呼ぶ声の向こう
「ハヤト?」
セラに呼ばれて、ハヤトはようやく息を吐いた。
握られた手に力が入っている。
「……聞こえた」
「誰の声?」
すぐには答えられなかった。
森の奥から、もう一度。
「ハヤト」
間違いない。
遠い記憶の中にある声だった。
この世界へ来てから、一度も聞くはずのなかったもの。
「家族?」
セラが小さく聞く。
「……うん」
それだけ答える。
誰なのかまで口にしたら、本当に森の中にいるような気がしてしまいそうだった。
「行くなよ」
カイルの声が後ろから飛んでくる。
「分かってる」
「本当に?」
「今の俺にその確認する?」
「さっきセラに同じこと言ってただろ」
「それはそうだけど」
少しだけ頭が冷えた。
森から声は続く。
今度は名前だけではない。
「こっちにおいで」
懐かしい声。
妙に優しい。
胸の奥を直接掴まれるような感覚がある。
ハヤトは森を見ないよう、前へ視線を戻した。
「セラ」
「うん」
「手、絶対離さないで」
「離さない」
短い返事だった。
前へ進む。
一歩。
二歩。
声はついてくる。
森の同じ場所から聞こえているはずなのに、歩いても距離が変わらない。
「カイル」
「何だ」
「これ、本当に音か?」
返事が少し遅れた。
「俺もそれを考えてた」
「どういうこと?」
セラが聞く。
「耳から聞いてる感じがしない」
「え?」
「森の音なら、距離や方向で少しは変わる。でもこれはずっと同じだ」
ハヤトも気づく。
確かにおかしい。
木々の間から聞こえているように感じるだけで、響き方がまるで変わらない。
「頭の中?」
「その可能性はある」
レグは何も言わず歩いていた。
ハヤトが振り返る。
「レグは?」
「まだ、きこえない」
「何も?」
「うん」
少し安心した。
だが、その直後だった。
レグの足が止まる。
「……」
「レグ?」
耳を澄ますように顔を上げる。
「きこえた」
ハヤトの胸がざわつく。
「誰?」
レグは森の右側を見た。
「……おかあさん」
全員の表情が変わった。
「レグ、こっち見て」
ハヤトがすぐ声をかける。
しかしレグは森を見たまま動かない。
「おかあさん」
もう一度呟く。
足が半歩、街道の外へ出た。
「レグ」
今度はセラが名前を呼ぶ。
反応がない。
「おいで、っていってる」
「行っちゃ駄目」
「でも」
「昨日思い出した声と同じ?」
セラが聞く。
レグが迷う。
「……わかんない」
「だったら余計に行かないで」
「でも、おかあさんかも」
その一言が痛かった。
レグにとっては、ようやく少し思い出した母親だ。
追いたくなるのは当然だろう。
ハヤトはレグの前へ回った。
「レグ」
「ハヤト、じゃま」
「邪魔する」
「おかあさんいる」
「いるかもしれない。でも、今聞こえてる声が本物かは分からない」
「……」
「もし本当にレグのお母さんなら、森の中へ一人で呼び込んだりしないだろ」
レグがハヤトを見る。
「ほんと?」
「俺ならそう思う」
セラも隣へ来る。
「それに、探すなら私たちも一緒に探すよ」
「いっしょ?」
「うん。だから一人で行かない」
レグはもう一度森を見る。
声はまだ聞こえているのだろう。
少し苦しそうに眉を寄せた。
それでも、街道へ戻った。
「……いかない」
「よし」
ハヤトが頭へ手を伸ばしかけて止める。
今は人の姿だ。
昔のように小竜の頭を気軽に撫でる感覚でやると、何となく違う気がした。
代わりに肩を軽く叩く。
「一緒に行こう」
「うん」
カイルが自分の荷物を探り始めた。
「念のため、これ使うぞ」
取り出したのは細い縄だった。
「縛るの?」
「違う。全員で持つ」
「なるほど」
一本の縄を四人で持つ。
誰かが急に森へ向かっても、残りが気づける。
「子供の遠足みたい」
セラが言う。
「遠足でこんなことしないだろ」
「ハヤトのいたところでは?」
「しない」
「そうなんだ」
「何を期待してたの?」
ほんの少し空気が軽くなる。
それでも声は消えない。
歩くほどに、内容が変わっていった。
「ハヤト」
「帰っておいで」
「待ってるよ」
聞くたびに胸が痛む。
帰る。
その言葉だけは、今まで考えないようにしていた。
この世界に来てから、元の世界へ戻る方法など一度も見つかっていない。
それでももし、今そこに道があると言われたら。
「……卑怯だな」
ハヤトが呟く。
「何が?」
「一番聞きたい言葉を使ってくる」
セラがこちらを見る。
何か聞きたそうだったが、何も言わなかった。
代わりに握った縄を少し持ち上げる。
「こっちにいるよ」
「ん?」
「今は」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
「そうだな」
また歩く。
鐘の音が近づいている。
カーン。
今度ははっきりしていた。
「このまま街道進んでるのに近づいてない?」
セラが言う。
「ああ」
カイルが前方を見る。
「礼拝堂が街道の近くにある可能性もある」
「でも老人は東の森って言ってたよね」
「村から見れば、だろ」
確かに位置関係はまだ分からない。
さらに進んだところで、レグが突然止まった。
「ひと」
「声?」
「ちがう」
前方を指す。
「そこにいる」
雨上がりの湿った道。
少し先の木陰。
人影があった。
一人。
背中を向けて立っている。
「兵士?」
装備を見る限り、橋にいた兵たちと同じだ。
「おい!」
ハヤトが呼ぶ。
反応がない。
「聞こえてない?」
近づく。
十歩。
五歩。
そこで異様なことに気づいた。
兵士は立っているのではない。
歩いている。
その場で。
足だけを動かし、前へ進もうとしている。
「……何してるの?」
セラが息を呑む。
ハヤトが兵士の肩へ触れる。
「おい!」
「――母さん」
小さな声。
「え?」
「もうすぐ帰るから」
兵士の目は開いている。
だが、ハヤトを見ていない。
「完全にかかってるな」
カイルが反対側へ回る。
「どうすればいい?」
「まず街道から離す」
両側から腕を掴む。
「せーの」
引っ張る。
兵士の身体は簡単には動かなかった。
前へ進もうとする力が強い。
「結構力あるぞ」
「レグ」
「うん」
レグが腰のあたりを掴む。
「待って、優しくな!」
「わかってる」
次の瞬間、兵士の身体が浮いた。
「優しくって言ったけど!」
「優しくもった」
「持ち上げるとは思わなかった!」
レグはそのまま兵士を街道の端へ運ぶ。
地面へ下ろすと、まだ足を動かそうとしていた。
「セラ」
「やってみる」
セラが兵士の額へ手を当てる。
淡い治癒の光。
しばらくして首を横に振った。
「怪我じゃない。治癒じゃどうにもならないみたい」
「じゃあどうする」
「意識を戻すしかない」
ハヤトは兵士の肩を揺らす。
「おい! 起きろ!」
「母さん……」
「母さんじゃない!」
反応なし。
「もっと強く?」
「殴るのは最後にしよう」
セラに止められる。
「水は?」
カイルが水筒を差し出した。
「顔にかける?」
「やってみよう」
水を少し。
変化なし。
もう少し。
「母さ――ぶっ!」
兵士がようやく顔をしかめた。
「……冷たっ!」
「戻った!」
ハヤトが声を上げる。
兵士が目を瞬く。
「ここ……」
「分かる?」
「誰だ、お前ら……」
「それはあと。名前は?」
「ロイ……」
「橋の守備兵?」
「ああ」
少なくとも受け答えはできる。
「何があった?」
ロイは周囲を見回した。
そして一気に青ざめる。
「俺、なんでここに……」
「覚えてない?」
「橋を渡って……獣を追って……」
頭を押さえる。
「そのあと、母さんの声がした」
「やっぱり」
「母さんは王都にいる。分かってた。でも……」
兵士の呼吸が荒くなる。
「行かなきゃって思った。母さんが困ってるって」
「ほかの兵は?」
「一緒だった」
「どこ?」
「……分からない」
カイルが地面を調べている。
「足跡がある」
街道から森へ。
一人分ではない。
「何人?」
「少なくとも四人」
「じゃあ残りも森の中?」
セラが聞く。
「可能性は高い」
ロイも立ち上がろうとする。
「俺も――」
「待て」
ハヤトが止める。
「今戻ったばっかりだろ」
「仲間がいるんだ!」
「分かってる。でもまた声に引っ張られたらどうする」
「……」
「橋まで戻れる?」
ロイは来た道を見る。
距離はあるが、一本道だ。
「ああ」
「一人で大丈夫?」
「多分」
「多分じゃ困るな」
カイルが考える。
「ここから橋までなら、俺が送る」
「カイル?」
「四人全員で森に入る必要はない。俺はこの辺りの痕跡を一度見た。戻ってもまた追える」
「でも」
「その兵士を一人で返す方が危ない」
正しい。
ハヤトは少し迷ったあと頷く。
「分かった」
「すぐ戻る」
「無理すんなよ」
「それはこっちの台詞だ」
カイルとロイが橋へ戻る。
残った三人は街道脇で待つことにした。
「森入らない?」
レグが聞く。
「カイル戻るまで待つ」
「うん」
今は焦らない。
声もまだ続いている。
けれど、さっきより少しだけ耐えやすくなっていた。
仕組みがある。
自分だけが聞いているわけではない。
そう分かっただけでも違う。
「ハヤト」
セラが小さく呼ぶ。
「何?」
「さっきの声……家族なんだよね」
「ああ」
「帰りたい?」
聞かれるとは思わなかった。
ハヤトは少し考える。
「……分からない」
正直な答えだった。
「前なら、帰れるなら帰るって即答したと思う」
「今は?」
レグもこちらを見る。
「今は、帰るって言われても困る」
「なんで?」
レグが聞く。
「こっちにもいるから」
「なにが?」
ハヤトはレグを見る。
その隣のセラを見る。
「大事なもの」
言ったあと、少し恥ずかしくなった。
「……なんか格好つけたな」
「自分で言わなければよかったのに」
セラが笑う。
「今のなし」
「もう聞いた」
「忘れて」
「嫌」
「朝と逆じゃん」
「そうだね」
セラはまだ笑っていた。
レグは少し考えたあと、ハヤトの袖を掴む。
「レグもいる」
「ああ」
「セラも」
「いるな」
「カイルも」
「一応」
「クロも」
「そうだな」
指折り数えるように言う。
「いっぱい」
「いっぱいだな」
森から聞こえる声が、またハヤトを呼ぶ。
それでも今度は振り向かなかった。
しばらくしてカイルが戻る。
「兵士は橋まで送った。向こうで休ませてる」
「ありがと」
「で、どうする?」
ハヤトは森へ続く足跡を見る。
「残りを探す」
「だと思った」
「ただし全員縄持ったまま」
「賛成だ」
四人で森へ入る。
足跡ははっきり残っていた。
雨で地面が柔らかくなっている。
森の中へ入ると、鐘の音がさらに大きくなる。
カーン。
カーン。
「近い」
セラが言う。
「声も?」
「まだする」
「レグは?」
「する」
全員が聞こえている。
カイルも無言なので、おそらく同じだ。
「カイルは誰の声?」
ハヤトが聞く。
「今それ聞くか?」
「ちょっと気になった」
「あとでだ」
「じゃあ覚えとく」
「忘れろ」
それ以上は聞かなかった。
足跡を追う。
やがて森の奥に、石造りの建物が見えてきた。
「……あれ?」
小さな礼拝堂。
老人が話していたものだろう。
屋根の一部は崩れ、壁には蔦が這っている。
そして確かに、鐘楼がある。
ただ。
「鐘ないよね?」
セラが見上げる。
空っぽだった。
何十年も前に外されたという話は本当らしい。
それでも。
カーン。
鐘の音はそこから響いていた。
「嫌な感じだな」
ハヤトが呟く。
レグが礼拝堂を見たまま鼻を動かす。
「ひと、いる」
「何人?」
「いっぱい」
「兵士?」
「わかんない」
クロがいないので、レグだけが頼りだ。
入口の扉は半分壊れていた。
その前に、足跡が集中している。
「ここに入った?」
「そう見える」
カイルが剣へ手を伸ばす。
ハヤトも同じように構えた。
「セラ、後ろ」
「分かった」
「レグは勝手に先行かない」
「うん」
扉へ近づく。
中は暗い。
古い長椅子が並び、奥には崩れた祭壇が見える。
そして。
その長椅子に、人が座っていた。
一人。
二人。
三人。
もっといる。
兵士。
旅人。
商人らしき男。
全員が同じ方向を見ている。
祭壇。
誰一人、こちらへ振り返らない。
「……何してるんだ?」
ハヤトが小さく呟く。
カーン。
また鐘が鳴る。
その瞬間。
座っていた全員が、同時に口を開いた。
「おいで」
声が重なった。
男も女も。
違う声のはずなのに。
その一言だけが、まったく同じ響きだった。




