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死ななかった人たち ~あの日から、もう一人の私がいる~  作者: 白川 透


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第二十六話

日曜の十時少し前、透は水城と実家の門の前に立った。


門の内側の植木鉢は、土がまだ濡れていた。二人が来る前に、母が水をやったのだろうと透は思った。


「先に言っておきます。母には、仕事で知り合った人だと話してあります。家のことを一緒に調べてくれている人だと」


「はい」


「それ以上は聞かれないと思います」


水城は頷いた。


透は、呼び鈴を押すまでに少し時間がかかった。


他人の家なら、何十回も呼び鈴を押してきた。調査の相手を連れて、知らない家の玄関に立つことにも慣れていた。


自分の家の玄関に調べものの相手を連れてくるのは初めてだった。


---


「いらっしゃい」


母はエプロンを外して出てきた。水城を見て、少しだけ目を見開いた。


「水城です。今日はお邪魔します」


「いいえ、どうぞ。散らかってますけど」


母はそう言って、透の方を見た。何か聞きたそうな顔をした。けれど、何も聞かなかった。


「二階、勝手に使って。……昨日の人たちね、二階も明るくていいって。あんたの部屋、窓のとこでしばらく立ってたわよ」


透は、すぐには返事ができなかった。


「お茶は?」


「あとでいい」


「そう」


母は台所へ戻っていった。


階段の三段目が鳴った。水城は、その音に一瞬足を止めた。透は何も言わなかった。


廊下の突き当たりで、二人は立ち止まった。扉は閉まっていた。


「ここで決めておきたいです」


水城が言った。鞄からノートを出した。


「区切りの時間は、私が決めていいですか。十時四十五分。私が時間を言ったら、終わりです」


「はい。お願いします」


透は手帳から一枚の紙を出した。昨夜書いたものだった。三つの問いが並んでいた。


一、この十年、どう過ごしてきたか。

二、話しておきたいことはあるか。

三、事故について、話せるか。


「三つ目は、話せるかどうかを聞くだけ、ですね」


「はい。中身は今日は聞きません。話せると言われても、次にします」


「三つというのは、話題の範囲ですね。確認の質問は別にしましょう。答えを聞いたあとで、いつのことか、前後に何があったか、どこから見ていたか。それだけは確かめていいことにしたいです。記録に要るので。分からないと言われたら、そこでやめる」


「はい」


透は少し間を置いてから言った。


「それと、物は動かしません。机も、箱も。前の配置に戻して、何かを思い出させるようなことは、しない」


水城は顔を上げた。


「それは、朝倉さんから」


「はい」


水城は残りを書き足して、ノートを透の方へ向けた。


区切り:十時四十五分(水城)。

質問:朝倉の紙の三つの主題のみ。三問目は、話せるかを聞くだけ。

確認:答えについて、いつ・前後・どこから見ていたか、のみ可。分からないと言われたら繰り返さない。

終了:三人の誰が言っても、言い換えずに終える。

同日の再接触:しない。

次回:帰宅後、記録を整理してから二人で決める。

物:動かさない。配置を変えて再現しない(朝倉)。

記録:録音なし。水城の手書きのみ。


透は一行ずつ読んで、頷いた。


「これで、お願いします」


水城はノートを閉じなかった。開いたまま、膝の高さに持った。


透は扉を開けた。


---


部屋は、一週間前と同じだった。


段ボールの山。衣装ケース。クリーム色のカーテン。窓際の机。


水城は入口の近くに立ち止まった。それから、壁際の箱の前に、邪魔にならない位置を選んで立った。


透は机の前に立った。


椅子の脚の跡の上に。机に向かうときの、位置と向きに。


何も起きなかった。


窓の外で、隣の家の屋根に鳩がとまっていた。


透は、机の天板の傷を見ていた。手を伸ばしかけて、やめた。今日は、何かをたどりに来たのではなかった。


窓の右側で、空気が少し動いた。


透は顔を上げた。


十九歳の自分が、壁にもたれて立っていた。


灰色のパーカー。前髪が目にかかっていた。腕は組んでいなかった。両手をパーカーのポケットに入れていた。


「……来たんだ」


若い男は言った。


透は、水城の方を見た。


水城は窓の右側を見ていた。目を細めていた。


「……声は、聞こえます。姿は、ときどき途切れます」


水城が小さく言った。ノートの上でペンが動いていた。


透は、若い男の方へ向き直った。


顔は、やはり長くは見ていられなかった。肩のあたりに目を置いた。


「今日は、話を聞きに来た」


透は言った。


「時間は、十時四十五分まで。聞くことは、三つだけ決めてきた。答えてくれたら、いつのことかとか、少し確かめるかもしれない。分からなかったら、分からないでいい。話したくないことがあったら、言ってほしい。そこで終わる」


若い男は、少し笑った。


「なんだそれ。……仕事みたいだな」


透は答えなかった。


若い男は、水城の方をちらりと見た。それから透を見た。


「いいよ。三つな」


---


「この十年、どう過ごしてた」


透は聞いた。


若い男は、ポケットに手を入れたまま、部屋の中を見回した。


「どう、って。……ここにいた」


「うん」


「最初の頃は、部屋はそのままだった。ベッドも、カーテンも。母さんが、たまに入ってきて、窓を開けて、閉めて、出ていった。掃除機かけたり。何も触らなかった。机の上のものとか」


透は黙って聞いていた。


「何年かして、段ボールが一個来た。それから、二個。扇風機。……気がついたら、ベッドがなくなってた。業者の人が二人来て、運んでった。母さんが廊下で、ありがとうございます、って言ってた」


若い男は、ベッドのあった場所の衣装ケースを顎で示した。


「カーテンが替わったのは、去年かな。前のやつ、日に焼けてたから」


「……そうか」


「母さん、箱運ぶとき、ひとりごと言うんだよ。よいしょ、とか、これどこに置こう、とか。電話しながら廊下歩いてることもある。誰と話してるかは知らない。声しか聞こえないから」


透は手帳を開かなかった。水城が書いていた。


「窓からは、隣の屋根が見える」


若い男は窓の方を向いた。


「冬に雪が積もると、屋根の端から落ちる音がする。どさって。夏は、電線に鳥がいっぱいとまる。毎年同じ場所に。……あと、隣の家、二年くらい前に屋根の色が変わった。前は茶色だった」


透は、窓の外を見た。隣の家の屋根は、灰色だった。


透は、それを知らなかった。


帰ってきても、この部屋の窓から外を見ることはなかった。


「昨日は、知らない人が来た」


若い男は言った。


「男の人と女の人。それから、背広の人。背広の人が、ここが六畳です、って言ってた。女の人が窓の前に立って、明るいね、って。……おまえの机の前に立ってた」


透は、窓の前の床を見た。


昨日、知らない誰かがそこに立っていた。そのすぐ横に、この男もいたのだろうか。


「巻き尺で壁から壁まで測ってた。俺のことは、誰も見てなかった」


若い男の声は軽かった。軽く言おうとしているように、透には聞こえた。


透は水城の方を見た。水城は顔を上げなかった。話すかどうかは、自分で決めるしかなかった。


「……この家、売るんだ」


透は言った。


「母さんが決めた。向こうの部屋も決まってる。いつ明け渡すかは、まだ決まってない」


若い男は、少しの間、透を見ていた。


「ふうん」


それだけ言って、窓の外を見た。


「そっか。だから測ってたのか」


「うん」


「ふうん」


二度目は、一度目より短かった。


「あと、おまえが来たのも知ってる」


若い男は言った。


透は、若い男を見た。


「何回か。扉開けて、ちょっと見て、閉めて、出てった。いつも、すぐ」


「……うん」


「何か用があったのかと思ってた。用、なかったんだな」


若い男は、少しだけ口の端を上げた。


その笑い方を、透は知っていた。右の端が上がる。自分の顔の癖だった。


けれど、言い方は違った。軽かった。透が今は使わない軽さだった。それなのに、その軽さの下に、十年分の何かが沈んでいた。透には、それが何なのか分からなかった。


「おまえが今どこに住んでて、何してるのかは知らない」


若い男は言った。


「この部屋から見えることしか、分かんないから」


透は少しだけ息を吐いた。


知られていなかった。この十年の自分の暮らしを。どこで働いて、何を調べて、どんな部屋で眠っているかを。


それが、どうしてか少し楽だった。


水城のペンの音が、止まって、また動いた。


若い男は、窓の外を見たままだった。


「……ここで見てたのとは、違うのもあるんだけど」


若い男が言った。


聞いてもいないのに、自分から話し始めていた。売る、と言ったあとだった。


「違う、っていうのは」


「この部屋で本当に起きたことじゃない、やつ。……見たっていうか、覚えてるっていうか」


若い男は、少し言葉を探した。


「ここのことなんだけど、ここで起きてないこと。分かる?」


透は答えなかった。


水城が、ノートの上でペンを止めていた。


透は、手元の紙を見た。


二、話しておきたいことはあるか。


「二つ目の質問」


透は言った。


「話しておきたいことは、あるか」


若い男は、少しの間、黙っていた。


「……ある」


---


「蓮が来た」


若い男は言った。


透の体が、動かなくなった。


「この部屋に。……入口のとこに、立ってた」


若い男は、扉の方を見た。水城が立っている、そのすぐ横を。


「母さんが連れてきた。どうぞ、って。蓮は、入ってこなかった。入口に立ったまま、部屋を見てた」


透は、扉の方を見なかった。見ても、何もないことは分かっていた。


「年、取ってた」


若い男は言った。


「今のおまえくらい。いや、もうちょっと上かもしれない。分かんない。髪、短くしてた。ちゃんとしたシャツ着てて。……働いてる人の格好だった。何の仕事かは知らない」


透は、手の中の紙を握っていた。


「蓮は、机を見てた。ずっと。それで、母さんに、何か言った。……普通のこと。すみません、急に、とか。ここ、変わってないですね、とか。そういう感じの」


若い男は、少し声を落とした。


「それから、母さんにおまえの話をしたんだよ」


透は、息を吸った。


「透ー、って。おまえの名前、そう言ってた」


若い男の口から、その呼び方が出た。


語尾を少し伸ばす、あの呼び方だった。蓮が、透を呼ぶときにいつもしていた。


その抑揚を、自分の声に似た声で聞いた。


透は、何も言えなかった。


「あいつ、ここでよく漫画読んでたんですよ、って。……そんな感じだったと思う。母さんに言ってた。おまえのことな。母さん、笑ってた。たぶん」


若い男はそこで言葉を止めた。


「それだけ」


「……それだけ」


透は、自分の声が遠くから聞こえた。


「いつのこと」


「分かんない」


「その前は。蓮が来る前は」


「分かんない。その後も。……いきなりそこだけ、覚えてる。蓮が入口に立って、机を見て、母さんと話して、帰ってった」


「どこから、見てた」


若い男は、少し考えた。


「……それも、分かんない」


透は、自分の知らない蓮を聞いていた。


短い髪。ちゃんとしたシャツ。働いている人の格好。


透が知っている蓮は、十九歳だった。十九歳のまま、十年経っていた。


この部屋にいる十九歳の自分は、それより年を取った蓮を知っていた。


透は、手元の紙に目を落とした。


三つの問いが並んでいた。一つ目と二つ目には、もう答えがあった。


紙の文字が、うまく読めなかった。


透は、紙から目を離した。


何も言わなかった。


---


部屋の中が静かになった。


階下で、母が何かを洗う水の音がした。


透は、窓の外の灰色の屋根を見ていた。


若い男が覚えているのは、透が死んだ場合の、この部屋なのだと透は思った。久世の話も、水城のところの女の話も、そうだった。


透が死んでいたら、蓮はこの部屋に来た。年を取って。働いて。


透が死んでいたら、蓮は生きていた。


その考えが、透の中で形になりかけた。


「……僕が」


透は言った。


「僕が、あのとき死んでいたら。蓮は」


水城が言った。


「今聞いたのは、この部屋の一場面です」


静かな声だった。


透は水城を見た。


水城は、ノートを見ていた。ペンを持ったまま。


「蓮さんが、この部屋の入口に立った場面。年を取っていた。机を見ていた。お母さんと話した。朝倉さんの名前を言った。……いつのことか、前後に何があったかは、分からない。どこから見ていたかも」


水城は、そこで顔を上げた。


「私が書いたのは、それだけです」


透は、水城の目を見た。


水城は、透の考えを否定しなかった。正しいとも言わなかった。ただ、記録の言葉で、聞いたことの形を示した。


「……はい」


透は言った。


けれど、言葉が胸の中から消えたわけではなかった。


自分が生きていることが、蓮の時間を使っているような気がした。この十年、透が働いて、調べて、眠っていた時間。それが、どこかで蓮の時間だったのではないか。


透は、若い男を見た。


若い男は、透を見ていた。


何かを待っているような顔だった。


次に何を聞かれるか、分かっているような顔だった。


透は、紙を見た。


三、事故について、話せるか。


水城が、腕時計をちらりと見た。


透は、紙から顔を上げた。


「三つ目」


透は言った。


「事故のことを、話せるか。……中身は今日は聞かない。話せるかどうかだけ」


若い男は、すぐには答えなかった。


ポケットから片方の手を出した。その手で、前髪をかき上げた。透が、言いにくいことを言う前にする仕草だった。


「……あの日のことは」


若い男が言いかけた。


「十時四十五分です」


水城が言った。


---


透は動かなかった。


若い男の言葉が、途中で止まっていた。


あの日のことは。


その続きを、透は聞きたかった。


あと一言だった。話せるか、と聞いただけだ。話せる、か、話せない、か。それだけなら。一言だけなら。


透は、水城のノートを思い出した。


終了:三人の誰が言っても、言い換えずに終える。


透は、息を吐いた。


「……終わりにする」


透は言った。


若い男は、透を見ていた。前髪をかき上げた手をゆっくり下ろした。


「……話さなきゃいけないことは、ある」


若い男は言った。


「事故のことで。おまえに、言っとかなきゃいけないこと」


透の喉が、動いた。


「次に来たとき、話す」


若い男は言った。


「今日は、終わりなんだろ」


「……うん」


透は頷いた。


「次は、決めてから来る」


「うん」


若い男は、また壁にもたれた。両手をポケットに戻した。


透は、扉の方へ下がった。水城が、先に廊下へ出た。


扉の取っ手に手をかけて、透は振り返った。


若い男は、窓の右側に立っていた。透を見ていた。


帰っていく自分を、同じ顔が見送っていた。


透は扉を閉めた。


---


階段を下りると、母が台所から顔を出した。


「もう終わったの」


「うん」


「お茶、淹れたけど」


透は、水城を見た。


水城は、透の方を見た。透の返事を待っているようだった。


「……ごめん。今日は帰る」


「そう」


母は、水城に頭を下げた。


「また来てくださいね」


「ありがとうございます」


水城も頭を下げた。


玄関を出て、門を閉めた。


駅までの道を、二人は黙って歩いた。


コンビニになった角の酒屋の前で、透は立ち止まった。


「次のことですけど」


「はい」


「明日、また来たいと思っています」


水城は、透を見た。


「記録を読み直してから決める、という約束です」


「はい」


「今夜、写しを送ります。読んでから、もう一度決めましょう」


「……はい」


透は頷いた。


明日と言ったのは、早すぎたかもしれない。分かっていた。それでも、口から出ていた。


巻き尺を伸ばしていた知らない夫婦のことを、透は考えていた。あの部屋が人の手に渡るまでに、あと何回入れるのか。誰も、まだ日を決めていなかった。決まっていないことが、かえって落ち着かなかった。


話さなきゃいけないことは、ある。


あの声が、まだ耳に残っていた。


---


夜、水城から写真が届いた。ノートの頁を撮ったものが、四枚。


透は、机の上に携帯を置いて、一枚ずつ読んだ。


水城の字は、急いで書いたところでも崩れていなかった。


問一の欄には、部屋の十年の変化が細かく書かれていた。段ボール、ベッド、カーテン、隣の屋根の色。その最後に一行あった。


昨日、男女と背広の人が来て部屋を測った、と本人。朝倉が家を売ることを伝える(明け渡し日は未定)。本人「ふうん」。そのあと、問二の前に、本人から話し始めた。


問二への答え:蓮さんが部屋の入口に立つ。母が案内。入らない。年齢は今の朝倉くらいか、それより上(本人も不確か)。短髪、シャツ、働いている人の格好(職業不明)。机を見る。母との会話で朝倉の名前を口にした、と本人。「透ー」と語尾を伸ばす言い方を再現。

いつ:不明。前後:不明。観察位置:不明。


朝倉:「僕が死んでいたら、蓮は」と言いかける。

水城:この部屋の一場面だと区別を伝える。


問三:「あの日のことは」と言いかけたところで、十時四十五分。終了。

朝倉:終わりにする、と言う。

本人:「話さなきゃいけないことはある。事故のことで」「次に来たとき話す」。

姿はときどき途切れた。声は最後まで聞こえた。(水城)


最後の行に、水城の字で一行あった。


十時四十五分の告知後、朝倉はしばらく動かず、そのあと自分で終了を告げた。(迷っているように見えた。水城)


透は、その一行を見ていた。


見られていた。迷ったことも。


読んでいる間、透は何度も、問二の欄で目が止まった。問三の欄は、短かった。あの日のことは。そこで終わっていた。


一度読み終えて、透は携帯を置いた。


二度目は、読まなかった。


読めば、明日まで待てなくなる気がした。


透は水城に送った。


〈読みました。明日、もう一度行きたいです。同じ条件で。〉


返事は、少しして来た。


〈私も読み直しました。〉


〈明日、同じ時間に。区切りの時刻、終わりの合図、その日はもう入らないこと、物を動かさないこと、手書きの記録は、今日と同じ。〉


〈変えるのは三つ目だけです。話せるかどうかではなく、向こうが話すと決めた事故のことを聞く。朝倉さんが自分の覚えていることを話すのも、その中に入れていいと思います。蓮さんのその後を、こちらから聞くのはなしにしてください。それでよければ。〉


透は返した。


〈はい。それでお願いします。〉


送ってから、透は手帳を開いた。明日の頁に時刻だけを書いた。十時。


その下に、今日の紙を挟んだ。三つの問いが並んでいる紙。


一つ目と二つ目には線を引いた。


三つ目だけが、残っていた。

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