残された形
レグの指先が、石板に刻まれた竜の絵のすぐ手前で止まっていた。
触れてはいない。ただ、そこに何かを確かめるように手を伸ばしたまま、動かない。
「知ってるって、何を?」
ハヤトが聞いても、すぐには返事がなかった。
レグは絵を見つめたまま眉を寄せる。思い出そうとしているというより、頭の中に浮かんだものが何なのか、自分でも分からず戸惑っているようだった。
「……これ」
「竜の絵?」
「ちがう」
レグの指が少し動き、竜の横に刻まれた細い線を示した。
よく見れば、それはただの模様ではなかった。円の中に三本の線が入り、その中心だけが小さく欠けている。石板だけでなく、竜の身体の近くにも同じ印がいくつか刻まれていた。
「この印?」
「うん」
セラもそばへ寄る。
「どこで見たか分かる?」
レグは目を閉じた。
しばらく何も起こらない。
ハヤトは急かさず待った。
「……くらい」
やがて、レグが小さく呟く。
「暗い?」
「うん。さむい。あと……おと」
「どんな音?」
「ガチャってする」
レグの手が、自分の首元へ移った。
ハヤトの視線もそこへ向く。
「鎖?」
その言葉を聞いた瞬間、レグの肩がわずかに揺れた。
セラがすぐにハヤトを見る。
聞きすぎたかもしれない。
「レグ、もういいよ」
「でも」
「無理に思い出さなくていい」
セラの声はいつもより柔らかかった。
レグはしばらく黙ったあと、ようやく石板から手を離す。
「……うん」
それでも表情は晴れない。
ハヤトは石板へ目を戻した。
獣の姿が変化していく絵。
同じように描かれた竜。
そして、レグが知っているという印。
ここで何が行われていたのか。
だいたいの想像はできる。
だが、想像だけで決めつけるのは早い。
「ほかに何か残ってないかな」
セラが部屋を見回した。
「文字が読めれば早いんだけどな」
「読めないものはしょうがないでしょ」
「こういうとき便利な能力ないかな」
「急に生えないからね」
「分かってるって」
《自由》は何でも都合よく答えをくれる力ではない。
知らない文字が突然読めるようになるわけでもないし、失われた記憶を引き出せるわけでもない。
必要なら、覚えるしかない。
ハヤトは部屋の端から順番に調べることにした。
壊れた棚。
割れた瓶。
錆びた器具。
長い年月を感じさせるものばかりだが、中には妙に新しい跡も混ざっている。床に残った血や毛だけではない。棚の埃が部分的に払われ、いくつかの瓶は最近動かされたように見えた。
「誰か来てるな」
「最近?」
「多分」
セラがしゃがみ込み、床を指差した。
「これも」
薄い埃の上に靴跡が残っていた。
昨日見た魔物の足跡ではない。
明らかに人間のものだ。
「一人?」
「分かんない。重なってる」
足跡は部屋の奥へ続いている。
ここがただ放置されていた古い遺跡ではない可能性が高くなった。
ハヤトは反射的に入口の方を見る。
案内してきた魔物はまだ同じ場所に伏せている。こちらを警戒する様子もなく、ただ静かに呼吸していた。
「こいつをここに繋いだのも、最近来た誰かかな」
「それなら、鹿も?」
「あり得る」
古い施設を誰かが見つけ、再び使っている。
そう考えれば、新しい鎖や異常な魔物が存在する理由も少しはつながる。
ただし、それなら別の疑問が出る。
「何のために?」
セラも同じことを考えたらしい。
「魔物を変えるため?」
「だとしたら、何でそんなことするんだろうな」
強い魔物を作る。
戦わせる。
売る。
兵器にする。
考えようと思えばいくらでも考えられるが、どれも今はただの想像でしかない。
「もっと奥いく?」
レグが聞いた。
さっきまでより声は落ち着いている。
「平気?」
「うん」
「本当に?」
セラが念を押す。
レグは少し考えてから頷いた。
「こわいの、ちょっと。でも、みたい」
ハヤトはその答えを聞いてから、奥へ続く足跡へ目を向けた。
「じゃあ行こう。ただ、何か変だと思ったらすぐ戻る」
「うん」
「今度は本当にね」
セラがハヤトを見る。
「なんで俺に言ってんの?」
「一応」
「信用されてないなぁ」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
三人が部屋を出ようとすると、床に伏せていた魔物もゆっくり立ち上がった。
「また来る」
「ついて来るのかな」
魔物は三人より先へ出ると、今度は迷うことなく別の通路へ向かった。
どうやらまだ案内は終わっていないらしい。
「便利だけど、不思議だな」
「名前つける?」
レグが突然言う。
「何で?」
「ずっと『まもの』っていってる」
「確かに」
セラが魔物を見る。
「でも勝手につけていいのかな」
「本人に聞いても答えないだろ」
魔物はこちらを振り返る。
偶然だろうが、話を聞いているようにも見えた。
「クロ」
「雑じゃない?」
「黒いし」
「ハヤトっぽい」
「どういう意味だよ」
「クロ」
レグは気に入ったらしい。
魔物へ向かって呼びかける。
「クロ」
反応はない。
「クロ」
もう一度。
魔物の耳が少し動いた。
「きいた」
「たまたまだろ」
「クロ」
今度は魔物が振り返った。
「……反応してるね」
セラが笑う。
「じゃあクロでいいか」
「決まり」
本人――というより本獣の意思は完全に無視された。
クロはそのまま通路を進み始める。
三人も後を追った。
今度の通路は、これまでより狭かった。壁には鎖もなく、代わりに小さな扉がいくつも並んでいる。
一つ目の扉は開かなかった。
二つ目は半分壊れている。
中を覗くと、棚と机だけが残っていた。
「研究室みたいだね」
「それっぽい」
机の上には紙らしきものもあったが、触れた瞬間に崩れそうなほど傷んでいる。
その中で、一冊だけ形を保っているものがあった。
「これ、持てるかな」
ハヤトが慎重に手を伸ばす。
革のような素材で覆われた薄い冊子だった。
表紙には文字が刻まれている。
当然読めない。
ただ、その下に見覚えのある印があった。
円。
三本の線。
中心の欠け。
「さっきの」
セラが気づく。
レグも近づいてきた。
「これ」
「同じだな」
冊子を開く。
中の文字も読めない。
だが何枚かめくったところで、絵が出てきた。
獣。
身体の横に細かな線が引かれ、何かを書き込んでいる。
次のページには別の獣。
さらにめくる。
今度は翼のようなものが見えた。
「これ……」
ページの端が破れている。
全体は残っていない。
それでも、描かれているものが竜だということは分かった。
レグが冊子を覗き込む。
「おなじ?」
「壁の絵とはちょっと違うな」
もっと細かい。
観察記録のようにも見える。
竜の身体の何か所かに印がつき、その横に大量の文字が書かれている。
ハヤトには意味が分からない。
「持って帰ろう」
「読める人探す?」
「ああ。村じゃ無理でも、この先の町なら誰かいるかもしれない」
「そうだね」
ようやく、外へ持ち出せる手がかりが見つかった。
ハヤトは冊子を布で包み、鞄へ入れる。
そのとき、廊下の奥から音がした。
今までクロが立てていた鎖の音ではない。
カツ。
硬いものが石床を叩く。
三人の会話が止まった。
もう一度。
カツ。
一定の間隔。
足音だった。
ハヤトは剣へ手を伸ばす。
セラもすぐに杖を構えた。
クロの様子も変わっている。
毛を逆立て、廊下の奥へ低く唸り始めた。
「誰かいる」
セラが小声で言う。
「みたいだな」
古い遺跡。
最近残された人間の足跡。
そして、こちらへ近づいてくる足音。
レグがハヤトの袖を軽く掴んだ。
「くる」
暗い通路の向こうで、白い光が一つ揺れた。
三人が使っているものとは別の灯りだった。




