鳴らない鐘
「おいで」
礼拝堂に重なった声が響いたあと、誰も動かなかった。
長椅子に座る人々は祭壇を見たまま、まるで最初からそこに置かれていた人形のように静止している。
ハヤトもすぐには中へ入らなかった。
「……あれ、本人たちが喋ってるよな?」
「口は動いてた」
セラが小声で答える。
「でも、全員同じ声に聞こえた」
「ああ」
男も女もいた。
声の高さまで違うはずなのに、さっきの一言だけは不自然なくらい重なっていた。
カイルが入口の石壁へ手を当てる。
「魔力が流れてる」
「建物全体?」
「いや……下だな」
指先で床を示した。
「地下?」
「多分」
カーン。
また鐘が鳴る。
音に合わせ、人々の身体がわずかに揺れた。
その瞬間、ハヤトの耳にも声が届く。
『ハヤト』
森で聞いたのと同じ。
懐かしい声。
『こっちにおいで』
「……しつこいな」
「聞こえてる?」
セラが隣を見る。
「ああ。でもさっきより平気」
「私も」
彼女にもまだ母親の声が聞こえているのだろう。
レグだけは少し違った。
祭壇を見つめたまま、眉を寄せている。
「レグ?」
「おかあさん、あそこ」
「祭壇?」
「うん」
一歩進もうとする。
ハヤトは持っていた縄を軽く引いた。
「一緒に行くぞ」
「うん」
止めるのではなく、四人で進む。
最初の長椅子。
誰もこちらを見ない。
二列目。
橋から消えた兵士がいた。
目は開いているが、焦点が合っていない。
「生きてるよね?」
セラが近くの男の首元へ指を当てる。
「脈はある。弱ってるけど、すぐ危ない感じじゃない」
「何日もここにいる人もいるはずだろ」
「水も飲んでないなら、かなりまずいよ」
助けるなら急いだ方がいい。
ただ、一人ずつ担ぎ出している間に自分たちまで同じ状態になれば意味がない。
「先に原因止めるか」
「それしかないな」
カイルが祭壇を見る。
古びた石台。
上には何もない。
宗教的な像も、供物も、鐘を鳴らすための道具も残っていなかった。
それなのに。
カーン。
音だけは確かに響く。
「上じゃない」
レグが言った。
「何が?」
「おと」
耳を澄ますように首を傾げる。
「した」
「下から?」
「うん」
やはり地下だ。
四人は祭壇へ近づく。
その途中で、長椅子の一つから手が伸びた。
「っ!」
ハヤトが反射的に剣へ手をかける。
掴まれたのは袖だった。
座っていた女がこちらを見ている。
いや。
目は合っていない。
「行かないで」
声だけが出る。
「……誰に言ってる?」
答えはない。
「行かないで」
また同じ。
その向こうでは別の男が呟き始めた。
「もうすぐ帰る」
別の兵士。
「待ってて」
商人らしい男。
「父さん」
「姉ちゃん」
「ここにいるよ」
ばらばらの言葉が礼拝堂に広がっていく。
聞いているだけで気分が悪くなる。
全員が、それぞれ違う誰かと話している。
「夢見てるみたい」
セラが呟いた。
「起きたまま?」
「多分」
ハヤトは袖を掴んでいた女の手をそっと外した。
「あとでちゃんと連れて出るから」
届いているかは分からない。
それでも言わずにはいられなかった。
祭壇まで来る。
カイルが周囲を調べ始めた。
「何かある?」
「待て」
祭壇の側面。
古い傷にしか見えない線の中に、小さな記号が混じっている。
カイルが埃を払った。
「……これ」
円。
三本の線。
中心が欠けた、見慣れ始めた印。
「またかよ」
ハヤトは思わず声を漏らした。
「この礼拝堂も遺跡と関係ある?」
「建物自体はもっと新しい」
「新しいって言っても古いけど」
「そういう意味じゃない。多分、元々ここに何かあって、その上に礼拝堂を建てたんだ」
「知らずに?」
「それは分からない」
カイルが祭壇の足元を調べる。
レグも横から覗き込んだ。
「ここ」
「何?」
「におい」
床の一角。
そこだけ石の色が少し違う。
ハヤトがしゃがんで叩く。
返ってくる音が軽い。
「空洞?」
「開きそうだな」
探すと、祭壇の裏に小さな金具があった。
「引く?」
レグが聞く。
「今回は俺がやる」
ハヤトが金具へ手を伸ばした。
「待て」
「何?」
「罠だったら?」
「じゃあカイルがやる?」
「何で俺になる」
「言い出したから」
「そういう理屈か?」
セラが呆れたように二人を見る。
「二人とも離れて、縄か何かで引けばいいでしょ」
「……」
「……」
「何?」
「一番まともだな」
「最初からそうして」
少し離れ、縄を金具へ引っかける。
ハヤトが引いた。
ごと。
床石が少し浮く。
罠らしい反応はない。
さらに引くと、石板が横へずれた。
下から冷たい空気が上がってくる。
「階段」
狭い石段が地下へ続いていた。
同時に鐘の音が一段大きくなる。
カーン。
長椅子の全員が、一斉に顔を上げた。
「……まずくない?」
セラが振り返る。
人々が立ち上がる。
一人。
二人。
次々と。
「何で今動くんだよ」
誰もこちらを見ていない。
それでも全員が祭壇へ向かって歩き始めた。
「下に行こうとしてる?」
カイルが入口を見る。
「いや、違う」
最初の一人がハヤトの前で止まった。
「どいて」
虚ろな目。
「下へ行くの?」
「会いに行く」
「誰に?」
「……妻に」
別の兵士が横へ来る。
「母さんに」
さらに一人。
「弟がいる」
皆、違う相手を口にする。
だが進もうとする先だけは同じだった。
地下。
「入れたら駄目!」
セラが叫ぶ。
「分かってる!」
ハヤトとカイルで祭壇前を塞ぐ。
問題は人数だった。
十人近い。
しかも本人たちは本気で進もうとしている。
「殴る?」
レグが聞く。
「なるべくなし!」
「でもくる」
「優しく止めて!」
「どれくらい?」
「怪我しないくらい!」
曖昧な指示だったが、レグは分かったらしい。
迫ってきた大柄な兵士の腰を掴み、そのまま持ち上げる。
「……」
兵士の足が宙で歩き続ける。
「なんか怖いなそれ」
「どこおく?」
「椅子!」
元の長椅子へ戻す。
座らせても、すぐ立とうとする。
「これきりないよ!」
セラが別の女性を押し戻しながら声を上げる。
「原因止めるしかない!」
「誰か一人ここに残る?」
「俺が残る」
カイルが言った。
「三人で下へ行け」
「一人で大丈夫?」
「これくらいならな」
カイルが近くの長椅子を引きずり、地下への入口を半分塞ぐ。
「それに、俺よりレグを連れていった方がいい」
「また反応するかもしれない?」
「ああ」
ハヤトは少し迷ったが、時間をかけている場合ではない。
「分かった。無理ならすぐ呼べ」
「行け」
ハヤト、セラ、レグの三人で地下へ降りる。
階段は十数段。
下には小さな石室があった。
「狭いね」
セラが灯りを掲げる。
壁一面に古い文字。
ここだけ明らかに礼拝堂より古い。
中央には柱のようなものが立っている。
「鐘?」
形は鐘に少し似ていた。
ただし金属ではない。
黒い石。
人の腰ほどの高さで、表面に無数の細い線が刻まれている。
カーン。
三人が同時に顔をしかめた。
間違いない。
音はこれから出ている。
「叩いてないのに鳴ってる」
「壊す?」
レグが聞く。
「待て」
ハヤトは周囲を見る。
壊して終わりなら簡単だ。
でも遺跡のものを適当に壊して、何度ひどい目に遭うか分からない。
「セラ、何か分かる?」
「私に古代遺跡は無理だよ」
「だよな」
レグが黒い柱へ近づく。
「レグ?」
「声、ここからする」
「お母さんの?」
「うん」
さらに一歩。
「触るなよ」
「さわらない」
今回はちゃんと止まった。
レグは柱をじっと見る。
「でも……」
「何?」
「おかあさんじゃない」
ハヤトとセラが顔を見合わせる。
「分かるの?」
「ちがう」
「どこが?」
レグは上手く言葉にできないようだった。
「声はおなじ。でも、ちがう」
ハヤトにも少し分かる気がした。
森で聞いた声は、確かに記憶にある声だった。
なのに会いたいと思えば思うほど、どこか薄っぺらい。
声だけを真似しているような。
「中身を知らない?」
セラが言った。
「え?」
「声は真似できるけど、その人が本当なら何を言うかまでは分からないんじゃない?」
ハヤトは思い出す。
自分を呼ぶ声はずっと「おいで」「帰っておいで」ばかりだった。
昔の思い出を話すこともない。
レグの母親も同じなのだろう。
「確かめられるか」
「どうやって?」
「本人しか知らないこと聞く」
「声に?」
「ああ」
馬鹿らしく見えるかもしれない。
それでも試す価値はある。
ハヤトは黒い柱を見る。
「俺が子供のころ、一番嫌いだった食べ物は?」
沈黙。
セラがこちらを見る。
「それ?」
「こういうのでいいんだよ」
しばらくして声がする。
『ハヤト』
「答えてない」
『おいで』
「やっぱりか」
何でもいいわけではないらしい。
レグも柱へ向く。
「おかあさん」
声が返る。
『レグ』
「レグに、これくれた?」
自分の胸元。
正確にはハヤトの荷物に入っている黒い石のことだろう。
返事はない。
『おいで』
レグの顔から迷いが消えた。
「ちがう」
「だな」
偽物だと分かれば、怖さはかなり薄れる。
「じゃあ止めよう」
「どうやって?」
ハヤトは柱の周囲を調べる。
根元。
壁。
床。
するとセラがしゃがみ込んだ。
「これ見て」
柱の裏側。
細い管のようなものが壁へ伸びている。
「新しくない?」
確かに。
黒い石自体は古い。
だが管を固定している金具は、ほかに比べて明らかに新しい。
「誰かが後から繋いだ?」
「多分」
管は壁の穴へ続いていた。
その横。
小さな留め具がある。
「これ外したら?」
「止まるかも」
「爆発するかも」
「そういうこと言わないで」
レグが管を覗き込む。
「においする」
「何の?」
「森の魔物」
三人の顔が変わった。
「エルナの?」
「うん。ちょっとだけ」
ハヤトは管を見る。
これでほぼ決まった。
自然に動き出した古代の仕掛けではない。
誰かが触っている。
最近。
「外すぞ」
セラが頷く。
「気をつけて」
「レグは少し下がって」
「レグがやる?」
「力はいらないやつだから俺がやる」
「そっか」
布を巻いて金具を掴む。
一度。
動かない。
もう少し力を入れる。
かち。
外れた。
管が黒い柱から離れる。
直後。
カーン――。
鐘の音が途中で途切れた。
完全な静寂。
「……止まった?」
セラが耳を澄ます。
声もない。
ハヤトを呼ぶ声。
レグの母親の声。
どちらも消えている。
「上!」
三人で階段を駆け上がる。
礼拝堂へ戻ると、人々は床や長椅子に倒れていた。
「カイル!」
「生きてる!」
カイルが一人の兵士を支えながら叫ぶ。
「急に全員力が抜けた」
「止めた!」
「何を?」
「あとで説明する!」
三人もすぐ救助に入る。
セラは一人ずつ状態を確認し、ハヤトとレグが横になれる場所へ運ぶ。
数分後。
最初の兵士が目を開けた。
「……ここは?」
「礼拝堂」
「俺……」
「声に呼ばれて来たんだと思う」
兵士は頭を押さえる。
「弟が……いた」
「本物じゃない」
「でも」
「分かってる。俺も聞いた」
それ以上は言わなかった。
本人にとっては、本物としか思えなかったのだろう。
次々と人が目を覚まし始める。
まだ弱っている者もいるが、全員生きている。
「よかった……」
セラがようやく息を吐いた。
ハヤトも少し安心した。
ただ、一つだけ引っかかる。
「カイル」
「何だ?」
「下に新しい管があった」
カイルの顔が変わる。
「古い装置に後から繋いでた。レグが、エルナの魔物と同じ匂いがするって」
「見せろ」
三人で再び地下へ降りる。
カイルは管を見るなりしゃがみ込んだ。
「……これ、古代のものじゃない」
「やっぱり?」
「ああ。作られて数年も経ってない」
「じゃあ誰かが、この鐘みたいなやつをわざと動かしてた」
「そうなる」
セラが表情を曇らせる。
「何のために?」
誰も答えられない。
カイルは管の先を追い、壁の穴へ灯りを向けた。
「まだ続いてる」
「どこまで?」
「壁の向こうだ」
その穴の周囲には、最近削った跡がある。
「掘った?」
「ああ」
ハヤトは昨日聞いた商人の話を思い出した。
東で誰かが古い遺跡を掘り返した。
ただの酒場の噂だと思っていた。
「これ、ここだけじゃないんじゃない?」
セラが言った。
カイルは何も答えない。
代わりに管の一部を持ち上げる。
そこに小さな刻印があった。
円。
三本の線。
そして。
円の外側に、一本だけ追加された線。
「……これ」
ハヤトも覚えている。
森の小屋で見つけた金属箱。
カイルたち六人が、危険なものに自分たちでつけていた印。
「お前らの印だよな?」
「ああ」
カイルの声が低くなる。
「でも俺はこんな管につけてない」
「じゃあ誰?」
答えはほとんど出ていた。
六人のうち、生きていると確認できているのは二人。
カイル。
そして。
「ヴァン……?」
セラが小さく名前を口にした。
カイルは刻印を見たまま動かなかった。
「まだ決めつけるな」
「でも」
「この印を知ってるのは、六人いた」
ハヤトはその言葉に引っかかった。
「……四人は死んだって確定してないんだったな」
「ああ」
カイルが立ち上がる。
「五年前、出てこなかった。それだけだ」
ヴァンが生きていた。
なら。
残りの四人も、本当に全員死んだとは限らない。
ハヤトは壁の奥へ続く細い管を見る。
東へ行くほど、見つかるものが増えている。
同時に。
五年前に消えたはずのものまで、少しずつこちらへ近づいているような気がした。




