古い呼び声
通路に響いた声は、二度目も同じ響きだった。
低く、遠い。男とも女とも判別しづらいほど掠れている。それでも、レグだけはその中から自分の名を聞き取ったらしい。
「……レグ、っていってる」
「本当に?」
セラが壁とレグを交互に見る。
「うん」
レグの返事に迷いはなかった。
ハヤトにはただ、知らない言葉がいくつか連なっているようにしか聞こえない。隣のカイルも同じなのかと思ったが、その顔は妙に険しかった。
「カイル。何か分かる?」
「全部は無理だ」
「全部は、ってことは少しは?」
「古い言葉だ。今使われてるものとはかなり違う」
「読めるって言ってたの、この言葉?」
「似てる。文字なら時間をかければ多少はな。今の声は早すぎる」
壁の光がゆっくり明滅する。
また声が流れた。
今度は少し長い。
レグがじっと聞いている。
「何て?」
「……わかんない」
「名前だけ?」
「うん。でも」
レグは自分の胸元へ手を当てた。
「これ、へん」
「苦しい?」
セラがすぐ近づく。
「ちがう」
「痛くない?」
「いたくない。なんか……」
言葉を探している。
「しってる声みたい」
ハヤトは何も言わなかった。
今ここで誰の声かを決めつけるのは簡単だ。レグの過去に関係がある人物。両親。あるいは同族。
けれど、それを口にしてレグへ余計な期待を持たせる気にはなれない。
「思い出せないなら、今はそれでいいよ」
セラも同じように考えたらしい。
レグは少しだけ頷いた。
「うん」
声が止まる。
同時に、壁に浮かんでいた竜と人の形が変わり始めた。
「動いてる……?」
線が消え、別の場所へ現れる。
最初に竜。
次に人。
その間を一本の線がつなぎ、最後に円のような印が二つを囲んだ。
冊子の表紙にあったものと同じ印だった。
「これ、何を表してるんだ?」
「契約……に見えなくもないけど」
セラが首を傾げる。
「竜と人間の?」
「分かんない。ただ、こういう絵ならそう見えるってだけ」
カイルが壁へ近づいた。
今度は止めようとはしない。むしろ食い入るように光を見ている。
「違う」
「何が?」
「これは契約の印じゃない」
ハヤトが横を見る。
「知ってるのか?」
「似たものを別の遺跡で見た」
「それ先に言えよ」
「同じものだとは思わなかった」
「で、何の印?」
カイルは少し迷った。
「分類だ」
「分類?」
「多分な」
壁の絵を指す。
「獣。人。竜。ここで扱われていたものを分けるための印だと思ってた」
「思ってた?」
「ああ。でも、それなら今の反応が説明できない」
その視線がレグへ向く。
「この場所は、お前に反応してる」
レグは意味が分からないようで首を傾げた。
「レグに?」
「少なくとも、俺が何度来てもこんなことは起きなかった」
「何度も来てたんだな」
「そこ拾うか?」
「気になるだろ」
カイルは少しだけ面倒そうな顔をしたが、否定しなかった。
「三回来た」
「結構来てるじゃん」
「奥まで入れたのは一度だけだ。今みたいな隠し通路は見つからなかった」
「じゃあ、ここは初めて?」
「ああ」
つまり、レグがいなければ開かなかった可能性が高い。
ハヤトは壁の光を見る。
偶然にしては出来すぎている。
「さっき一つずつ話すって言ったよな」
「言った」
「じゃあ次、カイルの番」
「何を聞きたい?」
「人の姿を取る竜の話」
カイルが黙った。
「さっき知ってるって言っただろ」
「少しだけな」
「それでいい」
後ろでは今も、石扉の向こうから時々鈍い衝撃が響いている。魔物たちはまだ諦めていないらしい。
落ち着いて話をする場所ではない。
それでも今聞いておいた方がいい気がした。
カイルは壁へ背を預ける。
「俺が最初に見た記録は、東の古い修道院に残ってた」
「修道院?」
「ああ。今はほとんど廃墟だ。そこの地下から見つかった文書に、人の姿で街に住んでいた竜の話があった」
ハヤトが知っているものと似ている。
「一体だけ?」
「記録に出てきたのは一体。ただし、珍しいとは書かれてなかった」
「どういうこと?」
セラが聞く。
「書いた人間が、それを異常だと思ってないんだ」
ハヤトも意味を理解した。
「当時は、ほかにもいた?」
「可能性はある」
カイルは頷く。
「少なくとも、人の姿を取る竜が完全な伝説だったなら、もっと大げさな書き方になるはずだ。だがその文書では、旅人や商人と同じような扱いだった」
「じゃあ昔は普通に……」
「そこまでは言えない。ただ、今より人間と竜の距離が近かった時代があったのかもしれない」
レグは黙って聞いている。
いつものように途中で何かを聞くこともなく、ただカイルの顔を見ていた。
「それが、なんで今はいないの?」
レグが尋ねた。
カイルは少し困ったような顔をした。
「分からない」
「みんないなくなった?」
「それも分からない」
「そっか」
落胆するかと思ったが、レグはそれ以上追及しなかった。
ハヤトの方が少し気になった。
「消えた理由を調べてる?」
「それもある」
「それも?」
カイルは答えず、今度はこちらを見る。
「次はそっちだ」
「覚えてたか」
「取引だからな」
「何聞く?」
「その子は、本当に竜なのか?」
レグ本人より先に、ハヤトとセラが反応した。
カイルもそれに気づいたらしく、すぐ付け足す。
「敵意があるわけじゃない。ただ確認したい」
ハヤトはレグを見る。
「言っていい?」
「いいよ」
本人が頷いたので、隠す理由はない。
「竜だよ」
「元々、その姿だった?」
「逆。普段は竜の姿だった。人になれるようになったのは最近」
「自分で?」
「練習して」
カイルの眉がわずかに動く。
「練習?」
「最初からできたわけじゃないよ」
セラが答えた。
「何度も失敗して、少しずつできるようになったの」
カイルはしばらくレグを見た。
「そうか……」
「何?」
「いや」
「またそれ?」
セラが少し呆れる。
「気になることあるなら言って」
「人化は、生まれつきできるものだと思ってた」
カイルのその一言に、今度は三人が黙った。
「何で?」
ハヤトが聞く。
「記録ではそう読める。人の姿を取れる竜と、取れない竜がいる。そういう違いだと思ってた」
「じゃあレグは違う?」
「少なくとも俺が知ってる記録とはな」
レグは少し考える。
「レグ、おかしい?」
「おかしくない」
ハヤトの方が先に答えた。
レグがこちらを見る。
「珍しいかもしれないけど、おかしいとは違うだろ」
「うん」
それだけで納得したらしい。
カイルが小さく息を吐く。
「悪い。言い方が悪かった」
「分かればいい」
セラもそれ以上責めなかった。
壁の光がまた動く。
さっきの声が三度目に流れた。
今度はレグの名前だけではない。
レグが息を呑む。
「何?」
「ひとつ、わかった」
「何て言ってる?」
レグは少し迷いながら、聞こえた言葉を確かめるように口を開いた。
「……おいで」
セラの顔が強張る。
ハヤトも壁を見る。
「『おいで』?」
「うん」
「誰に?」
レグは自分を指差した。
「レグに」
その直後、通路の奥で音が響いた。
石が擦れる音。
目の前にある壁ではない。
もっと先。
白い線が奥へ向かって次々に灯り、暗かった通路を照らしていく。
一本の道ができる。
「……完全に案内されてない?」
セラが呟く。
「そう見えるな」
カイルは笑わなかった。
「俺は行く」
「即決?」
「この先は、俺も見たことがない」
「それなら俺たちも――」
言いかけて、ハヤトはレグを見る。
「どうする?」
決めるのは自分ではない。
少なくとも今回は、そうするべきだと思った。
レグは光の続く通路を見つめる。
少しだけ怖そうだった。
それでも、逃げるようには見えない。
「いく」
「いいの?」
セラが聞く。
「うん」
「怖くない?」
「ちょっとこわい」
レグは正直に答えた。
「でも、レグのこと呼んでる」
その言葉のあと、一歩前へ出る。
「だから、みたい」
ハヤトは頷いた。
「じゃあ行こう」
「うん」
セラもレグの隣へ並ぶ。
「私も行く」
「クロは?」
レグが振り返る。
少し離れたところにいたクロは、光の道を見つめていた。
だが動かない。
「クロ?」
レグが呼ぶ。
耳は動いた。
それでも、その場から前へ出ようとはしなかった。
「行きたくないみたいだな」
ハヤトが言う。
クロは低く鳴き、そのまま地面へ伏せた。
「ここでまってる?」
レグが聞く。
返事の代わりなのか、クロの尾が一度だけ床を叩いた。
「じゃあ、まってて」
レグはそれで納得したらしい。
四人は光の道へ足を踏み入れる。
今度はレグが先頭だった。
誰かに案内されるように、壁の光が一つずつ先へ灯っていく。
ハヤトはその背中を追いながら、ふと気づいた。
さっきまで後ろの扉を叩いていた音が、いつの間にか止んでいる。
それを口にしようとしたとき、レグがまた足を止めた。
「どうした?」
通路の先に、大きな扉があった。
今まで見たどの扉とも違う。
表面には竜の姿が彫られ、その中央に例の印が刻まれている。
そして、その下。
人の目線ほどの高さに、小さな手形が一つだけ残されていた。
レグはその手形を見上げたまま、動かなかった。
「……これ」
自分の手を持ち上げる。
大きさが、ほとんど同じだった。




