手のひらの記憶
「……おかあさん」
レグがそう口にしたあと、誰もすぐには言葉を返せなかった。
黒い石は開いた箱の中に収まったまま、朝の光を鈍く反射している。手のひらに乗るほどの大きさしかない。それなのに、今はひどく重いもののように見えた。
ハヤトはレグの横にしゃがむ。
「顔、思い出せる?」
レグはしばらく考えたあと、首を横に振った。
「わかんない」
「声は?」
「……ちょっとだけ」
「どんな?」
レグは答えようとして、途中で止まった。
「やさしい」
それだけだった。
「あと、あったかい」
セラが少し表情を緩める。
「それは覚えてるんだ」
「うん」
レグは自分の両手を見る。
「レグ、もっとちいさかった。これ、もらった」
黒い石を指す。
「それで?」
「わかんない」
「大丈夫。無理に思い出さなくていいよ」
セラが隣へ座った。
「思い出したところだけで十分だから」
「うん」
以前なら、何とか続きを思い出させようとしたかもしれない。
だが地下の遺跡でも、レグの記憶は何かをきっかけに少しずつ戻っていた。急かして出てくるものではないことは、もう分かっている。
カイルは少し離れたところで、箱の中を覗いていた。
「この石、触ったことある?」
ハヤトが聞く。
「ない。中身を見るのも初めてだ」
「でも何か分かる?」
「形だけならな」
カイルが指を近づける。ただし石そのものには触れなかった。
「遺跡で使われてた記録具に似てる」
「記録具?」
「文字や映像を残す道具だ。ただ、俺が見たものはもっと大きかった」
「じゃあこれにも何か入ってる?」
「可能性はある」
レグが石を見る。
「おかあさん?」
「そこまでは分からない」
カイルは慎重に答えた。
「母親が渡したものなら、何か残してるかもしれない。逆に、ただの鍵や証明みたいなものかもしれない」
「証明?」
「誰なのかを示すものだ」
ハヤトは円の中に刻まれた小さな竜を見る。
「これが?」
「似た印は施設にもあっただろ」
確かに何度も見た。
円。
三本の線。
中心が欠けた印。
そしてこの石だけは、その中心に竜がいる。
「レグ専用?」
「そう断定するには早い」
「じゃあ何で箱開いたんだよ」
「それが分からないから調べるんだ」
「便利な言葉だな」
「便利だから使ってる」
セラが二人を見る。
「また始まった」
レグは気にせず石を見ていた。
「レグ、これもってく」
「もちろん」
ハヤトがすぐ答える。
「元々レグのものなら、レグが持ってるのが一番いい」
「危険かもしれないよ?」
セラが言う。
「そこなんだよな」
カイルも少し考える。
「直接持たせるのはやめた方がいい。少なくとも調べるまでは箱ごと運べ」
「じゃあ俺が持つ?」
「レグの」
「取らないって」
「ハヤトがもつ」
レグはあっさり箱を押し出した。
「いいの?」
「なくさないで」
「そこ信用重いな」
「なくしたら、おこる」
「絶対なくさない」
妙な緊張感が増した。
カイルが箱を布で包み直し、ハヤトの荷物へ入れる。冊子といい首輪といい、旅を始めたときにはなかった怪しい荷物ばかり増えている気がする。
「そろそろ村出るか」
ハヤトが立ち上がる。
セラが少し驚いた。
「今日?」
「うん。森の魔物はまだ残ってるけど、村にも話したし、ガルドたちも無理に入らないって言ってる。ミナさんも戻った」
「ヴァンは?」
「追っても今すぐ見つかる感じじゃないだろ」
カイルが頷く。
「俺も賛成だ。あいつを探すなら、ここだけ見てても意味がない」
「東?」
「多分な」
ヴァンは複数の遺跡に関わっている。
なら、自分たちが元々向かおうとしていた東へ進むことは、カイルにとっても都合がいい。
「レグは?」
ハヤトが聞く。
「いく」
「もうここ調べなくていい?」
「うん」
返事は意外なくらい早かった。
「お母さんのこと、もっと知りたくない?」
セラが優しく聞く。
「しりたい」
「じゃあ――」
「でも、ここじゃない」
レグは黒い石の入った荷物を見る。
「もっと東」
なぜそう思うのか。
記憶なのか、感覚なのか。
本人にも分かっていないのだろう。
それでもハヤトは否定しなかった。
「じゃあ決まりだな」
「うん」
村へ戻ると、出発することをまずガルドへ伝えた。
「もう行くのか」
「ああ。これ以上ここにいても、俺たちにできることは少なそうだから」
「そうか」
ガルドは少し残念そうだったが、引き止めなかった。
「森の方は無茶すんなよ」
「それはこっちの台詞だ」
「俺は何十年この森入ってると思ってる」
「何十年入ってても変な魔物は初めてだったんだろ?」
「……それ言われると弱いな」
ガルドは笑った。
「しばらくは入口の見張りを増やす。奥には入らん。王都の方にも一応知らせを出す」
「その方がいい」
「お前らはどっちへ行く?」
「東」
「大雑把だな」
「一応道は決めてる」
ハヤトが地図を広げる。
最初から予定していた街道を進むつもりだった。
ガルドは地図を見るなり、一つ先の町を指した。
「だったら今日はここまで行けるんじゃねえか」
「リーネ?」
「ああ。大きな町じゃないが、宿は多い」
「何かあるの?」
セラが聞く。
ガルドが少し笑った。
「湯だ」
「湯?」
「温泉が出る」
ハヤトの動きが止まった。
「……今なんて?」
「温泉」
「マジで?」
「何だ急に」
聞き慣れた単語が、この世界に来てから一番と言っていいほど胸に刺さった。
「温泉あるの?」
「あるぞ。山の麓だからな。昔から湯治に来るやつが多い」
「行こう」
「早いね」
セラが呆れた顔をする。
「いや、温泉だぞ?」
「そんなに?」
「そんなに」
風呂自体は宿にもある。
だが、大きな湯船に浸かるような機会はほとんどなかった。
しかもここ数日は森を歩き、地下遺跡を走り回り、魔物と戦い続けている。
「最高じゃん」
「ハヤト、うれしそう」
レグが見上げる。
「レグは温泉入ったことある?」
「おんせんってなに?」
「熱いお湯に入る」
「おふろ?」
「風呂なんだけど、違うんだよ」
「なにが?」
「行けば分かる」
説明できなかった。
「セラは?」
「一回だけあるよ。小さいころ」
「あるの!?」
「何でそんな食いつくの」
「先輩じゃん」
「何の?」
カイルが横から地図を見る。
「リーネなら俺も知ってる。悪くない町だ」
「温泉入ったことある?」
「ある」
「カイルまで」
「そんな珍しいか?」
「俺には珍しい」
「変なところでテンション上がるな、お前」
そこだけは譲れない。
出発の準備をしていると、ミナも見送りに来た。
「もう出るんですね」
「はい。体は大丈夫ですか?」
セラが聞く。
「大丈夫です。本当にありがとうございました」
「無理して森入らないでくださいね」
「しばらくは怒られて行かせてもらえないと思います」
少し離れた場所で、昨日抱きついていた女性が腕を組んでこちらを見ている。
「確かに」
セラも笑った。
レグはガルドのところへ行く。
「ゆみ」
「ん?」
「またやる」
一瞬分からなかったらしいが、すぐに笑う。
「弓か」
「うん」
「今度来たときにな」
「もっとあたるようにする」
「練習する弓持ってないだろ」
「……」
そこで初めて気づいた顔をする。
ガルドが大声で笑った。
「次までに一本用意しといてやる」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、くる」
「弓が理由かよ」
「だいじ」
「そうかそうか」
ガルドは楽しそうだった。
村を出る前に、最後にクロのところへ向かった。
ここだけが少し問題だった。
「クロも連れてく?」
セラが聞く。
「ついてきそうなんだよな」
村の近くの木立で待っていたクロは、すでにレグの横へ座っている。
「クロ、いっしょ」
レグは完全にそのつもりだった。
「街道歩くにはちょっと目立つよ」
「くろいだけ」
「そこじゃない」
見た目は大きめの獣だ。
首輪がなくなってからは以前ほど不気味ではないが、知らない人が見れば警戒するだろう。
「町の中に入れるかも分からないな」
カイルが言う。
「外に置いてく?」
レグの顔が曇る。
ハヤトはクロを見る。
当の本人は落ち着いたものだった。
「とりあえず一緒に行こう。町まで行ってから考える」
「うん」
「嫌がられたら?」
「レグもそとにいる」
「それは駄目」
「なんで?」
「温泉入れないだろ」
「おんせん、だいじ?」
「今日はかなり大事」
セラが笑い出す。
「そこまで楽しみなんだ」
「めちゃくちゃ楽しみ」
久しぶりに、旅の目的とは何の関係もないものが待っている。
それが妙に嬉しかった。
エルナ村を出て、街道へ戻る。
空は晴れていた。
森で感じていた重い空気もなく、道の両側にはのどかな草原が広がっている。
レグはクロと並んで歩き、セラは途中で見つけた花を眺めている。カイルは地図を確認しながら少し後ろを歩いていた。
「そういえばカイル」
「何だ」
「お前も普通についてきてるけど」
「東へ行くって言っただろ」
「ずっと一緒?」
「嫌なら別に離れる」
「いや、別に嫌とは言ってない」
「じゃあ何だ」
「なんとなく聞いただけ」
カイルが少し笑う。
「しばらくは同じ道だ。それだけだ」
「そっか」
旅を始めたときは三人だった。
今は横にクロがいて、少し後ろにカイルがいる。
ずっとこのままかは分からない。
それでも今は、それでいい。
「ハヤト」
セラが前を指す。
「煙見えるよ」
遠くの山裾。
街道の先に、小さな町が見え始めていた。
普通の煙とは違う。
町のあちこちから、白い湯気がゆっくり空へ上っている。
「……温泉」
ハヤトが呟く。
「顔がすごいよ」
「やっとだ」
「まだ着いてないけど」
「もう見えてる」
レグも町を見る。
「おふろいっぱい?」
「多分な」
「ごはんもある?」
「そっちか」
「おなかすいた」
「まあ、それも大事だな」
セラが笑いながら歩いていく。
遺跡の謎も、レグの記憶も、ヴァンのことも消えたわけではない。
むしろ知りたいことは増えている。
けれど、そればかりを考えながら旅をする必要もない。
立ち寄った町で飯を食べて、湯に浸かって、疲れたら休む。
それも、自分たちで選んだ旅の一部だ。
「よし」
ハヤトは少しだけ歩調を速めた。
「今日は何があっても風呂入るぞ」
「何があってもって言うと、何か起きそうだからやめて」
セラに言われ、ハヤトは一瞬黙った。
「……普通に入ろう」
「それがいい」
今度こそ、何も起きない一日であってほしかった。




