途切れた道
エルナ村を出て一時間ほどは、昨日までと変わらない街道が続いていた。
朝の冷たさも日が昇るにつれて薄れ、畑の向こうでは農作業を始める人の姿が見える。すれ違う荷馬車こそ少なかったが、森で見た魔物のことを知らなければ、特に変わったところのない朝だった。
やがて、ガルドに教えられた分かれ道が見えてくる。
道、と呼ぶには少し頼りない。街道の脇から草の間へ伸びている細い踏み跡で、昔から狩人たちが使っているらしい。
「ここだな」
ハヤトが足を止めると、セラが手元の地図と見比べた。
「たぶん合ってる。まっすぐ行って、途中の大きな岩を越えたら北寄りに曲がるって言ってたよね」
「うん」
「……なんでハヤトより私が覚えてるんだろ」
「地図持ってる人の仕事じゃない?」
「渡したのハヤトでしょ」
「適材適所ってやつ」
「便利な言葉だね、それ」
セラは呆れたように地図を畳んだ。
その横を、レグが先に細道へ入っていく。昨日のように匂いを追っている様子はなく、まだ足取りも軽い。
「レグ、あんまり先行くなよ」
「いってない」
「もう俺らより前だけど」
「ちょっとだけ」
本人の中では問題ないらしい。
三人が街道を外れると、少しずつ人の気配が遠ざかっていった。
最初のうちは森も明るかった。木々の間には十分な隙間があり、獣が通ったらしい跡もそこかしこに残っている。地面には小さな足跡があり、枝には鳥の姿も見えた。
ガルドが普段使っているというのも納得できる。
ただ、一時間ほど歩いたところで、ハヤトは少しずつ妙な感覚を覚え始めた。
「なあ」
「うん」
隣を歩くセラも、すぐに返した。
「やっぱ分かる?」
「さっきから静かすぎない?」
同じことを感じていたらしい。
風はある。葉も揺れているし、枝が擦れる音も聞こえる。
なのに、鳥の声がない。
さっきまで何度も見かけていた小動物の姿も、いつの間にか消えていた。
「ガルドが言ってた、獣が減ったってこれか」
「減ったっていうより……いなくなったみたい」
セラが周囲を見回す。
ハヤトも足元に目を向けた。
それまで続いていた小さな足跡が見当たらない。狩人が使う踏み跡自体はまだ残っているものの、新しい痕跡はほとんどなくなっていた。
「レグは何か分かる?」
少し前を歩いていたレグが止まる。
すぐには答えず、森の空気を確かめるように鼻を動かした。
「……いる」
「何が?」
「におい」
昨日から話していたものらしい。
「近くなった?」
「うん。でも、まだとおい」
レグはそう言ってから、足元を見る。
「どうした?」
「これ、へん」
レグがしゃがんだ場所には、獣道らしい細い跡があった。
しかし数歩先で、突然途切れている。
草が生い茂って消えたわけではない。むしろその先だけ、地面が荒れていた。
「何か通った跡かな」
セラもしゃがみ込む。
土には大きな窪みがいくつか残っている。形は崩れているものの、昨日見た魔物の足跡に近い。
「こいつらが追い払ったのか?」
「それなら獣がいなくなったのも分かるけど……」
セラは途中で言葉を止めた。
少し離れた木の根元に、白いものが落ちている。
三人で近づくと、それが小さな骨だと分かった。
「食べられた?」
「多分」
ハヤトが周りを見る。
骨は一つだけではなかった。
葉の下にもいくつか散らばっている。大きさから見て、小型の獣だろう。
レグは骨より、近くの木に残された傷を見ていた。
三本。
昨日と同じ爪痕だった。
「やっぱりここにもいるな」
「うん」
セラの声が少し低くなる。
ここから先は、昨日のようにいつ襲われてもおかしくない。
三人は自然と距離を縮めた。
それまで軽く話しながら歩いていたレグも、今は周囲をよく見ている。
さらに森の奥へ進む。
ガルドに言われた大きな岩を越え、そこから北寄りへ進路を変えるころには、森の様子は完全に変わっていた。
木々そのものは変わらない。
けれど、生き物の気配だけが薄い。
音がないせいか、自分たちの足音ばかりが耳についた。
「なんか嫌だね、ここ」
「分かる」
「何もいない方が安全なはずなのに」
「何もいない理由があると思うと、逆にな」
セラが小さく頷いた。
そのとき、前を歩いていたレグが急に立ち止まった。
「レグ?」
返事がない。
肩に力が入っている。
ハヤトが近づこうとすると、レグが手を上げた。
「まって」
三人とも動きを止めた。
「何かいる?」
「……いる。でも、ちがう」
「昨日の魔物じゃない?」
「ちがう」
レグは右手側の茂みを見ている。
しばらくすると、そこから小さな音がした。
がさり。
ハヤトは剣の柄へ手を添える。
もう一度、草が揺れた。
出てきたのは、小さな鹿だった。
「……鹿?」
若い個体らしい。
昨日の魔物とは比べるまでもなく小さい。驚いたのは、逃げないことだった。
鹿はこちらを見ている。
いや、見えていないのかもしれない。
足取りがふらつき、頭を低く下げたまま、ゆっくり茂みから出てくる。
「怪我してる?」
セラが一歩前へ出る。
「待って」
今度はハヤトが止めた。
鹿の首元。
毛の間に、黒いものが見えた。
「……何あれ」
細い金属だった。
首の周りに巻かれている。
輪のような形。
そこから短く切れた鎖が垂れていた。
ネイトの話が頭をよぎる。
「鎖……」
セラも気づいたらしい。
鹿は数歩進み、その場で前脚を折った。
「おい」
ハヤトが近づく。
逃げない。
それどころか、もう立ち上がる力も残っていないようだった。
近くで見ると身体はかなり痩せている。首の金具は自然に引っかかったものではない。きちんと輪になっていて、誰かがつけたとしか思えなかった。
「これ、人がやったの?」
セラがしゃがむ。
「そう見える」
「外せるかな」
金具には留め具らしいものがある。
ハヤトが触れようとした瞬間だった。
「さわらないで」
レグの声が飛んできた。
いつもより強い。
ハヤトの手が止まる。
「どうした?」
レグが鹿へ近づく。
表情が変わっていた。
鼻を近づけるまでもなく、何かを感じているらしい。
「これ」
首の金具を指差す。
「においする」
「昨日の?」
「うん」
レグはさらに近づき、今度は確信したように頷いた。
「おなじ」
ハヤトとセラが顔を見合わせる。
昨日の魔物から感じた妙な匂い。
森の奥へ続いていた匂い。
それが、この鹿につけられた金具からもしている。
「魔物じゃなくて……これの匂いだった?」
「ちがう」
レグは首を横に振った。
「まものにもある。これにもある」
「じゃあ、同じ何かに触れてたってこと?」
「たぶん」
そこまでなら、分かるらしい。
セラが鹿の身体へそっと触れる。
「かなり弱ってる。傷もある」
「治せそう?」
「やってみる。でも、その前にこれ外したい」
ハヤトは金具を観察する。
留め具は単純だった。
剣先を使えば外せそうだ。
「レグ、触らない方がいいのは匂いがするから?」
「……わかんない」
「危ない感じする?」
少し考えたあと、レグは首を横に振った。
「こわくはない。でも、いや」
それなら素手で触らない方がよさそうだ。
布を一枚取り出し、金具に直接触れないよう押さえる。剣先を隙間へ入れて力をかけると、思ったより簡単に留め具が外れた。
金属の輪が地面へ落ちる。
その瞬間だった。
鹿の身体がびくりと震えた。
「セラ!」
「分かってる!」
セラがすぐに手をかざす。
淡い光が鹿の身体を包み込む。
ハヤトは落ちた金具を見る。
何も起きていない。
ただの黒ずんだ金属にしか見えない。
「……何なんだ、これ」
拾わずに眺めていると、レグがその横へしゃがんだ。
じっと見ている。
「思い出した?」
「まだ」
少し残念そうに答えた。
セラの治療が終わるころには、鹿の呼吸もいくらか落ち着いていた。
「これ以上は休ませた方がいいと思う」
「歩けそう?」
「今すぐは無理。でも少ししたら動けるかも」
三人は近くの木陰へ鹿を移した。
問題は金具だった。
「持ってく?」
セラが聞く。
「一応」
「触らない方がいいんじゃなかった?」
「布に包む。何か分かるかもしれないし」
ハヤトが厚めの布で包み、他の荷物とは分けて鞄の外側へ固定する。
その間もレグは金具から目を離さなかった。
「そんな気になる?」
「うん」
「匂いが?」
「それも」
「ほかに何かあるの?」
レグは答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
少しして歩き出すと、それまで曖昧だったレグの進む方向が変わった。
ガルドから教えられた道ではない。
「レグ、そっちじゃないぞ」
「こっち」
「穴はもう少し北だろ?」
「でも、においこっち」
ハヤトが地図を見る。
レグが示した方向と、穴があると聞いた場所。
完全には一致しないが、大きく外れてもいない。
「どうする?」
セラが聞く。
ハヤトは少し考え、地図を畳んだ。
「レグについて行こう」
「穴じゃなくて?」
「どっちにしても近い。先に匂いの元を見た方が早そうだ」
レグはそれを聞くと、迷わず歩き始めた。
森はさらに静かになっていく。
やがて地面の傾斜が少しずつ下がり始めた。
土が柔らかい。
ところどころ、最近崩れたような跡もある。
そしてしばらく進んだところで、レグがまた足を止めた。
「ここ」
目の前には、何もない。
ただ木々の間に、土の壁が見えているだけだった。
「ここって?」
セラが首を傾げる。
レグはその先へ進み、垂れ下がった枝を手で避けた。
その向こう。
地面が大きく沈み込んでいた。
自然にできた窪みというには深すぎる。
崩れた土の下から、黒い岩肌のようなものが覗いている。
そして、そのさらに下。
暗闇の中へ続く隙間が開いていた。
ハヤトは地図を確認する。
ガルドが印をつけた場所と、ほとんど同じだった。
「……ここか」
森の奥に突然現れたという穴。
その入口から、冷たい空気がゆっくり流れ出していた。
レグだけが何も言わず、その暗闇を見つめていた。




