鎖の向こう
暗闇の奥から聞こえる音は、一定の間隔で近づいてきた。
ガリ、と金属が床を擦り、少し止まる。また何かが動き、同じ音が響く。
ハヤトは剣を構えたまま、灯りを少し高く掲げた。白い光が広がる範囲にはまだ何もいない。だが、さっきまで壁の絵を見ていたレグは完全にそちらへ身体を向けている。
「近い?」
「うん」
「危ない?」
レグはすぐには答えなかった。
「……わかんない」
その返事が一番困る。
昨日までなら、魔物が近くにいればもっとはっきり反応していた。襲ってくるものに対しては、レグ自身もほとんど迷わない。
今回は違う。
怖がっているというより、どうしていいのか分からないように見えた。
「一回下がる?」
セラが小声で言う。
「いや。姿だけ確認しよう。何か来たらすぐ戻る」
「分かった」
「レグも、勝手に突っ込むなよ」
「うん」
珍しく素直だった。
三人は壁際へ寄り、音のする方を見つめる。
ガリ。
また近づいた。
次の音と一緒に、灯りの端へ何かが入った。
黒い影。
低い位置にある。
ハヤトは剣を握り直した。
影が一歩進む。
最初に見えたのは前脚だった。
「……またあいつ?」
セラが息を呑む。
似ている。
森で戦った魔物と同じ、黒灰色の毛。ただし前脚は異様に太くない。身体も一回り以上小さく、普通の大型犬に近い大きさだった。
それでも、ハヤトはすぐには剣を下ろさなかった。
魔物がもう一歩出てくる。
そこで、音の正体が分かった。
首に金属の輪がついている。
そこから伸びた鎖が床を引きずっていた。
「鎖……」
セラが呟く。
魔物は三人の存在に気づいていた。
だが襲ってこない。
むしろ一定の距離まで来ると、その場に立ち尽くした。
痩せている。
肋骨が浮き、毛もところどころ抜けていた。森で襲ってきた二匹とは姿が似ているのに、身体の形はずっと自然に見える。
「同じ種類なのか?」
「においは、おなじ」
レグが小さく答える。
「でも、ちがう」
「またそれか」
「こっち、すくない」
「何が少ない?」
「へんなにおい」
ハヤトは目の前の魔物と、昨日戦った個体を思い出す。
確かに見た目も違う。
森にいたものは、前脚だけが異常に発達していた。二匹目に至っては、背中から棘まで生えていた。
目の前にいるものは、それらと比べればずっと普通だ。
「……これが元?」
セラの言葉に、ハヤトも同じことを考えた。
「何かされて、ああなったってこと?」
「まだ分からない」
ただ、その可能性は出てきた。
魔物が低く唸る。
三人とも一瞬身構えたが、飛びかかってはこなかった。
よく見ると、首の金具から伸びた鎖は途中で切れている。その先端が床を擦っていた。
「逃げ出したのかな」
「かも」
この遺跡が崩れたのが一月ほど前。
その頃から、森には見たことのない魔物が現れるようになった。
もしここに閉じ込められていたものが外へ出たのなら、時期は合う。
ただ、それだけでは昨日の魔物の異常な身体までは説明できない。
「レグ」
「なに?」
「こいつ、怒ってる?」
レグは魔物をじっと見る。
「……こわがってる」
「分かるの?」
「なんとなく」
魔物は唸っているものの、身体を低くしていた。
逃げる場所を探しているようにも見える。
ハヤトは剣先を少し下げた。
「ハヤト?」
「襲ってこないなら、こっちからやる必要ないだろ」
「でも近づくのは危ないよ」
「近づかない」
セラも杖は構えたまま、それ以上前へは出なかった。
しばらくすると、魔物の唸り声が少しずつ弱くなる。
レグが一歩だけ前へ出た。
「レグ」
「だいじょうぶ」
「いや、その根拠は?」
「ない」
「じゃあ大丈夫じゃないだろ」
止めようとしたところで、レグがこちらを振り返った。
「でも、レグのこと、みてる」
「そりゃ見てるだろ」
「ちがう」
もう一度、魔物を見る。
「なんか……しってるみたい」
ハヤトは黙った。
魔物の視線は確かにレグへ向いている。
ただ警戒しているだけかもしれない。人間とは違う匂いでも感じ取っているだけかもしれない。
それでも、レグがそう感じるなら無視する気にもなれなかった。
「そこから動くなよ」
「うん」
レグはその場にしゃがんだ。
魔物との距離はまだ十分ある。
「こっち、こない?」
当然、返事はない。
「レグ、なにもしないよ」
「会話できると思ってる?」
「わかんない」
セラが小さく笑いかけたが、すぐに真面目な顔へ戻った。
魔物が動いたからだ。
一歩。
レグへ近づく。
ハヤトはすぐ剣を構え直した。
「レグ、戻れ」
「まって」
もう一歩。
魔物はそこで止まった。
鼻を動かしている。
レグも動かない。
数秒。
そのまま睨み合うような時間が続いたあと、魔物は突然顔を逸らした。
そして三人ではなく、部屋の奥へ向かって歩き始める。
鎖を引きずる音が再び響いた。
「……行っちゃった」
セラが呟く。
「何だったんだ?」
レグが立ち上がる。
「ついてきて、って」
「言われたの?」
「いってない」
「じゃあ何で?」
「そんなかんじ」
「また感覚か」
「うん」
信じるべきか迷うところだった。
だが魔物は少し進むと一度立ち止まり、こちらを振り返った。
三人が動かない。
するとまた数歩進み、もう一度振り返る。
「……それ、ついて来いってやつじゃない?」
セラが言った。
「だよな」
昨日のネイトの話が頭をよぎる。
あの魔物も、逃げながら何度も振り返っていたという。
「同じことしてるな」
「じゃあ、昨日のも?」
「分からない。ただ襲ってきたやつと、こいつじゃ様子が違いすぎる」
ハヤトは少し迷ったあと、剣を下げた。
「行ってみよう。ただし距離は取る」
「うん」
「わかった」
三人が歩き始めると、魔物も再び奥へ進んだ。
部屋の先には細い通路が続いていた。
こちらは今まで歩いてきた場所より損傷がひどい。壁の一部は崩れ、床には石や古い木片が散らばっている。
途中には、小さな部屋がいくつも並んでいた。
最初の一つを覗き、ハヤトは足を止めた。
「……これ」
中には何もいない。
だが壁の四方に鎖がついていた。
床には爪で引っ掻いたような跡が無数に残っている。
隣の部屋も同じ。
さらにその隣も。
「全部、何か入れてたんだね」
「ああ」
檻というより、部屋そのものを使って閉じ込めていたらしい。
古い跡が多い。
ただし、ところどころ新しい傷も混じっている。
つまり、最近までここに何かいた。
「嫌な場所だね」
セラが珍しくはっきり言った。
「俺もそう思う」
レグは何も言わなかった。
時々立ち止まっては、それぞれの部屋を見ている。
「大丈夫か?」
「……うん」
返事はしたが、いつものレグではない。
奥へ進むほど、その様子は強くなっていった。
やがて魔物が一つの扉の前で止まった。
今までの部屋より大きい。
扉そのものは半分壊れていて、人が通れる隙間がある。
魔物はそこから中へ入った。
「ここ?」
レグも入口へ近づく。
ハヤトが先に灯りを入れた。
広い。
最初の部屋と同じくらいある。
だが置かれているものが違った。
床に並ぶ、いくつもの石台。
壁際には壊れた瓶や金属製の器具。
中央には、腰の高さほどある大きな台が一つ置かれている。
そしてその上。
「……何だ、あれ」
黒い塊があった。
最初は石だと思った。
だが形が妙だ。
灯りを近づける。
「鱗?」
セラが先に気づいた。
一枚だけではない。
何枚もの黒い鱗が、台の上に積まれている。
一枚一枚がハヤトの手のひらより大きい。
レグの身体にある鱗とも違う。
もっと厚く、黒に近い。
「レグ?」
声をかけても、返事がなかった。
レグは台の前まで歩いていた。
「触るなよ」
「……うん」
返事はした。
けれど視線は鱗から離れない。
「知ってる?」
セラが優しく聞く。
レグはゆっくり首を横に振った。
「しらない」
「じゃあ、何か感じる?」
少し間があった。
「かなしい」
ハヤトはレグを見る。
「何が?」
「わかんない」
本人にも説明できないらしい。
ただ、その顔にはいつもの好奇心がなかった。
少し離れたところでは、ここまで案内してきた魔物が床へ伏せていた。
逃げるわけでもない。
三人を襲う様子もない。
まるで、ここまで来れば役目は終わったとでもいうように。
ハヤトは部屋を見回す。
そのとき、壁際に置かれた石板が目に入った。
半分倒れている。
表面には、さっきの通路と同じ読めない文字が刻まれていた。
ただ、その下には文字ではないものもある。
「セラ、灯りこっち」
「うん」
二人で石板を起こす。
そこに彫られていたのは、いくつかの絵だった。
最初は四つ足の獣。
その次では、前脚が大きくなっている。
さらに次。
背中から棘のようなものが伸びていた。
三人とも黙った。
昨日戦った二匹。
その姿と、あまりにも似ている。
「……これ、偶然じゃないよね」
「多分な」
ただの魔物が突然変わったわけではない。
少なくとも、この場所にはその変化を記録した何かが残されている。
石板の一番下には、もう一つ絵があった。
獣ではない。
大きな翼。
長い尾。
角。
竜。
その姿の横にも、同じような線がいくつも描かれている。
ハヤトは何も言えなかった。
隣で、レグの息が止まるような音がした。
「……レグ?」
レグは石板を見たまま動かなかった。
そして、ぽつりと呟いた。
「これ……」
小さな手が、竜の絵へ伸びる。
「しってる」
さっき壁画を見たときよりも、はっきりした声だった。




