帰らない道
宿場の男に詳しく話を聞くと、橋が閉じられたのは昨日の昼過ぎからだという。
最初は、東から来た旅人が「橋の近くで大きな魔物を見た」と騒ぎ始めただけだった。
守備兵が確認に向かい、一度は戻ってきた。
問題はそのあとだった。
「兵が二人、橋を渡ったんだ」
「魔物を追って?」
「そう聞いてる。向こう岸の林に逃げ込んだらしくてな」
男は宿の軒下で雨を眺めながら続ける。
「それから戻らない。それで別の兵が三人行った。そいつらも戻ってこなかった」
「五人?」
セラが眉を寄せる。
「ああ。さすがにおかしいってんで橋を閉じたんだが、その前に渡ってた旅人も何人かいる。そいつらも誰一人戻ってない」
「東へそのまま行っただけじゃ?」
ハヤトが聞く。
「普通ならな。でも向こうにある村まで半日もかからん。昨日から伝令を飛ばしてるのに、村から返事がない」
カイルの表情が少し険しくなった。
「村の名前は?」
「ノルド。小さい村だよ」
カイルが地図を取り出す。
橋を越え、街道を東へ進んだ先。
確かに小さな村の印がある。
「修道院跡へ行くなら通る?」
ハヤトが尋ねる。
「この道ならな」
「迂回した場合は?」
「北へ回って川を越える。二日は余計にかかる」
「二日か……」
急いでいるわけではない。
だが、問題は時間ではなかった。
「ノルド村に何か起きてるなら、迂回したところで放っておけないよね」
セラが言う。
「だよな」
レグは外の雨を見ている。
「いま、いく?」
「今日は行かない」
ハヤトがすぐ答える。
「暗いし、この雨。橋の先で何があるか分からないのに突っ込むのはなし」
「うん」
最近のレグは、こういう判断に素直に頷くようになった。
少し前なら、とりあえず見に行こうとしていたかもしれない。
いや。
それは自分も同じか。
「成長したな」
「なにが?」
「こっちの話」
宿を取る。
人が集中しているだけあって空いている部屋は少なかったが、どうにか一室確保できた。
クロは馬小屋の端を借りられた。
最初は宿の主人に嫌な顔をされたものの、リーネで使った獣舎の札を見せ、レグの言うことを聞くところを実際に見てもらうと、渋々ながら許可が出た。
「クロ、ここ」
干し草の上に座るクロへ、レグが毛布を一枚敷く。
「寒くない?」
尾が動く。
「へーきって」
「お前、そのうち何でも分かるって言い始めそうだな」
カイルが言う。
「わかるよ」
「もう言ってた」
ハヤトが笑う。
宿の食堂は混んでいた。
橋を渡れず足止めされた商人や旅人ばかりで、あちこちから同じ話が聞こえてくる。
魔物を見た。
声を聞いた。
橋の向こうに霧が出ていた。
人影がいた。
噂は増えているが、内容はばらばらだった。
「どこまで本当なんだろ」
セラが温かいスープを飲みながら周囲を見る。
「こういうのは半分くらいで聞いた方がいい」
カイルが答える。
「半分?」
「誰かが『大きな獣を見た』と言えば、次は『巨大な魔物』になる。その次には『十匹いた』になる」
「じゃあ霧も?」
「天気見ろ」
窓の外は大雨だった。
「普通に出てもおかしくない」
「確かに」
ハヤトはパンをちぎりながら、少し離れた席を見る。
一人の老人が酒を飲んでいた。
さっきから周りの話には入らず、一人で食事をしている。
ただ、時折こちらを見ている気がする。
「なあ」
「何?」
「後ろの爺さん、ずっとこっち見てない?」
セラが振り返ろうとする。
「そのまま見んなって」
「じゃあどうやって確認するの」
「自然に」
「自然にって?」
「知らないけど」
「ハヤトが言ったんでしょ」
結局、レグが普通に振り返った。
「みてる」
「お前は迷いないな」
老人と目が合った。
すると向こうが杯を置き、こちらへ歩いてきた。
「明日、橋へ行くのか?」
いきなりだった。
「そのつもりだけど」
「やめとけ」
またそれか。
「何か知ってるんですか?」
セラが丁寧に尋ねる。
老人は空いている椅子を指す。
「座っていいか」
「どうぞ」
腰を下ろすと、老人は声を少し落とした。
「俺はノルドの者だ」
四人の表情が変わる。
「村から来た?」
「ああ」
「いつ?」
「三日前だ」
橋に異変が起きる前。
「じゃあ村はその時点では普通だった?」
「普通だった……と言いたいがな」
老人は少し迷った。
「一週間ほど前から、変なことが起きてた」
「どんな?」
「夜になると森から音がする」
ハヤトは少し肩の力を抜く。
それだけなら珍しくない。
だが老人は続けた。
「鐘だ」
「鐘?」
「村の東に古い礼拝堂がある。もう何十年も使ってない。鐘もとっくに外されてる」
「なのに鳴る?」
「ああ」
カイルの手が止まった。
「礼拝堂の名前は?」
「名前なんてない。昔は修道院の一部だったって話だが」
「修道院?」
ハヤトがカイルを見る。
カイルもこちらを見た。
「俺が行こうとしてる修道院とは別だ。ただ……」
「関係あるかもしれない?」
「まだ分からん」
老人が怪訝そうに二人を見る。
「何か知ってるのか?」
「こっちも調べてる途中」
ハヤトが答えた。
「鐘が鳴り始めて、村で何か変わった?」
「ああ」
家畜が怯えるようになった。
夜になると犬が一斉に東を向いて吠える。
森に入った猟師が、道に迷うことも増えた。
「慣れた森なのに?」
セラが聞く。
「そうだ。それも妙な話でな。真っ直ぐ歩いてたはずなのに、気づけば同じ場所へ戻ってるって」
「迷わせる魔術?」
「可能性はある」
カイルが答える。
「でも、広い範囲で維持するなら相当な魔力が要る」
老人はさらに続けた。
「俺が村を出た翌日、東の森を調べに行くって若い連中が話してた」
「何人?」
「三人」
「帰ったかは?」
「分からん。俺はそのままリーネへ荷を取りに行った」
そして戻ろうとしたところで橋が閉じられた。
「村へ帰りたい?」
「当たり前だ」
「じゃあ明日一緒に――」
「いや」
老人は首を横に振った。
「俺は戦えん。お前たちの足を引っ張る」
「なら宿場で待ってて」
「ああ。そのつもりだ」
老人は立ち上がりかけ、ふと止まった。
「一つだけ」
「何?」
「鐘が聞こえても、追うな」
ハヤトは眉を寄せた。
「どういう意味?」
「最初に聞いた夜、俺も音のする方へ行こうとした」
「行ったの?」
「途中までな」
老人の顔から少し血の気が引いた。
「誰かに呼ばれた」
「人?」
「声だけだ」
「何て?」
老人は答えるまで少し間を置いた。
「俺の女房の声だった」
セラが黙る。
「奥さんは?」
「十二年前に死んだ」
食堂の喧騒が急に遠くなったような気がした。
「聞き間違いじゃ?」
「そう思いたかった」
老人は小さく笑った。
「声は東の森からした。名前を呼ばれて、来てくれってな。気づいたら村を出てた」
「途中で戻れた?」
「犬が噛んだ」
「犬?」
「飼ってる老犬だ。裾に噛みついて、何度引っ張っても離さなかった。それで我に返った」
老人は自分の脚を軽く叩く。
「翌朝、森へ続く俺の足跡を見た。あと少し歩いてたら、どうなってたか分からん」
話し終えると、老人は今度こそ自分の席へ戻った。
四人はしばらく黙っていた。
レグが先に口を開く。
「こえ、にせもの?」
「多分な」
ハヤトはスープを見る。
「人を森に誘い込んでる?」
「そう考えるのが自然だね」
セラが言う。
カイルだけは何か考えている。
「知ってる?」
「似た現象なら」
「また遺跡?」
「いや。魔物だ」
三人が見る。
「人の記憶から声を拾って、誘う種類がいる」
「そんなのいるの?」
「ああ。ただ珍しい。それに普通は一人を誘う程度で、橋の先全体がおかしくなるほどのことはできない」
「じゃあ今回とは違う?」
「断定はできない」
カイルは少し考えてから続けた。
「魔物が一匹いるのか。何か別の仕掛けがあるのか。あるいは両方か」
「明日行けば分かるか」
「そうだな」
その夜は早めに休んだ。
酒は飲まなかった。
セラが瓶を見ただけで「今日は絶対飲まない」と言ったので、ハヤトも笑って頷いた。
「レグも?」
「レグもなし」
「ちょっとだけ」
「なし」
「ドラゴンなのに」
「その言葉便利に使うなよ」
カイルが布団の向こうで笑った。
翌朝。
雨は上がっていた。
空にはまだ厚い雲が残っているが、街道を歩くには問題ない。
クロを連れ、一行は橋へ向かう。
宿場から一時間ほど。
道が緩やかに下り始めると、大きな川が見えた。
「でかいな」
想像していたより幅がある。
橋も立派だった。
石造りで、荷馬車が二台すれ違えるくらい広い。
手前には簡易的な柵が置かれ、兵が四人立っている。
「止まれ!」
近づくとすぐ声をかけられた。
「橋は封鎖中だ!」
「分かってる。状況を見に来た」
「冒険者か?」
「まあ、そんな感じ」
「感じって何」
セラが小さく突っ込む。
事情を話す。
エルナの森で異常な魔物を見たこと。
東へ向かう途中であること。
ノルド村の話を聞いたこと。
カイルが遺跡を調べていることまでは伝えた。
兵たちは迷ったが、最終的に一番年上の男が口を開いた。
「渡るのを止める権利まではない。ただし、こっちから人は出せない」
「分かってる」
「戻ってきた兵はいない?」
「一人もだ」
「魔物を見たって話は?」
「最初に報告した旅人は、大きな獣だったと言ってる。だが形まではよく見てない」
「橋の上で襲われた?」
「いや。向こう岸だ」
兵が指す。
橋の先。
百歩ほど向こうに街道が続き、その左右には深い森が広がっている。
「向こう岸までは見えるんだな」
「ああ。だが妙なんだ」
「何が?」
「渡った連中が、途中までは見える」
兵の顔が曇る。
「森へ入るわけじゃない。街道をそのまま歩いてる。それなのに……」
「消える?」
「そうだ」
橋から見える範囲で。
ただ歩いているだけの人間が、途中で見えなくなる。
「霧?」
「昨日は晴れてた」
ハヤトは橋の向こうを見る。
今は何もない。
普通の道だ。
木々も見える。
人影も魔物もない。
「レグ、何か匂う?」
レグが鼻を動かす。
「……へん」
「やっぱり?」
「でも、森の魔物とちがう」
「クロは?」
黒い獣は橋の手前で止まっていた。
耳を伏せ、向こう岸を見ている。
「嫌がってる?」
セラがしゃがむ。
クロは一歩も前へ出ない。
「珍しいな」
エルナの地下へ戻るときですら、ここまで明確に拒むことはなかった。
レグがクロの横へしゃがむ。
「クロ、いかない?」
低い唸り声。
「いきたくないって」
「ならクロはここに置いていこう」
ハヤトが言う。
レグは驚いたように顔を上げた。
「いっしょじゃない?」
「嫌がってるのを無理に連れていく必要ないだろ」
「……うん」
少し寂しそうではある。
それでもレグはクロの頭を撫でた。
「ここでまってて」
クロは動かない。
兵に預かってもらえることになり、四人だけで橋へ向かう。
「本当に行くのか?」
兵が聞いた。
「ああ」
「声が聞こえても追うな。昨日戻った旅人が一人だけいる」
「戻った人いるの?」
ハヤトが振り返る。
「橋を渡る前に逃げ帰ったんだ。死んだ母親に呼ばれたと言ってた」
老人と同じ。
「分かった」
四人は橋へ足を踏み入れた。
川の音が近くなる。
昨日の雨で水量が増え、濁った水が勢いよく流れている。
橋の中央まで来ても何も起こらない。
「普通だね」
セラが言う。
「ああ」
レグは少し落ち着かないようで、何度も向こう岸を見ている。
「何か聞こえる?」
「まだ」
橋を渡り切る。
石から土の道へ。
一歩。
二歩。
三歩。
「……何もないな」
ハヤトが言った、そのとき。
どこか遠くで音がした。
カーン。
小さな鐘の音。
全員が止まる。
「聞こえた?」
「うん」
セラが頷く。
もう一度。
カーン。
森の奥。
東。
「追うなって言ってたな」
カイルが呟く。
「追わない。街道行こう」
四人は道を進む。
鐘は続いている。
一定ではない。
忘れたころに一度だけ鳴る。
百歩ほど進んだ。
まだ兵たちの姿は見える。
二百歩。
橋が少し遠くなる。
三百歩。
その辺りだった。
「ハヤト」
セラが突然、腕を掴んだ。
「何?」
「今……」
顔色が変わっている。
「どうした?」
セラは森の左側を見ていた。
「声がした」
「誰?」
返事がない。
「セラ?」
「……お母さん」
ハヤトの背中に冷たいものが走った。
カイルもすぐ周囲を見る。
「無視しろ」
「分かってる」
セラは答えた。
だが、森からまた声がしたらしい。
ハヤトには聞こえない。
レグにも届いていないようだった。
「セラ」
ハヤトが肩へ手を置く。
「俺見て」
「……うん」
「行かないぞ」
「分かってるって」
返事はしっかりしている。
それでも足が少しだけ森の方へ向いていた。
ハヤトが身体ごと街道へ戻す。
「手、貸して」
「え?」
「念のため」
少し迷ったあと、セラがハヤトの手を掴んだ。
「絶対離すなよ」
「うん」
「カイルとレグも、何か聞こえたら言え」
「分かった」
「うん」
再び歩き始める。
鐘の音。
川の音はもう遠い。
木々が街道の上まで枝を伸ばし、朝なのに少し暗くなっている。
そのとき。
今度はハヤトにも聞こえた。
「――ハヤト」
足が止まりかける。
知っている声だった。
この世界では、一度も聞いたことがない声。
ずっと前。
もっと遠い場所で聞いていた声。
「……嘘だろ」
「ハヤト?」
セラがこちらを見る。
森の中から、もう一度。
「ハヤト」
日本にいるはずの人間の声が、自分の名前を呼んでいた。




