温泉回
温泉町リーネへ入った瞬間、ハヤトは思わず足を止めた。
街道から見えていた白い湯気は、町の中ではさらに濃い。石造りの水路には温かな湯が流れ、店先では卵を籠ごと沈めている。鼻を抜ける独特の匂いまで含めて、記憶の中にある温泉街そのものだった。
「……あるじゃん」
「何が?」
セラが隣から覗き込む。
「温泉街」
「だから温泉の町だって聞いてたでしょ」
「そうじゃなくて。雰囲気がちゃんと温泉なんだよ」
「さっきから言ってる意味がよく分かんない」
レグはすでに別のものを見ていた。
「たまご」
「そっち見つけるの早いな」
湯気の立つ籠をじっと眺めている。
「たべる?」
「宿取ってからな」
「いまでもいい」
「荷物持ったまま食うの?」
「もてる」
「そういう問題じゃないんだよ」
いつものやり取りをしながら宿を探す。
クロについては、町の入口で少し揉めた。
案の定、大型の魔獣をそのまま連れて入れるのは難しいらしい。ただ事情を説明すると、入口近くにある旅人用の獣舎を使わせてもらえることになった。
「クロ、ここでまつ?」
レグが心配そうに覗き込む。
屋根もあり、水もある。馬や荷運び用の獣とは場所を少し離してもらったので、クロも落ち着いていた。
「風呂入って飯食ったら見に来よう」
「すぐ?」
「すぐ」
クロが鼻先をレグの手へ押しつける。
「だいじょうぶって」
「もう完全に会話してるな」
カイルが呟く。
「分かるようになった?」
レグが聞く。
「いや、全然」
「まだまだ」
「何で上からなんだ」
宿は町の中心から少し外れたところに取った。
木造二階建ての大きな建物で、裏手には露天風呂まであるらしい。
受付の女性が説明する。
「お風呂は一階の奥です。男湯が右、女湯が左。夜までは露天も使えますので」
「露天」
ハヤトの声に力が入った。
セラが横を見る。
「そんなに?」
「外の風呂だぞ?」
「知ってるよ」
「最高じゃん」
「まだ入ってないから」
荷物を部屋へ置いたところで、ハヤトはさっそく着替えを取り出した。
カイルが呆れたように見る。
「飯より先か?」
「当たり前だろ」
「腹減ってないのか?」
「減ってる。でもまず風呂」
「珍しくレグより食い気が負けてるな」
「おふろのあと、ごはん?」
レグが反応する。
「そう」
「じゃあ、おふろいく」
「目的違うけどまあいいか」
四人で一階まで降りる。
廊下の突き当たりには二つの暖簾が下がっていた。
右が男。
左が女。
「じゃああとで」
セラが左へ向かう。
レグも当然のようについていこうとして――途中で止まった。
「どっち?」
「え?」
「レグ、どっちいく?」
三人が一瞬黙った。
「女湯」
セラが即答した。
「なんで?」
「今は女の人の姿だから」
「りゅうのときは?」
「そのときは風呂に入れないと思う」
「なんで?」
「大きさの問題かな……」
「今はこっちでいいだろ」
ハヤトが言うと、レグは女湯の暖簾を見る。
「ハヤトは?」
「男湯」
「いっしょじゃない?」
「今日は別」
「なんで?」
「それは……」
ハヤトが詰まる。
セラが半眼になった。
「ハヤト、ちゃんと説明して」
「いや俺!?」
「レグに男女の風呂の違い説明するの嫌なの?」
「俺が説明したら余計ややこしくなるだろ!」
「それはそうかも」
「認めるなよ!」
カイルが横で肩を震わせている。
「笑ってんなよ」
「いや、面白くてな」
「お前説明しろ」
「断る」
結局セラがレグの背中を押した。
「とにかく今日は私と入ろ」
「うん」
「中で説明するから」
「なにを?」
「……いろいろ」
女湯へ消えていく二人を見送り、ハヤトは深く息を吐いた。
「大変だな」
カイルが言う。
「お前他人事だと思ってるだろ」
「他人だからな」
「そうだった」
男湯へ入る。
服を脱ぎ、身体を流し、いよいよ露天へ出る。
「……あぁー」
湯に肩まで浸かった瞬間、勝手に声が出た。
身体中から力が抜ける。
何日分溜まっていたのか分からない疲れが、湯の中へ溶けていくようだった。
「生き返る……」
「老人みたいだな」
少し離れたところでカイルも湯に入る。
「お前も顔緩んでるぞ」
「俺は普通だ」
「いや、絶対気持ちいい顔してる」
「見るな」
「見てないよ」
露天風呂は木の壁で二つに仕切られていた。
向こう側が女湯らしい。
声はほとんど聞こえないが、時折水音だけがする。
「いいなあ……」
「何が?」
「こういう旅ならずっとできる」
「遺跡の話どこ行った」
「今日は忘れる」
「切り替え早いな」
「カイルも忘れろよ」
「五年追ってるものを温泉一回で忘れられるか」
「真面目だな」
「お前が緩みすぎなんだ」
そのころ。
女湯では、セラが別の意味で疲れていた。
「レグ、待って。まず身体洗うの」
「なんで?」
「そのまま湯船入ったら駄目だから」
「きれいだよ」
「そういうことじゃないの」
レグは椅子に座り、自分の腕を見る。
「どこあらう?」
「全部」
「ぜんぶ?」
「うん」
「たいへん」
「普段どうしてるの……」
「かわ」
「川?」
「はいって、ばしゃばしゃする」
「……今日はちゃんと洗おうね」
「うん」
しばらくして二人も露天へ出た。
レグは湯船へ片足を入れ、すぐ引っ込める。
「あつい」
「ゆっくり入れば大丈夫」
「セラ、はいってる」
「慣れたら気持ちいいよ」
「ほんと?」
「ほんと」
恐る恐る入り、腰まで浸かる。
少し止まる。
さらに肩まで。
「……」
「どう?」
レグの表情がゆっくり緩んだ。
「これ、いい」
「でしょ?」
「あったかい」
「温泉だからね」
「ずっとはいってていい?」
「のぼせるから駄目」
「なんで?」
「また説明増えた……」
セラが笑う。
レグは湯の中で手を伸ばし、表面をぱしゃぱしゃ叩いていた。
「静かにね」
「うん」
返事をした直後。
「ハヤトいる?」
突然、大きな声を出した。
仕切りの向こう。
男湯でハヤトの肩が跳ねる。
「いるよ!」
「いた」
女湯からレグの声がする。
カイルがハヤトを見る。
「返事するんだな」
「呼ばれたからだろ」
「ハヤト!」
「何ー?」
「おんせん、いい!」
「だろー!」
向こうからセラの声が飛んだ。
「二人とも大声で話さない!」
「はい!」
反射的に返事をする。
カイルが堪えきれず笑った。
「何だよ」
「お前、セラに弱いな」
「違う。今のは普通に怒られたから」
「ハヤトー!」
またレグ。
「今度は何!」
「ごはんまだ?」
「風呂出てから!」
「わかった!」
「だから大声やめなって!」
向こう側でセラが何か言っている。
ハヤトは湯船へ沈みながら笑った。
「平和だな」
「昨日まで地下で魔物と戦ってたとは思えんな」
「だからいいんだよ」
しばらく静かな時間が続いた。
風が気持ちいい。
湯気の向こうに空が見える。
ハヤトが目を閉じた、そのときだった。
向こう側から、妙な音がした。
ごと。
「……ん?」
何か木がずれたような音。
続いてセラの声。
「レグ、それ触っちゃ――」
ばき。
嫌な音だった。
ハヤトとカイルが同時に目を開ける。
「今の何?」
「知らん」
仕切りの上部が、わずかに揺れた。
「おい」
「まさか」
ばきばき、と音が続く。
「レグ!?」
ハヤトが叫んだ瞬間。
男湯と女湯を隔てていた木の仕切りが、大きく傾いた。
「うわっ!」
カイルが湯の中で後ろへ下がる。
ハヤトも反射的に顔を逸らした。
「待て待て待て!」
完全に倒れる寸前。
向こう側からレグの声がする。
「とれた」
「取るな!!」
セラの叫びが温泉中に響いた。
「レグ! 戻して!」
「どこ?」
「元のところ!」
「おもい」
「絶対嘘!」
「ほんと」
「片手で持ってるでしょ!」
ハヤトは仕切りを見ないよう、壁の方へ顔を向ける。
「カイル」
「何だ」
「見るなよ」
「言われなくても見ん!」
二人とも不自然なくらい壁を見ていた。
向こうではセラが必死にレグへ指示している。
「そこ! その溝に入れて!」
「ここ?」
「違う! そっちは――」
がこん。
仕切りが元に戻った。
静寂。
「……」
「……」
ハヤトとカイルはまだ壁を見ている。
やがて向こう側からセラの低い声がした。
「ハヤト」
「はい」
「見た?」
「何も見てません」
「ほんと?」
「壁しか見てない」
「カイルさんは?」
「同じく」
「……ならいいけど」
少し間が空く。
ハヤトがようやく振り返る。
仕切りは元通りだ。
「何があったんだよ」
向こうからレグが答えた。
「ここ、ぐらぐらしてた」
「だからって外すなよ!」
「なおした」
「直したじゃないの!」
セラの声に勢いが戻る。
カイルが小声で言う。
「お前が言ってた何かが起きたな」
「俺言ってない」
「昨日言ってた」
「忘れろ」
「無理だな」
結局、そのあと長湯する雰囲気でもなくなり、男二人は先に上がった。
脱衣所で用意されていた薄い館内着へ着替える。
「これ、いいな」
ハヤトが袖を見る。
「普通だろ」
「俺のいたところにも似たのあったんだよ」
「また故郷の話か」
「まあな」
廊下へ出ると、ちょうど女湯からセラとレグも出てきた。
セラは髪を下ろし、同じような館内着姿になっている。レグも着ているのだが、帯の位置がおかしかった。
「レグ、それどう着たの?」
「セラがやった」
「最初はちゃんとできてたんだけど、途中で自分で結び直したの」
「こっちのほうがらく」
「落ちそうだけど」
ハヤトが言うと、セラがレグの帯を直し始める。
「ほら、じっとして」
「くるしい」
「締めすぎてない」
「おなかすいてるから?」
「それは関係ない」
「じゃあごはん」
「はいはい」
四人で食堂へ向かおうとしたところで、レグが立ち止まった。
廊下の隅。
小さな売店に瓶が並んでいる。
「これなに?」
白い飲み物。
ハヤトは目を見開いた。
「……牛乳?」
「知ってるの?」
セラが聞く。
「風呂上がりに?」
「普通に売ってるだけだと思うけど」
「完璧じゃん」
「何が?」
「一本ください」
「ごはんは?」
レグが不満そうにする。
「これは別腹」
「レグも」
「絶対言うと思った」
結局四本買った。
カイルまで当然のように一本受け取っている。
「お前も飲むんじゃん」
「あるなら飲む」
「腰に手当てるんだぞ」
「何で?」
「決まり」
「誰の?」
「俺の故郷」
「知らん」
ハヤトだけ腰へ手を当て、一気に飲む。
「……うまい」
レグが真似する。
小さな手を腰へ当てる。
「こう?」
「そうそう」
「意味あるの?」
セラが聞く。
「気分」
「ないんだ」
「気分は大事だろ」
レグも牛乳を飲む。
「おいしい」
「だろ?」
「もういっこ」
「飯食えなくなるから駄目」
「ごはんもたべる」
「それが怖いんだよ」
カイルは普通に飲みながら、三人を眺めていた。
「お前ら、いつもこんな感じなのか?」
「だいたい」
セラが答える。
「疲れない?」
「たまに」
「セラ?」
「冗談」
笑っているので、本当に冗談なのだろう。
その夜は、久しぶりに何も調べなかった。
黒い石も、古い冊子も、五年前の話も部屋に置いたまま。
温泉に入り、飯を食べ、レグが温泉卵を何個まで食べていいかで少し揉め、食後にはクロの様子を見に行った。
それだけだった。
旅を始めてから、何かが起きるたびに次の答えを探してきた。
けれど、答えを探さない夜があってもいい。
宿へ戻る道で、レグが満足そうに腹をさする。
「おんせん、またいく」
「気に入った?」
「うん。ごはんもある」
「やっぱそっち込みなんだな」
「ハヤトも?」
「俺もまた来たい」
セラが横から笑う。
「次は仕切り壊さないところでね」
「レグ、なおした」
「壊したのもレグだから」
「でもなおした」
「そういう問題じゃないの」
同じ話をしながら、四人で宿へ戻る。
明日になれば、また東へ進む。




