重なる気配
枝を踏み折る音は、少しずつ近づいてきていた。
ハヤトたちは足を止めたまま、森の奥へ目を凝らす。木々の間は薄暗く、揺れる枝葉の向こうに何かがいることだけは分かる。さっき倒した魔物と同じものなら、姿を見てから構えていたのでは遅い。
「ラウル、後ろに」
「分かってる」
さっきまでなら反発していたかもしれないが、今度は素直だった。傷めた足をかばいながら少し下がり、それでも剣だけは手放していない。
セラもハヤトの少し後ろで杖を構えた。
「レグ、どっち?」
「あっち。でも……」
レグは前を指したまま、何か引っかかっているように眉を寄せている。
「どうした?」
「ひとも、そっち」
魔物とネイトが同じ方向にいる。
ハヤトは剣を握る手に力を入れた。最悪なのは、すでに襲われて動けなくなっている場合だ。
「先に行く。セラはラウルと――」
「私も行くよ」
言い切る前に返された。
「いや、でも」
「怪我してたら誰が治すの?」
「……それもそうか」
「でしょ」
ラウルが横から口を挟む。
「俺も行く」
「それは駄目」
今度はセラが即答した。
「なんで俺だけ……」
「その足で何するつもり?」
「剣くらいは振れる」
「それでまた動けなくなったら、助ける人が一人増えるだけだよ」
言い返せなくなったらしい。ラウルは不満そうに顔をしかめたものの、その場に残った。
「何か来たら?」
「大声出して」
「ずいぶん雑だな」
「今できるの、それくらいでしょ」
もっともだった。
ハヤト、セラ、レグの三人で先へ進む。音はもう止んでいたが、レグは迷わず同じ方向を見ている。
「近い?」
「うん」
「さっきのと同じ?」
「たぶん。でも……」
また言葉が止まる。
「また変な匂い?」
「それもある」
「それも?」
レグは少し考えたあと、うまく言葉にできないのか首を傾げた。
「ちがうのもある」
ハヤトとセラが顔を見合わせる。
「何が違うの?」
「わかんない」
「そっか」
無理に聞いても仕方がない。
ハヤトはそのまま歩きながら、足元へ目を向けた。地面にはさっき見つけたものと同じ血の跡が続いている。量は少なくない。
しばらく進むと、前方が少し開けた。
その瞬間、レグが腕を横へ伸ばした。
「まって」
三人が止まる。
レグの視線の先。
倒れた木の向こうに、人の足が見えた。
「ネイト?」
ハヤトが小さく呼ぶ。
返事はない。
だが、足がわずかに動いた。
「生きてる」
駆け出そうとしたハヤトの服を、レグが掴んだ。
「なに?」
「あそこ」
人の足ではない。
さらに奥。
大きな影が、木の陰からゆっくり姿を現した。
さっき倒した魔物とよく似ている。
だが一回り大きい。
黒灰色の毛に覆われた身体。異様に発達した前脚。その先には長い三本の爪が伸びている。
違うのは、背中だった。
「……何だ、あれ」
肩から背中にかけて、黒いものがいくつも突き出している。
角。
いや、棘に近い。
皮膚を突き破るように不揃いな突起が並び、その周囲だけ毛が抜け落ちていた。
「さっきのと違うね」
「ああ」
魔物はこちらを見ていない。
地面に倒れているネイトへ顔を近づけ、低く唸っている。
まだ襲ってはいない。
それが逆に不気味だった。
「ハヤト」
「分かってる」
助けるなら今しかない。
ハヤトが一歩踏み出した瞬間、魔物の顔がこちらへ向いた。
黄色い目が三人を捉える。
「気づかれた!」
魔物が地面を蹴った。
速い。
さっきの個体より明らかに速かった。
ハヤトが横へ跳ぶと、巨大な前脚が通り過ぎる。避けたはずなのに風圧だけで身体が揺れた。
「レグ!」
「うん!」
横からレグが殴りかかる。
拳が魔物の脇腹へ入った。
さっきなら、それだけで巨体が吹き飛んでいた。
だが今回は違った。
「……あれ?」
魔物の身体が少しずれただけだった。
「レグ、離れろ!」
振り返るように爪が薙ぎ払われる。
レグは後ろへ跳び、ぎりぎりでかわした。
「硬くなってる?」
セラが杖を構える。
「たぶんな!」
ハヤトは魔物の横へ回り込み、剣を振る。
刃は入った。
だが浅い。
毛の下の皮膚そのものが、さっきの個体より硬い。
魔物が吠えた。
音というより衝撃に近い。
一瞬、耳の奥が震えた。
「うるさ……!」
セラが顔をしかめる。
その隙を狙ったように、魔物がセラへ走った。
「またそっちか!」
ハヤトが追う。
間に合わない。
「セラ!」
「大丈夫!」
セラは逃げなかった。
杖を前へ向ける。
魔物との距離が一気に縮まる。
次の瞬間、地面から炎が噴き上がった。
「グァァァッ!」
正面から炎を浴びた魔物が足を止める。
その隙に、レグが横から飛び込んだ。
「今度は、つよくする」
「加減してたのかよ!」
返事の代わりに、レグの拳が魔物の顔へ入った。
さっきとはまるで違う音がした。
巨体が横へ飛び、二本の木を巻き込みながら地面へ転がる。
「……今のは効いたな」
「うん」
「最初からそれでやれよ」
「こわすかもしれないから」
「相手魔物だぞ」
「そっか」
今気づいたような顔をされた。
ただ、倒したわけではない。
魔物は身体を震わせながら立ち上がろうとしている。
ハヤトはすぐに距離を詰めた。
狙うなら首。
さっきと同じ場所。
だが剣を振り下ろす直前、視界の端で背中の棘が動いた。
「っ!」
咄嗟に身体を引く。
一本の棘が伸びるように飛び出し、ハヤトの頬のすぐ横を通り過ぎた。
「何だそれ!」
木の幹に突き刺さった棘が、そのまま根元から折れる。
飛ばしてきた。
「ハヤト、下がって!」
セラの声と同時に、魔物の背中がまた動く。
今度は一本ではない。
三本。
ハヤトは横へ走った。
棘が次々と飛んでくる。地面と木に突き刺さり、最後の一本だけが腕をかすめた。
「ハヤト!」
「平気!」
痛みはあるが浅い。
止まっている暇はない。
魔物が身体を起こす。
だがその前に、レグがいた。
「ハヤトに、あてた」
「レグ?」
声音が少し変わっていた。
怒っている。
レグが魔物の頭を両手で掴む。
「ちょ、待っ――」
そのまま地面へ叩きつけた。
地面が大きく揺れる。
さらにもう一度。
「レグ、もういい!」
三度目へ入ろうとしたところで止めると、レグがハヤトを振り返った。
「でも」
「もう動いてない」
見ると、魔物は完全に力を失っていた。
「……ほんとだ」
レグが手を離す。
静かになった森に、荒い息だけが残った。
セラがすぐハヤトのところへ来る。
「腕見せて」
「これくらいなら平気だって」
「いいから」
有無を言わせない顔だった。
仕方なく腕を出すと、服が裂け、その下に細い傷ができている。
「浅いけど、治しとく」
「悪い」
「レグが怒る前にね」
ちらりと見ると、レグは死んだ魔物をまだ睨んでいた。
「そこまで怒らなくても」
「ハヤトにあてた」
「かすっただけだって」
「でも、あてた」
どうやらそこが重要らしい。
「ありがとな」
「うん」
それだけで少し機嫌が直った。
セラが治癒を終える間に、ハヤトは倒れているネイトへ目を向ける。
「先にあっち見よう」
三人で駆け寄る。
ネイトは仰向けに倒れていた。
若い男だった。脇腹と肩に大きな傷があり、服はかなり血で濡れている。
「ネイト!」
呼びかけても返事はない。
セラが首元に指を当てる。
「……生きてる」
すぐに杖を置き、傷の状態を確かめ始めた。
「でも、かなりまずい」
さっきまでとは違う声だった。
ハヤトも見れば分かる。
特に脇腹の傷が深い。
「治せる?」
「やる」
できる、とは言わなかった。
セラは両手を傷へかざした。
淡い光が生まれる。
それまで治療してきたときより、ずっと強い光だった。
セラの額にすぐ汗が浮かぶ。
「セラ、無理するなよ」
「分かってる」
返事は短い。
光が傷を包み込む。流れていた血が少しずつ止まり、裂けていた皮膚もゆっくり閉じていった。
それでも、セラの表情は楽にならない。
「深すぎる……」
「できるところまででいい」
「でも」
「ここでセラまで倒れたら困る」
少し間があった。
「……うん」
セラは光を弱めた。
完全には治っていない。
それでも出血は止まり、顔色もほんの少し戻っている。
「今はこれが限界」
「十分だ」
「村まで運ばないと」
「レグ」
「もつ」
今回は聞く前から答えた。
レグがネイトを抱え上げようとした、そのときだった。
「……まって」
レグの動きが止まる。
「どうした?」
返事はない。
レグは倒した魔物ではなく、さらに森の奥を見ていた。
「またいるのか?」
「ちがう」
「何が?」
少し長い沈黙のあと、レグが呟く。
「におい」
その顔から、さっきまでの怒りが消えていた。
「知ってる気がする」
ハヤトは森の奥を見る。
木々の向こうには、何も見えない。
「何の匂い?」
レグはすぐには答えなかった。
自分でも分からないのだろう。
ただ、その場を離れようとはしなかった。
「……わかんない」
それでも、視線だけは森の奥に向いたままだった。




