第二十五話
久世からの連絡は、金曜の昼に来た。
〈朝倉さん、水城さん。昨日は榊原さんとお会いいただいたそうですね。ありがとうございます。〉
〈榊原さんのところの方に直接お話を、というご希望も伺いました。そちらは榊原さんとご相談のうえ、改めてお返事します。〉
〈その前に、一つご提案があります。私自身の接触に同席していただけないでしょうか。記録や説明だけでは、伝わらないことがあると思うのです。実際に見ていただければ、私が何をしているのか、分かっていただけるかもしれません。〉
〈私のところの者も、お二人にお会いすることを了承しています。明日の午後、私の自宅でいかがでしょうか。〉
透は、その文面を二度読んだ。
見ていただければ、分かっていただける。
久世は、説得するつもりで書いているのだろうと透は思った。疑われているなら、隠すより開いて見せる。そういう人なのかもしれなかった。
透は水城に電話をかけた。
『行きますか』
水城が先に聞いた。
「行きたいと思っています。記録で読んだことを実際に見られるなら」
『はい。私もです』
水城は少し間を置いた。
『その前に、一つだけ久世さんに聞きたいことがあります。終わりの合図を誰が出せるのか』
「はい」
『久世さんだけなのか。私たちも言えるのか。それから、向こうの人も』
透は手帳に書いた。終了の合図、誰が出せるか。
「僕から聞きます」
久世の返事は、一時間ほどで来た。
〈もちろんです。どなたでも、やめたいと思ったらおっしゃってください。私のところの者も、やめたいときは自分で言います。〉
透はその返事を水城に転送した。
水城からは、短い返事が来た。
〈分かりました。明日、行きます。〉
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その夜、母から電話が来た。
珍しかった。用があるとき、母はいつも短い文面で済ませる。
『あんた、明日は家にいる?』
「昼から出かける。どうしたの」
『大したことじゃないんだけどね』
母はそう言ってから、少し黙った。電話の向こうで、テレビの音が小さく鳴っていた。
『前から考えてたんだけど。この家、売ることにしたの』
透は、閉じかけた手帳の上で手を止めた。
『一人じゃ広いし、階段もね。駅の近くに小さい部屋が見つかったの。向こうはもう決めたから』
「……いつ」
『引っ越しは、年内には。この家は、買う人が決まり次第。明日の朝、不動産屋さんが見たい人を連れてくるって。あんたの部屋も見せるから』
あんたの部屋。段ボールと衣装ケースの部屋。窓際の机。
「中まで、見せるの」
『見せないと売れないでしょう。物置のままで悪いけど。片づけは、そのうち手伝ってもらうからね』
母の声は普段どおりだった。言い出しにくいことを、ようやく言い終えたようにも聞こえた。
『反対?』
「反対じゃない。……母さんが決めたなら」
『そう。じゃあ、それだけ』
電話が切れた。
透は携帯を持ったまま、しばらく座っていた。
あの部屋が、知らない人のものになる。
十年、ほとんど入らなかった部屋だった。そこに十九歳の自分がいると知ったのは、つい最近のことだった。日曜には、水城と行く約束をしている。
日曜まで、あと二日あった。
その二日が、長いと思った。
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久世の家は、私鉄の駅から十分ほど歩いた住宅地の中にあった。
二階建ての古い家だった。門の脇に、手入れの行き届いた鉢植えが並んでいた。表札には、久世、とだけあった。
透は門の前で、屋根の線と雨樋の傾きを見ている自分に気づいた。築年数の見当をつけようとしていた。仕事の癖だった。
透は目を下ろした。今日は、この家を調べに来たのではなかった。
呼び鈴を押すと、すぐに久世が出てきた。
相談室で見るときと同じ、灰色のカーディガンを着ていた。けれど、足元はサンダルで、手にふきんを持っていた。
「ようこそ。どうぞ、お上がりください」
玄関に、男物の靴が一足だけ揃えてあった。下駄箱の上の小さな花瓶に、白い花が挿してあった。
「散らかっていて、すみません」
散らかってはいなかった。廊下の床は磨かれていて、壁に海の写真が一枚掛かっていた。
相談室では、久世は話を聞く人だった。椅子の位置も、湯呑みの置き方も、相手のために決まっていた。
この家の久世は、一人で暮らしている人に見えた。
「こちらです」
久世は廊下の奥の扉を開けた。
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食卓のある部屋だった。
台所と続きになっていた。窓からは、狭い庭が見えた。物干しにタオルが一枚だけ干してあった。
部屋の真ん中に、四人掛けの木の食卓があった。椅子が四脚。そのうち二脚は、壁際に寄せてあった。使われていないようだった。
残る二脚は、食卓の両端に一脚ずつ置かれて、向かい合っていた。
「いつも、ここで。私がこちらに座ります。そうすると、向こうの席に」
久世は、窓側の椅子に手を置いた。
「お二人は、そちらの壁際の椅子をお使いください。少し離れていた方が、向こうも落ち着くようなので」
透と水城は、壁際から椅子を二脚引き寄せて、食卓から少し離れて座った。
久世は窓側の椅子に座った。
いつもしているように。背筋を伸ばして、両手を食卓の上に置いた。それから、目の前の空いた席を見た。
しばらく、何も起きなかった。
庭で鳥が鳴いた。台所の冷蔵庫が低く唸った。
透は、向かいの席を見ていた。
空気が少し、重くなった。
椅子の背もたれの向こうに、誰かが座っているような気配があった。それが、ゆっくりと形になった。
男だった。
久世と同じ顔だった。けれど、髪に白いものがほとんどなかった。眼鏡の形が違った。今より数年、若く見えた。灰色ではない、紺色のセーターを着ていた。
男は食卓の上に両手を置いていた。久世と同じ置き方だった。
毎日使われている食卓だった。片方の席には、使う人がいる。もう片方の席に、その人と同じ顔の相手が座っていた。
透は水城の方を見た。
水城は向かいの席を見ていた。目を細めていた。
「……見えますか」
透は小声で聞いた。
「ときどき。……消えたり、見えたり」
水城の声は小さかった。
透は、久世が口を開く前に言った。
「すみません。先に、一つだけ」
久世が透を見た。
透は、向かいの席の男に向かって言った。
「朝倉です。今日、ここに僕たちがいることを了承していただいていますか」
男は、透を見た。
少しの間があった。
「……はい」
男は言った。久世より少し高い声だった。
「来てもらって、いいです。……話したいことも、あるので」
「ありがとうございます」
透は頭を下げた。
久世は、穏やかに頷いていた。
「では、いつものように始めますね」
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「この前の続きから、いいかな」
久世は言った。男に向かって。
「私がいなくなったあとの、あの人。ここで一人で夕飯を食べていたときのこと。この前は、あの人が湯呑みを両手で持っていたところまで、話してくれた」
男は少しの間、黙っていた。
「……うん」
「そのとき、あの人は何か言っていた?」
「言ってた。……今日は、早く寝るって」
「それから」
「それから、テレビを消した」
久世は、ノートに書いていた。相談室で見たのと同じノートだった。
「そのあとは」
「……覚えてない」
男は言った。
「そこから先は、覚えてない」
久世はペンを止めなかった。
「あの人は、どちらの席に座っていた?」
「……そっち。台所に近い方」
「湯呑みは、どの湯呑みだった?青いの?白いの?」
「白い方。……たぶん」
「時計は何時ごろだった?」
「……九時、くらい」
「テレビを消したあと、あの人は台所へ行った?それとも、そのまま座っていた?」
男は答えなかった。
透は、男の手を見ていた。食卓の上の両手が、少しだけ指を握り込んでいた。
「座ってたと思う。……でも、分からない」
「窓は開いていた?閉まっていた?」
久世は言った。声の調子は変わらなかった。
透は、久世のペンを見ていた。
覚えていない、と言われてから、久世は問い方を変えていた。席の位置。器の色。時刻。窓。どれも、場面の端から少しずつ近づくための問いだった。
透は、それを知っていた。透も、物件の調査で同じことをしてきた。住人が思い出せないとき、間取りから聞く。家具の位置から聞く。時間帯から聞く。そうすると、思い出すことがある。
思い出すことがある。それは本当だった。
「……閉まってた。冬だったから」
男は言った。
「冬」
久世の声が、わずかに上がった。
「それは、初めて聞いた。冬だったんだね」
「……」
「あの人は、寒がりだったから、ひざ掛けを」
「ねえ」
男が言った。
久世の言葉が止まった。
男は、久世を見ていなかった。透と水城の方を見ていた。
「少し、話してもいいですか。……お二人に」
久世は少し驚いたような顔をした。それから、頷いた。
「どうぞ」
男は、透を見た。
「最初は、この人を助けられると思ってたんです。この人が、あの人のことで、ずっと苦しんでたから。僕が覚えてることを話せば、少しは楽になるんじゃないかって。だから、話した。たくさん話した」
透は何も言わなかった。
「でも、今は……」
男は食卓の上の自分の手を見た。
「呼ばれるのは、あの人のことを聞かれるときだけです。僕が今、どうしてるかは、聞かれない。この部屋で毎日何を見てるかも。……あの人の記憶を運ぶ役で、呼ばれてるだけなんです」
静かな声だった。透には、怒りをぶつける声というより、疲れた声に聞こえた。
「この人と話したくないわけじゃないんです。この人のことは……嫌いじゃない。同じ人だったんだから」
「はい」
「でも、運ぶ役は、もう降りたい」
男は透を見た。
「それを、誰かに知っておいてほしかった。この人以外の誰かに」
久世は、ノートの上で手を止めていた。
透は、久世の顔を見た。
久世は、穏やかな顔のままだった。
その顔で男を見ていた。問う側の顔だった。
向かいの席の男は、同じ顔で、疲れていた。
同じ顔の上に、二つが並んでいた。
「今日は」
男は言った。
「ここまでに、してもらえませんか」
---
久世は、少しの間、黙っていた。
それから、透と水城の方を向いた。
「お分かりになりますか」
久世は言った。説明する声だった。相談室で、事例を話すときの声だった。
「大事なところに近づくと、こうなるんです。冬だった、というのは、今まで出てこなかったことです。そこに近づいたから、つらくなる。降りたいという言葉が出る。……私も、最初はとまどいました。でも、こういうときこそ、何かがあるんです」
透は、その言葉を聞いていた。
やめたくなるのにも、意味があることがある。休んで、落ち着いたら、もう一度。
あの相談室で、透がうなずきそうになった説明だった。三枝の録音で聞いた説明だった。
それが今、目の前で使われていた。言った本人の前で。
水城が言った。
「久世さん」
静かな声だった。
「今の言葉は、終わりにしてほしいという申し出だと思います」
久世は水城を見た。
「ここまでにしてもらえないか、と言っていました。それは、やめたいということです」
久世は、少し間を置いた。
「……そうですね」
久世は言った。
「今日は、ここまでにしましょう」
ノートを閉じた。
「次は、来週の同じ時間にしよう」
久世は、男に向かって言った。当たり前の予定を確かめるような声だった。
「冬の続きから」
男は何か言いかけて、唇を閉じた。
食卓の上の手を、ゆっくり膝の上へ下ろした。
そして、少しずつ薄くなった。
椅子の背もたれだけが残った。
透は、空いた席を見ていた。
今日は終わった。けれど、運ぶ役から降りたいという言葉は、来週の予定のどこにも入っていなかった。久世が次を告げ、男は何か言いかけて黙った。黙ったことを、承知したとは呼べなかった。
透は何も言わなかった。
言うべきことがあるはずだった。来週も同じ話をしたいのか、男に聞くことはできた。けれど、ここは久世の家で、久世の食卓だった。何を言えば、あの男の言葉を奪わずに済むのか、透には分からなかった。分からないまま、口を閉じていた。
透は、膝の上の手帳を見下ろした。
今聞いたことを書いた。
本人:運ぶ役は降りたい。今日はここまでにしてほしい。
久世:大事なところに近づいた反応だと説明。
水城:終了の申し出だと指摘。
久世:今日は終了。次回は来週、冬の続きから、と告げる。
本人:何か言いかけて、言わなかった。次回への了承はない。
書いてから、ペンを置いた。
---
玄関で靴を履いているとき、透は振り返った。
「久世さん」
「はい」
「今日見せていただいたことを、榊原さんへの説明に使わせていただけますか。奥さまのことや、このお宅のことは除いて」
久世は、少しの間、考えていた。
「それは……少し待っていただけますか」
久世は言った。
「この家の中のことですから。あの者のことも、妻のことも。……考えさせてください」
「はい」
「今日は、来てくださってありがとうございました」
久世は頭を下げた。本当に、そう思っているように見えた。
「少しは、分かっていただけたでしょうか」
透は、すぐに答えられなかった。
「……見せていただいたことは、覚えておきます」
それだけ言った。
久世は、穏やかに頷いた。
門を出た。
振り返ると、久世はまだ玄関に立っていた。手を軽く上げて、それから扉を閉めた。
久世が許したとしても、あの男自身の許可まで得たことにはならない。あの男が、自分の言葉を榊原に伝えてほしいと思っているかどうかは、まだ誰も聞いていなかった。
透は、あの男にもう一度話を聞きたいと思った。久世のいないところで。
けれど、あの男はあの食卓にいる。あの家の中にいる。久世の家に、久世を通さずに入る方法はなかった。
---
駅までの道を歩いた。
しばらく、二人とも話さなかった。
「降りたいと言った人に、冬の続きから、と言いました」
透が言った。声が少し強くなっていた。
「あの人が今、何を見ているのか。一つも聞いていなかった。……僕なら、そうはしないと思います」
「相手の言葉を、そのまま聞く。覚えていないと言われたら、そこで止める。降りたいと言われたら、降りてもらう。……対等に」
水城は何も言わなかった。
同意も、否定もしなかった。
透の横顔を少し見て、それから前を向いた。
駅が見えてきた。
透は携帯を出した。
「母に、連絡します。明日のこと」
「はい」
透は実家に電話をかけた。母が出た。明日の午前に、もう一度部屋を見に行きたいこと。今度は、一緒に調べている人も連れて行くこと。
『いいわよ。お昼、二人分作っておく?』
「……いや。今度も、部屋を見るだけ」
『そう。……ああ、そうそう。今朝ね、見に来た人がいたの。若いご夫婦。あんたの部屋も見ていったわよ。窓が明るいって』
透は改札の手前で足を止めた。
「部屋に、入ったの」
『入ったわよ。巻き尺で測ってた。……何か困る?』
「……いや。何も」
母は、それ以上聞かなかった。
電話を切った。
知らない夫婦が、あの部屋で巻き尺を伸ばしていた。窓が明るいと言った。その窓の右側に、もう一人の自分が立っていたのかどうか。透には分からなかった。
「実家を、売るそうです」
透は言った。言ってから、水城には昨日の電話のことを何も話していなかったと気づいた。
水城は、少しのあいだ透を見ていた。
「……日曜は、予定どおりですか」
「はい。予定どおりです」
透は水城を見た。
「明日、お願いできますか。前に話したとおり、範囲を先に決めてから」
「はい」
水城は言った。
「決めるのは、着いてから。部屋に入る前に。それでいいですか」
「はい」
透は手帳を開いた。おととい書いた頁があった。日曜。聞くこと。聞かないこと。
「聞くこと」の欄はまだ空いていた。
今日の久世のことを思い出した。降りたいと言った人に、冬の続きから、と言った声。
自分は、あれとは違う。
透はそう思った。思いながら、「聞くこと」の欄を見ていた。
あと何回、あの部屋に入れるのだろう。
数えようとして、やめた。数え始めたら、「聞くこと」の欄が勝手に埋まっていきそうだった。
明日、あの部屋の自分は、何を覚えているだろう。
改札を抜けるとき、水城は自分のノートを鞄から出しかけて、やめた。
透はそれを見ていた。何を書こうとしたのかは、聞かなかった。
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