3話 止まった荷馬車
近づいてみると、荷馬車の壊れ方は思っていたよりひどかった。
外れた車輪は少し離れた場所に転がり、荷台の片側は地面へ落ちている。積まれていたらしい木箱もいくつか壊され、中身の布や乾物が街道に散らばっていた。
ハヤトは荷馬車の手前で足を止めた。
「セラ、レグ。ちょっと待ってて」
「一人で行くの?」
「まず見るだけ。何かいたら呼ぶ」
「それ、逆じゃない?」
「何が?」
「何かいたら先に呼んでよ」
「それもそうだな」
素直に言い直すと、セラが少し呆れた顔をした。
周囲に人影はない。耳を澄ませても、風が草を揺らす音と、荷台に残った布がはためく音くらいしか聞こえなかった。
ハヤトはゆっくり荷馬車へ近づき、壊れた木箱のそばへしゃがむ。
箱そのものは古くない。積み荷も、長く放置されていたようには見えなかった。
その横の地面には、深く抉れた跡がいくつも残っている。
「……やっぱり、何かに襲われたか」
独り言のつもりだったが、後ろからセラが覗き込んできた。
「分かるの?」
「いや、全然」
「全然なんだ」
「事故だけじゃ、こうはならないだろ」
壊れた箱を指差す。
落ちて割れたというより、何かで叩き壊されたような痕がある。荷馬車の側面にも傷が走り、木材の一部が欠けていた。
そして一番気になったのは、積み荷だった。
食料も布も残っている。
金になりそうな品を狙った盗賊なら、もう少し持っていきそうなものだった。
「人は?」
レグが辺りを見回した。
「いないな」
「どこいった?」
「それを探してる」
レグも荷馬車へ近づこうとしたので、ハヤトは一度止めようとした。
だが、レグは荷台ではなく地面を見ている。
「これ」
「ん?」
レグの足元に、いくつかの跡が残っていた。
人の足跡に混じって、それより明らかに幅の広いものがある。獣の足跡にも見えるが、形がおかしい。前方に三本、後ろに短い一本。しかも一つ一つがかなり大きかった。
ハヤトがしゃがみ込むと、レグもその隣にしゃがんだ。
「分かる?」
「しらない」
「即答かよ」
「でも、こっちいった」
レグが森の方を指した。
地面には、草が倒れた跡が続いている。
「……本当だ」
セラも近づいてくる。
荷馬車の近くで争ったあと、何人かが街道の外へ移動したらしい。人の足跡と、さっきの大きな跡が混じりながら、森の方へ続いていた。
ただ、その中に妙な跡もある。
地面を引きずったような線。
ハヤトは少しだけ表情を硬くした。
「誰か連れていかれた?」
「かもしれない」
セラの声も低くなる。
さっきまでの旅の空気が、一気に変わった。
ここで無視するという選択もある。
この世界では、街道の外で何かが起きること自体は珍しくない。魔物に襲われることもあるし、盗賊に狙われることもある。冒険者だからといって、目に入ったすべてを助けられるわけではない。
けれど。
「少しだけ見に行くか」
口にしてから、ハヤトは二人を見る。
セラはもう頷いていた。
「うん」
レグも頷く。
「いく」
「無理はしない。危なそうなら戻る」
「ハヤトが一番忘れそう」
「いや、覚えてるって」
「今はね」
そこまで信用がないのか。
少し納得いかなかったが、反論している場合でもない。
三人は荷馬車を離れ、森へ続く跡を追った。
街道から数十歩離れただけで、景色は一気に変わった。草原から木々の間へ入り、日差しが枝葉に遮られる。足元には枯れ葉が積もり、追っていた跡も少しずつ見えづらくなっていく。
「レグ、分かる?」
「うん」
「本当に?」
「においある」
レグは鼻を少し動かしながら、迷わず前へ進んでいく。
「匂いで追えるの?」
セラが驚いたように聞く。
「できる」
「前から?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「レグもいま知った」
ハヤトとセラは顔を見合わせた。
相変わらず、自分自身のことを一番分かっていない。
人化できるようになってから、レグには少しずつ新しい変化が出ている。見た目が変わっただけではなく、竜の身体で使っていた感覚を人の姿でも扱えるようになっているらしい。
本人が気にしていないので、詳しいことはほとんど分かっていないが。
「便利だな」
「うん」
「そこは否定しないんだ」
「べんり」
レグは少し得意そうだった。
そのまま森の奥へ進んでいくと、不意にレグの足が止まった。
「いる」
短い一言だった。
ハヤトもすぐに止まる。
「どこ?」
「あっち」
レグが指差したのは、少し先にある太い木の根元だった。
一見すると何もない。
だが近づいてみると、木と茂みの隙間に誰かが倒れていた。
「人だ」
ハヤトが駆け寄る。
男だった。
年齢は四十前後だろうか。服は泥だらけで、腕と額に血がついている。片足には布が巻かれていたが、その布も赤く染まっていた。
「聞こえますか?」
肩に触れると、男の身体がわずかに動いた。
「……う……」
「生きてる」
セラもすぐそばへ来る。
男は薄く目を開けたが、ハヤトたちの顔を見てもすぐには状況が分からないようだった。
「ここ……は……」
「街道の近くです。荷馬車が壊れてたんで、跡を追ってきました」
男の表情が変わった。
「荷馬車……」
起き上がろうとしたので、セラが慌てて肩を押さえる。
「動かないで。足、怪我してるから」
「仲間……が……」
男は息を切らしながら、森の奥へ顔を向けた。
「連れて……いかれた……」
ハヤトはセラを見る。
予想は当たっていたらしい。
「何に襲われたんですか?」
「分からん……見たことが、ない……」
「魔物?」
男はゆっくり頷いた。
「でかい……獣みたいな……でも……」
そこで言葉が途切れた。
苦しそうに顔を歪める。
「先に傷を見よう」
セラが男の足元へ座った。
布を外すと、かなり深い傷が見えた。何か鋭いものに抉られたような跡がある。
セラの表情が少し変わった。
「完全には治せないかも」
「無理するなよ」
「分かってる。でも、血は止めたい」
ハヤトが頷くと、セラは傷へ手をかざした。
淡い光が手のひらに集まる。
以前なら、こういう傷を前にして一人で治癒術を使うこと自体が難しかった。
今は違う。
まだ迷いはある。
それでも、セラの手は震えていなかった。
光が傷を覆うにつれ、流れていた血が少しずつ止まっていく。深かった傷も完全ではないものの、目に見えて浅くなっていった。
「……すごい」
男が呟いた。
セラは額に汗を浮かべながらも、手を離さない。
「もう少し……」
やがて光が消えた。
セラは大きく息を吐く。
「これ以上は、やらない方がいいと思う」
「十分だろ」
「うん。歩くのはまだ無理だけど、さっきよりはいいはず」
男も自分の足を見て、何度か瞬きをしている。
「治癒術師……だったのか」
「まだそんな立派なものじゃないです」
知らない相手には自然と丁寧な口調になる。
その返しを聞いて、ハヤトは少しだけ笑った。
「何?」
「いや、別に」
「絶対何か思ったでしょ」
「何も」
「怪しい」
さっきまでより少し空気が緩んだ。
だが、男はすぐ森の奥へ視線を戻した。
「頼む……」
掠れた声だった。
「仲間が二人いる。あいつらが……生きてるなら……」
ハヤトも同じ方向を見る。
木々の奥。
ここから先は、街道からかなり離れることになる。
何がいるのかも分からない。
男をここに残して進むのも危険だ。
「一度、街道まで戻そう」
セラが言った。
「そうだな。荷馬車のところなら、誰か通るかもしれない」
「レグ、もてる?」
「もてる」
「いや、待て」
ハヤトはレグを見る。
「何?」
「人の姿のまま?」
「うん」
「どうやって?」
レグは少し考えたあと、男を見た。
そして普通に両腕で抱え上げた。
「……」
「……」
男まで目を丸くしている。
レグは何事もなかったように立っていた。
「もてた」
「見れば分かる」
小柄な女性が、自分より大きな男を軽々と抱えている。
知らない人間が見れば、かなり異様な光景だった。
「レグ、もうちょっと辛そうに持てない?」
「なんで?」
「いや……いい」
説明するのも面倒だった。
男を街道へ戻したあと、どうするか。
仲間を探しに行くのか。
助けを呼びに行くのか。
まだ決めてはいない。
ただ一つだけ分かっている。
東へ向かうだけだったはずの旅は、どうやら予定通りには進まなさそうだった。




