2話 旅の途中で
ラーデンを出てから、しばらくは何事もなく街道を歩いた。
東へ伸びる道は思っていたより整っていて、荷馬車が二台すれ違えるくらいの幅がある。左右には低い草原が続き、その向こうに小さな森や畑が見えた。町の外へ出たばかりだというのに、振り返ればラーデンの外壁はもうずいぶん小さくなっている。
「ほんとに歩くんだね」
セラがそんなことを言ったので、ハヤトは隣を見る。
「今さら?」
「いや、馬車に乗るのかなって思ってたから」
「俺もそのつもりだったんだけど、次の馬車、昼過ぎらしい」
「待てなかったんだ」
「なんか出る気になったら、もう行きたくならない?」
「それはちょっと分かるけど」
セラは笑いながら肩にかけた荷物を直した。
少し前では、レグが道の端を歩いている。最初こそ珍しそうに辺りを見回していたが、今は地面に生えている草の方が気になるらしく、何歩か進むたびにしゃがみ込んでいた。
「レグ、あんまり離れるなよ」
「これなに?」
「聞いてる?」
「ハヤト、これ」
レグが指差したのは、道端に咲いている小さな黄色い花だった。
知らない。
正確には、この世界へ来てから何度か見た気はする。ただ、名前まで気にしたことはなかった。
「セラ、分かる?」
「私に振るの?」
「こういうの詳しそうじゃん」
「どういう偏見?」
そう言いながらも、セラはレグの横へしゃがんだ。
「たぶんミナ草。薬草じゃないよ」
「たべれる?」
「レグは最初にそれ聞くよね」
「だいじ」
「大事じゃない」
「だいじ」
二人が同じ目線で言い合っているのを見て、ハヤトは少し笑った。
結局、花は食べないことになったらしい。レグは少し残念そうだったが、すぐ別のものを見つけて歩き出した。
こうしていると、旅に出たという実感があまりない。
町を出て、知らない土地へ向かっているはずなのに、やっていることはいつもと大して変わらなかった。セラがレグを止め、レグが気になるものを見つけ、ハヤトがその後ろを歩く。
それが妙に心地よかった。
「そういえばさ」
少し歩いたところで、セラが口を開いた。
「東に行くって決めたのはいいけど、最初はどこまで行くの?」
「一応、今日はエルナって村まで」
「一応?」
「地図だと夕方前には着く」
「その地図、ちゃんと合ってる?」
「たぶん」
「またそれ」
「大丈夫だって」
「その自信どこから来るの?」
ハヤトは少し考えた。
「今までなんとかなったから?」
「一番危ない考え方じゃん」
もっともだった。
だが実際、今までなんとかしてきた。もちろん全部がうまくいったわけではないし、痛い目にも何度か遭った。それでも今こうして三人で歩いている。
だったら、今回も似たようなものだろう。
そんなことを考えていると、前を歩いていたレグが突然立ち止まった。
「どうした?」
「おなかすいた」
「まだ昼前だぞ」
「あるいた」
「それだけで?」
「いっぱいあるいた」
まだ町を出て二時間も経っていない。
セラが笑いながら道の先を指差した。
「もう少し行ったら木陰あるし、そこで休もっか」
「たべる?」
「休むだけ」
「……たべない?」
「その顔やめて」
結局、食べることになった。
街道から少し外れた大きな木の下に腰を下ろし、朝のうちに買っておいたパンと干し肉を出す。レグは自分の鞄を開けると、中から包みを三つも取り出した。
「やっぱり食べ物じゃねえか」
「たいせつ」
「何持ってきたの?」
セラが覗き込む。
パンが二つ。
干した果物。
それから、どう見ても菓子らしい小さな包み。
「全部食べ物だね」
「うん」
「荷物ほとんど食料じゃない?」
「だいじだから」
朝と同じ答えだった。
レグにとっては本当に大事なのだろう。
「まあ、自分で持ってるならいいけど」
「もってる」
「そのうち俺に渡すだろ」
「わたさない」
「絶対?」
「ぜったい」
「覚えたからな」
レグは干した果物を口に入れながら、こくこく頷いた。
その様子を見ていたセラが、ふと思い出したようにハヤトを見る。
「そういえば、東の記録ってどれくらい古いの?」
「結構古い。少なくとも百年以上前」
「そんなに?」
「正確な年代は分からないけどな。写しらしいし」
「じゃあ、行ったところで何も残ってないかもしれないんだ」
「それはある」
ハヤトはパンをちぎりながら答えた。
むしろ、その可能性の方が高いと思っている。
百年以上も前の話を追いかけて、当時のことを知っている人間に会えるはずもない。建物が残っているかも分からないし、記録そのものがどこかで失われているかもしれない。
「でも、行くんだ」
「気になるし」
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目?」
セラは少しだけ考えたあと、首を横に振った。
「別に。ハヤトっぽいなって思っただけ」
「そう?」
「前よりね」
それがどういう意味なのか聞こうとしたが、セラはもう自分のパンを食べ始めていた。
前より。
確かに、以前ならもう少し理由を探していたかもしれない。行く意味があるか、得るものがあるか、危険に見合うか。何かをする前に、自分を納得させる理由が必要だった。
今は、気になるから行く。
それでいいと思っている。
「ハヤト」
「ん?」
「これ、いる?」
レグが干した果物を差し出していた。
「珍しいな。くれるの?」
「ひとつだけ」
「じゃあもらう」
「ほんとにひとつ」
「分かってるよ」
受け取った瞬間、レグの視線が果物を追ってきた。
「……やっぱり食べたい?」
「ちょっと」
「返さねえぞ」
「もうレグのじゃないから、いい」
そう言いつつ、まだ見ている。
ハヤトが口に放り込むと、レグは少しだけ寂しそうな顔をした。
「そんな顔するなら最初からくれるなよ」
「レグ、優しくしたかった」
「じゃあ後悔すんな」
「むずかしい」
セラが耐えきれずに笑い出した。
昼には少し早い休憩を終え、三人は再び街道へ戻った。
空はよく晴れている。風も弱く、旅を始めるには悪くない日だった。
しばらく歩くと、反対側から何台か荷馬車がやってきた。商人らしい男たちと軽く挨拶を交わし、そのまますれ違う。
何も起きない。
魔物も出ない。
妙な依頼を持ちかけてくる人間もいない。
それでいい。
旅に出たからといって、毎日何かが起こるわけではないのだ。
そう思っていたのは、さらに一時間ほど歩くまでだった。
「……あれ」
最初に気づいたのはセラだった。
街道が少し曲がった先で、一台の荷馬車が道を塞ぐように止まっている。
馬の姿はない。
荷台は大きく傾き、片方の車輪が外れていた。
それだけなら、ただの事故にも見える。
だが近づくにつれて、ハヤトは足を少し緩めた。
荷物が道に散らばっている。
箱は壊され、中身が辺りに転がっていた。
なのに、人がいない。
「誰もいないね」
セラの声から、さっきまでの軽さが消えていた。
「レグ、こっち来い」
「うん」
今度は素直に、レグがハヤトのそばへ来る。
風が吹き、倒れた荷馬車の布がぱたぱたと音を立てた。
ハヤトは周囲へ目を向ける。
街道。
草原。
少し離れたところにある森。
見える範囲には、誰もいない。
ただ、荷馬車のそばの地面だけが、不自然に荒れていた。
「……事故じゃなさそうだな」
ハヤトはそう呟き、ゆっくりと荷馬車へ近づいた。




