第二十七話
月曜の朝、母は玄関で二人を迎えると、何も聞かずに台所へ戻った。
昨日と同じだった。階段の三段目が鳴った。水城は今日は足を止めなかった。
扉の前で、水城はノートを開いた。昨夜のメールで決めた範囲が、もう書き写してあった。事故のことを聞く。朝倉が自分の覚えていることを話すのも、その中に入る。蓮のその後は、こちらから聞かない。
「決めていないのは、順番だけです。どちらが先に話しますか」
「僕が先に話したいです。向こうの話を聞く前に。先に話しておけば、聞いたあとで自分の記憶が向こうに合わせて変わっても、比べられるので」
「分かりました」
水城はそれを書き足した。
朝倉が先に自分の記憶を話す(聞く前の記憶を残し、あとで比べるため)。
「今覚えていることを、そのまま話してください。私も、そのまま書きます」
「はい」
透は扉を開けた。
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若い男は、窓の右側に立っていた。
昨日よりも早く、はっきりと見えた。透が机の前に立つより先に、もうそこにいた。
水城が入口の脇で小さく言った。
「今日は、姿も声も、はっきりしています」
「来たな」
「うん」
若い男は、ポケットから手を出していた。腕を組んでもいなかった。両手を体の横に下ろして立っていた。
透は、机の前に立った。
「昨日の三つ目の続き。でも、その前に、僕が覚えていることを話させてほしい。聞く前に」
若い男は、少し眉を寄せた。
「……なんで」
「あとで、おまえの話に合わせて、自分の記憶が変わるかもしれないから」
若い男は、少しの間、黙っていた。
「そういうとこ、変わってないな」
笑ってはいなかった。
「いいよ。話せよ」
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透は、机の天板に目を落とした。
警察で聞かれたことに答えたほかは、十年、自分から順を追って誰かに話したことはなかった。
当時の自分の顔の前で、それを話すことになった。
「蓮と歩いてた。夕方。駅の方から。歩道を、並んで。僕が車道側で、蓮が店の側」
水城のペンが動いていた。
「蓮が、何か話してた。進路のこと。……途中で、話が途切れた。何を話してたかは、全部は覚えてない」
透は息を吸った。
「車が、来た」
喉が、少し狭くなった。
「歩道に上がってきた。音がして。すごく大きな音。ぶつかる音」
「うん」
若い男が言った。
「それから、名前を呼ばれた。耳のすぐそばで。透、って。短く、強く」
透は、自分の声で自分の名前を言うのが、ひどく奇妙に感じられた。
「その声で、体が動いた。壁の方に。……気がついたら、全部終わってた」
「……」
「動いたのは、一回だけだと思う。呼ばれて、動いた。それだけ」
透は、言い終えた。
「声が誰だったのかは、分からない。蓮だったのかもしれないと、何度も思った。でも、蓮は僕を呼ぶとき、いつも語尾を伸ばした。あの声は、そうじゃなかった」
透は顔を上げた。
「僕が覚えてるのは、それだけ」
水城が、ノートの上でペンを止めた。
部屋の中が静かになった。
若い男は、透を見ていた。
少しの間があった。
「……その声、俺だよ」
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透は、若い男を見た。
見ていられないはずの顔をまっすぐ見ていた。
若い男は、目をそらさなかった。両手を体の横に下ろしたまま、少しだけ肩に力が入っていた。
「呼んだのは、俺。……順番に、話す」
「うん」
透の声は、かすれていた。
「車が、上がってきた。ライトが、目の前に来た。……そこで、切れた」
若い男は、少し言葉を止めた。
「切れて、それで、気がついたら、ちょっと外にいた。歩道の、少し外。車道の方の、ちょっと離れたとこ。おまえと蓮が、見えた」
水城のペンの音がした。
「車は、植え込みの囲いにぶつかってた。前のとこが、ぐしゃって。それで、向きが変わって。後ろの方が、店の方に振れてきた。おまえたちの方に」
若い男の声は、少し早くなっていた。
「おまえ、壁の近くにいて。そっちに車が来るのが見えた。だから、呼んだ。名前。でかい声で」
若い男は、透の目を見た。
「助けたかった。それだけだった」
透は、何も言えなかった。
「おまえ、動いた。壁沿いに。……そのあと、蓮が」
若い男は、そこで言葉を止めた。
しばらく、何も言わなかった。
「俺が呼ばなかったら」
若い男は言った。
「おまえ、ああは動かなかった。おまえがああ動かなかったら、蓮は、あそこにいなかったかもしれない。……ずっと、そう思ってた。この部屋で。十年」
透は、若い男を見ていた。
十年探していた声の主が、目の前にいるのだと思った。
自分と同じ顔で、自分と同じように、自分を責めていた。
「……違う」
透は言った。
反射的に、口から出ていた。
「蓮が死んだのは、僕が動いたからだ」
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「呼ばれて動いたのは、僕だ」
透は言った。
「動いたのは僕の体だ。どっちに動くか決めたのも、僕だ。おまえじゃない」
「呼ばなきゃ、動かなかった」
若い男が言った。
「おまえ、固まってたんだよ。見えてた。あのままだったら、おまえ、車にやられてた。だから呼んだ。呼んだら、おまえが動いた。蓮の方に」
「それでも、動いたのは僕だ」
「動かしたのは俺の声だろ」
「声で人が動くわけじゃない。動くかどうかは、その人が」
「おまえ、あのとき何か考えてたか?」
若い男の声が、強くなった。
「どっちに動くか、決めてたか?考えてなかっただろ。声がして、体が勝手に動いた。それ、おまえが決めたって言えるのか」
透は、言葉に詰まった。
考えていなかった。それは本当だった。体が先に動いた。
「……じゃあ、おまえが呼んだのだって、決めたわけじゃないだろ」
透は言った。
「見えて、とっさに呼んだんだろ。考えて呼んだわけじゃない」
「考えたよ。助けなきゃって」
「それなら、僕だって」
透は、そこで止まった。
僕だって、助かりたかった。
その言葉が、喉元まで来ていた。
あのとき、一瞬、助かったと思った。蓮がどうなったか分からないうちに。
若い男は、透を見ていた。
同じ顔だった。同じ事故を、別の側から背負っていた。
相手を否定した言葉が、そのまま自分に返ってきた。
「……今は」
水城が言った。
二人とも水城を見た。
水城は、ノートから顔を上げていた。
「今は、二人の説明を並べて残しておきます」
静かな声だった。
「朝倉さんの説明と、そちらの説明。どちらかに決めないで、両方」
水城は、それだけ言った。
それ以上は言わなかった。どちらが正しいとも。どちらも悪くないとも。
透は、水城のノートを見た。
水城の手元で、ペンが二つの欄を作っていた。
透は、若い男の方へ向き直った。
若い男は、壁にもたれていた。両手をまたポケットに入れていた。肩が、少し下がっていた。
「……悪かった」
若い男が言った。
「おまえのせいにしたくて、言ったんじゃない」
「僕も」
透は言った。
「……分かってる」
水城が、腕時計を見た。
「あと五分です」
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透は、何か言わなければと思った。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。五分で言えることは、なかった。
窓の外で、鳩が飛び立つ音がした。
階下で、母が食器を片づける音がしていた。それが止んで、また始まった。透は机の天板の傷を見ていた。若い男は窓の外を見ていた。
「十時四十五分です」
水城が言った。
透は、息を吐いた。
「……終わりにする」
若い男は頷いた。
「うん」
透は、扉の方へ下がった。
取っ手に手をかけて、振り返った。
「また来る」
透は言った。
若い男は少しの間、透を見ていた。
「……売られたら」
若い男が言った。
「売られたら、もう来ないんだろ」
透は答えられなかった。取っ手を握ったまま、何も言えなかった。
来る、と言えば、それは売られたあとの約束になる。売られたあとのこの部屋に、透が入る方法はなかった。
若い男は、それ以上聞かなかった。窓の方を向いた。
透は扉を閉めた。
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母には、今日も手短に挨拶をした。
二人は駅までの道を歩いた。
角のコンビニの前を過ぎたところで、透は言った。
「あの声が、なかったら」
水城は、透の横顔を見た。
「僕は、あのまま固まってた。車にやられてた。……死んでた」
「はい」
「昨日、あいつが言ってたこと。僕が死んだ場合のあの部屋に、蓮が来た。年を取って」
透の歩く速さが、少し上がっていた。
「声がなかったら、僕は死んで、蓮は生きてた」
水城は何も言わなかった。
「声があったから、僕は生きて、蓮は死んだ」
透は言った。
「……あの声で、入れ替わったんです。僕と、蓮が」
言葉にすると、それは一本の線になった。
声。自分の動き。蓮の死。そして、自分が死んだ場合の、年を取った蓮。
自分の命と蓮の命が、一本の声で交換された。透には、そうとしか思えなかった。
それは、罰だった。自分が生きているのは、蓮の命を使った結果だという罰。
そして同時に、入口だった。
自分が死んでいたら、蓮は生きていた。あの部屋の十九歳の自分は、その蓮を知っている。年を取って、働いて、シャツを着た蓮を。
「朝倉さん」
水城が言った。
「それは、二つの話をつないだ、朝倉さんの考えです」
透は、水城を見た。
「昨日聞いたのは、あの部屋の一場面。今日聞いたのは、あの人が事故の日に見た順番。……二つは、別々に聞いた話です」
「でも、つながってる」
「つなげたのは、朝倉さんです」
水城の声は、静かだった。
「つながっているかどうかは、まだ分からないと思います。事故の資料も、まだ読んでいない」
「資料は」
透は言いかけた。
資料を読めば、何が分かるだろう。見取図。自分の供述の控え。新聞の切り抜き。そこに、年を取った蓮はいない。
「資料より」
透は言った。
「蓮が、どう生きてたのかを知りたいんです」
言ってから、それが本当の気持ちだと分かった。
「僕が死んだあとの、蓮。どんな仕事をしてたのか。どこに住んでたのか。何を考えてたのか。……あいつは、知ってるかもしれない。あの部屋に来た蓮のこと、もっと」
水城が立ち止まり、透も足を止めた。
「次の条件を」
水城は言った。
「もう一度、話し合いたいです。会って。今日のノートを二人で読んでから」
「……はい」
「それまで、行かないでください」
透は、すぐには答えなかった。
「……はい」
水城は、少しの間、透を見ていた。
それから、また歩き出した。
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その夜、水城から、ノートの写真が届いた。
透は、一枚ずつ読んだ。
朝倉の記憶:蓮と歩道を並んで歩く。朝倉が車道側、蓮が店側。蓮が進路の話。途中で途切れる。車が歩道に上がる。大きな音(ぶつかる音)。名前を呼ばれる(耳のすぐそば、短く強く)。その声で体が動く(壁の方)。「動いたのは一回だけだと思う」。声の主は不明。蓮は語尾を伸ばす。
本人の説明(朝倉の話を聞いたあと):「その声、俺だよ」。
順番(本人が語った順の要約):車が上がってくる。ライトが目の前に来る。そこで切れる。気がつくと、歩道の少し外(車道側、少し離れた場所)。朝倉と蓮が見える。車が植え込みの囲いにぶつかっている。向きが変わる。後ろが店の方へ振れてくる。朝倉が壁の近くにいる。そちらに車が来るのが見える。名前を呼ぶ。助けたかった。朝倉が壁沿いに動く。そのあと、蓮が。
その下に、二つの欄があった。
朝倉の説明:呼ばれて動いたのは自分。動いたのは自分の体。
本人の説明:呼ばなければ動かなかった。動かしたのは自分の声。
どちらの説明にも、消す線も、丸も付いていなかった。
透は本人の順番の欄を一度だけ読んだ。
切れて。外にいて。ぶつかってた。向きが変わって。呼んだ。
何かが、引っかかった気がした。
けれど、それが何なのかを考える前に、透の目は次の頁へ移っていた。
昨日の写真を、もう一度開いた。
蓮さんが部屋の入口に立つ。年齢は今の朝倉くらいか、それより上。短髪、シャツ、働いている人の格好。
透は、手帳を開いた。
新しい頁に書いた。
蓮は、どこで働いていたか。
どこに住んでいたか。
あの部屋に来たのは、いつか。
母に何と言ったか。全部。
ほかに、蓮を見たことはあるか。
書いて、ペンを止めた。
頁の一番上が空いていた。透は少し迷ってから、そこに書き足した。
売られる前に。
水城と次の条件を話し合う。そう約束した。
この紙を、そのときに見せればいい。
透は、そう思った。
思いながら、紙の上の問いを数えていた。
五つあった。
一つも、事故のことではなかった。
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