もうひとつの灯り
通路の奥で揺れていた白い光が、ゆっくりと近づいてくる。
ハヤトは剣の柄に手をかけたまま、その場を動かなかった。隣ではセラが杖を構え、レグもさっきまでの柔らかい表情を消している。クロだけは明らかだった。全身の毛を逆立て、喉の奥から低い唸り声を漏らしている。
光は一定の速さで近づき、やがて足音の主が姿を現した。
男だった。
年は三十前後だろうか。暗い色の外套を着て、片手には魔力灯らしい細長い器具を持っている。腰には短剣が一本。冒険者に見えなくもないが、鎧も大きな荷物もなく、この場所へ探索に来たにしては妙に身軽だった。
男は三人の姿を見つけると、足を止めた。
「……誰だ?」
「それ、こっちの台詞なんだけど」
ハヤトが返す。
男の視線がハヤト、セラ、レグと移り、最後にクロで止まった。
表情が変わった。
「そいつから離れろ」
「クロのこと?」
「名前なんかどうでもいい。噛まれるぞ」
「いまのところ噛まれてない」
「そういう問題じゃない」
男は魔力灯を少し持ち上げた。
クロが一歩後ろへ下がる。怯えたような反応ではない。明らかに男を警戒していた。
ハヤトはそれを見逃さなかった。
「知ってるのか? こいつのこと」
「……知らん」
「今の間でそれは無理あるだろ」
男は答えず、今度は三人の背後へ目を向けた。さっき調べていた部屋。その中に何があるか確認しているようにも見える。
「ここで何してる?」
ハヤトが聞くと、男はわずかに眉を寄せた。
「先に聞いたのは俺だ」
「じゃあ冒険者。森で変な魔物に襲われて、調べてたらここに着いた」
「それだけか?」
「今のところは」
「そうか」
男の視線が再びレグへ向いた。
今度は長い。
「……何?」
レグが先に聞いた。
「いや」
「みてる」
「珍しい髪だと思っただけだ」
「そう?」
レグは自分の髪を触る。
ハヤトは男を見る。
髪を見ていたようには思えなかった。
「お前は?」
「通りすがりだ」
「こんな森の地下を?」
「世の中には物好きもいる」
「便利な言葉だな」
セラが小さく息を吐いた。
「ハヤトも似たようなこと言うけどね」
「今それ言う?」
「ちょっと思っただけ」
男が二人を不思議そうに見た。
緊張感があるのかないのか分からないと思われたかもしれない。
ただ、ハヤト自身は剣から手を離していない。
「この場所、知ってるんだろ?」
「なぜそう思う」
「歩き方」
男の目が少し細くなる。
「暗いのに迷ってない。ここまで来る間に分かれ道もあったはずだし、あんたは地図も見てない」
「よく見てるな」
「たまたま」
「たまたま、ね」
男の口元がほんの少しだけ上がった。
その直後、クロが唸り声を強くした。
「クロ?」
レグがそちらを見る。
男の左手が、外套の内側へ入っていた。
「動かないで」
セラの声が低くなる。
男の手が止まった。
「何もしない」
「じゃあ手を出してください」
「警戒されてるのは俺か」
「当然でしょ」
セラは普段よりはっきりしていた。
男は数秒黙ったあと、ゆっくり左手を外套から出した。何も持っていない。
「これでいいか?」
「今は」
「怖い子だな」
「初対面で地下遺跡から出てきた人に言われたくないです」
「それはもっともだ」
意外にも、男は素直に認めた。
ハヤトは少しだけ剣から手を離したが、完全には警戒を解かなかった。
「で。本当に何してる?」
男は少し考え、通路の壁へ目を向けた。
「調べ物だ」
「何の?」
「昔のものをな」
「さっき俺らも同じような答えしたら、それだけかって聞かれたんだけど」
「人に聞くのと、自分が話すのは別だ」
「ずるいな」
「そういうものだ」
妙に慣れている。
冒険者でも、ただの学者でもない気がした。
男はクロへ視線を戻した。
「その個体は、どこで見つけた?」
「さっき。この奥から出てきた」
「襲われなかったのか?」
「こわがってた」
レグが答えた。
男がレグを見る。
「分かるのか?」
「なんとなく」
「……そうか」
まただ。
レグの答えを聞いたときだけ、反応が違う。
ハヤトが一歩だけ位置をずらし、自然にレグと男の間へ入る。
「何か知ってる?」
「何をだ」
「レグのこと」
男は黙った。
セラの顔からも、さっきまでの軽さが消える。
レグ本人はハヤトの横から男を見ていた。
「しってる?」
「……知らない」
「また間があったな」
「考えていただけだ」
「何を?」
「どこまで話すべきか」
今度は否定しなかった。
ハヤトの手が再び剣へ戻る。
「じゃあ、何かは知ってるんだな」
「少しな」
男は通路の奥を一度振り返った。
「ここで話すことじゃない」
「場所変えたら話す?」
「それは内容による」
「結局話す気ないじゃん」
セラの言葉に、男が苦笑した。
「全部話せと言われても無理だ。俺も全部知ってるわけじゃない」
その言葉だけは、妙に本当らしく聞こえた。
「なら一個だけ」
ハヤトは部屋の中を指した。
「ここで何してた?」
男の視線が止まる。
「昔の話?」
「ああ」
少し長い沈黙のあと、男が口を開いた。
「生き物を変える場所だ」
セラが息を呑む。
ハヤトも無意識に部屋の方を見る。
石板に刻まれていた獣の変化。
異常に発達した前脚。
背中から生えた棘。
「やっぱり、あの魔物は……」
「ここで変えられた可能性が高い」
「最近?」
「最近のものもいる」
「最近の?」
聞き返すと、男はわずかに顔をしかめた。
「この施設そのものは古い。かなりな。ただ、誰かがもう一度使い始めた」
「誰が?」
「それを調べてる」
「じゃあ、あんたがやったわけじゃない?」
「そう見えるか?」
「見えるかどうかで決める気はない」
「正しいな」
男は少しだけ笑った。
「少なくとも、俺はあれを作っていない」
「証拠は?」
「ない」
「じゃあ信用できない」
「それも正しい」
話しにくい相手だった。
嘘を並べている感じはしないのに、肝心なところは何も渡してこない。
「鹿も?」
セラが聞いた。
「首に金具がついた鹿がいたんです。外したらかなり弱ってて」
男の表情が変わる。
「どこで見つけた?」
「森の中です」
「金具は?」
「持ってる」
ハヤトが答えた瞬間、男の視線がこちらへ向いた。
「見せろ」
「嫌だ」
「……即答だな」
「さっきから怪しいから」
「それは否定できない」
自覚はあるらしい。
「触ったか?」
「布越しに」
「ならいい」
「何が?」
「直接触るな。特に長時間は」
「理由は?」
男は少し迷い、今度はレグを見た。
「魔力を吸う」
セラの表情が変わる。
「魔力を?」
「ああ。少しずつだがな。それだけなら大したことはない。ただ、長くつけられれば話は別だ」
「じゃああの鹿が弱ってたのも……」
「餌が取れなかったせいだけじゃないだろう」
ハヤトは鞄の外側に固定した包みを見る。
持ってきて正解だったか、一瞬不安になる。
「包んであるなら問題ない。あとで捨てるなら、人や獣が触らない場所にしろ」
「分かった」
「素直だな」
「危なそうな話は聞くよ」
「意外だ」
「会って十分も経ってないのに何を知ってんだよ」
セラが横で少し笑った。
その空気が緩んだ瞬間、男の目がハヤトの鞄へ落ちた。
金具ではない。
中に入れた冊子の方。
「何か持ち出したか?」
声が変わった。
「なんで?」
「ここにあったものだ」
ハヤトは答えなかった。
男もそれだけで察したようだった。
「見つけたんだな」
「読むつもり?」
「読めるのか?」
逆に聞き返す。
「少しなら」
三人の視線が男へ集まった。
「最初に言えよ」
「聞かれなかった」
「そういう問題?」
セラも呆れている。
ハヤトは少し迷った。
冊子を見せるか。
この男が何者なのか、まだ分からない。ただ、今のところ襲ってくる様子はないし、文字を読めるという話が本当なら大きな手がかりになる。
「見るだけ」
「ああ」
「持って逃げたら追うからな」
「逃げられると思ってない」
男の目が一瞬レグへ向いた。
「……それはそうかも」
セラも同じことを考えたらしい。
ハヤトは鞄から布に包んだ冊子を取り出し、自分で持ったまま表紙を見せる。
男は近づかず、その場から目を細めた。
表紙の印を見た途端、顔からわずかに血の気が引いた。
「それを、どこで?」
「向こうの部屋」
「開いたのか?」
「少し」
「中に竜の絵があった」
男の顔が完全に変わった。
それまで保っていた余裕が初めて消える。
「その冊子を閉じろ」
「もう閉じてるけど」
「……そうじゃない」
男は一歩近づきかけ、クロが唸ったことで止まった。
「それを持って、ここから出ろ」
「急にどうした?」
「いいから出ろ」
「理由言って」
「ここに長くいるな。今すぐだ」
セラがハヤトを見る。
さっきまでとは空気が違う。
男は嘘をついているようには見えなかった。
「何が来る?」
レグが聞いた。
男が彼女を見る。
「来るんじゃない」
「じゃあ?」
男の視線が、レグから冊子へ移る。
「起きる」
その直後だった。
足元が小さく揺れた。
「……え?」
天井から細かな砂が落ちる。
クロが突然吠えた。
奥の通路。
今まで暗かった壁の一部に、細い光が走る。
一つ。
二つ。
それが線になって広がり、古い文字の形を浮かび上がらせていく。
「何これ……」
セラが後ずさる。
男はもう説明しなかった。
「走れ!」
初めて、声を荒らげた。
次の瞬間、遺跡の奥深くから、低い音が響いた。
獣の声ではない。
石が動く音でもない。
ずっと眠っていた何かが、ようやく息をしたような音だった。




