森を抜けるまで
レグはしばらく森の奥を見つめたまま動かなかった。
抱き上げようとしていたネイトのそばにしゃがみ込みながら、何かを思い出そうとするように鼻を小さく動かしている。
「まだ匂う?」
「うん」
「近い?」
「……そんなに近くない」
その答えを聞いて、ハヤトは少しだけ迷った。
レグが「知っている気がする」と言った匂いが何なのかは気になる。今回の魔物と関係している可能性もあるし、もしかすると東へ向かう理由になった古い記録につながる何かかもしれない。
ただ、目の前には重傷のネイトがいる。
セラの治癒で出血は止まったものの、まだ安心できる状態ではない。
「一回戻ろう」
ハヤトがそう言うと、レグが振り返った。
「いかない?」
「今はな」
「……そっか」
思ったより素直に頷いたものの、少しだけ名残惜しそうだった。
「気になる?」
「うん」
「俺も気になる。でも、あとで来られるならその方がいい」
レグはもう一度森の奥を見た。
「なくならない?」
「匂い?」
「うん」
「分かんない」
「……じゃあ、おぼえとく」
「頼む」
レグはこくりと頷くと、今度こそネイトを抱き上げた。
成人した男を軽々と横抱きにする姿は相変わらず妙だったが、今はそれを気にしている場合でもない。セラがネイトの様子を確認しながら、その横を歩く。
「揺らしすぎないでね」
「こう?」
「うん。それくらい」
言われた途端、レグの歩き方が妙に慎重になった。
一歩ずつ、ほとんど足音を立てずに進んでいく。
「そこまでゆっくりじゃなくても大丈夫だと思うぞ」
「セラ、ゆらすなっていった」
「言ったけど……普通に歩いていいよ」
「むずかしい」
「極端なんだよな」
ハヤトが笑うと、レグは少し不満そうに頬を膨らませた。
帰り道は、来たときよりずっと長く感じた。
魔物がもう一匹いる可能性も捨てきれず、周囲を警戒しながら進む。幸い、それ以上襲われることはなかった。
少しして、待たせていたラウルの姿が見えた。
「ネイト!」
こちらに気づくなり、傷めた足も忘れたように立ち上がろうとする。
「動くなって!」
ハヤトが声を上げると、ラウルは途中で顔をしかめ、その場にしゃがみ込んだ。
「生きてるのか?」
「生きてる。セラが治療した」
「まだ安心はできないです。早くちゃんとしたところで診てもらった方がいいと思います」
セラがそう伝えると、ラウルは何度も頷いた。
「ありがとう……本当に」
レグに抱えられたネイトへ手を伸ばし、呼吸していることを確かめる。その顔から、ようやく少し力が抜けた。
「魔物は?」
「二匹とも倒した」
「二匹……」
ラウルは安心したように息を吐いたが、ハヤトはすぐ続けた。
「ただ、この辺にあれだけとは限らない」
「まだいるってことか?」
「分からない。レグが同じ匂いをいくつか感じてたみたいだから」
ラウルがレグを見る。
その瞬間、さっき木を持ち上げた光景でも思い出したのか、少し複雑な顔になった。
「……この子は、本当に何なんだ?」
「レグ」
「またそれか」
「レグはレグ」
今度は本人までそう答えた。
ラウルはしばらく黙ったあと、諦めたように首を振る。
「まあ、助けてもらったんだ。何だっていい」
「それが一番助かる」
ハヤトは笑った。
問題はここからだった。
ネイトはレグが運べるとしても、ラウルの足では村まで普通に歩くのは難しい。街道へ戻ったところで、都合よくすぐ荷馬車が通るとも限らない。
「俺、肩貸すよ」
ハヤトがラウルの腕を取ろうとすると、横からレグがじっと見ていた。
「何?」
「レグ、ふたりもてる」
「やめとけ」
「もてるよ?」
「持てるかどうかの問題じゃない」
「なんで?」
説明しようとして、やめた。
ネイトを抱え、さらにラウルまで担いだ小柄な女性が街道を歩いていたら、どう見てもおかしい。
「とにかく一人でいい」
「そっか」
納得はしていないらしい。
セラが横で笑っていた。
「レグなら本当にやりそう」
「だから止めたんだよ」
「別にいいんじゃない?」
「村に入る前から目立つだろ」
「もう十分目立ってる気もするけど」
ネイトを抱いたまま首を傾げているレグを見る。
「……それはそう」
反論できなかった。
四人で森を出ると、午後の日差しが思った以上に眩しかった。
街道まで戻ったところで一度休み、ラウルの足とネイトの傷をセラがもう一度確認する。どちらも急に悪化している様子はない。
壊れた荷馬車はそのまま残っていた。
「ドルクはちゃんと村まで行けたかな」
「さっきの荷馬車なら大丈夫じゃない?」
「そうだな」
ハヤトは街道の先を見る。
エルナ村までの距離は、ここからならあと数時間ほどのはずだった。
予定では夕方前には着くつもりだったのだが、もうそんな時間ではない。
「初日から予定ずれたな」
「ハヤト、朝なんて言ってたっけ?」
「何が?」
「順調なら二十日くらい、って」
「ああ」
「まだ一日目だよ」
「……順調じゃないな」
「だから言ったじゃん」
セラは呆れながらも笑っていた。
「でも、まあいいだろ」
「何が?」
「急いでないし」
ハヤトがそう言うと、セラは一瞬だけ黙ったあと、小さく笑う。
「そうだったね」
そのまま歩き出そうとしたところで、レグが振り返った。
森の方を見ている。
「どうした?」
「まだある」
「匂い?」
「うん」
森を出ても感じるらしい。
「どんな匂いなんだ?」
今度こそ何か分からないかと思って聞いてみたが、レグは困ったような顔をした。
「しってる。でも、しらない」
「どっちだよ」
「わかんない」
レグ自身もおかしいと思ったのか、眉間にしわを寄せている。
「前に嗅いだことがある気がするってこと?」
「たぶん」
「どこで?」
そこでレグはしばらく考えた。
「……ずっとまえ?」
「ずっと前って、どれくらい?」
「わかんない」
これ以上は難しそうだった。
「まあいいか。今思い出せないなら、そのうち思い出すだろ」
「うん」
レグは森から目を離した。
ただ、その表情はいつものようにすぐ明るくはならなかった。
街道を歩き始めてから一時間ほどすると、前方に小さな荷馬車が見えた。
今度は反対からではない。
こちらへ向かってくる。
「おーい!」
御者台から誰かが大きく手を振っていた。
近づいてきた顔には見覚えがある。
「ドルク?」
村へ送ったはずのドルクが、荷台に座っていた。
隣には村人らしい男が二人いる。
「迎えに来たぞ!」
「その足で何してんだよ」
「村でじっと待ってられるか!」
ドルクは悪びれる様子もない。
セラが小さくため息をついた。
「怪我人って、なんで言うこと聞かないんだろ」
「俺を見るな」
「見てないけど」
「絶対見た」
ドルクたちはネイトとラウルを見つけるなり、すぐ荷馬車を止めた。
ネイトを荷台へ寝かせ、ラウルも乗せる。レグから受け取ったネイトを見て、ドルクはしばらく言葉を失っていた。
「二人とも戻ってきた……」
「まだネイトは治療が必要です」
「ああ。村の治療師には話してある。すぐ診てもらえる」
それを聞いて、セラもようやく安心したようだった。
「なら大丈夫そうだね」
ハヤトも荷台に乗り込もうとしたとき、ドルクが倒した魔物について尋ねてきた。
「で、何だったんだ? あいつら」
「こっちが聞きたい」
「知らない魔物なのか?」
「少なくとも俺は知らない」
ラウルも首を横に振った。
「俺もだ。あんなの、この辺で見たことはない」
御者をしていた村人が振り返る。
「どんなやつだ?」
ハヤトが特徴を簡単に説明していく。
黒灰色の毛。
異様に太い前脚。
三本の長い爪。
そして、二匹目には背中から黒い棘が生えていたこと。
そこまで聞いたところで、御者の男の顔から笑みが消えた。
「……黒い棘?」
「知ってるの?」
セラが聞く。
男はすぐには答えなかった。
「いや」
一度そう言ってから、少し考える。
「俺は見てない。ただ……最近、東の森で妙なものを見たって話は何度か出てる」
「妙なもの?」
「魔物だよ。見たことのない魔物がいるって」
ハヤトは森の方へ振り返った。
たまたま今日だけ遭遇したわけではないらしい。
「いつ頃から?」
「そうだな……一月くらい前からか。最初は狩人の見間違いだと思ってたんだけどな」
荷馬車がゆっくり動き出す。
エルナ村はもう遠くない。
東へ向かう旅の最初の一日。
少し寄り道をしただけのつもりだった。
それなのに、どうやらこの辺りでは少し前から何かが起きている。
そしてレグが感じた、知っているようで知らない匂い。
ハヤトは隣を見る。
レグは荷台の端に座り、流れていく景色を眺めていた。
いつもなら食べ物の話でもしているところなのに、今は妙に静かだった。
「レグ」
「なに?」
「腹減った?」
一瞬きょとんとしたあと、
「へった」
即答だった。
「そこはいつも通りだな」
「パンある」
「まだ持ってたのかよ」
レグが鞄を開ける。
セラが笑った。
「ほんとに食べ物しか入ってないんじゃない?」
「たいせつだから」
朝とまったく同じ答えだった。
さっきまで少し重かった空気が、ほんの少しだけ戻る。
ハヤトは荷馬車の進む先へ目を向けた。
まずは村へ。
その先のことは、着いてから考えればいい。




