分、区切りを告知。朝倉「もう少しだけ」。本人「箱じゃない」。終了の申し出を指摘。朝倉、継続。


それから、ペンを置いた。


「朝倉さん」


澪は言った。


「私は、今日で協力を終えます」


朝倉の顔が、固まった。


「この部屋のことに、これ以上は同席しません。記録も、今日の分で終わりです」


「……水城さん」


「時間を決めたのは、私です。その時間で終わらないなら、私がいる意味がない」


朝倉は、写真を持ったまま立っていた。


「分かってもらえないんですね」


朝倉が言った。


低い声だった。


「僕の事故なんです。蓮が死んだのは、僕の。……あいつは、僕が知らない蓮を知ってる。家が売られたら、もう聞けないのに。水城さんには、それが」


朝倉は、そこで言葉を止めた。


澪は、その続きを待たなかった。


反論しようと思えばできた。朝倉が自分で言ったこと。三枝のこと。久世のこと。榊原のこと。他人には、やめていいと言ってきたこと。


澪は、何も言わなかった。


ノートの今日の頁を、閉じた。


---


部屋を出るとき、澪は一度だけ振り返った。


朝倉は、入口の脇に置いた箱の前に立っていた。写真を手に持ったまま。


窓の右側に、灰色の輪郭が、薄く残っていた。


澪には、その顔は見えなかった。


澪は扉を閉めずに、廊下へ出た。


階段を下りると、朝倉の母が台所から顔を出した。


「あら、もう?」


「はい。私だけ、先に失礼します。お邪魔しました」


澪は頭を下げた。


母は、二階の方を見上げた。何か言いかけて、やめた。


「……気をつけてね」


「ありがとうございます」


玄関を出た。


門を閉めた。


駅への道を歩いた。角のコンビニの前を過ぎた。


後ろから、足音は聞こえなかった。


澪は振り返らなかった。


止められる人だと思っていた。


最初の部屋で、沢井さんがやめてと言ったとき、止めた人だった。三枝の前で、あの部屋のものには何も聞かないと言われて、それでいいと頷いた人だった。自分の部屋の前で、話しかけないと書いて、残り四分を使わなかった人だった。


その人が、自分の番になって、止まらなかった。


澪は、ノートの入った鞄を、肩にかけ直した。


重かった。


---


家に着いたのは、昼を過ぎた頃だった。


玄関を開けると、窓際の女がこちらを見た。


「早かったね」


「うん」


澪は鞄を床に置いた。コートを脱がずに、ソファに座った。


「何かあった?」


「……あった」


「何」


「今日は、話したくない」


女は、少しの間、澪を見ていた。


いつもなら、そこで次の問いが来た。なんで。何があったの。言ってよ。


来なかった。


「……分かった」


女はそれだけ言って、窓の方へ向き直った。


澪は、その背中を見ていた。


珍しい、と思った。


それから、目を閉じた。


---


午後は、何もしなかった。


洗濯物を取り込んだ。夕飯を作って、半分残した。ノートは鞄から出さなかった。


窓際の女は、一度も話しかけてこなかった。


夜になって、寝室に入ろうとしたとき、携帯が震えた。


十一時を過ぎていた。


〈今日はすみませんでした。〉


〈あのあと、四時過ぎまで残りました。〉


〈新しいことは、何も分かりませんでした。〉


それだけだった。


澪は、その三行を見ていた。


四時過ぎ。


十一時十分に終わるはずだった。それから五時間近く、朝倉はあの家にいたことになる。澪が最後に見たのは、入口の脇に置かれた箱と、写真を持った手と、窓の右側の薄い輪郭だった。そのあとのことは知らない。


何を聞いたのだろう。どれだけ、分からないと言われたのだろう。


澪には、分からなかった。この三行に書かれていること以外は、何も知らなかった。


新しいことは、何も分かりませんでした。


すみませんでした、とあった。


何に対して謝っているのか、その文面には書いていなかった。


澪は、返信を打ちかけた。


指が止まった。


何を返せばいいのか、分からなかった。分かりました、と書けば、受け取ったことになる。大丈夫ですか、と書けば、また心配する役に戻る。


澪は、何も送らなかった。


携帯を伏せて、枕元に置いた。


居間の方は静かだった。窓際の女の声は、聞こえなかった。


澪は、四冊目のノートを開いた。


眠れた:(未)。しんどさ:強い。


その下に、一行だけ書いた。


協力を終えた。


ペンを置いて、明かりを消した。


暗い中で、澪は目を開けていた。


五時間かけて、何も分からなかった。朝倉は、そう書いてきた。


残ったのは、二人で書いて、二人で読んで、一人が破った約束だけだった。

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