5話 枝葉の向こう
唸り声が聞こえた瞬間、さっきまで静かだった森の空気が変わった。
鳥の声が消え、風に揺れる枝葉の音だけが妙に大きく聞こえる。ハヤトは剣を抜きながら、レグが見ている方向へ視線を向けた。木々が重なっていて奥までは見通せない。それでも、何かがこちらを窺っている気配だけは感じられた。
「ラウル、その足で前に出るなよ」
「だが――」
「ネイトを探すなら、ここで悪化させない方がいい」
言い返しかけたラウルだったが、自分の足を見て黙った。完全に納得したわけではなさそうだが、剣を構えたまま一歩下がる。
セラも杖を握り直した。
「ハヤト、見える?」
「まだ。でも、レグには分かってるっぽい」
「いる」
レグは森の奥から目を離さなかった。
「ひとつ?」
少し間があった。
「……ひとつ。たぶん」
「そこは自信ないんだな」
「におい、いっぱいあるから」
ハヤトの表情から少しだけ力が抜けた。今いるのが一匹でも、この辺りに同じものが複数いる可能性は残っているらしい。
次の瞬間、茂みが大きく揺れた。
「来る!」
セラの声とほぼ同時に、黒い影が木々の間から飛び出した。
ハヤトは反射的に横へかわす。目の前を巨大な前脚が通り過ぎ、爪が地面を抉った。土と枯れ葉が跳ね上がる。
「でかっ……!」
距離を取って、ようやく全体が見えた。
狼に似ている。
そう言われれば確かにそう見えるのだが、ハヤトが知っている狼とは明らかに違った。四つ足で立った状態でも人間の腰を軽く越え、黒灰色の毛の間から前脚だけ硬そうな皮膚が覗いている。三本の長い爪は、木に残っていた傷とほぼ同じ幅だった。
何より目につくのは、その身体の不自然さだった。
肩だけが異様に盛り上がり、前脚と後脚の太さが釣り合っていない。巨大な身体を無理やり前方へ引っ張ったような、妙な形をしている。
「こいつだ!」
ラウルが声を上げた。
「あの馬車を襲ったのも、同じやつだ!」
魔物が低く唸る。
その口元には乾いた血が残っていた。
「レグ、前に出すぎるな」
「レグ、たおせる」
「分かってる。でも今は一緒にやる」
「……うん」
少しだけ不満そうだったが、レグは素直にハヤトの横へ並んだ。
魔物が再び地面を蹴る。
速い。
身体の大きさから想像していたより、ずっと速かった。
今度は正面から来る。ハヤトは剣を構えたままぎりぎりまで待ち、爪が振り下ろされる直前に身体をずらした。そのまま脇腹へ剣を走らせる。
手応えはあった。
だが浅い。
「硬いな!」
「離れて!」
セラの声に従って後ろへ跳ぶ。
直後、ハヤトがいた場所へ火球が飛び込んだ。
炎が魔物の肩で弾ける。
「グァァッ!」
巨体が大きく揺れた。
倒れはしない。
それどころか、怒ったようにセラへ顔を向ける。
「あ」
「セラ、下がれ!」
「分かってる!」
魔物が方向を変えた。
だが走り出すより先に、横からレグが飛び込んだ。
「だめ」
小さな拳が、魔物の横顔に入る。
鈍い音がした。
巨体が横へ吹き飛び、木の幹へ叩きつけられた。
「……」
ラウルがまた固まった。
「驚くのはあとで」
ハヤトは倒れた魔物へ走る。
あれだけの一撃を受けても、まだ動いていた。前脚で地面を掻きながら身体を起こそうとしている。
「丈夫すぎるだろ」
首元へ剣を振り下ろす。
一度では止まらなかった。
もう一度。
そこでようやく魔物の身体から力が抜けた。
しばらく誰も動かなかった。
ハヤトは剣を構えたまま周囲を見る。新しく何かが近づいてくる様子はない。
「レグ?」
「いまはこない」
「よし」
そこで初めて息を吐いた。
思ったより苦戦した。
勝てない相手ではない。三人なら余裕もある。それでも、そこらの魔物と同じ感覚で相手をすると危ない。
セラが杖を下ろしながら近づいてきた。
「怪我ない?」
「俺は平気。レグは?」
「ない」
「セラも?」
「大丈夫」
確認を終えたところで、ラウルがようやく口を開いた。
「……あんたら、何者なんだ?」
ハヤトは魔物についた血を剣から払いながら振り返る。
「冒険者」
「それは見れば分かる」
「じゃあ、それでいいだろ」
「よくないだろ……」
何か言いたそうだったが、ラウルは諦めたらしい。特にレグを見る目には大量の疑問が残っていたが、今は相棒の方が大事なのだろう。
「こいつ、さっきの一匹か?」
ハヤトが魔物を指す。
「多分な。ただ、俺たちを襲ったときはもう一匹いた。ネイトが追ったのはそっちだ」
「なら、まだ奥か」
「ああ」
ラウルがすぐに歩き出そうとしたため、セラが腕を掴んだ。
「だから、その足で急がないでください」
「でも――」
「転んで動けなくなったら、今度はハヤトが運ぶことになるよ」
「なんで俺?」
「レグに二人目まで持たせる気?」
「もてる」
「ほら」
「ほらじゃないって」
レグが本気でラウルを持ち上げようと近づいたため、本人が慌てて首を横に振った。
「歩く! 歩けるから!」
「そう?」
「大丈夫だ!」
レグは少し残念そうに離れた。
セラが笑いをこらえている。
緊張が少しだけ解けたところで、ハヤトは改めて倒した魔物へ目を向けた。
近くで見ると、やはり妙だった。
狼型の魔物なら、これまでにも何種類か見たことはある。だがこいつは、それらとは少し違う。毛並みも体つきも不自然で、前脚の硬い皮膚は鱗にも見えた。
「レグ」
「なに?」
「さっき、匂いが変って言ってたよな」
「うん」
「こいつの匂い?」
レグは死体へ近づき、少し鼻を動かした。
「これ」
「何が変なんだ?」
「けもののにおいある。でも、ほかもある」
「ほか?」
レグは困ったように眉を寄せた。
説明できる言葉を探しているらしい。
「なんか……まざってる」
「何と?」
「わかんない」
「そっか」
分からないなら仕方がない。
ハヤトはそれ以上聞かなかった。
少なくとも、ただの狼型の魔物ではない。それだけ覚えておけばいい。
「ハヤト」
今度はセラが呼んだ。
彼女は魔物の反対側にしゃがんでいる。
「これ、傷じゃない?」
見ると、魔物の脇腹に細い切り傷がいくつもあった。
ハヤトがつけたものではない。
血もすでに乾き始めている。
「剣かな」
「たぶん」
ラウルも近づき、傷を見るなり顔を上げた。
「ネイトだ」
「分かるの?」
「あいつの剣は細身だ。俺と一緒にいたとき、こいつに何度か斬りつけてる」
なら、この魔物はネイトと戦ったあと、こちらへ戻ってきたことになる。
「ネイトは?」
「この先」
レグが答えた。
三人が一斉に彼女を見る。
「分かるのか?」
「ひとのにおい、ある」
レグは森の奥を指した。
「こっち」
ハヤトは倒れた魔物をもう一度だけ確認してから立ち上がった。
「行こう」
今度は誰も異論を挟まなかった。
レグを先頭に森を進む。
先ほどまでより慎重に歩きながら、周囲の音にも気を配る。ラウルの速度に合わせているため早くは進めない。それでも、レグが迷わず進むおかげで足跡を探す必要はなかった。
やがて地面に血が落ちているのを見つけた。
一滴。
少し先にもう一滴。
さらに進むと、落ちている量が増えていく。
「ネイトの……?」
ラウルの声が硬くなる。
「まだ決めるな」
ハヤトはそう言ったものの、自分でも嫌な予感はしていた。
少し先の低い枝に、布が引っかかっている。
ラウルがそれを取った。
茶色い布の切れ端だった。
「ネイトの服だ」
握る手に力が入る。
レグはさらに先を見ていた。
「近い」
「ネイトが?」
返事はすぐにはなかった。
「ひともいる」
レグは少しだけ首を傾げる。
「でも……さっきのもいる」
ハヤトは剣を握り直した。
森の奥から、何かが枝を踏み折る音が聞こえた。
今度は一度ではない。
ゆっくり。
何度も。
まるで、こちらへ近づいてきているように。




