第二十二話
土曜の朝、駅からの道は思っていたより短かった。
十年前には、もっと長く感じた。高校へ通った道で、大学へ通った道だった。角の酒屋はコンビニになっていた。その隣の空き地には、知らない家が建っていた。
実家の門の前で、透は携帯を出した。
〈着きました。これから入ります。十時五分。〉
すぐに既読がついた。
〈はい。三十分後に連絡ください。〉
透は呼び鈴を押した。
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「早かったわね」
母は玄関で、透の顔を見るなりそう言った。エプロンをかけていた。台所から、何かを煮る匂いがした。
「十時って言ったよ」
「そうだけど」
母は透の靴を見て、それから顔を見た。
「痩せた?」
「変わらないよ」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。
「部屋、二階よ。覚えてるでしょ。……散らかってるけど」
「うん」
「何か要るものがあったら言って。持っていっていいから」
「見るだけだよ」
母は少し首を傾けた。何を見るのか、とは聞かなかった。
透は階段を上がった。
階段の三段目が鳴った。昔から鳴る段だった。それを踏んでから、透は自分がその段を避けようとしなかったことに気づいた。十年前は、夜遅く帰るとき、いつもまたいでいた。
廊下の突き当たりが、透の部屋だった。
扉は閉まっていた。
透は扉の前で、一度だけ手帳を開いた。
目的:いるかどうかを見る。時間:三十分。話しかけない。見えたものを書いて帰る。
閉じて、扉を開けた。
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部屋は、透の部屋ではなくなっていた。
壁際に段ボール箱が積んであった。季節ものの布団。扇風機。古い電気ストーブ。箱の側面には、母の字で「冬物」「写真」などと中身が書いてあった。
ベッドはなかった。ベッドのあった場所には衣装ケースが三つ並んでいた。
カーテンは、透が使っていた紺色のものではなかった。薄いクリーム色に替わっていた。
自分がいなくなった部屋は、自分がいなくても使われ続けていた。
当たり前のことだった。十年、ほとんど入らなかった。帰ってきても泊まらず、この扉を開けたのは数えるほどだった。開けても、すぐに閉めた。
透はそれを悪いことだと思わなかった。母は部屋を物置にした。それは、母がこの家で暮らしてきたということだった。
それでも、胸のどこかが少しだけ冷えた。
窓際に机が残っていた。
中学のときに買ってもらった、木の学習机だった。上の棚は外されていて、天板の上には箱が一つ置いてあった。椅子はなかった。
透は机の前に立った。
天板の右手前に細い傷があった。コンパスの針で引っかいた傷だった。高校の数学の時間の前に、苛立って引いた線。消そうとして、余計に深くなった。
透は指でそれをなぞった。
覚えていた。傷の長さも、途中で一度曲がっているところも。
床を見た。
机の前のカーペットに浅いへこみが四つ残っていた。椅子の脚の跡だった。椅子はもうないのに、置いていた場所だけが残っていた。
透はそのへこみの上に立った。
机に向かうときの位置と向きになった。窓の外に、隣の家の屋根が見えた。その向こうに電柱。昔と同じ景色だった。電線の本数まで同じに思えた。
透は手帳に書いた。
机、残存。天板右手前に傷。椅子なし。脚の跡あり。棚は外されている。
書きながら、時計を見た。十時十一分。
それらしい姿は見えなかった。
声も聞こえなかった。階下で、母が鍋の蓋を置く音がしただけだった。
透は部屋の中を一つずつ見て回った。積まれた箱の文字。衣装ケースの並び。押し入れの襖。窓枠の塗装の剥げ。見たものを手帳に書いた。それらしい姿が見えないことも書いた。
何も起きないまま、時間だけが過ぎた。いないのかもしれない、と透は思った。それなら、それでいい。そう書いて帰ればいい。
時計を見た。十時二十六分だった。
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透は机の引出しに目を落とした。
天板の下の、横に長い引出しだった。中学の頃から、途中で引っかかった。半分ほど引くと、何かに当たって止まる。そこから先は、少し持ち上げながら引かないと開かなかった。
何が入っているのかは、知らなかった。母が何か入れたのかもしれない。空なのかもしれない。
開ける理由はなかった。今日は、見るだけだった。
それでも、手が取っ手にかかっていた。
引いた。
半分のところで、止まった。
昔と同じだった。
透は取っ手を少し持ち上げた。同時に、左の肩が下がった。体重が左足に移り、右の膝が机の脚に軽く当たった。
その姿勢になってから、透は自分がそうしていることに気づいた。
考えて動いたのではなかった。この引出しを開けるときは、いつもこうしていた。左肩を落として、左足で立って、右の膝を机に当てる。そうすると、引っかかりを越えられた。十年経っても、考えるより先に体が動いていた。
引出しが、引っかかりを越えた。
中には、何もなかった。古い消しゴムのかすが、隅に少し残っているだけだった。
透はその姿勢のまま動かなかった。
部屋の、別の場所が気になった。
窓の右側。段ボールが積んである手前。透の視界の端に入る位置。
そこに、誰かが立っている気がした。
見えたのではなかった。気配だった。子どもの頃から、何度も感じてきたもの。その場所に、何かがいる、という感覚。
けれど、今まで感じてきたものと、何かが違った。
その気配は、左足に重心をかけていた。
右の肩より、左の肩が少し下がっていた。
透が今、引出しの前でしている姿勢と、同じ傾き方をしていた。
鏡に映っているのではなかった。そこは鏡のない場所だった。透が姿勢を動かしても、その気配は動かなかった。透とは関係なく、ただそこで、同じ立ち方をしていた。
透は、その立ち方を知っていた。
知りすぎていた。
自分が、何年もそうやって立ってきたからだった。
透は、ゆっくり引出しを閉めた。少し持ち上げて、引っかかりを越えて、閉めた。
それから、顔を上げた。
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窓の右側に、若い男が立っていた。
灰色のパーカーを着ていた。大学一年の秋に買ったものだった。袖口が少しほつれていた。そのほつれ方まで、透は覚えていた。
髪は今より長かった。前髪が目にかかっていた。
顔は、透の顔だった。
十年前の。
十九歳の、自分の顔だった。
若い男は、壁に背をもたせかけていた。腕を組んでいた。左足に体重をかけて、右の膝を少し曲げていた。
透の方を見ていた。
透は息を吸った。吸った息が、うまく吐けなかった。
これまで、いろいろなものを見てきた。部屋の隅の人影。廊下の奥の声。窓際の女。窓の脇の少女。見えたものの顔を、できるだけ落ち着いて見るようにしてきた。それが仕事だった。
この顔は、見ていられなかった。
他人の顔なら、いくらでも見られた。何が見えるか、何が違うかを確かめられた。
自分の顔は、見るより先に、知っていた。眉の形。目の下の影。口の端の、少し右が上がる癖。どれも知っていた。知っているのに、それが自分の外にあった。
怖かった。
怖いはずの相手が、親しすぎた。
透は、目を少しだけそらした。若い男の肩のあたりを見た。そこなら、見ていられた。
若い男は、動かなかった。
透も、動かなかった。
聞きたいことが、次々に浮かんだ。
いつから、ここにいるのか。
あの日のことを、覚えているのか。
あの声を。蓮を。
浮かぶたびに、透はそれを喉の奥に押し戻した。
話しかけない。
自分で決めたことだった。水城の前で、手帳に書いたことだった。三枝の前で、あの部屋のものには何も聞かないと言われて、それでいいと思ったことだった。
他人の部屋で守れたことを、自分の部屋で守れないなら、透はもう誰にも、やめていいとは言えない。
透は口を閉じたまま、若い男の肩を見ていた。
若い男の口が、少し動いた。
「……それ」
声だった。
低い、少しかすれた声だった。自分の声を録音で聞いたときのような、知っているのに知らない声だった。
「まだ、引っかかるだろ」
若い男は、顎で机を示した。
透は答えられなかった。喉が固まっていた。
若い男は、それ以上何も言わなかった。
腕を組んだまま、透を見ていた。
その顔が何を思っているのか、透には分からなかった。笑っているようにも見えた。そうでないようにも見えた。自分の顔なのに、読めなかった。
透は時計を見た。
十時三十分。
あと五分あった。
五分あれば、と透は思った。
一つだけなら。いつからここにいるのか。それだけなら。答えを求めるんじゃない。確かめるだけだ。
透は、手帳を握る手に力が入っているのに気づいた。
もうちょっとだけ。
三枝の声が、耳の奥で聞こえた。そう言う人は、だいたい、もうちょっとが終わらないんですよ。
透は手帳を開いた。
ペンを出して、書いた。
十時二十八分頃、窓の右側に気配。左足重心。引出しを開ける自分と同じ傾き。
直後、姿が明確に。十九歳頃の自分の顔。灰色のパーカー(大学一年の秋に買ったもの)。壁にもたれ、腕組み。
発話一回。「まだ、引っかかるだろ」。机を示す。
こちらからは話しかけていない。
書いている間、若い男は動かなかった。
透は手帳を閉じた。
顔を上げた。
若い男は、まだそこにいた。
透は、扉の方へ一歩下がった。
若い男の目が、透の足を追った。
透は、もう一歩下がった。
扉の取っ手に手をかけた。
振り返らずに出ようとして、振り返った。
若い男は、壁にもたれたまま、透を見ていた。組んだ腕を、ほどきかけていた。
何かを言いかけたのかもしれない。
透には、分からなかった。
透は扉を閉めた。
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廊下に立って、しばらく動けなかった。
扉一枚の向こうに、十九歳の自分がいた。
この十年、透はこの家に帰ってきていた。年に何度か。正月や、母の誕生日に。この廊下を通って、この扉の前を通り過ぎていた。
その間、あの部屋に、あれがいたのかもしれない。
透が階段を上がる足音を、聞いていたのかもしれない。
透が扉を開けずに通り過ぎるのを、扉の向こうで知っていたのかもしれない。
分からなかった。
透は携帯を出した。指が冷たかった。
〈出ました。十時三十一分。見えました。十九歳頃の自分です。こちらからは話しかけていません。向こうから一言ありました。詳しくは帰ってから話します。〉
送った。
返事はすぐに来た。
〈分かりました。無事に出られてよかったです。帰ったら電話ください。〉
透は、その文面を二度読んだ。
無事に出られてよかった。
透は手帳の最後の行に書き足した。
十時三十一分、退室。残り四分は使わず。
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台所で、母は鍋の火を止めていた。
「お昼、どうする」
「今日は、帰るよ」
「そう」
母は、それ以上は言わなかった。
「部屋、何か持っていく?」
「いや。……母さん、一つ聞いていい?」
「何」
「事故のときのもの、この家に何か残ってる?書類とか」
母の手が、布巾の上で止まった。
少しの間があった。
「あるわよ。和室の押し入れに。保険の書類とか、警察から渡された紙の控えとか。まとめてしまってあるの」
「それ、見てもいい?中は読まない。何があるかだけ確かめたい」
母は透を見た。
「……読まないのに、見るの」
「今日は、何があるかだけ」
母は布巾を畳んで、台所を出た。
和室の押し入れの下の段に、青いファイルボックスが一つあった。背には母の字で年号と「事故」とだけ書いてあった。
透は蓋を開けた。
中の書類を出さずに、見える背表紙と一番上の紙だけを見た。保険会社の封筒。病院の領収書の束。警察の名前が入った書類の控えが、何枚か。新聞の切り抜きが入った透明な袋。
透は手帳に見えたものだけを書いた。
実家・和室押し入れ。青いファイルボックス。保険関係、病院領収書、警察関係の控え数枚、新聞切り抜き。中身は未読。映像らしきものは見えた範囲になし。下層は未確認。
透は蓋を閉めた。
「ありがとう」
「もういいの」
「うん。今日は」
母は、ファイルボックスを押し入れに戻す透の手元を見ていた。
「透」
「うん」
「……あの部屋、何かあった?」
透は、すぐには答えられなかった。
「昔の机、まだあったね」
透は言った。
「引出し、まだ引っかかってた」
母は少し笑った。
「直そうと思って、そのままなのよ」
透は玄関で靴を履いた。
階段の方は、見なかった。
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帰りの電車で透は手帳を開かなかった。
窓の外を見ていた。十九歳の自分の顔が、窓ガラスに映る自分の顔の向こうに、重なって見える気がした。気のせいだと分かっていた。分かっていても、目をそらした。
家に帰ると、透はすぐに水城へ電話をかけた。
「朝倉です」
『はい。……大丈夫ですか』
「大丈夫です。少し、手が冷たいだけで」
透は、順に話した。
部屋が物置になっていたこと。机が残っていたこと。引出しが、まだ引っかかったこと。それを開けるときに、昔と同じ姿勢になったこと。その姿勢と同じ傾き方で立っている気配を感じたこと。顔を上げたら、十九歳の自分がいたこと。
「声を、一回だけ聞きました」
『何て言ったんですか』
「まだ引っかかるだろ、と。机を見て」
電話の向こうで、水城が少し黙った。
『引出しのこと、ですか』
「たぶん。僕が開けるのを、見ていたのかもしれません。分かりません」
『はい』
「僕からは、何も言っていません。聞きたいことは、たくさんありました。……でも、聞いていません」
『はい』
「分からないことも、書いておきます」
透は手帳を開いた。
「いつからあそこにいるのか。分かりません。僕の言葉が届いているのか。分かりません。あれが何を思っていたのか。分かりません。笑っていたのかどうかも。自分の顔なのに、読めませんでした」
水城は黙って聞いていた。
「それから、あと四分ありました。使いませんでした」
『……はい』
水城の声が、少しだけ柔らかくなった。
『それも、書きましたか』
「書きました」
『よかった』
しばらく、どちらも話さなかった。
「次に行くときは、水城さんにも来てほしいんです。決めた範囲で。何を聞くか、聞かないか。先に二人で決めてから」
『はい』
「一人だと、たぶん、四分を使ってしまう」
自分でそう言って、透は少し驚いた。言ってから、それが本当だと分かった。
『分かりました』
水城は言った。
『日にちは、また決めましょう。急がないで』
「はい」
電話を切った。
透は押し入れの戸を開けた。
上の段の奥に、段ボール箱があった。蓋の上に、自分の字で日付が書いてあった。
透は箱を下ろした。
今日は、読まない。何があるかだけを確かめる。母の家でしたのと同じように。
蓋を開けた。
現場の見取図の写し。自分が警察で話した内容の控え。蓮の葬儀の会葬礼状。新聞の切り抜き。ほかに、底の方に封筒や紙の束がいくつかあった。出さなかった。
事故の現場には、店が面していた。あの日、店の前の様子が映っていた映像があると、誰かから聞いた覚えがあった。その写しが、どこかに保存されたことも。
見えた範囲には、映像の入っていそうなものはなかった。
透は手帳に書いた。
自宅の箱:見取図写し、自分の供述控え、会葬礼状、新聞切り抜き。底の封筒・紙束は未確認。映像の写しは見えた範囲になし。所在未確認。後で経路を確かめる。
書いて、蓋を閉めた。
箱を押し入れに戻した。
携帯が震えた。
久世からだった。
〈朝倉さん、水城さん。ご連絡ありがとうございます。事例Fの件、承知しました。月曜の午後、相談室でお待ちしています。〉
透はその文面を読んだ。
穏やかな文だった。いつもと同じだった。
透は、手帳の今日の頁を開いたまま、返信を書いた。
月曜に伺うこと。確認したいことは、先に送った三点であること。
送ってから、透は手帳の頁を見下ろした。
十九歳頃の自分の顔。発話一回。こちらからは話しかけていない。残り四分は使わず。
月曜には、事例Fのことを聞きに行く。
その手帳には、今日の頁も挟まっている。




