第二十一話
三本の線を引いた頁は、すぐに埋まらなかった。
録音の欄には、さっき聞いた時刻を書き写してあった。本人の記録の欄は、まだ空いていた。要約の欄には、一行目だけが入っていた。
「先に要約を全部書き写しましょう。三つを並べるなら、要約も一文ずつ分けた方がいい。どの文がどの出来事を指しているのか」
「はい」
水城がファイルを手元に引き寄せた。事例Fの頁を声に出して読んだ。
「事故後、自宅の一室に自身と同じ顔の人物を知覚するようになる。相談室にて継続的な接触と記録を開始。接触に伴い、不調を訴える時期があった。一時休止の後、接触を再開。その後、睡眠と日常生活の安定が得られた」
透は一文ずつ、要約の欄に書いた。
書きながら、同じ高さの録音の欄を見た。
「接触に伴い、不調を訴える時期があった。録音で言えば、ここです。一時間十分過ぎ。気分が悪い、と本人が言っている」
「はい」
「でも、要約では、時期になっています。不調を訴える時期があった。その時期の中で、本人がやめたいと言ったことは、書かれていません」
水城は録音の欄を指でたどった。
「もうやめたいです。今日は、終わりにさせてください」
水城は小さく読んだ。
「それが、一時休止になってる」
「はい」
透は要約の次の行を見た。一時休止の後、接触を再開。
「『一時休止』と読むと、しばらく休んだように受け取れます。何日か、何週間か。でも録音では十五分です。同じ日の、同じ部屋で」
「本人が、やめたいって言ったことも消えてる。休止したのは、本人がそう決めたみたいに読める」
水城の声は静かだった。
「勧められたことも、ない」
透は録音の欄の三行目を見た。久世「もったいない」「大事なところ」「もう一度だけ」「無理にとは言いません」。
要約の欄の同じ高さには、何も書くものがなかった。
透はそこに短い横線を一本引いた。記載なし。
「ただ、再開したのは事実です。録音の中で、本人は休憩のあと、また話し始めています。要約の再開という言葉は、間違いではない」
「はい」
「本人の返事も、録音では聞き取れません。本人は、はいと言ったと話しています」
水城は頷いた。
「嘘を書いているわけじゃないんですね」
「書かれていることは、たぶん、どれも起きています。不調を訴えた。休んだ。再開した」
透は欄を上から見直した。
「書かれていないことの方が、違うんです。やめたいと言ったこと。続けるように勧められたこと。それから」
録音の欄の最後の行。再開。約十分後、本人「無理です」。退室。
要約の欄の最後の行。その後、睡眠と日常生活の安定が得られた。
「退室したあと、本人は階段で転んで、骨を折っています」
透は言った。
「要約には、けがのことが一行もない」
水城は長い間、二つの欄を見比べていた。
「……その後、安定が得られた」
水城は読んだ。
「この『その後』の中に、けがも入院も入ってるんですね」
透は答えなかった。答える必要がなかった。
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「本人の記録も、並べましょう」
水城が携帯を出した。三枝が送ってきた写真を、一枚ずつ開いた。
小さな手帳の頁だった。一日に一行か二行。日付と、寝た時間と、起きた時間。頭痛の有無。ときどき、短い言葉。
透はそれを本人の記録の欄に写していった。
録音の日付の前の二週間。寝た時間は、四時間から五時間が多かった。「頭痛あり」が続いていた。何日かおきに「接触」とだけ書いてあった。
録音の日付の行には、こう書いてあった。
接触。やめたいと言った。再開。
その次の行から、字が変わっていた。崩れた、斜めの字だった。
「この辺り、あとでまとめて書いたのかもしれませんね」
水城が言った。
「分かりません。そこは、三枝さんに聞かないと」
透は手帳に書いた。録音の翌日以降、筆跡変化。記入時期は未確認。
入院。手術。退院。
それから「接触なし」という言葉が繰り返し出てきた。
寝た時間は、すぐには伸びていなかった。退院してから最初の一週間は、三時間、四時間。腕が痛い、と書いた日が多かった。
二週間目から、五時間の日が出てきた。
三週間目に、六時間。
ひと月を過ぎると、「頭痛なし」が並ぶようになった。
「眠れるようになったのは、接触をやめてからですね。本人の記録では」
「はい」
透は頷いた。それから、記録の別の行を指した。
「ただ、同じ頃に、仕事を休んでいます。けがで。通院もしている。家にいる時間も長かった」
休職。通院。整形外科。
そういう行が「接触なし」の隣に何度も出てきた。
「やめたことだけで、よくなったとは言えません」
透は言った。
「休んだこと。けがが治っていったこと。ほかにも、記録に書いていないことがあるかもしれない」
「はい」
水城はノートに書いていた。
「でも、要約は、接触を再開して、その後、安定した。それだけです。休職も、通院も、接触をやめたことも、書いてない。継続的な接触を経て、生活の改善に至った。……読んだ人は、続けたからよくなったと思う」
「僕も、最初にそう読みました」
「私もです」
水城はファイルの頁を見ていた。
「よくなったことは、本当なんですよね。三枝さんは今、眠れてる。仕事にも戻ってる。それは、要約のとおり」
「はい」
「それなのに、そのよくなったことが、本人がやめたいと思ったやり方の例として使われてる」
水城はファイルを閉じかけて、やめた。
透は欄の一番下に自分の言葉で一行を書いた。
本人は初回の相談に助けられた。ただし、それは接触そのものの効果とは別。接触に効果があったかどうかは、この資料では判断できない。この経過を、続ければ改善する例として示す根拠は足りない。
書いてから、読み直した。
自分の評価と、記録の言葉を分けておく。いつもしていることだった。他人の家を調べるときに。
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その夜、透は三枝にメールを書いた。
記録を比べたこと。録音の終了要求が、要約には書かれていないこと。改善の経過は、本人の記録でも一つの理由だけでは決められないと考えていること。
それから、一つだけ尋ねた。
〈この食い違いを、相談室に伝えたことはありますか。伝えていた場合、そのやり取りを見せていただくことはできますか。お断りいただいても構いません。〉
送ってから、透は自分の文面を読み返した。
三枝は、確かめたいことが出てきたらメールをくれと言った。答えるかどうかは、そのとき決める、とも。
それで足りる、と透は思った。
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返事は、翌日の昼に来た。
〈送りました。半年くらい前に。返事も来ています。〉
〈両方つけます。久世さんに見せるのはいいです。それ以外には見せないでください。〉
添付が二つあった。
その夕方、透と水城は区民センターの同じ部屋で、それを開いた。
一つ目は、三枝が相談室へ送ったメールだった。日付は、体験記に追記が書かれたのと同じ月だった。
長い文章ではなかった。
〈先日、事例要約の資料を見せてもらいました。事例Fは私のことだと思います。紹介されることには前に了承しましたが、経過が私の覚えているものと違うので、お伝えします。〉
〈あの日、私はやめたいと言いました。久世さんに再開を勧められて、再開しました。その日にけがをしました。生活が落ち着いたのは、接触をやめてからです。〉
〈要約を直してほしいです。少なくとも、私がやめたいと言ったことと、けがをしたことと、やめたあとに落ち着いたことを書いてください。続ければよくなった例として使わないでください。〉
透は二度読んだ。
追記に書かれていたことと、ほとんど同じだった。それを、追記より先に、相談室へ直接書いていた。
二つ目は、相談室からの返信だった。三枝のメールの三日後の日付だった。
〈三枝様ご連絡ありがとうございます。久世です。〉
〈おけがのこと、その後のご回復のこと、あらためてお見舞い申し上げます。ご指摘いただいた点は、三枝さんご自身のご経験として大切に受け止めます。〉
〈ただ、事例要約は、相談室での経過全体をもとに、個人が特定されない範囲で短くまとめたものです。あの日、つらさが強くなったのは、大事な記憶に近づいていたからだと、私は今も考えています。それまでに向き合ってこられたことが、その後の安定につながったのだと理解しております。〉
〈三枝さんのお気持ちを否定するものではありません。どうかご自愛ください。〉
それで終わりだった。
水城は、返信の文面をしばらく見ていた。
「受け取ってますね」
水城は言った。
「はい」
「けがのことも、やめたいと言ったことも。三枝さんが書いたことを、読んでる」
「読んだうえで、返事をしています」
透は相談事例要約のファイルを開いた。十日ほど前に水城が久世から受け取ったものだった。
事例Fの頁には、三枝が直してほしいと書いたことが、どれも載っていなかった。一時休止の後、接触を再開。その後、睡眠と日常生活の安定が得られた。
三枝のメールから、半年が経っていた。
「この資料がいつ作られたものかは分かりません。でも、訂正を求めるメールを読んだあとで、指摘されたことが載っていない資料を渡している」
「……はい」
水城の声は小さかった。
透は手帳に書いた。
訂正依頼:本人から相談室へ。約半年前。終了要求、負傷、中断後の改善を具体的に指摘。
返信:久世名義。三日後。受領。お見舞い。要約は経過全体をもとにまとめたと説明。改善は以前の接触の結果と理解。
十日ほど前に受け取った要約:指摘された事項の記載なし。
それから、一行空けて書いた。
久世が、本人の異なる説明を知っていたことは示せる。久世がどう理解したかも、返信で分かる。なぜ資料に反映しなかったのか、どういう経緯でこの資料を渡したのかは、久世本人に聞かないと分からない。
「返信の、ここ」
水城がメールの一文を指した。
「三枝さんのお気持ちを否定するものではありません」
「はい」
「気持ちの話じゃないんです。三枝さんが書いたのは、やめたいと言ったこと、けがをしたこと、やめたあとに落ち着いたこと。起きたことの順番です。それを『お気持ち』として受け取ってる」
透は、その一文を見た。
穏やかで、丁寧な文だった。録音の中の声と同じだった。少し休みましょう。水を飲んでください。
透は、自分がまだ久世の声を嫌いになれていないことに気づいた。久世の部屋で、助かったと思ったことと、相手が死んでよかったと思ったことは別だと言われた。それを、今も覚えていた。あの言葉に、透は救われていた。
その同じ人が三枝の言葉を「お気持ち」に置き換えていた。
---
「久世さんに、会いに行きましょう」
水城が言った。
「はい」
「確かめたいことだけ、先に決めておきたいです。久世さんがこれまでしてきたこと全部を、責めに行くんじゃなくて」
「はい」
二人で、項目を書き出した。
一つ。事例Fの要約に、本人の終了要求と負傷と中断後の経過が書かれていないこと。録音と本人の記録で、それが確認できること。
二つ。本人から訂正の依頼があり、それを受け取っていたこと。それでも要約が変わっていない理由。
三つ。この要約を、ほかの相談者にどう示しているのか。
「三つ目は、私がそれを読んだ一人なので。聞きたいです」
「はい」
透は、久世に宛てて書いた。
事例Fについて確認したいことがあること。資料は、本人の了承を得た範囲で持参すること。確認したいことは三点であること。伺いたいのは事例Fのことで、相談室の活動全体を判断するためではないこと。
水城が読んで、頷いた。
送った。
送信済みの画面を見ながら、透は手帳を閉じた。
閉じた手帳の表紙の上に、手を置いたままでいた。
「朝倉さん」
水城が言った。
「はい」
「何か、ありますか」
透はすぐには答えなかった。
---
区民センターを出て、駅の方へ歩いた。
日が落ちかけていた。商店街の照明が、少しずつ点き始めていた。
「さっきの続きです」
透は言った。
「はい」
「自分の家を、調べようと思っています」
水城は歩く速さを変えなかった。
「実家ですか」
「はい。事故のときに使っていた部屋です」
透は前を見たまま話した。
「三枝さんのところにも、水城さんのところにも、生き残った人と同じ顔の人がいました。最初の物件でも。……僕も、生き残った側です。十年前に」
「はい」
「それなのに、自分のところにいるかどうかを、確かめたことがありませんでした」
水城は黙って聞いていた。
「子どもの頃から、見えていました。でも、見えるのは亡くなった人だと思っていた。仕事でも、ずっとそう思って調べてきました。だから、自分の顔を探すという考えが、なかったんです」
「はい」
「それに、事故のあと、あの家を出ました。帰ることはあっても、泊まらなかった。自分の部屋には、ほとんど入っていません。物置みたいになっていると聞いています」
透は少し言葉を探した。
「これまで見てきた人は、みんな、暮らしていた場所にいました。水城さんのところは、今の部屋に。お姉さんは、あの家の窓に。三枝さんのところも、二階のあの部屋にいたと聞きました。……もし僕にもいるなら、あの部屋だと思います。見つからないかもしれません」
水城は少しの間、何も言わなかった。
「三枝さんに、あの部屋のものに何も聞かないと言いましたね」
「はい」
「三つの資料を並べて、久世さんの要約を読みましたね」
「はい」
「それで、自分のところは調べに行く」
水城の声は責めていなかった。確かめていた。
「他人には、やめていいと言ってきました。沢井さんにも。水城さんにも。三枝さんにも、確かめに行かないと言われて、それでいいと思いました。でも、自分のことだけは、確かめないままにしてきた。……他人の部屋を調べて、自分の部屋だけ開けないのは、違う気がするんです」
水城は歩きながら、少しだけ透の方を見た。
「確かめたいだけ、ですか」
透は答えに詰まった。
確かめたい。それは本当だった。
けれど、それだけではなかった。もし、あの部屋に十九歳の自分がいるなら。その自分は、事故の日を覚えているかもしれない。あの声のことも。蓮のことも。
透は、それを口に出さなかった。
「……知りたいことは、あります」
透は言った。
「でも、最初は、知りに行くんじゃなくて。いるかどうかだけを見に行きます。部屋と、そこで何が見えるか。それだけ」
「時間は」
「三十分」
「何かが見えたら」
「話しかけません。見えたことだけ書いて、帰ります」
「見えなかったら」
「それも書いて、帰ります。もう一度行くかは、帰ってから決めます」
水城は頷いた。
「私は、行かなくていいですか」
「今回は。家族の家なので。まず一人で、家の様子を見たいんです」
「分かりました」
水城は少し考えてから言った。
「入る前と、出たあとに、連絡ください。私がこの前、そうしたみたいに」
「はい」
「出たあとの連絡が来なかったら、こっちから電話します。出なかったら、もう一回します」
「はい」
「それと」
水城は立ち止まった。駅の改札が見えていた。
「三十分って、自分で決めたんですよね」
「はい」
「それも、書いておいてください。手帳に」
透は少し笑った。
「はい」
透は手帳を開いて、その場で書いた。
実家の元自室。目的:いるかどうかを見る。時間:三十分。話しかけない。見えたものを書いて帰る。前後に水城さんへ連絡。
水城はそれを横から読んで、頷いた。
---
家に帰ってから、透は実家に電話をかけた。
呼び出し音が四回鳴って、母が出た。
「透?どうしたの、珍しい」
「土曜に、帰ってもいいかな。少しだけ」
「いいけど。何かあったの」
「何も。……昔の部屋を、ちょっと見たいんだ。三十分くらいで帰る」
母は少し黙った。
「あの部屋、今、物置よ。段ボールとか、いろいろ置いてるけど」
「知ってる。何も動かさないから」
「動かしてもいいわよ。あんたの部屋なんだから」
母はそう言って、少し笑った。
「お昼、食べていく?」
「……部屋を見たあとで、決めていい?」
「いいわよ」
電話を切った。
透は携帯をテーブルに置き、しばらくそれを見ていた。
あんたの部屋なんだから、と母は言った。
十年、ほとんど入らなかった部屋だった。
携帯が震えた。水城からだった。
〈今日はありがとうございました。土曜、連絡待っています。〉
透は返信した。
〈土曜の十時に行きます。入る前に連絡します。〉
送ってから、もう一通来ていないかを確かめた。久世からの返事は、まだなかった。
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