その手の先に
扉に残された手形と、自分の手を見比べながら、レグはしばらく動かなかった。
大きさはほとんど同じだった。
指の長さまで完全に一致しているわけではない。それでも、偶然にしては妙に近い。
「……触ってみる?」
セラが聞くと、レグは手形を見たまま少し迷った。
「さわって、だいじょうぶ?」
「俺に聞かれてもな」
ハヤトは隣のカイルを見る。
「これは?」
「俺も初めて見る」
「役に立たないな」
「ここまで来たのも初めてだと言っただろ」
「そうだけど」
カイルは扉に近づき、中央の印を観察する。ただし直接触ろうとはしなかった。
「少なくとも、罠には見えない」
「その根拠は?」
「こういう施設の扉には、危険な区画ならもっと分かりやすい封印がある。ここはむしろ……中へ入れる相手を選んでるように見える」
「選んでる?」
「ああ」
カイルの視線がレグへ向く。
「さっきの通路もそうだった。俺が来たときには開かなかった場所が、お前が近づいただけで開いた」
レグが自分を指差した。
「レグだから?」
「多分な」
「多分か」
「今のところ、それ以上は言えん」
ハヤトはレグを見る。
「嫌なら触らなくていいぞ」
「でも、ここまできた」
「だからって無理する必要はない」
レグは少し考えた。
それから、自分の手をもう一度見た。
「……さわる」
「分かった」
ハヤトとセラが少し横へ下がる。カイルも何も言わず、レグの動きを見守った。
レグはゆっくり手を伸ばす。
指先が石に触れた。
何も起きない。
そのまま掌を手形へ重ねる。
わずかに隙間はあるものの、やはりよく似ていた。
「……」
「レグ?」
「なんか、あったかい」
次の瞬間、手形の周囲に淡い光が灯った。
「うわっ」
ハヤトが反射的に一歩出る。
「大丈夫」
レグは手を離さなかった。
光は指の形をなぞるように広がり、そこから扉の中央へ流れていく。竜を描いた彫刻にも次々と光が入り、最後に例の円形の印が白く浮かび上がった。
低い音が響く。
大きな扉が、ゆっくり左右へ開き始めた。
「本当に開いた……」
セラが息を呑む。
カイルはそれ以上に驚いていた。
「この扉……まだ動いたのか」
「そこ?」
「何百年前のものだと思ってる」
「知らないよ」
扉が完全に開く。
その先は、これまで歩いてきた遺跡とはまるで違っていた。
まず、鎖がない。
壁に傷もなく、何かを閉じ込めていたような痕跡も見当たらない。通路は広く、左右の壁には細かな彫刻が残っていた。
そして、空気が違う。
嫌な匂いがしない。
「レグ?」
「……ここ、へんなにおいしない」
やはりそうらしい。
「じゃあ、さっきまでの場所とは別なのかな」
セラが壁を見ながら中へ入る。
ハヤトも続いた。
「同じ施設じゃないの?」
「建てられた時期は同じように見える」
カイルが後ろから答える。
「ただ、使い方が違った可能性はあるな」
「こっちは魔物を繋いでなかった?」
「少なくとも、そう見える」
しばらく進むと、通路の壁に最初の絵が現れた。
一体の竜。
特に珍しいものではない。これまでも何度か見た。
だが次の絵で、ハヤトは足を止めた。
「……ん?」
同じ竜が描かれている。
その身体の周囲に、細い光のような線が何本も走っていた。
さらに隣。
竜の身体が少し小さくなっている。
次。
翼が消え、後ろ脚で立っていた。
その次では――。
「人?」
セラが壁へ近づく。
最後に描かれていたのは、人間の姿だった。
竜から人へ。
一枚の絵ではない。
何段階にも分け、その姿が少しずつ変化していく様子が彫られている。
レグは声も出さずに見ていた。
「これって……」
ハヤトはカイルを見る。
カイルも壁から目を離さない。
「俺が知ってる記録と違う」
「何が?」
「人の姿を取る竜は、生まれつきそういう力を持つ個体だと思われてた」
「さっき言ってたやつだね」
「ああ」
カイルが壁へ近づく。
「でも、この絵がそのままの意味なら……違う」
「練習してできるようになる?」
セラの言葉に、カイルはゆっくり頷いた。
「その可能性がある」
三人の視線が自然とレグへ集まった。
「なに?」
「いや」
ハヤトは少し笑った。
「レグが正しかったんだなと思って」
「レグ、なにが?」
「何回も練習しただろ。人になるの」
「うん」
「昔の竜も、同じことしてたのかもしれないって」
レグは壁を見る。
少しだけ表情が変わった。
「レグだけじゃない?」
「多分な」
「そっか」
大きな反応はなかった。
ただ、その一言は少し嬉しそうだった。
ハヤトはそれ以上何も言わなかった。
人化を始めたばかりの頃、レグは何度も失敗していた。腕だけ変わったり、途中で元に戻ったり、変化したあと動けなくなったこともある。
それでも自分で覚えた。
もし昔の竜たちも同じだったのなら、レグの力は突然生まれた例外ではない。
忘れられただけなのかもしれない。
「まだ続いてるよ」
セラが先を指した。
次の壁にも絵がある。
今度は人の姿になった竜が、誰かと向き合っていた。
人間だ。
二人は何かを受け渡している。
さらに先では、人間と竜らしき者たちが同じ場所で食事をしていた。
「普通に一緒に暮らしてるように見えるな」
「だよね」
カイルは何も言わない。
かなり真剣な顔で、一つ一つの彫刻を見ている。
「これも知らなかった?」
「知らない」
「記録には?」
「人里に住んでいた竜の話はいくつかある。でも、ここまで具体的なものは見たことがない」
「じゃあ昔は、思ってたより普通だったのかな」
セラが言う。
「人と竜が一緒にいるの」
「かもしれない」
カイルはそれ以上断言しなかった。
ハヤトも同じだった。
壁画だけで、何百年も前の社会がどうだったかまでは分からない。ただ、少なくともここを作った誰かにとって、人の姿を取る竜は想像上の存在ではなかった。
先へ進むと、通路は円形の部屋につながっていた。
中央には低い石台が一つある。
それ以外には何もない。
「ずいぶん何もないね」
「壊された感じでもないな」
ハヤトが石台へ近づく。
表面には文字が刻まれている。
「カイル、読める?」
「待て」
カイルが隣へ来る。
指で文字を追いながら、しばらく黙り込んだ。
「……全部は無理だ」
「それはもう分かった。読めるところだけでいい」
「急かすな」
少しして、カイルが一つの文字を指す。
「これは……『姿』に近い」
「姿?」
「その隣が……選ぶ、か。いや、変える……」
「どっち?」
「古いんだよ」
「便利だな、それ」
「じゃあ自分で読め」
「読めないから頼んでる」
セラが苦笑する。
「二人とも、今それやる?」
「向こうからだろ」
「お前からだ」
「はいはい」
セラに止められ、二人とも黙った。
カイルはもう一度文字を見る。
「多分……『姿は一つではない』」
ハヤトが石台を見る。
「そのあと?」
「……『選ぶ者』」
そこで一度止まる。
「続きが削れてる」
「肝心なところが」
「俺に言うな」
確かに途中から文字が崩れていた。
だが意味は何となく分かる。
姿は一つではない。
選ぶ。
人化そのものを指しているのなら、壁画ともつながる。
レグが石台へ近づいた。
「これも、さわる?」
「待て待て」
今度はハヤトがすぐ止める。
「さっきみたいに何起きるか分からないだろ」
「でも、て、ある」
「え?」
見ると、石台の側面にも小さな手形があった。
「……またか」
今度はハヤトも警戒する。
レグは触らず、しゃがんで眺めた。
「おなじ」
「大きさはな」
「触ってみる?」
セラが聞く。
「セラまで」
「いや、レグがやりたいなら」
「やりたい」
即答だった。
ハヤトは少し考えた。
ここまで来て、何もせず戻るというのも違う。
「何か変だと思ったらすぐ離せよ」
「うん」
「カイルは?」
「俺に聞くのか?」
「一応詳しいだろ」
「もうここに関しては、お前たちと同じくらい何も知らん」
「役に立たなくなってきたな」
「帰るぞ」
「冗談だって」
レグが手を置く。
今回はすぐ反応した。
石台の表面に淡い光が広がり、刻まれていた文字が一つずつ白く浮かび上がる。
そして部屋の壁にも光が走った。
「また始まった」
セラが周囲を見る。
ただし揺れはない。
危険な気配も感じない。
中央の石台から、薄い光が空中へ立ち上がった。
それが少しずつ形を作る。
人影。
「……人?」
輪郭だけで顔は見えない。
小柄な人間の姿だった。
人影はしばらく動かなかった。
やがて、片手を前へ伸ばす。
その先にもう一つの光が生まれた。
一体の小さな竜。
竜は何度か身体を光らせる。
姿が崩れ、また戻る。
もう一度。
また失敗する。
「これ……」
ハヤトは思わずレグを見る。
レグが人化の練習を始めた頃とよく似ている。
光の中の小さな竜は何度も失敗し、そのたびに隣の人影が何かを伝えている。
そして最後。
竜の姿がゆっくり変わった。
小さな人の姿になる。
その瞬間、二つの人影が向き合った。
声が流れる。
さっきまで聞いていた古い言葉だった。
「レグ、分かる?」
セラが小さく聞く。
「ちょっと」
「何て?」
レグは声を聞きながら、ぽつりぽつりと答えた。
「……できた?」
「できた、って言ってる?」
「たぶん」
もう一度、声。
今度は人の姿になった竜が返しているようだった。
レグが少し目を細めた。
「『これで……いっしょ』」
そこで光が消えた。
部屋が静かになる。
誰もしばらく口を開かなかった。
「一緒、か」
ハヤトが呟く。
人になること自体が目的だったのではないのかもしれない。
人と同じ場所で暮らすため。
同じ目線で話すため。
理由は一つではないだろうが、少なくともあの映像ではそう見えた。
レグは手形から手を離した。
「ハヤト」
「ん?」
「レグも、できた」
「ああ」
「セラとも、ハヤトとも、いっしょ?」
あまりに普通に聞かれて、ハヤトは少しだけ言葉に詰まった。
「人の姿じゃなくても一緒だっただろ」
「……そっか」
「今さら何言ってんだよ」
レグは少し考え、それから笑った。
「うん」
セラも隣で笑っていた。
カイルだけが、消えた光の方を見つめている。
「どうした?」
「いや……」
「またそれ?」
「今回のは本当に考えてる」
カイルが石台を見る。
「古い記録の読み方を、かなり間違えてたのかもしれない」
「どういうこと?」
「人の姿を取る竜がいた。その事実ばかり追ってた。でも、なぜ人の姿を取ったのかまでは考えてなかった」
カイルは壁画へ視線を向ける。
「それに、ここはさっきまでの施設とは違う」
「やっぱり?」
「ああ。あっちは生き物を変えるために使われていた。でも、ここは……教えるための場所に見える」
「同じ遺跡の中なのに?」
「だから変なんだ」
同じ場所に、まるで目的の違う区画がある。
昔からそうだったのか。
後から誰かが片方を作ったのか。
まだ分からない。
そのとき、部屋の奥で新しい光が灯った。
「まだあるの?」
セラが振り返る。
壁の一部に、大きな地図のような線が浮かび上がっていた。
山。
川。
いくつかの街らしき印。
「これ……東の地形じゃないか?」
カイルが近づく。
「分かる?」
「大体は」
地図には、円の中に三本線が入った例の印が何か所か刻まれていた。
一つ。
二つ。
三つ。
もっとある。
「全部、同じ施設?」
「分からん。ただ、印が同じなら何かしら関係はある」
ハヤトは地図全体を見る。
「カイルが調べた場所もある?」
「ある」
カイルが二つの印を指した。
「ここ。それとここだ」
「じゃあ、やっぱり点々と残ってるんだ」
「ああ」
レグは地図へ近づいた。
その視線が、一つの印で止まる。
「ここ」
「知ってる?」
「しらない」
「じゃあ何?」
レグは少し首を傾げる。
「なんか、きになる」
ハヤトもその場所を見る。
地図のかなり東側。
旅を始めるきっかけになった記録が残る地方と、ほぼ同じ方向だった。
「……結局、東なんだな」
ハヤトが呟くと、セラが笑う。
「最初から行くつもりだったじゃん」
「まあな」
寄り道した結果、別のものを見つけた。
それでも道はまた東へつながっている。
カイルは地図の印を見ながら、しばらく考えていた。
「俺もそこへ行く」
「え?」
「この印の場所だ」
ハヤトがカイルを見る。
「ついてくるってこと?」
「逆だ。俺は元々東へ行く予定だった」
「じゃあ一緒じゃん」
「そうなるな」
「……仲間になるとか言わないよな?」
「なんで嫌そうなんだ」
「まだ信用しきってないから」
「俺もお前を信用しきってない」
「じゃあちょうどいいな」
セラが二人を見てため息をついた。
「また始まった」
レグは地図を見たままだった。
「東いく?」
「ああ」
ハヤトが答える。
「ただ、その前にここから出ないとな」
全員がようやく思い出したように入口を見る。
来た道の向こうには、まだ魔物がいるかもしれない。
カイルが少し気まずそうに咳をした。
「……別の出口を探すか」
「そこからかよ」
ひとまず、東へ向かう理由は一つ増えた。
問題は、そこへ向かう前に、この地下から無事に出られるかどうかだった。




