第二十話
月曜の朝、透は出社前に文面をもう一度読んだ。
昨夜も読んでいた。直すところはなかった。それでも送信の前に、一行ずつ指でたどった。
自分たちが誰か。なぜ連絡したか。相談事例要約の事例Fと、追記の記載の違いについて、筆者が確認させてくれる範囲があれば知りたいこと。体験の再現や、自宅への訪問は求めないこと。返信しなくても構わないこと。
最後に自分の名前と水城澪の名前を並べた。水城も同じ相談室に通った一人であることを、一行だけ添えた。
掲載先の問い合わせ窓口に貼り付けて、送信した。
画面に「送信を受け付けました」と出た。
透はしばらくそれを見ていた。
会いたい、と思っている自分がいた。この人に会えば、要約の一行の裏にあるものが分かる。休止と再開の間に何があったのか。やめたいと言った人が、なぜ再開したのか。
けれど、相手にとってはもう終わった話かもしれない。追記を書いた時点で、言うべきことは言い終えたのかもしれない。話したくないことを、知らない人間にもう一度話す理由はどこにもない。
透は携帯を鞄にしまった。
返信は、その日の夕方に来た。
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〈ご連絡ありがとうございます。三枝と申します。あの体験記と追記を書いた者です。〉
短い文章だった。
〈要約の件で連絡をくださったのは、あなた方が初めてです。お会いすることはできます。ただし、いくつか条件があります。〉
〈自宅ではお会いしません。場所はこちらで決めます。時間は一時間です。〉
〈体験を再現することはしません。あの部屋のものに、もう一度何かを聞くこともしません。私の家族には連絡しないでください。〉
〈記録は持っています。お見せするかどうか、どこまでお見せするかは、お会いしてから決めます。〉
〈それでよければ、明日の夕方六時に、下記の場所でお願いします。〉
駅ビルの上の階にある、喫茶店の名前が書いてあった。
透は水城に転送した。
すぐに返事が来た。
〈行きます。条件、全部守ります。〉
透は三枝に返信した。条件をすべて受けること。明日の六時に二人で伺うこと。録音や撮影はしないこと。メモを取ってもいいか、会ってから尋ねること。
送ってから、もう一度三枝の文面を読んだ。
あの部屋のものに、もう一度何かを聞くこともしません。
透は自分が何を考えていたのかに気づいた。三枝のところにいる誰かは、今どうしているのだろう。会えば、それも少しは分かるのではないか。
三枝は先にそれを閉じていた。
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火曜の六時少し前、透と水城は駅ビルの喫茶店に入った。
奥の席に男が一人座っていた。
三十代の後半に見えた。紺の作業着の上に、薄いジャンパーを着ていた。テーブルの上に小さな手帳と、携帯が置いてあった。
男は二人を見て、軽く手を上げた。
「三枝です」
「朝倉です。今日は、ありがとうございます」
「水城です」
三枝は二人を順に見た。それから「座ってください」と手で示した。
店員が来て、二人はコーヒーを頼んだ。三枝の前には、もう半分ほど減った水のグラスがあった。
「最初に、言っておきます」
三枝は言った。
「七時半に、歯医者の予約を入れてます。だから一時間です。延ばしません」
「はい」
「それから、メールに書いたことをもう一回言います。家には来ないでください。家族にも連絡しないでください。あの部屋で何かを試すこともしません。あいつに何か聞いてほしいと言われても、聞きません」
あいつ、と三枝は言った。
「はい」
透は言った。
「どれも、お願いするつもりはありません。今日伺いたいのは、要約と追記の違いについて、三枝さんが話してもいいと思う範囲だけです」
三枝は透を見ていた。何かを確かめるように。
「調査の仕事をしてるって、書いてましたね」
「はい。会社の仕事とは別で、個人として伺っています」
「調べたいって言う人は、だいたい、もうちょっとだけって言うんですよ」
三枝は言った。責める声ではなかった。
「もうちょっとだけ話してくれ。もうちょっとだけ見せてくれ。もうちょっとだけ、あの部屋にいてくれ。……それで、もうちょっとが終わらない」
透は答えなかった。
答えられなかった。まさに自分が、そう思っていたからだった。
「メモは取ってもいいですか」
水城が聞いた。
「どうぞ。ただ、俺の名前は書かないでください。会社の名前も。書くなら、本人とでもしておいてください」
「はい」
水城はノートを開いた。透も手帳を出した。
三枝は水城の方を見た。
「同じ相談室に行ったって、書いてありましたね」
「はい。今は、行くのを休んでいます」
「そうですか」
三枝はそれ以上聞かなかった。
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「最初から話します」
三枝は言った。
「途中から話すと、自分でも分からなくなるので」
「はい」
「事故に遭ったのは、四年前です。仕事中に。助かりました。それから、家の二階の部屋に、俺と同じ顔のやつがいるようになった」
三枝は水のグラスを手の中で回した。
「怖かったですよ。最初は。でも、何かしてくるわけじゃない。ただいるんです。部屋の隅に。こっちを見て、たまに何か言う。それで、夜、眠れなくなった」
「はい」
「俺がしたかったのは、家で普通に寝ることでした。それだけです。あいつのことを知りたかったわけじゃない。いなくなってほしかった。それができないなら、せめて、気にしないで寝られるようになりたかった」
透は手帳に書いた。目的、自宅で普通に休むこと。
「誰にも言えなくて。ネットで調べて、あの相談室を見つけました。行ってみたら、ちゃんと聞いてくれた。気のせいだとか、疲れてるんだとか、言わなかった。それで、その晩は少し眠れました」
三枝は少しだけ笑った。
「それは本当です。体験記に書いたとおり。あれは取り消しません」
「はい」
「そのあと、あいつと話すようになりました。久世さんに勧められて。話して、覚えてることを聞いて、記録する。全部聞けば、落ち着くことが多いって。俺もそれを信じてました」
三枝はグラスを置いた。
「話すたびに、あいつははっきりしてきました。最初は部屋の隅にいるだけだったのが、だんだん、ちゃんと顔が見えるようになった。声も聞き取れるようになった。……それと一緒に、俺の方は、話したあとに頭が痛くなるようになった」
水城のペンが止まった。
透は水城の方を見なかった。
「あの日は、久世さんが家に来てました」
三枝は言った。
「何回目だったか。二階のあの部屋で、三人で。あいつと、俺と、久世さん。いつもより長かった。あいつが、事故の前の日のことを話し始めて。久世さんが、大事なところだって言って」
「はい」
「一時間過ぎたくらいで、気分が悪くなりました。頭が痛くて、吐きそうで。それで言ったんです。もうやめたいって」
三枝は透を見た。
「はっきり言いました。自分で覚えてます。もうやめたい。今日は終わりにさせてくれって」
「はい」
「久世さんは、分かりました、休みましょうって言いました。それで、少し間があって。……ただ、ここでやめるのはもったいない、と」
透の手が止まった。
「大事なところに来てるんだって。休んで、落ち着いたら、もう一度だけって。無理にとは言いません、とも言われました」
三枝は少し黙った。
「無理にとは言わないって言われて、俺は、はいって言いました」
三枝の声が低くなった。
「それが、今でも腹が立つんです。久世さんにもだけど、自分にも。やめたいって言ったのに。はいって言ったのも、俺なんです」
水城が、ノートの上で手を握っているのが見えた。
透は手帳を見下ろした。書きかけの行が、途中で止まっていた。
「休憩して、また始めました」
三枝は続けた。
「すぐに、また悪くなった。さっきより悪かった。もう無理だと思って、無理ですとだけ言って、部屋を出ました。出たところまでは、覚えてます」
「はい」
「そのあとは、覚えてない。気がついたら、階段の下にいて。腕が変な方に曲がってた。骨が折れてました」
三枝は自分の左腕を、右手で軽く押さえた。
「どうやって落ちたのかは、分からないです。足を踏み外したのか。目が回ったのか。何も覚えてない」
三枝は透を見た。
「一つだけ言っておきます。あいつに押されたんじゃない」
「はい」
「あいつは、部屋の中にいた。俺が出るとき、あいつは部屋の隅にいました。それは覚えてる。……あいつのせいにしたら、楽なのかもしれないけど。そうじゃない」
透は、それをそのまま手帳に書いた。部屋を出るまでは覚えている。転落の動作は覚えていない。押されたのではない、と本人は言う。部屋を出るとき、残存者は部屋の隅にいた。
分からないところは、分からないと書いた。
三枝は携帯を手に取った。
「話しただけだと、俺がそう思い込んでるだけかもしれない。だから、見せます」
「……録音ですか」
「毎回、自分の携帯で録ってました。久世さんにも、録っておくといいって言われてたので。あとで聞き返せるように」
三枝は画面を見たまま言った。
「あの日のも、残ってます。消してません。切ってもいない。始めたときから、俺が部屋を出るまで、ずっと録れてます」
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残りの時間で、三枝は二つのことを話した。
「接触は、それきりやめました」
三枝は言った。
「入院して、帰ってきて。久世さんからは、落ち着いたらまた、と連絡が来ました。断りました。それからは、あの部屋には用事があるときしか入ってません」
「生活は」
水城が聞いた。
「少しずつ、眠れるようになりました。腕が治る頃には、だいたい。仕事にも戻りました」
三枝は作業着の袖を少し引っ張った。
「寝られるようになったのは、あいつと話すのをやめてからです。全部聞いたからじゃない。全部なんて、聞いてません。途中でやめたんです」
透は手帳に書いた。改善、接触をやめた後と本人は言う。
「……あいつは」
三枝は窓の外を見た。
「最後に、もう話さないって言ったとき。分かったって言いました。寂しそうでした。たぶん。顔は見えてたから」
透は待った。
「今、どうしてるかは知りません。確かめてないので。いるのかもしれないし、もういないのかもしれない」
三枝は透の方へ向き直った。
「気にならないわけじゃないですよ。気にはなる。でも、確かめに行ったら、また始まる気がするんです。話して、聞いて、もうちょっとだけって」
「はい」
「だから、行かない。分からないままにしておく。それで、俺は寝られてるので」
透は何も言えなかった。
知りたい、と思っていた。その部屋の隅に、今も誰かがいるのか。四年前の事故の前の日のことを、その誰かは何と話そうとしていたのか。三枝が聞かずにやめたその続きを、透は聞いてみたかった。
それは三枝の部屋のことで、三枝の続きだった。
透には、それを聞く理由がなかった。
分からないまま暮らしている人が、目の前にいた。分からないことを抱えたまま、歯医者の予約を入れて、作業着で仕事に戻っている人が。
透には、それが少し羨ましかった。同時に、ひどく遠く見えた。
「三枝さんのところにいる方のことは、こちらからは何も聞きません」
透は言った。
「記録に残っている範囲で、十分です」
三枝は少しの間、透を見ていた。
「……そうですか」
「はい」
三枝は手帳を開いた。
「録音を渡します。あの日の分だけ。それと、そのころ自分でつけてた、寝た時間とか、体調のメモ。写真に撮って送ります」
「ありがとうございます」
「使い方を、先に決めさせてください」
三枝は手帳に書きながら言った。
「お二人が聞いて、読むのはいいです。要約と比べるのも。久世さんに、ここが違うって見せるのも、必要な部分だけならいい。でも、ネットに上げたり、ほかの人に配ったりはしないでください。俺の声なので」
「はい」
「それから、録音は、俺が部屋を出たところで止めてください。そのあとは、聞かないでほしい」
「分かりました」
「何か確かめたいことが出てきたら、メールをください。答えるかどうかは、そのとき決めます」
「はい」
透はすべて手帳に書いた。水城も書いていた。書き終えてから、透は声に出して読み上げた。三枝は最後まで聞いて、頷いた。
「それで」
三枝は時計を見た。六時五十五分だった。
「時間です」
三枝は伝票を取ろうとした。透が先に取った。三枝は少し迷ってから、手を引っ込めた。
「じゃあ、ごちそうさまです」
三枝は立ち上がって、ジャンパーの前を閉めた。
「お二人も、気をつけて。……もうちょっとだけ、って思ったら、一回やめてください。それだけです」
三枝は軽く頭を下げて、店を出ていった。
透はその背中が、エスカレーターの方へ曲がるまで見ていた。
---
その夜、三枝からメールが届いた。
音声のファイルが一つ。手書きのメモを撮った写真が何枚か。本文には一行だけ書いてあった。
〈約束した範囲で、使ってください。止めるのは、一時間三十六分のところです。俺が部屋を出たところです。〉
翌日の夕方、透と水城は区民センターの小さな部屋を借りた。
透は持ってきたノートパソコンを開いた。ファイルに表示された作成日は、二年前の秋だった。長さは一時間五十分ほど。
「三枝さんは、自分の携帯で録って、そのまま保管していたと言っていました。編集はしていないと」
透は言った。
「ファイルで分かるのは、表示されている日付と長さだけです。途中が切れていないかは、聞ける範囲を聞いて確かめるしかありません。それ以上のことは、僕には調べられません」
「はい」
水城はノートを開いた。
「聞く前に、決めておきたいです」
水城は言った。
「私たちは、もう三枝さんの話を聞いています。どこで何が起きるか知っている。だから、聞こえたことに、聞きたかったことを足してしまうかもしれない」
「はい」
「聞き取れないところは、聞き取れないと書く。それと」
「三枝さんが部屋を出たところで、止める」
「はい」
透は頷いた。
イヤホンを片方ずつ使った。最初から聞いた。
一時間ほどは、静かな会話だった。三枝の声。久世の声。ときどき、長い沈黙。その沈黙の中で、三枝が何かに返事をしていた。あいつが話していたのだろう、と透は思った。録音には、三枝と久世の声しか聞き取れなかった。
一時間十分を過ぎたあたりで、三枝の声が変わった。
息が荒くなっていた。
『……すみません』
三枝の声だった。
『気分が、悪くて。……もう、やめたいです。今日は、終わりにさせてください』
はっきりした声だった。
透は手を動かさなかった。水城がノートに時刻を書いた。
『分かりました』
久世の声だった。昨日、三枝が話したとおりの、穏やかな声だった。
『少し休みましょう。水を飲んでください』
コップを置く音がした。
しばらく、何も聞こえなかった。
『……ただ』
久世の声がした。
『ここでやめてしまうのは、少しもったいない気がします。さっき、大事なところに近づいていたでしょう。つらくなるのは、そこに何かがあるからかもしれない』
透は息を止めていた。
『休んで、落ち着いたら、もう一度だけ。……無理にとは言いません。三枝さんが決めてください』
沈黙。
三枝の息の音だけが聞こえた。
それから、何か小さな声がした。
透は巻き戻した。もう一度聞いた。
聞き取れなかった。はい、と言ったようにも聞こえた。言わなかったようにも聞こえた。
「……三枝さんは、はいと言ったと話していました」
水城が小さく言った。
「でも、ここは、聞き取れません」
「はい」
透は手帳に書いた。一時間十二分前後、本人の返事、聞き取れず。本人は「はい」と言ったと話す。
最初に聞いたとき、透の耳には「はい」と聞こえた気がした。昨日、三枝からそう聞いていたからだった。録音だけでは、そうとは言えなかった。
続きを聞いた。
椅子の動く音。窓を開ける音。誰かが階段を下りて、また上がってくる足音。
十五分ほどして、久世の声がした。
『では、始めましょうか。さっきの続きから』
三枝は、短く何か言った。それも聞き取れなかった。
会話が再開した。最初の十分ほどは、さっきと同じような調子だった。
それから、三枝の息がまた荒くなった。
『……だめだ』
三枝の声がした。
『すみません、無理です』
椅子が倒れるような音がした。
足音。扉の開く音。
『三枝さん?』
久世の声。
一時間三十六分。透は再生を止めた。
部屋の中が静かになった。
区民センターの廊下を、誰かが歩いていく音がした。
水城はノートから顔を上げなかった。
「ここまで、です」
透は言った。
「はい」
水城の声は、少しかすれていた。
透はイヤホンを外した。
久世の声が、まだ耳に残っていた。
穏やかで、丁寧で、相手を気づかう声だった。少し休みましょう。水を飲んでください。無理にとは言いません。三枝さんが決めてください。
どの言葉も、責めてはいなかった。脅してもいなかった。
それなのに、今聞くと、その一つ一つが出口の前に置かれているように聞こえた。やめたい、と言った人の前に。もったいない。大事なところ。そこに何かがある。もう一度だけ。
三枝は、やめたいと言った。
それは、あとから思い込んだことではなかった。録音の中で、三枝は自分の声ではっきりそう言っていた。
「朝倉さん」
水城が言った。
「私、久世さんの部屋で、同じことを言われました」
「はい」
「やめていい。でも、やめたくなるのには意味があることもある。休んで、落ち着いたら、もう一度」
水城はノートの上で、ペンを握り直した。
「あのとき、私、助かったと思ったんです。やめていいって言ってもらえたから。……後ろの半分を、ちゃんと聞いてなかった」
透は何も言わなかった。
透も、あのとき、頷きそうになった。
透は鞄から相談事例要約のファイルを出した。事例Fの頁を開いて、テーブルの真ん中に置いた。
一時休止の後、接触を再開。その後、睡眠と日常生活の安定が得られた。
隣に、自分の手帳を開いた。今聞いた時刻を、順に書き写した。
一時間十分過ぎ、本人「やめたい」「終わりにさせてください」。
久世「分かりました。少し休みましょう」。
久世「もったいない」「大事なところ」「もう一度だけ」「無理にとは言いません」。
本人の返事、聞き取れず。
約十五分の休憩。
再開。約十分後、本人「無理です」。退室。
水城は携帯で三枝の手書きメモを写した写真を開いた。日付、寝た時間、頭痛の有無が並んでいた。
「これも横に並べましょう。録音、三枝さんのメモ、要約。同じ出来事を同じ順番で」
「はい」
透は手帳の新しい頁に、縦に三本の線を引いた。
一番上に、それぞれ書いた。
録音。本人の記録。要約。
要約の欄の最初の行に、透は「一時休止」と書き写した。
その左の、録音の欄の同じ高さに、何を書くべきかはもう分かっていた。
本人「もう、やめたいです」。
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