第8話 初めての遠征
翌朝。
ラーデンの東門前で、ハヤトは大きく伸びをした。
空はよく晴れている。
背中には昨日買った荷物。
腰には短剣。
左腕には新しい盾。
胸元には革製の防具。
十日前までスーツ姿で通勤していた男とは、自分でも思えない格好だった。
「……それなりに冒険者っぽくなってきたな」
「見た目だけはね」
後ろから聞こえた声に振り返る。
セラが歩いてきた。
いつもの黒いローブではなく、その上から動きやすそうな短い外套を羽織っている。
背中には荷物。
腰には杖。
ハヤトと違って、旅慣れている雰囲気があった。
「おはよう」
「おはよう。忘れ物は?」
「たぶんない」
「たぶん?」
「食料、水、毛布、薬、替えの服、火をつける道具……」
指を折りながら確認する。
「あと金」
「それを忘れてたら呆れるわ」
「大丈夫。昨日だいぶ使ったけど」
セラはハヤトの新しい盾を見る。
「ちゃんと買い替えたのね」
「昨日かなり怒られたからな」
「怒ってないわよ」
「防具も買え、盾も買え、薬も持てって三回くらい言われた気がするけど」
「それはあなたが危なっかしいから」
二人は門を抜けた。
今回の目的地は、旧街道沿いに残る小さな遺跡。
徒歩で片道約二日。
途中までは商人も使う街道だが、そこから先はほとんど人が通らない。
初めての遠征。
初めての野宿。
そして初めての遺跡。
ハヤトは自然と足取りが軽くなっていた。
「楽しそうね」
「そりゃ楽しいだろ」
「まだ何も始まってないけど」
「始まる前が一番楽しいこともある」
「遠足前の子供みたい」
「否定はしない」
セラは呆れながらも、少し笑った。
午前中は穏やかだった。
整備された街道を歩き、時折すれ違う商人に挨拶する。
周囲には広い草原が続き、その向こうには深い森。
遠くには雪をかぶった山まで見えた。
ハヤトにとっては、歩いているだけでも飽きない。
「あれ何?」
「どれ?」
「あの空飛んでるやつ」
セラが見上げる。
翼を広げた巨大な鳥が、二人の頭上を通り過ぎていった。
「グランドホーク」
「襲ってこない?」
「今の大きさならたぶん平気」
「たぶん?」
「空腹なら来るかも」
ハヤトは少しだけ鳥から距離を取った。
それを見てセラが吹き出す。
「笑うなよ」
「昨日まで変異種に突っ込んでた人が鳥に怯えてるから」
「飛んでる敵って怖いだろ。盾持ってても意味なさそうだし」
「意外と慎重なのね」
「死にたくないからな」
好きに生きる。
そのためには、まず生きていなければ意味がない。
無茶と自由は違う。
ハヤトなりに、その区別はしているつもりだった。
昼過ぎ。
街道脇の木陰で休憩を取る。
干し肉と固いパン。
昨日の食堂で食べた料理とは比べものにならない。
ハヤトはパンをかじって眉を寄せた。
「遠征の飯ってずっとこれ?」
「基本は」
「夢が一個壊れた」
「冒険に何を期待してたのよ」
「焚き火で肉焼いたり」
「魔物でも狩れたらできるわよ」
ハヤトの目が変わる。
「じゃあ今日の夕飯は肉にしよう」
「食べられる魔物が出ればね」
休憩を終え、さらに歩く。
数時間後。
街道が二つに分かれた。
右はそのまま別の街へ続いている。
左は草に覆われ、長い間まともに整備されていないようだった。
セラが地図を取り出す。
「こっち」
「いよいよ旧街道か」
舗装されていた道は、すぐに土の道へ変わった。
木々も増え、人の姿はほとんど見えなくなる。
しばらく進んだところで、セラが突然足を止めた。
「ハヤト」
「ん?」
「静かに」
声の調子が違う。
ハヤトも口を閉じた。
少し先の藪。
何かが動いている。
短剣へ手を伸ばす。
セラも杖を構えた。
枝が揺れた。
姿を現したのは――。
「……鹿?」
普通の鹿より一回り大きい。
頭には枝分かれした角があり、その先端が薄く青く光っている。
「ブルーホーンね」
「食える?」
「最初に聞くこと、それ?」
「今日の夕飯がかかってる」
セラが額に手を当てた。
「食べられるけど、討伐対象じゃないわよ」
「狩っちゃダメ?」
「この辺りなら問題ない。ただし逃げ足は速い」
その言葉を聞く前に、ブルーホーンは二人に気づいた。
一瞬で走り出す。
「速っ!」
ハヤトも《身体強化》を使って追う。
当然追いつけない。
それでも地形を見ながら進路を読む。
ブルーホーンが木々の間を抜ける。
ハヤトは正面から追うのをやめた。
少し右へ回る。
「セラ!」
「分かってる!」
火魔法を使えば肉まで焦げる可能性がある。
セラもそれを理解したのか、攻撃はしない。
代わりにハヤトの進む方向を見て、反対側へ回り込んだ。
二人に挟まれたブルーホーンが進路を変える。
その先。
木の根が地面から大きく出ている。
ハヤトは掌を向けた。
《水弾》。
またしても狙ったのは敵ではなかった。
水が地面を濡らす。
ブルーホーンが滑る。
完全には倒れない。
だが速度が落ちた。
「今だ!」
ハヤトが飛び込む。
短剣を首元へ。
狙いは少しずれた。
それでも深く入った。
ブルーホーンが暴れる。
ハヤトはすぐに離れた。
数秒後。
大きな身体がゆっくり倒れる。
「……やった」
肩で息をしながら近づく。
セラも追いついた。
「本当に狩ったわね」
「夕飯確保」
「嬉しそう」
「肉だからな」
ただし問題が一つあった。
「……これ、どうやって食べる?」
セラが無言になる。
ハヤトも黙る。
二人とも狩った獲物を解体した経験がなかった。
「冒険者なのに?」
「私は魔術師よ」
「俺も元会社員だぞ」
「何それ」
「気にしないで」
結局。
二人は試行錯誤しながら、使えそうな肉だけを切り分けることになった。
かなり時間がかかった。
服も手も汚れた。
切り方もおそらく酷い。
それでも日が傾く頃には、今日の夕食分くらいは確保できた。
ハヤトは手についた血を洗いながら言う。
「解体も覚えた方がいいな」
「あなた、本当に何でもやるつもりなの?」
「便利そうじゃん」
「そのうち料理人にもなるって言い出しそう」
ハヤトは少し考えた。
「料理、技能ある?」
「あるけど」
「帰ったら覚えよう」
「本気だったのね……」
夕暮れ前。
二人は道から少し離れた場所に、野営できそうな開けた土地を見つけた。
薪を集める。
火を起こす。
ここで《灯火》が役に立った。
ハヤトの指先から生まれた小さな炎が、枯れ枝へ燃え移る。
「この魔法、戦闘じゃ全然使えないけど便利だな」
「本来そういう魔法よ」
「最近やっと分かった」
焚き火の上で、ブルーホーンの肉を焼く。
味付けは塩だけ。
料理と呼べるほどのことはしていない。
香ばしい匂いが漂い始める。
ハヤトは期待しながら一口食べた。
「……硬い」
セラも噛んでいる。
「焼きすぎね」
「でもうまい」
「まあ、それは認める」
昼の干し肉よりはずっといい。
二人は焚き火を囲みながら肉を食べた。
頭上には満天の星。
ラーデンの街では見えなかったほどの数だ。
ハヤトはしばらく空を見上げていた。
「星まで違うんだな」
「当たり前でしょ」
セラには何でもない光景なのだろう。
だがハヤトには違う。
知っている星座が一つもない。
これまで何となく理解していたつもりだった。
ここは異世界だと。
けれど今になって、ようやく実感した気がした。
本当に遠くまで来たのだ。
もう元の世界へ帰れない可能性だってある。
家族。
友人。
仕事。
全部置いてきた。
胸の奥に、少しだけ寂しさが生まれる。
「帰りたい?」
突然、セラが聞いた。
顔を見る。
彼女も焚き火を見たままだった。
「分からない」
ハヤトは正直に答えた。
「帰れるなら、一回くらい帰りたいとは思う。でも……」
少し考える。
「今すぐ戻りたいかって言われたら、違うかな」
「どうして?」
「まだ来たばっかだから」
ハヤトは笑った。
「何も見てないし、何もやってない」
せっかく異世界に来た。
魔法を覚えた。
知らない場所へ行ける。
その全部を放り出して帰るには、まだ早すぎる。
「それに」
「それに?」
「明日遺跡だろ?」
セラが数秒黙る。
「……本当にそれだけ?」
「かなり重要だけど」
「聞いた私が馬鹿だった」
そう言いながら、セラも笑っていた。
食事を終え、見張りの順番を決める。
ハヤトが先。
セラが後。
焚き火のそばでセラが毛布にくるまる。
「変な音がしたら起こして」
「了解」
「絶対よ」
「分かってるって」
やがて寝息が聞こえ始める。
ハヤトは焚き火へ薪を一本追加した。
静かな夜だった。
昼間歩いた疲れはある。
それでも、不思議と心地いい。
初めての旅。
初めての野宿。
明日は初めての遺跡。
知らないものが次々に待っている。
それを一つずつ自分の目で確かめられる。
この世界へ来てから、明日が楽しみだと思う日が増えた。
翌朝。
二人は日の出とともに野営地を出発した。
旧街道はさらに荒れ、途中からほとんど獣道のようになっていた。
そして昼を少し過ぎた頃。
木々の向こうに、人工物が見えた。
苔に覆われた石壁。
半分崩れた柱。
地下へ続いているらしい大きな入口。
ハヤトは立ち止まる。
「……あれか」
セラが地図を見る。
「ええ。旧街道遺跡」
待ち望んでいた目的地。
ところが、近づくにつれて違和感があった。
入口付近の地面。
新しい足跡がいくつも残っている。
魔物のものだけではない。
人間の靴跡。
しかも一人や二人ではなかった。
セラも気づいたらしい。
「依頼書には、先行調査隊がいるなんて書いてなかったわよね」
「書いてない」
ハヤトは短剣の柄へ手を置いた。
遺跡の奥。
暗闇の向こうから、かすかに金属音が聞こえた。
誰かがいる。
二人は顔を見合わせる。
どうやら今回の依頼は、ただ遺跡を調べるだけでは終わらなそうだった。




