第二十四話
三枝の返事は、水曜の夜に来た。
〈いいですよ。その範囲なら。〉
透が送った文面を、三枝はそのまま引用して返していた。やめたいと言ったこと。勧められて再開したこと。その日のけが。やめたあとに落ち着いたこと。同じ頃に休職と通院があって、理由を一つに決められないこと。要約にそれが書かれていないこと。口で話すのはそこまで。録音や手帳やメールは見せない。
引用の下に、もう一行だけあった。
〈俺の名前は出さないでください。その人が会いたいと言っても、俺は会いません。〉
透は返信した。お礼と、名前は出さないこと。会う話は持ち出さないこと。
それから、手帳の新しい頁に、三枝が許した範囲を一行ずつ書き写した。書き写して、声に出して一度読んだ。
明日、これより先は話さない。
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榊原修司が指定したのは、駅の近くのホテルのラウンジだった。
木曜の六時。平日の夕方のラウンジは、仕事帰りの人が数組いるだけで静かだった。窓際の奥の席に、男が一人座っていた。
五十代の半ばに見えた。濃い灰色の背広を着て、ネクタイを少しだけ緩めていた。背筋がまっすぐだった。テーブルの上には革の手帳と、まだ口をつけていないコーヒーが置いてあった。
男は二人を見て立ち上がった。
「榊原です」
「朝倉です。今日は、お時間をいただいてありがとうございます」
「水城です」
榊原は二人を順に見た。それから座るように手で示した。自分が座るのは、二人が座ってからだった。
「久世先生から、お二人のことは伺いました。事例のことで、私に話したいことがあると。……先に、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「お二人は、私のやろうとしていることを、やめさせに来たんですか」
声は穏やかだった。けれど、目は透から外れなかった。
透は少し考えてから答えた。
「やめさせる立場ではありません。来週の木曜をどうするかは、榊原さんが決めることです」
「では、何をしに」
「お伝えしたいことがあります。榊原さんが読んだ事例の要約に、書かれていないことです。それを知ったうえで、榊原さんが決めてほしい。それだけです」
榊原は少しの間、透を見ていた。
「それだけ、ですか」
水城が言った。
「はい。それと、先に榊原さんのお話を伺いたいんです。久世さんから何を説明されていて、何を知りたいと思っていらっしゃるのか。私たちが話すのは、そのあとにします」
榊原の眉が、わずかに動いた。
「……私の話から、ですか」
「はい」
榊原はコーヒーカップを手に取った。一口だけ飲んで、置いた。
「変わった人たちですね」
榊原は言った。少しだけ、口元が緩んでいた。
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「五年前に、病気をしました」
榊原は話し始めた。
「心臓です。職場で倒れて。運ばれた先で、一度止まりかけたと、あとで聞きました。私は覚えていません」
透は手帳を開いた。榊原の視線が、ペンの先に一度落ちた。
「メモを取ってもいいですか。お名前や勤め先のような、どなたか分かることは書きません」
「どうぞ。私も、仕事柄、書かないと覚えられない人間ですから」
榊原は自分の手帳を軽く叩いた。
「退院して、家に戻って、しばらくしてからです。居間に、私がいるようになった。倒れる前の私です。……最初は、自分の頭がおかしくなったと思いました」
「はい」
「医者にも言えなかった。言えば、また何か病名がつく。会社にも戻れなくなる。だから、黙っていた。黙って、居間に入らないようにしていた。自分の家の居間に」
榊原は小さく息を吐いた。
「それが、一年くらい続きました。それから、ネットで久世先生の相談室を見つけた」
「はい」
「先生は、私の話を、そのまま聞いてくださった。頭がおかしいとは、一度も言わなかった。それで、救われたんです。本当に」
透は手帳に書いた。五年前、心臓。居間に倒れる前の本人。一年ほど一人で抱える。相談室で否定されず救われた、と本人。
救われた。三枝もそう書いていた。水城もそう言っていた。透自身も、あの部屋で救われたと思った。
「久世さんからは、どんな説明を受けていますか」
水城が聞いた。
「向き合うこと。あれと話して、覚えていることを聞いて、記録すること。共有しきれば、落ち着くことが多いと」
「来週の木曜のことは」
「いつもより時間を取って、深いところまで行く日です。先生も同席してくださる。そう聞いています」
「事例の要約は、読まれましたか」
「読みました。何度も」
榊原はそう言って、少し笑った。
「励まされましたよ。途中で苦しくなっても、続けた人は落ち着いている。そう読めましたから」
水城のペンが、一瞬止まった。
透は顔を上げなかった。
「榊原さんが知りたいことは何ですか」
透は聞いた。
榊原は、すぐには答えなかった。
窓の外を見た。ガラスの向こうで、駅へ向かう人が流れていた。
「娘のことです」
榊原は言った。
---
「娘が一人います」
榊原は、テーブルの上で手を組んだ。
「今は、ほとんど連絡がありません。何年も」
「はい」
「私が悪いんです。それは分かっています」
榊原は言った。言い慣れた言葉のように聞こえた。
「心配だったんです。娘が、ちゃんとやっていけるか。進路のことも。仕事のことも。私なりに、いいと思う道があった。それを言った。何度も言った」
榊原は組んだ手の甲に指を押しつけていた。
「娘が選んだ学校に、反対しました。就職先にも口を出した。辞めると言ったときも、止めた。……心配だったから。それだけなんです」
透は手帳に書いた。進路・仕事に介入。本人は「心配だったから」と説明。
それだけ、と榊原は言った。
それだけではないと分かっているからこそ、先に言ってしまうのかもしれない、と透は思った。それ以上は分からなかった。
「倒れたとき、病院に来てくれました。退院してから、一度だけ家にも来た。それが最後です。……それきりです」
榊原は、手を解いた。
「あれが、覚えているんです」
「あれ、というのは」
「居間にいる私です。あれは、私が死んだあとのことを覚えている。私が、あのとき助からなかった場合の。……久世先生は、不在の記憶と呼んでいました」
透は、水城の方を見なかった。水城の分身も、母が部屋を片づける場面を覚えていた。
「あれが言うには、私の葬式のあと、娘が家に来たそうです。一人で。居間に入ってきて、私がいつも座っていた椅子のそばに立った」
榊原の声が、少しだけ低くなった。
「それで、何か言った。お父さん、と。それから、続けて何か言ったらしい。……そこから先を、あれはまだはっきり思い出せないんです」
「はい」
「娘が何を言ったのか。泣いていたのか。怒っていたのか。……それが知りたい」
榊原は透を見た。
「私が死んだら、あの子は家に帰ってきた。生きている私のところには、来ないのに」
透は何も言えなかった。
「生きているうちに、あの子に聞けばいいんでしょう。分かっています。電話をすればいい。手紙を書けばいい」
榊原は小さく首を振った。
「でも、聞いて、もう話すことはないと言われたら。それで終わりです。……あれが覚えていることなら、少なくとも、あの子が帰ってきたことは本当なんです。その続きに、何か、あの子がまだ私を……」
榊原はそこで言葉を止めた。
コーヒーカップに手を伸ばして、やめた。
「来週の木曜で、それが分かるかもしれない。先生は、そうおっしゃった」
透は手帳を見下ろした。
死んだあとの娘を調べる方が、生きている娘に聞くより耐えやすい。
榊原は、そうは言わなかった。けれど、透には、そう聞こえた。
そして、それを愚かだとは思えなかった。
透も、十九歳の自分に聞きたいことがあった。蓮に聞けないことを。あの声のことを。生きている誰かに聞いても答えの出ないことを、あの部屋にいる自分なら知っているかもしれないと思っていた。
透は、手帳の上でペンを握り直した。
---
「お伝えしたいことを、話してもいいですか」
透は言った。
「どうぞ」
「榊原さんが読んだ要約の中に、一時休止のあと再開して、その後安定した、という事例があったと思います」
「ありました。覚えています」
「その方の経過について、ご本人が話してもいいと言ってくださった範囲で、お伝えします。お名前は言えません。記録もお見せできません。口でお話しするだけです」
榊原は頷いた。
透は、手帳の頁を見ずに話した。昨夜、何度も読んでいた。
「その方は、接触の途中で体調が悪くなって、やめたいと言いました。はっきり、終わりにしてほしいと」
「はい」
「休憩のあと、もう一度向き合うことを勧められて、再開しました。再開して、また体調を崩して、部屋を出ました。そのあと、けがをしています。骨折です」
榊原の表情が、わずかに固くなった。
「眠れるようになったのは、接触をやめてからだと、ご本人は書いています。ただ、同じ頃に仕事を休んでいて、通院もしていました。やめたことだけが理由だとは、僕たちにも言えません」
「……はい」
「要約には、やめたいと言ったことも、けがのことも、やめたあとに落ち着いたことも、書かれていません」
透はそこで話をやめた。
三枝が許したのは、そこまでだった。
榊原は、しばらく黙っていた。
「それは、久世先生がおっしゃっていたことと、違うんですか」
「久世さんは、その方がやめたいと言ったことを、一時的な負担の訴えだと受け取ったと話していました。やめたあとに落ち着いたのも、それまでの積み重ねの結果だと考えている、と」
透は言った。
「僕たちは、それが間違いだと証明できるわけではありません。でも、要約だけでは、やめたいと言ったことも、けがも、やめたあとに落ち着いたことも読み取れません。続ければよくなった例として示すには、根拠が足りないと思っています。ご本人も、そういう例として扱われることには納得していません」
水城が続けた。
「それから、もう一つ」
「はい」
「来週の木曜になっても、娘さんが何を言ったのか思い出せるとは限りません」
水城は、榊原の目を見て言った。
「私のところにも、似たことがありました。私が助からなかった場合のことを、もう一人の私が覚えていた。とても鮮明でした。でも、前と後ろが分からなかった。自分がどこから見ていたのかも。……鮮明でも、それが今の相手の気持ちを教えてくれるわけではありませんでした」
榊原は水城を見ていた。
「娘さんが続きに何を言ったとしても、それは、榊原さんが亡くなった場合の娘さんの言葉です。今、生きている娘さんが、榊原さんをどう思っているかの答えになるかどうかは、分かりません」
榊原は答えなかった。
ラウンジの奥で、誰かが笑った。グラスが触れ合う音がした。
「……つまり」
榊原が言った。
「続けても、何も分からないかもしれない。分かっても、それが本当の答えかどうかは分からない。そのうえ、途中で体を壊すかもしれない」
「はい」
「止めた方がいいと、お二人は思っている」
透は、すぐには答えなかった。
「僕が止めたいかどうかより、榊原さんが知ったうえで決めることが大事だと思っています」
透は言った。
「……でも、心配はしています。それは本当です」
榊原は、少し笑った。
「心配」
「はい」
「私も、娘にそう言い続けました」
透は黙った。
榊原は手帳を開いた。何かを書いた。透の位置からは読めなかった。
「お二人の話は、分かりました」
榊原は言った。
「その方のことも。要約に書いていないことがあるのも。思い出せるとは限らないことも。……分かったうえで、それでも、知りたいんです」
榊原の声は、静かだった。
「得られないかもしれない。それでも、得られるかもしれないなら。……私には、ほかに、あの子に近づく方法が思いつかないんです」
透は、その言葉を手帳に書いた。
書きながら、自分の手が少し震えているのに気づいた。
得られるかもしれないなら。
その言葉を、透は知っていた。知りすぎていた。
---
「それに、あれも協力したいと言っているんです」
「あれ、というのは、居間の」
「ええ。娘のことを、あれも知りたがっている。思い出せるなら、思い出したいと。……私一人の望みじゃない。あれも同じなんです」
透は少し考えた。
「それは、榊原さんが、その方から聞いたことですか」
「そうです」
「僕たちは、まだその方から直接聞いていません。榊原さんの言葉を疑っているわけではありません。ただ、同じことを覚えていても、望むことが同じとは限らないことがありました。……水城さんのところでも、僕の見てきたところでも」
水城が、小さく頷いた。
「もし機会があれば、その方にも、直接確かめさせてもらえませんか。来週の木曜より前に。榊原さんが許してくださる範囲で」
榊原は、しばらく考えていた。
「……先生に、相談してみます」
「はい」
「それと、今日の話のほかに、何か分かったら、知らせてもらえますか」
「お知らせします」
「来週の木曜までに」
「はい。分かったことは、そのつど」
榊原は手帳を閉じた。
「お二人は、木曜に何が起きても大丈夫だとは、言わないんですね」
「言えません。僕たちには、それを約束できる根拠がありません。安全かどうかも、分かりません」
「先生は、大丈夫だとおっしゃいます」
「はい」
榊原は、少しの間、透を見ていた。
「正直な人たちだ」
榊原は言った。褒めているのか、そうでないのか、透には分からなかった。
榊原は伝票を取った。透が手を伸ばしかけると、榊原は首を振った。
「私が呼んだんです。ここは、私に」
榊原は立ち上がった。背広の前を整えた。
「また、連絡をください」
それだけ言って、榊原はラウンジを出ていった。背筋は、来たときと同じようにまっすぐだった。
---
ホテルを出ると、外は暗くなっていた。
駅までの道を、二人は並んで歩いた。
「止められませんでしたね」
水城が言った。
「はい」
「止めに来たんじゃないって、自分で言ったのに。……少しだけ、期待してました。話したら、考え直してくれるかもしれないって」
「僕もです」
透は言った。
榊原が三枝の経過を聞いて、来週の木曜をやめる。透は、どこかでそれを期待していた。
「愚かだとは思えなかったんです。榊原さんのこと」
「はい」
水城は、透の横顔を見ていた。
「私もです。娘さんに電話すればいいって言うのは簡単です。でも、それで、もう話すことはないって言われたら。……それより、死んだあとの娘さんを探す方が、怖くないのかもしれない」
透は答えなかった。
駅の明かりが見えてきた。
透は、手帳を出しかけて、やめた。
鞄の中の手帳には、今日の頁がある。得られるかもしれないなら、と書いた頁。その前に、月曜の頁がある。十五分か二十分。遮らずに聞く。その前に、土曜の頁がある。話しかけない。三十分。残り四分は使わず。
今日、二人が榊原に伝えたことを、榊原自身も確かめるように言い直した。思い出せるとは限らない。分かっても、それが答えかどうかは分からない。途中で体を壊すかもしれない。
どれも、透が十九歳の自分に会いに行くときにも、同じだった。
あの部屋にいる自分が、事故の日を覚えているとは限らない。覚えていても、それが答えになるとは限らない。あの声が誰のものだったのか。蓮が最後に何を思っていたのか。
分かっていた。分かっていて、知りたかった。
得られるかもしれないなら。
榊原にだけ、その言葉を当てはめるわけにはいかなかった。
「水城さん」
透は言った。
「はい」
「実家に行く日を、決めたいんです。一緒に」
「はい」
「その前に、聞くことと聞かないことを書いておきたい。榊原さんに話したのと同じことを、自分にも当てはめられるように」
水城は立ち止まった。改札の手前だった。
「当てはめられると思いますか」
透は、すぐには答えられなかった。
「……分かりません」
透は言った。
「だから、一人では行きません」
水城は少しの間、透を見ていた。
それから、頷いた。
「日曜なら、空いています」
「はい」
透は手帳を出した。今日の頁の次を開いた。
一番上に「日曜」と書いた。その下に、二本の線を引いて、欄を二つ作った。
聞くこと。聞かないこと。
日曜の前に、水城と決め直すための下書きだった。
「聞かないこと」の欄は、すぐに埋められた。事故のこと。声のこと。蓮のこと。こちらからは、聞かない。
「聞くこと」の欄に透はペンを置いた。
何も書けなかった。
書こうとすると、聞かないことの欄に書いたものが、全部こちらへ移ってきそうだった。
透は、ペンを止めたまま、改札の明かりの下に立っていた。
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